無痛社会

[KOK 0174]

10 Jul 2001


アメリカで、キャリアのある女性が代理母(より正確には代理子宮)をたのむ例が増えているという記事をよんだ。自分の子供はほしいけど仕事を中断したくない、そんな女性に代理子宮の商売がはやりはじめているという。

フランスでは、無痛分娩を選択する人がすでに9割を越えているという。

どちらも生殖に関わるこの二つのニュースは、なにか根っこのところでつながっているように感じた。なんだろう。

(産みの苦しみを知らない男が、女性の出産たいしてとやかく書くべきではないという批判はあるかもしれない。ならば、キャリア社会の厳しさを知らない人は、キャリア女性の選択を批判すべきではないのだろうか。あるいは、代理子宮はほかの女性の子宮を使うことに問題があるとするならば、それがチンパンジーならかまわないのだろうか。いやいや、ぼくが気になったのは、そんな生命倫理の問題でもなければ、ましてや技術的な問題でもない。)

そう、ことは生殖に限らない。「あらゆる不快感や痛みや苦しみをできるだけとりのぞくことが社会の目的である」というこの「方針」は、これでいいのかという単純な疑問なのだ。

なに、この問題はなにも今に始まったものではない、ここ人の歴史の中で繰り返し繰り返し問われてきたことだ。そのたびにわれわれは、立ち止まり、後ろを振り返り、そして新たな一歩を進んできた。医学や技術はそれを人類の可能性・選択の拡大とよんできた。

鎮痛剤や精神安定剤を手放せない社会。心の痛みや苦しみも、巧妙にプログラムされたカウンセリングによって上手に取り除いてもらえる社会。

当面の痛みさえ止まれば、根治療法でなくてもいい。
むしろ手軽な対処療法のほうがありがたい。
原因を探りそれを変えるだなんてまだるっこしい。
それに世の中には変えられない原因も多い。
それよりも結果的に痛みがなくなればそれでいい。
だって「私」にとってはどっちだって同じことだもん。

生老病死。生まれる苦しみも、老いるつらさも、病む痛みも、死ぬ悲しみも、綺麗にクレンジングしてくれる社会。

ふと頭をよぎったのは、「とりあえずこれまでどおり、未来をこういう方針で進めますが、よろしいでしょうか?」という小声の問いかけだったのだ。

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Takekawa Daisuke