【狂129】わかるとはなにか・その2

96/2/16

【ヒトは世界をどう理解するのか】これからの生態人類学のために

■完成された仕事だけをみると、生態人類学と文化人類学との境界は非常に曖昧なもののようにみえるかもしれない。しかし、この両者のたつべき方法論的前提には根本的な違いがある(はずだ)。それは、文化人類学が「文化(あるいは社会)」というものを規定して、そこから人の活動やその意味を考える学問であるのに対し、生態人類学は(たとえその思考の過程に文化が登場するのはやむを得ないとしても)文化の登場が最終的な説明になりえないという点である。それでは、文化のかわりになにを持ってくるのか?(適応?)とりあえず今回はそれを問わないでおく。

■わたしがイルカ漁の研究でまず明らかにしたかったのは。イルカ漁の技術ではなくイルカ漁から見える世界観である。世界観といっても、けっして大げさなものではない、彼らが世界を(文字どおり)どう見ているかということである。

■不幸なことに最初のわたしの論文は単なる技術論(あるいは知識のよせあつめ)のような内容になってしまったし、実際にそういう読まれかたをした。そして、今かいている博士論文もかならずしもそうした域を脱してはいない。

■ここでは、その補足(というかいいわけ)をしておきたい。イルカ漁を例にとれば、かれらがイルカを捕ることと、彼らがイルカについて持っている知識は、決して切りはなして考えることはできない(まあ、あたりまえだ)。そして肝心なのは、その知識とは、かならずしもわれわれが期待しうるものばかりではない、また、(かれらがそれを知っているということは明白であるにもかかわらず)この場で説明しうるものばかりでもないということだ。

■たとえば、われわれは往々にして「科学的」事実とそうでない「物語(信念)」を二分する。「イルカをうまく追うためには、群れの移動する方向の片サイドから石をならさなければならない」という説明と「あいつがイルカの肉をないがしろにしたせいで、このごろイルカがこなくなった」という説明は、われわれにとっては別のカテゴリーに属するものである。しかし果たして彼らにとってもそうなのだろうか?

■あるいは、アマモの中にすむアミメブダイの潜水突漁について、わたしはその漁場、漁具、季節性、などを以下のように記述していく。

■アミメブダイの潜水突漁は、アラタと呼ばれるリーフ内のあさい砂地の漁場でおこなわれる。ここにはアマモが群生しており、そのアマモの草原にアミメブダイは生息している。アミメブダイはアマモの中で保護色を利用して外敵から身を守っている。そのため、逆にいったんアマモの中に入るとアミメブダイはじっとして動かなくなる。漁師たちはそれをねらう。漁具は水中眼鏡と、ヤスである。ヤスは細い鉄の棒とゴムを利用した飛び出し式のものを使うこともあるが、ふつうは、長い竹竿のさきに鉄製のヤジリがついたものを使う。水中眼鏡はいわゆる沖縄のミーカガンタイプのものである。潜水ウニ漁などでは、ヤシの油を水面に流して水中を見る技術があったというが、水中眼鏡が伝えられる前にこのアミメブダイ漁がどのようにおこなわれていたかは不明である。・・・・(後略)

■しかし、こういった説明がどんなにながなとつづいても、われわれの多くはアミメブダイをとることはできないだろう。なぜならば、アミメブダイの保護色をみやぶるのは、われわれにとっては、なみたいていのことではないのだから(かれらにとってはいかにたやすいものであっても)。かれらに見えているアミメブダイがわれわれには見えないのだ。

■ここでもういちど強調しておこう。見えていること、わかっていることが、世界(観)を構築する。


next home back
[CopyRight] Takekawa Daisuke : Kyojin Shinbun & DDT-soft