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【狂140】「いやっ」と「ちょうだい」

96/3/7

なぜ、キノコを食べるのだろう。キノコなんて実際にはそんなにたいしたものではない。もっと一般に普及すれば、お酒やタバコやお茶のように、たんなる嗜好品のひとつになってしまうだろう。けっきょく、お酒が嫌いなヘビースモーカーもいれば、禁煙権を主張するお茶のみもいる、キノコが好きな人もいれば、どうにも好きになれない人もいる、それだけの話だ。

人類にとってドラッグとはなにか。そこにはたんなる好奇心の対象をこえた、もっと存在論的な意味があるような気がする。脳の変容によって世界をかえたいという、こらえがたい願望の権化か?

脳のはたらきを疑いだしたら一歩も外にでれなくなる。町の中には時速60キロをこえる鉄の塊が走っているし、わたしの命を奪うのに十分な凶器はいたるところで手に入る。われわれはとりあえず他人と自分の脳を無条件に信じている。それが日常生活だ(文化といってもよい)。しかし、不思議なことにいっぽうで脳はみずからを疑うようにもつくられている。

脳の状態を変容させるのはなにも化学的な薬ばかりではない、たとえばランニングや禅にみられるナチュラルハイは、よく知られている。わたしにとって春やフィールドワークもまちがいなく心をかえる。宇宙飛行士の多くが地球にもどったときに感じるという、森羅万象にたいするけだかくも慈愛にみちた感覚だって、なんらかの脳の変容によるものだろう。

赤ん坊をみていて非常に印象に残ったことがある。もっとも初期の段階で彼らの行動を規定している動機は、いい・わるい、すき・きらい、ほんと・うそ、のいずれでもなかった。彼らはまだ、倫理・審美・真偽の基準を確立させるほど経験世界に身をおいていない。話しはじめた赤ん坊がもっとも頻繁に使用した言葉は、「いやっ」と「ちょうだい」のふたつであった。驚くべきことに、すでに言葉を獲得する以前から、この対称的なふたつの概念は、首の横振りと手を差し出すことによって表現されていた。

欲望というか快感というか、こうした感覚がわれわれ人間にとってぬぐいさることのできない根源的なものであることはまちがいないだろう。そして、そのやっかいなものを外部の「なにか」によってコントロールしたいという気持ちもよくわかる。そのために人はときどきキノコを食べてみたりインバーテッドコースター・オロチに乗ってみたりするのである。

しかし、その先につくられる世界は、たんなる快感による誘導ではないし、そうあってはならない。すべてが快感原則によって決められるなんて、あまりにやぼな話である。これではまるで快感中枢に電気刺激を与えるためにレバーを押しつづけるマウスと同じだ。その快感をどう受け取り、世界をどうかえていくのかは、体験した本人にゆだねられる。よい結果がでるかもしれないし悪い結果がでるかもしれない、それはほとんどその人が「生きる」ということと同義語である。日本で最初に宇宙に飛んだ秋山さんは、テレビ局を退職し東北で自然農法をはじめた。脳の変容は生きかたまでもかえてしまう。

キノコはちょっと地球にやさしくなるひとである。正直な話、そのへんがかっこわるいといえばかっこわるい。あの時の気持ちをあとで考えてみると、なんだかはずかしくなってしまう。けれど、はずかしいのも時にはいいのである。どうせわたしの一生だ。どうせわたしの脳である。感じられる時にちゃんと感じる幸せは、なにものにもかえがたい、と、こんなまとめでよろしいでしょうか?

※2002/5/7に、「麻薬、向精神薬及び麻薬向精神薬原料を指定する政令の一部を改正する政令」が交付され、同年6/6から「マジックマッシュルーム」が麻薬原料植物として法規制されることが決定しました。したがって現在日本国内ではニライタケを所持・栽培・採集・節食することはできません。


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