文化の深淵

[KOK 0196]

05 Mar 2002


論理学的世界において定義や作業仮説が説明されるものではなく説明するためのものであるのと同様に、世界観や社会規制は説明されるためのものではなく説明するためのものであり、おそらく呪術の役割もそれ自体説明されるためのものではなく何かを説明するためのものである。このことはわれわれの日常においてしばしば倒錯して理解されているが、文化を理解したいと考える者はことさら注意深く扱うべき問題である。

どこの国と限らず、いわゆる文化村や博物館・ホテルのショーなどに出てくる現地人のイメージは、しばしば民族衣装を着てダンスを踊ったり歌を歌ったりするというものだ。たとえば日本人にはほとんど知られていないが、外国人に人気の夜の京都ツアー「腹切り花魁ショー」もそのひとつだろう。

こうした民族や文化のイメージと実際の人びとの生活には、たいていの場合大きなギャップがある。そして文化を研究する人類学者にとってこの違いは重要な意味を持つ。

いまどきどんな辺鄙な村でも人びとはたいていTシャツくらいはきており、中国製の花柄模様の食器が部屋のすみにさりげなく置かれていたりする。電池があればラジオだって聞くだろう。

一般的に文化研究というとどうしても物に象徴される表層的な違いに注目がいくが、しかし人類学者が知りたいと思っていることはとっくの昔にそういう問題を離れている。衣装や家財道具はすぐに変化する。物質文化はたとえば異国情緒あふれる絵葉書のように異文化の表象として誰にでもわかりやすく違いを提示してくれるが、それ以上のものではない。いうまでもなくキモノさえ着れば誰でも簡単に日本人になれるわけではないのだから。

かたや環境(自然)や人間関係(社会)に対する知識や規範はなかなか変化を受けない。宗教も表層的には受容されるが、価値観や世界観まで変えてしまうのは難しい。なぜならばそれは「生きるための知恵」だからだ。人間は、消費や思索をする前に生きなければならない。


「物」は変わりやすいが「心」は変わりにくい
「物」は見えやすいが「心」は見えにくい

鉄斧が入れば石斧を捨て、釣り針がはいれば骨を使うのを止め、新しい物質文化は短時間にたやすく受け入れられる。人は以前の生活の枠組みの変化を「最小限」にとどめながら、新しい道具をつかいこなす。

パンダナスの繊維を織り込んで作られた彼らの伝統衣装は、シンプルな未開生活の表象どころか、Tシャツになどに比べればよほど高度で複雑なスキルを要求するやっかいな代物だ。そしてTシャツは文明の表象などではなく、たんにその方が楽だからそうしているだけなのだ。鍋、ホーローの皿、コップ、サンダル、ランプ、こうした物によって彼らの生活が西洋化されグローバル化されたと考えるのであれば、それは大きな勘違いである。物はすぐに真似され変化する、しかし心は簡単には変わらない。

私たちだってほんの二十年前までコンピューターで字を書くことなんて想像もしなかったではないか。しかし、その一方でそれによって書かれるものの内容はなかなか変化しないのだ。本質、それを本質と呼んでいいのかどうか若干躊躇するが、あるいは深淵、文化とよばれるものの中には、変わらない事象や変わりにくい事象がたしかにある。  おおざっぱに整理してみよう。


 一世代中にまねできるもの・・・物の利用
 二世代かかるもの・・・・・・・言葉や音楽などの表層的受容
 数世代以上かかるもの・・・・・自然や社会に関する知識や規範そして世界観

フツナ島。バヌアツ共和国の端の端。最も近くの島まで70キロ以上も離れている孤島。しかも面積がわずか11平方キロメートルしかないこの島全体が、火山の山頂に残された隆起珊瑚礁によって形成された標高666メートルの岩山なのである。フツナ、現地名はエロナン、現地の言葉で「岩にすぎない」を意味するフツアナという言葉をヨーロッパ人が聞き間違えて名づけられた絶壁の島である。

島の周辺は切り立った崖に囲まれ、中腹に形成された集落から浜に下りることすら容易ではない。人びとはわずかな斜面を利用して耕作し、村と畑をつなぐつなぐ踏み跡は、しばしば大きな岩に阻まれ梯子を伝って乗り越えなければならない。

よくぞこんな厳しい環境に人びとが住みつづけられたものだと思う。「この孤島で生きるための彼らの知恵を学びたい」。島の端にかろうじて建設された石ころだらけの空港に6人乗りの軽飛行機で降り立ったとき、私は真摯にそう思った。

今回は予備調査ということもあって島での生活は短かったが、実に印象的な日々を過ごすことができた。自然にまつわる話で言えば食物禁忌。人間関係にまつわる話で言えば独特なチーフ制度。十分に理解できたわけではないが、その断片をここに書いておこう。

島にはさまざまな食物禁忌があった。たとえば年に一度なるイフィという木の実。季節の最初の実を食べるときは必ず皮ごと焼いて食べなくてはならない。そして、実をナイフで切ってはいけない。

島ではしばしば禁漁区と禁漁期間をもうけ1年から3年のあいだそこで漁をすることができない。

島で死人が出たときには特別な死装束を着せ埋葬する。この作業には二人の男が携わるが、彼らは、そのあと一年間、食べ物を直接手で触れてはならない。必ず葉でくるむか誰かに口まで運んでもらうかしなければならない。そうしないと歯がとれてしまうという。そして、自分の髪の毛を直接触ってもいけない。髪の毛が抜けてしまうという。

島には岩の割れ目から流れ落ちるいくつかの水場がある。島の中でもっとも冷たい水が流れ出ているといわれる水源は、険しい谷の間にあった。ここには2つの流れ口があり、ひとつは男の水、もうひとつは女の水と呼ばれている。女の水はやや奥まったところにあり近づきにくいが水量がある。女の水は病気の女性や死体を触った男は決して触れてはならない。

ラマガというのはトビウオ漁の季節をさす。島では季節的に巡回してくるトビウオが非常に重要な食料源になっている。ラマガにまつわる禁忌は多い。この時期、漁に出る男たちは夜に家に帰って寝てはならない。海岸の洞窟で夜を仮眠をとる。トビウオ漁ではトビウオを餌にマグロやサワラやカジキを釣るが、これらの魚を浜でさばいたりウロコをとったりしてはいけない。地面に置いてもいけない。必ずそのまま村に持って帰り、女たちがその仕事を受け持つ。トビウオの肉でトビウオを釣ってはいけない。こうした禁忌を破ると魚が来なくなる。漁に出る日は魚も食べてはならない、タロやヤムの畑に行く者も魚を食べてはならない。魚を食べたものが畑をいじると作物が育たなくなる。だから魚を食べなかった子どもに畑の植付けをさせることもある。

食物採集や資源利用の観点からこうした禁忌の機能を説明するのは決して容易な作業ではない。そして、実際いかなる有効性が証明されたとしても機能的説明というのはそれ自体きわめてあやしいものである。たしかに規制によって実際に資源や環境がコントロールされている部分はあるだろうが、決してそれがすべてではない。規制にはもうひとつ、象徴としての役割がある。

彼らの膨大で多様な自然に関する知識の中から規制という形で表層に現れるものはほんの一部だろう。人類学者がついついそういうタブーに飛びついてしまうのは、表層に現れたそうした規制を研究するのはなにがしか意味がありそうだし、ずっとたやすいからだ。

しかし、食物禁忌とはそれ自体なんらかの機能を持つものであるというよりは、深淵に隠された彼らなりの世界観や、説明・納得の体系が表に現れたものだと考えるべきである。

そして社会システム。フツナにはバヌアツの中では唯一のポリネシア起源の人々が住み、文化的にもポリネシアの影響が強い。島には4つの村があり、それぞれの村にはだいたい3人ずつチーフがいる。ひとりはナムルケと呼ばれる家系のチーフで、もうひとりはカウエメタと呼ばれる家系。3人目はファノと呼ばれる。

ナムルケの家系の人間は、穏やかでしばしば謙遜し、自分からあまり話をせず、たとえば二匹の魚があるときは人に大きい方を与えるような性格だという。

カウエメタの家系の人間は、攻撃的で、自己主張が強く、あいまいな言葉を嫌う。

かといってカウエメタのチーフの方がより影響力があるのかというと必ずしもそうではない。ナムルケの人間は別名「静かなサメ」とよばれている。

ナムルケとカウエメタのチーフは伝統的な会議の場では直接話を交わすことができず、その間を取り持つのが両方の属性をもつファノとよばれる家系のチーフである。ファノは、ある時は穏やかに、ある時は能弁に語りながら両方の家系のチーフを仲立ちする。基本的にナムルケとカウエメタの家系は互いに婚姻関係をもたず、まれに両者の間に子どもが生まれたときは子どもの性格から判断し、どちらかの家系かあるいはファノの家系の名前を与えるのだという。

ナムルケ−カウエメタ・システムが意味するところはなんだろか。これは人間の性格の両極を制度化したきわめて恣意的で高度な社会構造だといえる。しかし、今の段階では安易な解釈はひかえておこう。実際に私はナムルケのチーフの家でお世話になったが、ものしずかな彼の性格は、たしかに言われているようなナムルケそのものであった。

人は納得したい動物である。なぜ規制をするのか、なぜ複雑な社会関係を構築するのか、それは説明したいからである。規則は何かの事象によって説明されるものではなく、むしろ説明するために規則があるのである。説明が規則をつくるのではなく、規則が説明をうみだすのだ。つまり、規則がなければ説明もない。この転倒はきわめて重要である。そしてまるで人間がそこで生きているのを証明するかのように細やかな規則が小さな島社会を覆っている。繰り返すが、人は規則によって生きているのではないのである。生きていることを規則によって説明しているのである。人間とはかくも屈折した世界に住む存在なのだ。


フツナのポリネシアダンス

(以下は補足です。文中に入れられずはみ出してしまいました。これについては 別の機会にいずれしっかりかみくだいて議論したいと考えています)

法や道徳を守ることが人間が生きることであるという態度は、多分に倒錯的でありおよそ語るに足る哲学とは思えない。法や道徳が人間の思索によって作られたものである以上、人間の存在は法や道徳を超越していると考えるのが自然だろう。

しかしながら、だからといって人間が生きるために法や道徳を利用しているのだというヒューマニスティックな考え方にもどこか不十分なものを感じる。人間の存在は法や道徳を超越しながら、しかしそこから自由ではない。

つまり人間にとって非常に不幸なことに、法や道徳の力を借りずして人の生は語れない仕組みになっている。なぜかといえば「人間が生きていること」そのものを説明するために法や道徳が用意されているからである。

New▲ ▼Old


[CopyRight]
Takekawa Daisuke