朝日新聞(2016/01/27)
フィードバックとコメント
北九州市立大学学長
近藤倫明
井上大輔さんと命婦恭子さんのプレゼンを聞いて、こんなことを考えました。
フィールドワーク教育での醍醐味は、フィールドと私の五感による双方向の能動的な出会いから生じる新たな発見、気づくということだろう。つまり、知るということだろう。その体験の繰り返しの中で、知ることは意味づけられ学びを生み、私の新たな知識となる。繰り返すことを欲するのは楽しいから、面白いから。その体験が心を揺さぶるように、そもそも私たちは仕組まれている。その仕組みは長い進化という人類の営みの中で培ってきた、時からの贈り物だろう。60兆個の細胞が共鳴するということかもしれない。フィールドを知り、そしてフィールドを知る私自身についても知るのだろう。
自然はまた長い長い気の遠くなるような時の流れという実験の連鎖で推敲を重ね秩序付けられている。人類が「(物理)世界」を知るために手にした一つのパラダイムである自然科学は、その切り口から謙虚に自然の秩序を知ろう、理解しようとするものだろう。フィールドワークは、私たちの知の欲求を満たす入り口であり、出口でもある。紫川や干潟での個々の経験から仮説が生まれ、確かめて理論となり、理論をもとに予測が可能となり知識が体系化される。そして学人(まなびと)も満たされ、鼓舞され、生きがいとなる。
人類が人間社会で培ってきた秩序もこれに似ている。人間社会もまた長い時の流れという実験の連鎖で秩序付けられている。人が「人間社会」を知るために手にした一つのパラダイムが社会科学なのだろう。その切り口から謙虚に社会の秩序を知ろう、理解しようとするものだろう。
『市場』はそんな時間をかけて継承されてきた仕組みを内包した一つの人間社会の装置としての空間、フィールドだ。ここには時間という設計者が緻密に設計し幾多の実験で研ぎ澄まされてきた仕組みが静かに潜在している。旦過市場はそんな場所のひとつなのかもしれない。そこでの体験を私たちは繰り返すことで、緻密に設計された仕組みを、五感を通して全身で理解することができるだろう。教えられるのではなく、たんたんマルシェでの体験の中、フィールドで知ることは意味づけられ、学びを生み、私たちの新たな知識となる。そこには人の生活に根差した生きるための英知と喜びが内在されているようだ。そしてまたこのような活動が実験の連鎖での時の設計者としての担い手として加わっていくのかもしれない。
北九州市立大学地域創生学群
眞鍋 和博
誰かが作ったシナリオに乗っかるだけでうまく生きていける世の中になっている中でも、想定しない出来事が発生したり、時代の変化の速さなどから、臨機応変にものごとに対応する力を身につけさせることは高等教育機関の使命であると考える。フィールドワークは正にそのトレーニングとして重要な意味を持つことが、今回のシンポジウムで改めて確認できた。
また、(1)多人数への対応、(2)教えない教育方法、(3)リスクマネジメント、(4)アウトカムを求めすぎる(と考えられる)行政、以上の点が課題であると感じた。
貴重な機会をいただき有難うございます。
朴 仙容
某新聞社(韓国系)から依頼された1月19日締切の原稿(随筆)があります。そのテーマをこのシンポジュームにしました。私は在日コリアン二世、みんなと一緒だった存在が突如、違いを思い知らされる時が来ます。このシンポジュームは在日の特異な体験を振り返るいい機会になりました。在日の生き方にはシナリオはなく、アドリブ世界で生きていることを知りました。そとに出ることなく、そとで生きている。なるほど、在日の創造性はそんなことで育まれているのですね。フィールドワークを在日のプラス思考に繋げて考えています。ありがとうございました。
「サル合宿」とかやってます
たけのしたゆうじ
当日総合討論でもとりあげていただきましたが、フィールドワークのキモは「余分、過剰、遊び」といった部分ではないかと感じました。その一方で、そういうものが「必要なんだ」と言ってしまうと、その途端、「余分、過剰、遊び」はすべて「必要」のワナにからめとられてしまうという矛盾が生じてしまいます。仮に「フィールドワーク教育」を広めようとしたとき、「現代社会にはこういうものが"必要"なんですよ!」と言わないためには、どうしたらいいのでしょうか。「おもろい」はひとつのキーワードだと思いますが、「おもろいだけではダメ」というのが世の趨勢です・・・。
愛媛大学国際連携推進機構
小林 修
大学が大学の外に出て地域と協働する。
これまで多くの大学が展開してきた,支援してやるから相談があるなら訪ねてこい型の社会貢献とは,大きく異なる取り組みに感銘を受けました。
大学の敷居が高ければ,大学が地域に出向けば良いと背中を押された気持ちです。
自らの活動にも弾みがつくような,背中を押される内容でした。
京都文教大学地域協働研究教育センター
滋野浩毅
私も大学院時代から、勤務している大学で大学地域連携の仕事をしている現在までの10年以上、フィールドワークを研究、教育の中心に置いており、大変興味深く報告と議論を聞くことができました。
教育手法としてのアクティブラーニングが重要視され、多くの現場でフィールドワークが導入されていくのは良い事だと考えていますが、一方で、制度に組み込まれる事によって、今回のシンポジウムでも多くの方から問題提起があったように、本来、フィールドワークが持っているダイナミズムやセレンディピティを保ちうるのかどうか、カリキュラムに組み込む事と、それによる「評価」の問題をどのように整理していくのか、考えるきっかけになりました。
まだまだ「答え」はありませんが、実践の中で自分なりの答えを出していきたいと思います。
明石三代
はじめまして。山口県で舞踊教室を主宰しております明石と申します。
私は直感派なので、敢えて理論派の友人と参加いたしました。都合により昼休み後から総合討論前までの参加になりました。終わってからの2人の感想は、面白かった。旦過市場(大學堂)に行きたいね!と意見が合致し、北九州に再訪することになっています。学生たちが試行錯誤しての地域貢献活動を、体感したいという気持ちからです。
竹川先生のお話は十二分に理解できましたし共感が持てました。「教えない」ことは生徒さんの積極性と個性を引きだすために私が意識していたことでもありました。
社会人になり時間が随分経過しましたが、大学生と同じ席に座り新鮮な気分でした。このシンポジウムを開催してくださり、有難うございました。
東海大学海洋学部環境社会学科、研究室のサリサリストア(長いすのあるフィリピン食材店)化、静岡市用宗地区での地域おこし協力
小林孝広
野研の教育力の高さに感動いたしました。学生が育っていますね。
このシンポでは、学生をいかに野に放つのかという「場」の設定がカギであること、また成果のアウトプットの工夫(デザインも含めて)、アウトプット(以前は報告書くらいのイメージしかありませんでした)もいろいろな形があることを学びました。
大学堂でも魚部の活動の場合でもそうですが、外部メディアを効果的に(あるいは共犯関係的に)活用しているということでしたが、フィールドワーク教育と外部メディアの相互関係、学生自身がメディアに取り上げられることはどういう効果ないし意味があるのか、地域づくりの観点からぜひ考えてみたいことでした。
九州大学大学院人間環境学研究院共生社会システム論
飯嶋秀治
4つの発表とも、それ自体の探求の愉しさに支えられ、フィールドワーク教育というものが、まさにフィールドそのものから育てられるという事が余すところなく伝わるシンポジウムだったと思います。
私が積み残したと思ったのは、フィールドそのものがかなりの問題を抱えている場合はどうだろう、という事でした。ディスカッションであった、表現を巡る問いは、愉しさだけではないフィールドの場合にこそ切実な気がしましたので。
また、フィールドワーク教育と、フィールドワークの教育は、相互排他的だとは思えないので、その二つを接続してゆくのが新たに考えたいことでした。
しかし前夜の懇親会は愉しかったですね。通常は打ち上げとなりますが、ああして前夜祭を開くのは最良の雰囲気づくりだなあ、と思いました。当日はお礼も言えませんでしたが、野研の皆さんのご協力にも、ありがとうございました。
京都文教大学
松田凡
自主性・主体性を育む教育について考えています。今回のシンポで気づいたことは、
1) フィールドワークには大きな可能性があること。
2) 「おもしろがる精神」を導き出す仕掛けが必要なこと。
3) 多様な背景、世代、価値観をもった複数の人びとの間で人は育つのだということ。
4) 手足を存分に使って、モノをつくったり、動いたりする要素が大事であること。
私がこれから考えてみたいのは、こうした要素をいかして、大学教育の中に効果的なアクティブ・ラーニングやPBL教育のあり方を探る、ということです。
国立動物園を考える会
岩野俊郎
4人の講演はそれぞれに興味深かった。
座学からフィールドへと場面が変われば、受け取り側も仕掛け側も共に新しい発見があるのでしょうね。とどのつまり、私たちは余りにも経験値が低いように感じています。高い経験値は、つまり座学にしろフィールドにしろ多くの知識は正確な判断をもたらすということではないでしょうか。
心ならずもミスリードすることもあり、それもミスリードしたとも思ってないこともあります。受け手もそれが分からないというのが、不幸の始まりですね。多くの知識、特に今までしたことのないことをすることが高い経験値を得ることに繋がります。また自分以外の等価でない人々(命婦さんが言われていましたが)との交流がコミュニケーション力をつけるだと思います。このコミュニケーション力は自己防衛のメインパワーであり、打たれ弱い現代人は実はこのコミュニケーション力を失ってしまった人類だとも言えます。
書を捨てて野に出ようと言った方もおられましたが、知識を体系づけるためには書も必要です。が、それ以上にフィールドという場は人らしさを作っていくのかもしれません。
井上さんのよう「まず好きなことから」始めようではありませんか。
大學丼評論家
松田幸三
旦過市場の商店主にも登壇してもらい、大学生の実践を語ってもらってもよかったと思います。市場の皆さんは大學堂をどう受け止めていたるのか、知りたいところです。
名古屋女子大学文学部児童教育学科
堀 祥子
私の所属は保育者養成校ですので、どうしても学生の進路、学修内容も限定されます。とはいえ、人類学と同じように人に興味を持ち、向き合うことには変わりはないということが、今回参加しての大きな気付きでした。
またアートは様々な領域にまたぐことが出来、そこでの人にまつわる事象に心から向き合うことで、その日その場で立ち上がる空気そのものが作品であると考えていましたので、寒い冬に登壇者の熱い語りが展開され、聴講者にもそれぞれにフィールド実践を持っているシンポジウム会場そのものがアートだったな、と思っています。貴重な機会に立ち会うことが出来たこと感謝しております。
長いようで短い時間でしたので、もっと事例とエピソードを伺いたいと思いました。時間が許せば全体のシンポジウム後にも分科会の様な機会があると嬉しいです。
また、大學堂の周辺にある「何かおもしろいこと」に(飛び込んだ)(引き込まれた)(巻き込まれた)の立場の在学生からの語りに更に興味が湧きました。フィールドワーク教育の最大の受益者(というのが適切な言葉かどうかわかりませんが)が、入学してから卒業修了していくまでの知的または美的な感性の変容と、その後の社会(フィールド)でどう彼らが生きているかも興味深いです。
やしほ映画社
纐纈あや
今回、4名の方の発表と、ディスカッサントの感想や意見から、とても刺激的なキーワードをいただきました。
わたしが映画制作をしながら考えていることとリンクすることもたくさんあり、非常に興味深かったです。フィールドワーク教育、という入口で始まっていますが、見えてきたことは、人がなにかしらの目的を持って集まった集団が、ひとつの社会として生き成長し、そして外へ向かって働きかけていくという有機的な在り方の模索、ということを思いました。そういう点で、映画を作る自分たちの集団も全く同じであるなと思います。
ひとつ思ったことは、総合討論は討論者が多いこともあったので、4名の報告やアンケート、或はディスカッサントからの意見を踏まえて、ある程度、進行していく側でキーワードをしぼって、それを明確にして討論を深めていけたらよかったのではないかと思います。キーワードをピックアップするところからでは、時間が足りなかったかなと思います。
北九州市立大学人間関係学科
竹川 大介
論点はあった。でも、それを示し消化できるだけの時間が十分ではなかったもしれない。論点のひとつめ。
答えをほしがる学生たち、ノウハウをほしがる教授たち。社会のシナリオ化やマニュアル化は少しずつ上の世代まで浸食しはじめている。誰でもできることや再現性が可能なことをもって科学的教育と呼ぶのであれば、自分の子どももそれにしたがって育てるのだろうか?でも、行動主義教育の限界はすでに1960年代に明らかになっている。いまどきジョン・ワトソンの育児書を参考にする親はいないだろう。
ならば認知主義教育ならばいくらかましだろうか。たしかに認知のフレーミングをかえてやれば、学生たちに学びたいという意欲が生まれるかもしれない。しかしそれだって限界はある、認知主義教育が可能なのは、あらかじめ用意された課題があればの話である。正解がある入試やペーパーテストならば、そんな教育でも対応できるかもしれない。
たとえば生態学や気象学などに応用されてる複雑系の数理モデルは、21世紀型の「関係性の科学」を基盤にしている。情報工学で使われるネットワーク理論を見るまでもなく、すでに科学は線型モデルから非線形数理モデルへと拡大しているのに、教育学をはじめ人文社会の人たちは、いつまで刺激反応系の古典的な科学モデルに憧れを抱いているのだろうか。
「行動主義」でも「認知主義」でもなく、相互行為の中から学んでいく「状況主義」は、まさに教育学における「関係性の科学」である。芸も技も師匠の背中を見しながら継承される。しかもさらにその先では、師匠を疑い壊していかなければならない。たとえノウハウやマニュアルがなくても、ピカソの次には新しいピカソが生まれる。
あまりに奇抜で、あまりに斬新すぎて、まるで色物のように思われたのが私の発表の失敗かもしれない(まあ、いつものことだが)。ここに書いた状況主義をもっとていねいに議論する必要があった。
ほかにも論点はあった。しかし、それがどれだけ当の学生たちに伝わったかはわからない。論点のふたつめ。
ソーシャルスキルがあまりなくても生きていけるような社会になってきたというのは、別の視点から見れば、アスペルガーや自閉症に代表される対人性や他者認知の障害、いわゆる発達障害の人々にとってのバリヤフリー化が進んでいると考えることができる。
むろんそれはいいことなのだろう。だが皮肉なことに、このバリアフリー化の結果、普通に生活しながらソーシャルスキルを学ぶ機会が減少した。「ひとみしり」や「コミュ障」などというパーソナリティを平気で自称する若者が増えている。しかも彼らがそのことを心配している様子はない。いまや「ぼっち」でも「対人恐怖」でも通信端末やSNSさえがあれば、一定の日常的社会性を保つことができるのだ。
仲間内で共感を確認する内向きの自閉的な世界は、確かにいごこちがいい。嫌なこと、傷つくこと、危険なことを、本人も、親も、教師や周りの大人たちも避けて通りたいという一貫した共犯関係が、さらにそれを強化してしまう。
そん中でのフィールドワーク。外に出ようというメッセージ。壇上の熱さとは対称的に、「そんなものになんの意味があるのか?」という会場からの冷め切った無言の問いを感じた。
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