[KOK 0249] こくら日記のトップページにとぶ 14 Feb 2005

金貸しの片棒

 

プラットホームに車体一面を広告でおおわれた派手な地下鉄が入ってきた。車内には同じ広告がつり下がり、なんと床にも広告が張ってある。まるで広告の中に乗っている感覚である。気になってみると、地下鉄の構内は、そこら中が広告だらけ。壁・柱・階段の隙間・あらゆる空間を広告が埋め尽くしている。

車両広告もはじめての時は驚くかもしれないが、やがてインパクトも薄れ慣れてしまう。子供向けの番組で流れるおもちゃのタイアップCMはかなり露骨でいらいらするが、そんな広告はむしろ珍しいようだ。このごろの広告は、押しつけがましく欲望をかき立てるよりは、無意識のうちに記憶に痕跡を残し、選択の際にそっと想起されるように工夫している。さすが大人である。

風船太郎

ウェッブサイトを開くと現れる広告。新幹線の窓に向かって田んぼの中に立ち並ぶ看板。人間の視線がむかうあらゆる場所が広告の媒体となる。そのシンボルマーク、そのキャッチコピー、その色、その音楽、私たちの脳は知らず知らず広告のサインを蓄積する。見慣れたサインは安心のサインである。そうして心の警戒が解けていく。

広告の効果を実感し、広告を出したいという人がいる限り、街から広告が減ることはないだろう。世の中にはまだまだ広告を出せる隙間が残っている。この際、風景の美観やデザイン性などお構いなしだ。もしお金がもらえるのであれば自分の背広に広告を貼り付ける人だっているかもしれない。

広告主と共謀し広告に協力すればそれなりの利益にあずかれる。でもこの広告料って、そもそもどこからくるの?見せるだけではお金にならない。広告料は当然、広告される商品に上乗せされ、最終的にそれを買う人によって負担される。

たとえばテレビを見ると、消費者金融(サラ金)の広告が全盛をほこっている。そのハイコストな広告料は、甘い広告につられてつい金融に手を出してしまった利用者のハイコストな利子から支払われている。そして、そのおかげで私たちは受信料を払わずに番組を楽しめる。

風船太郎

だから、あかるくさわやかな消費者金融の広告を目にするたびに、その借金に苦しんでいる人のことを思い、このシステムに加担してわずかな利益を得ている自分に後ろめたさを感じる。できればああいう広告は見ずにいたいし話題にもしたくない気持ちなのである。


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