【狂132】わかるとはなにか・その5

96/2/20

【時計職人はいろんな時計をつくる】ある人類進化論

■人類は、わかるという能力(相対的に見ればかなり特殊化したものかもしれないが)にたけた生き物である。人の場合、わかる(ある世界観をもつ)ということは、配偶者の選択にまで影響をおよぼす。これは、進化論的にもゆゆしき問題である。わたしはソロモンで若い地元の友人たちと女性の品さだめをしたときに、はじめのころ、だれが美人がわからなくてからかわれたことがある。

■進化が偶然のつみかさねと「自然」の選択によっておきるという仮説に逆らうつもりはまったくない(とうぜん社会生物学的な仮説にも)。しかし、ダーウィン自身が進化論を考える上でヒントにした、もうひとつの進化が、なぜ社会生物学をかたる上で問題にならないのだろうか。赤い目のウサギや、飛べない鴨、毛のない猪は、そのほうが適応的だから生き残りかつ大量に増殖したのだろうか。もちろん人間の行為までもおおきく「自然」に分類すれば矛盾のない説明は可能である(かれらは適応的だったのだ!)。

■しかし、それでは、ことが人間だったらどうなるのだろう。「人間が自分自身である『自然(環境・外部)』によって選択されている」という説明は言葉のはしから破綻している。

■自然選択は環境にたいする適応に関していつも公平な(ここでは人間の意志が反映されないという程度の意味、あたりまえだね)ジャッジをくだす。しかし人為選択は多分に恣意的(人間のほしいまま)である。そしてこの恣意性は、いうまでもなく、人間の「わかる」という能力に依存している。生物としての人間の進化を考える上で「わかること(世界観)」の分析をさけて通るわけにはいかない。

■この人間という選択者は必ずしも首尾一貫しているわけでもなく、時代的に地域的にかなりちがったものであっただろう。こんな(すきかってな)進化をつづけてきた人間がどうして適応的でありえたのかという議論は、意味をなさない。なぜならば、現代の進化論では、生き残っているものが適応的なのであり、その逆ではないないのだから。その証拠が先ほどあげたアヒルやブタである。あるいはメガネ君である(現代においてメガネ君かかる淘汰圧は些細なものであろう)。

【擬人主義再考】新擬人主義という立場

■石と話をする人がいる。イルカを人間だという人がいる。オウムはなにをわかって言葉を使うのだろうか。カンジはほんとにちゃんと言葉を話しているのだろうか。

■カンジ(類人猿ボノボ)の言語能力(発声能力ではなく文法構成能力)は、わたしの見た限りでは、1歳8ヶ月のヒトの子はるかににおばないようにみえる。カンジが言葉を話すことができるのは、相手が人間だからではなかろうか。サプライ・ボールを「ボールのおみやげがほしい」と理解したり、グッド・ミルクを「いい子だからミルクがほしい」と理解するのは、人間側である。たしかにそれでカンジ(あるいはパンバニーシャ)の意志は、正確に伝わる。だが、それは人間側の解釈に大きく依存していることを忘れてはいけない。それでもいいのかもしれない、人間はカンジを擬人化できるのだから。しかし、はたしてカンジは人間を擬人化できるだろうか。

■はじめに「人の出会いでおきることは、相互的な理解の上ではなく。むしろ、双方向的なふたつの理解がひとつの場所で同時におこなわれているとは考えられないだろうか。人は出会ったときから互いに(別々に)相手が人であること了解するのである」とわたしはいった。擬人化という能力は、人間が世界をわかるために重要な手続きであるように思える。互いに相手を擬人化している姿が人間の出会っている状態であるというのがわたしの仮説である。擬人主義は生物学の鬼子である。しかし、人間という生物を理解するためには、この擬人主義というものの正体を考えるなければ、先に進めないのではないだろうか。人類は擬人主義的に進化してきた生物なのかもしれないのだから。(おしまい)

こちふかば にほひ おこせよ うめのはな


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