共犯社会

[KOK 0173]

10 Jul 2001


もうかれこれ10年以上前のことである。研究室の宴会で日本に滞在して長いアメリカ人と話をしていたとき、彼は日本社会を評して「犯罪社会だ」と語った。その言葉の意外さに驚いて真意を尋ねると彼はこう説明してくれた。

ちょうどカラ出張が話題になっていた頃の話である。大学でも出張のための予算枠を融通して備品を調達するなんていう話がされていた。こっそりこういう柔軟な対応をしてくれる事務員はよい事務員であり、そういうことをやっていかないと研究が立ちゆかないという現実もあった。

彼はいう、「でも、それって犯罪でしょ?」。なぜ不都合があるのなら、ルールの方を変えようとしないのか。そうやって小さなルールを破りながら生活するのが、彼には「非常に気持ち悪い」のだという。

外国人登録の指紋押捺拒否が問題になっていた頃でもある。ある時期まで指紋押捺拒否はわりと大目に見られていたが、それが社会問題になったとたんに、指紋押捺をしない外国人は犯罪者にされてしまった。「なぜ、彼らを犯罪者にする前にルールの方を変えないのか、彼らをあえて犯罪者にする必要がどこにあるのか」と彼は問う。

彼の主張に従えば、「日本社会は多かれ少なかれだれでも住んでいるうちにいつのまにか犯罪者になるようにつくられている」。ただ実際には、為政者が「大目にみ」たり「寛大な措置」をとったり「融通をきかせ」たりする事によって、そうした犯罪は問われないことになっている。しかし、おかげで人々は常に潜在的な「うしろめたさ」を背負いながら生きなくてはならない。

「誰でもたたけばほこりがでる」という発言が実際に人々の行動を規制し、物事の決定を方向付けていくのを目の当たりにしたのは北九州の大学に来てからである。われわれはすでにみな大目に見られた状態でここに存在しており、ひとたびだれかがその矛盾に触れるとこの反動は全員に害を及ぼす、だから人々は自分に火の粉が掛かることに怯え決定を曲げていく。そのとき、あらためてあのアメリカ人が言っていた「気持ち悪さ」を実感した。しかし注意深く考えてみれば、こんな例は日常に満ちあふれている。みなさんの身近にもあるだろうと思う。

「誰でもたたけばほこりがでる」これは、宗教が道徳を用意できない日本社会における一種の「原罪意識」なのかもしれない。

こう考えると管理教育の高校の過剰な校則も合点がいく。異性と交際をするには学校に届け出ないといけない(いわば婚姻制度のパロディですな。だから、だれもこの校則を笑えません)、市内から出る場合は制服を着用しないといけない、3校以上の異なる高校生が集会をしてはいけない、などなど、現実的にはおよそ守られないような(そして実際守られることのない)規則が並ぶ。

こうした校則の目的は、それを守らせることにあるのではなく、つねにそうやって相手に「違反者意識」を与え続けることに意義があるのだろう。現実には先生たちの「温情」のおかげで、こうしたルールが実際に執行されることは、ほとんどあり得ない。にもかかわらず(いや、だからこそ)、生徒たちはいつのまにかうしろめたさを無意識の中に潜在化させ、暗黙のうちに校則を承認する。「実際に叱られることはめったにないのだから、わざわざ校則反対なんて言わなくてもいいじゃんない。へたにそんなのしたら管理強化されて逆にヤブヘビだよ」。

こうした本音と建て前が交錯するあいまいな状況を、柔軟性に富んだ日本の知恵と賞賛する人々がいる。(たとえば「自衛隊と憲法」「パチンコと賭博法」の関係がその最たるものだろう)。彼らのいうこともわからなくもない。彼らにしてみれば日本はよかれ「善意」に満ちた国なのだろう。ことを荒立てることなく最善の選択をする賢い国なのだろう。

ただしそれは、あくまでも「寛大なおめこぼし」のなかでの選択であり、知らず知らずのうちにだれかに頭が上がらない構造がつくられ、いざとなればいつでも「別件」でパクられる宙ぶらりんの不安と裏表だともいえる。この不安ははたして大げさな不安だろうか?「大丈夫、大丈夫、そんなこといったって全員パクるわけにはいかないだろうしね」そう賞賛者たちはいうのだが・・・。

善意の国日本は、裏を返せば「共犯者」の国でもある。「赤信号みんなで渡ればこわくない」という言葉に象徴されるように「共犯」する事によって仲間意識がつくられるやっかいな社会である。しかも、われわれはすでに「共犯」することにあまりに慣れてしまっている。だが、「不思議とこれでうまくいっているんだから、これでいい」のだろうか。

首謀者が不明瞭で、傍観という形でクラスを巻きこみ仲間関係を形成していく「日本的イジメ」は、典型的な共犯社会のやり口である。

さて、日常世界ではイギリス人と交流し、メールでは日本人とやりとりをしているうちに、ぼくは自分の中で引き裂かれた二つの価値観が奇怪な不協和音を奏でるのを聞く。日本にいるとなかなか気づきにくいが、日本を離れたとたんに感じるこの国の独特な閉塞感はいったいなんだろうか。対立はすぐさま悪意に置換され共感は無条件で善意となる・・たとえその共感が「犯罪」に対する共謀であってもそれは善意なのである。さまざまな言葉が、しらじらしくそして円満にすれ違い、はぐらかされていく、この気持ちの悪さはなんだろうか。

そしてなぜ日本の若者たちは、「わく」というものに執拗なこだわりを見せるのだろうか(この「わく」はどうやら硬い「壁」ではなく柔らかい「のれん」のようなものらしい)。はたして、これは日本だけの問題なのか。その「わく」を乗り越えた先になにか「いいもの」があるのだろか。そしてこの「わく」は自己の問題なのか。自分で「わく」を乗り越えればそれは解決するものなのか(違うんじゃない?違うんじゃない?)。

西洋近代とないまぜになって宙に浮く現代日本の暗さとやさしさ。共同体への郷愁と反発。どの人間社会にもつきまとう二律背反。その正体を知りたくて考えをめぐらす。それは、「なぜぼくはこんな生き方をあたりまえだと思えるのだろうか」というより深い問いに触れることでもある。


ところで蛇足ながら、先のビートたけしの冗句はイギリスではまったく通じないだろう。なぜならば、イギリスの赤信号はみんなでわたっても「極めて危ない」からだ。いやそれよりも、イギリス人ならばにべもなくこういうに違いない「車が来ていないときに赤信号を渡るのは、悪いことでもなんでもないんじゃない?危ないかどうかは大人なら自分でちゃんと判断できるしね」

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Takekawa Daisuke