07 Mar 2002
■エロマンガ島、健康な中学生時代をおくった日本人男性であればだれしも一度は地図帳の中にその島を発見し、ささやかな期待としかし現実にはありえないはずの風景を夢想した経験があるだろう。最近の地図帳にはイロマンゴ島と書かれているらしいが、現地の発音にもっとも近い表記はエロマンゴ島である。
■エロマンガ島はバヌアツ南部のタフェア島嶼群のひとつであり、面積は975平方キロメートル、800メートルを越えるピークを持つ火山性の島である。
■しかしエロマンガ島はその蠱惑的な名前のイメージとは裏腹に悲劇の歴史を背負った島であった。
■空から見るエロマンガ島は、まばらな森と草原が広がっている。集落はほとんど見られない。草原は柵でかこわれ、その中で牛たちが草を食んでいる。島には8人乗りの軽飛行機がかよっているが、観光客はおろか人類学者すらほとんど訪れない。行くのが大変だからではなく、行っても何もないからだ。
■「エロマンゴには見るべき文化はないよ」調査地を探していたときに何人もの人にそういわれた。はじめ私はその理由を、この島はあまりに辺境であるために複雑な社会構造が発達しなかったのだろうかと考えた。しかし現実にはどんなに辺境であっても、いや、かえってそうであればあるほど、知るべきことはたくさんある。そしてエロマンガは地理的にみても決して辺境ではない。
■私はエロマンガ島を調査地の候補のひとつに加え、島の情報を集め始めた。そしてしだいにこの島がおかれていた歴史的な状況がわかってきた。
■かつてエロマンガ島には数千人から1万人をこえる人々が住んでいたと推定されている。しかし1820年代に白人によって白檀の樹が発見され、それ以来おおくの交易船がこの島を訪れるようになった。交易船と言っても実際には略奪に近く、小さな鉄の塊と交換に船一杯の材木を運び出したり、別の島からつれてきた人質を食人を目的に島民に供して取引をしていたようだ。
■エロマンガ島内に豊富にあった白檀はわずか40年後の1860年にはほとんどなくなってしまったという。そして代わりに白人が持ち込んだインフルエンザ・ジフテリア・百日咳などの病気によって、その間に島の人口は4000人まで落ち込んでいる。
■エロマンガ島には多くの宣教師も訪れている。宣教師たちが与えた毛布や衣料を経由して伝染病が感染しさらに多くの島民たちが亡くなった。かつて白人たちは伝染病を蔓延させアメリカ大陸やオーストラリアの先住民を一掃するために、病人が使った毛布を居住地に配り殺戮を繰り返したが、エロマンガ島におけるこのときの宣教師たちの意図が、同じものであったかどうかはわからない。いずれにせよキリスト教に改宗しない事に対する神の罰としてこうした伝染病がおきるのだと宣教師たちは説明したのである。
■さらにオーストラリア・クイーンズランド州のサトウキビ畑で働かせるため、大がかりな奴隷狩りブラックバーディングが始まった。度重なる伝染病の流行と働き手の喪失により1930年代までにエロマンガ島の人口はわずか400人になってしまった。50年の間に生き残れた人間はわずか5%にも満たなかったのだ(自分の家族や友人の顔を思い浮かべながらこの悲劇がどういうものであるかを想像してほしい)。たとえ生き残れたとしても、ほとんどはおそらく幼児期に免疫を獲得できたほんの一握りの若い人びとで、文化を継承する壮年層は壊滅的な状態であったと考えてよいだろう。
■現在エロマンガ島民の人口は1500人まで回復してきているが、彼らの生活を語る際に、こうした過去の歴史を考慮しないわけにはいかない。人びとが死に絶え伝統的な土地所有システムが破壊されたエロマンガ島には、その後、牛が導入され牧草地がつくられた。熱帯雨林は伐採され、広い草原になり島の景観や気候は一変した。おそらくエロマンガ島がかつてのような人口を支えることはもはや不可能であろう。なぜならば牛一頭を生かすためには人間よりもずっと多くの土地と資源を必要とするからだ。
■そしてすでにすっかりキリスト教化された島の住民たちは、かつての絶滅の歴史を、宣教師を殺したことの罰であり、食人をした報いであると教えられている。残念なことに通りすがりの観光客はおろか地元で長く働いているボランティアたちですら、なぜエロマンゴ島が現在の姿になったのか、その理由をほとんど知らなかった。バヌアツ共和国の中で絶滅の危機に瀕した島は、エロマンガのほかにメリング・マエウオ・アネイチュムなどいくつかある。そして奴隷狩りの被害は全域に及んだ。
■1860年代から1930年代といえば日本が明治維新を経て近代化に邁進している時期である。そんな時に太平洋の小さな島々が非常につらい時代を経験していたのである。
■こうした人びとの大量な死を、あらためて欧米人の歴史的責任として断罪するのは無理な話なのだろうか。彼らは知らずに持ち込んだ伝染病まで責任を問われる理由はないと開き直るのだろうか。あるいは、反論として現地の人を救おうとした「良心的」な宣教師たちのエピソードでも披露してくれるのだろうか。
■たしかに当時は今ほど情報が発達していなかったという釈明はできるかもしれない。そんな感染病が広がっているということを、多くの人は知らなかったのだと。しかし、情報が発達している現在といえども、なにが変わったというのだろうか。
■誤爆と称してアフガニスタンの人々を殺戮し、食糧不足をもたらし伝染病を蔓延させ結果的に罪もない人々を大量に死に追いやりながら、一方で英語が達者で思考が欧米化された政治家たちを頭に据え、「人道的」で「献身的」な医療ボランティアを派遣し、「閉塞的な因習的社会から人びとを開放したのだ」と良心のバランスをとる白人たち。かつてキリスト教が開明の証であったのと同様に、いまや民主主義と地域貢献は錦の御旗である。
■開放という言葉で異文化を一掃し、復興という言葉で自文化を押し付け、過去の陰惨な歴史の繰り返しをほとんど省みることすらしないヨーロッパ文明(あるいはイギリスに端を発するアングロ・サクソン的価値観か)の傲慢さは、今もほとんど変わらないように感じる。その心性のあさましさは、宣教師であろうと交易者であろうと奴隷商人であろうと本質的な違いはない。そして、この聖と邪をあわせもつ両面性はボランティアと兵士という形で姿を変えて今に継承されている。
■さて、人びとの良心が結果的に生み出すものを私は強く疑い批判するが、決して良心そのものを責めているわけではない。私は私自身を責めている。知らなかった私自身を責めると共に、われわれの誰しもが避けようもなく陥ってしまうこの種の「一方的な鈍感さ」に絶望している。私はここでナイーブでヒューマニスティックな役割を演じるつもりはさらさらない。望むものはむしろその逆で、人間中心主義の限界を看破し、悲劇を再生産する構造を謙虚に省みたいのだ。
■村の人たちが特別にもてなしてくれた夕食で、血合い肉のツナ缶を食べながら、私はどうしようもなく悲しむのだ。ツナ缶がまずいからではない。ツナ缶は村ではご馳走だ。私は村人たちの好意に感謝し、同時にとても幸せである。
■しかし村人の誰もが、欧米や日本ではそれが犬の餌に使われていることをすでに知っている。そして、実際に首都に出れば、人のよさそうな白人たちがスーパーマーケットで抱えきれないほどの「犬用のツナ缶」を買って帰る姿を見ることができる。最低賃金が時給50円であるこの国の人びとにとって、それが30時間分の給料に相当することも知ってか知らずか。
■犬に石を投げるバヌアツ人を残酷だと非難する人々は、バヌアツ人に犬の餌を与えることについては鈍感である。自爆テロを繰り返すパレスチナ人を残酷だと非難する人々は、他人の土地を略奪した過去の歴史については鈍感である。
■他者の残酷性をかたるわれわれ自身、他者に対して残酷なまでに鈍感であることをしばしば忘れている。あるいはこう言おうか、残酷という言葉は、他者の姿すら見えていない鈍感な幸せ者にこそ与えるべき称号である。自らの鈍感さを免罪符にする人はたいてい残酷である。エロマンガ島の悲しい歴史は語りつづける。そして私は残酷な人間になりたくない。どうすればよいのだろうか。考える。
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