29 Oct 1997
■九州に来て一年以上たつがあいかわらず、九州の言葉はうまく話せない。北九州という土地が、九州にしてはちょっと中途半端なせいもしれない。これがもし博多あたりだったりすると「しぇからしかぁ」のひとつぐらいは使えるようになってたかもしれないのに。
■しかし問題はそれだけではない。わたしの身の回りの九州言葉は、変なふうに共通語のなかに埋め込まれてしまっているのだ。
■もっとも典型的なのが。 「竹川先生の授業あってる?」 「あってないみたいよ」
■これはわたしの授業が正しいか正しくないかについて語っているのではなく、わたしの授業が今あるかどうかを語っているのである。
■わかりやすく書くと やる(おこなう) → やっている(今、おこなわれている) ある(存在する)→ あっている (今、存在する)
■となる。上は共通語にも見られるが、九州では存在の「ある」にも時制があるのだ。これはこちらの言葉で言えば、以下の二つに対応する。 やる → やりよぅ ある → ありよぅ
■というように、わたしは本当の九州言葉ではなく、いわば沖縄のウチナーヤマト口のように、独自に共通語化された言葉に日々さらされているのである。
■もうひとつ九州の人が共通語をはなすときの特徴は「です」の多用である。これは沖縄の「さぁ」みたいな感じで、とにかくむやみに語尾につけられる。九州ではこれが慇懃なのだ。 ですからですねぇ。(だから) なるほどですねぇ。(なるほど)
■「なるほど」というのは相づちである、こんなものにも「です」をつける。九州の人はこれに違和感がないかもしれないが、わたしにとっては「うんです」「はいです」みたいなもんだ。
■このようなわけでですねぇ、わたしの九州弁はですねぇ、磨きがかかるどころかですねぇ、共通語がですねぇ、どんどんですねぇ、変になっていく今日このごろですのですよ。
New▲ ▼Old |