【狂130】わかるとはなにか・その3

96/02/18

【「わかるための説明」とはどういうものか】ステレオグラムを見よう

わからん わからん わからん わからん わからん わからん わからん わから
わからん わからん わからん わからん わからん わからん わからん わから
わからん わからん わからん わからん わからん わからん わからん わから
わからん わからん わからんわからん わからんわからん わからん わからん
わからん わからん わからんわからん わからんわからん わからん わからん
わからん わからん わからんわからん わからんわからん わからん わからん
わからん わからん わからんわからん わからんわからん わからん わからん
わからん わからん わからん わからん わからん わからん わからん わから
わからん わからん わからん わからん わからん わからん わからん わから
わからん わからん わからん わからん わからん わからん わからん わから
わからん わからん わからん わからん わからん わからん わからん わから
わからん わからん  わからん わからん わからん わからん  わからん わか
わからん わからん  わからん わからん わからん わからん  わからん わか
わからん わからん  わからん わからん わからん わからん  わからん わか
わからん わからん  わからん わからん わからん わからん  わからん わか
わからん わからん わからん  わからん  わからん  わからん わからん わ
わからん わからん わからん  わからん  わからん  わからん わからん わ
わからん わからん わからん  わからん  わからん  わからん わからん わ
わからん わからん わからん  わからん  わからん  わからん わからん わ
わからん わからん わからん わからん わからん わからん わからん わから
わからん わからん わからん わからん わからん わからん わからん わから
わからん わからん わからん わからん わからん わからん わからん わから
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■われわれが奥行きを感じるには、ふたつの目から対象までの距離の相対的なちがい(視差)を利用している(むろんそれだけではない・重なり具合・方向・焦点距離など)。

■ステレオグラムが裸眼で立体に見えるメカニズムは、右目と左目でとてもよく似た、しかしわずかにちがった図形を同時に見ることにより(ふだん右目と左目は同じものを見ている)、擬似的に視差をつくり出しているのである。

■ただし、視差を利用して立体視をするには、さらにいくつかの前提がある。それは(おそらく)経験世界から構築された人の脳のはたらきによる。立体視をするためには、脳の中で視覚世界の適合性(黒点は黒点とのみ整合しうる)・一意性(ほとんど常に、ひとつの画像のひとつの黒点は、他方の画像の唯一の黒点と整合しうる)・連続性(整合する点の視差は画像のほとんどの全域でなめらかに変化する)が保証されていなければならないのである。ある視覚理論の本ではこのメカニズムの証明だけのために50ページを費やしている。

■裸眼立体視の「説明」としてはもうひとつのタイプがある。ちまたで市販されている立体視の本にあるような、説明である。

■すなわち、「焦点が合わなくてもいいから、画像に目を近づけて、下にある黒い点を見てください。そのうち2つある●が、3つにみえるようになります。4つみえるときは真ん中のふたつをあわせてください。真ん中の●を見たまま、ゆっくりと画像をはなしていきます。真ん中の●がふたつに分かれてしまいそうな時は、すこし止めてください。焦点をあわせようとしてはいけません。焦点はいずれやってきます・・。頭をぼーとさせて。凝視しないように、見ます・・・・・」

■人によっては前者の説明だけで、裸眼立体視のわかった気になるかもしれない。しかし、これをいくら読んでも画像のなかになにがかかれているかが、わかるようになるわけではない(まれに、そんな人もいるかもしれないが)。裸眼立体視ができるようになるためには、いっけん禅問答のような、後者の説明がずっと有効である(わたしが後者の説明によって30分以上教えた人で裸眼立体視が体得できなかった人はまだいない)。

■もちろん、前者の理論を応用して画像を(科学的に)分析すれば、そこになにが書いてあるかはわかる。しかし、それでも、その図形がみえることによるわかりかたとは、ことなっている。

■わかるための説明は、必ずしも「科学的」である必要はない(たとえば、マエラシの話からわかったことはなんだろう。すくなくとも、さきに示したふたつの典型的な反応が、あの話からなにかをわかるためへの近道ではないことは確かである。)

■見ることは、わかることのひとつの例である。われわれは脳によって世界を見ている。

■そして、その見えかたは、たとえば適合性・一意性・連続性といった人間の脳のバイアス(錯覚もふくめて)を大きくうけている(依存しているといってもよい)。もちろんそうした脳のバイアスのすくなくとも一部は経験世界から構築されたものである(たとえば、垂直線ばかりの世界で育ったネコの実験とか)。

■さて、ここまでの議論は生物としてのヒトを考える上で非「科学的」でささいなことなのだろうか?わかることから生み出される世界観は、あくまでも、ある恣意的な文化に根ざしたものであり、そこからなにかの一般性を抽出しようとする試みは無意味なのだろうか。あるいは、最終的に個に帰着する認知という問題設定は、個体還元主義という言葉で片つけられるような、どうでもいいことなのだろうか。


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