[KOK 0267] こくら日記のトップページにとぶ 27 Feb 2006

悪石島で考えた無視しない関係性

 

黒潮の中に浮かぶ悪石島は予想以上に遠かった。もしかしたらこの島は日本で一番遠いところじゃないかしら。飛行機がないから船で行くしかない。村営の定期船は一週間に二回だけ、鹿児島港から出ているけど、それでも12時間もかかるのだ。

悪石島

異形の仮面神ボゼの島、悪石島。上陸したのは私と九州フィールドワーク研究会(野研)のメンバー6名。鹿児島県の鹿児島県離島振興協議会の助成をうけ、この島のこどもたちと交流をするというのが、私たちの目的だった。島の小学生は全員で10名。

悪石島

最近、野研では北九州市の小学校と連携してバヌアツ共和国にリコーダーを送るプロジェクトに取り組んできた。私も小学生たちを相手にする機会が多い。そんなわけで、ついつい島のこどもたちも街のこどもたちと比較して見てしまう。

礼儀正しく真面目なこどもたち。それが最初の島の印象だった。しかし大学生たちとペアを組んで活動を開始すると、子どもたちも緊張が解けたのか、ふだんの顔を見せるようになった。その結果、メンバーの誰しもが感じたこと、それは島の子どもたちの驚くほど個性的な振る舞いだった。

街の小学校ではちょっと考えられないくらいはっきりとと自己主張をする。それだけではない、そうした相手に対して実に根気強くつきあうのだ。とくに高学年の子どもたちは、適度に自分の意見を譲りながら、低学年の子どもたちの意見を上手にまとめていく。その交渉の手際は、そのへんの大学生よりもずっと大人びて見える。

島の先生たちの教育の成果だろうか。複式学級で学年をこえた関係が築けることも、子どもたちに年長者のよいモデルを与えているのだろう。しかしもう一つ気がついた理由は、彼ら自身が、自ら子どもどうしの共同体をどう維持するかという根本的な問題に関っているという点である。

小学生は10人しかいないのである。しかもいつも同じメンバーである。たとえどんなにわがままで、つきあいにくい相手だとしても、その人との関係を切ってしまっては、その共同体がぎくしゃくしてしまう。喧嘩しながらも一方で関係性をつなぎ止めておかなくてはならない。だから、どこまで相手に譲れるかを子どもたちはいつも考えているし、自分が譲れるからこそ逆に主張もできるのだ。

悪石島

街の小学校はどうだろう。あるいはいままで私が受けてきた教育はどうだったろうか?40人近くいるクラスで、たくさんの友人たちに囲まれた教室。先生が一番頻繁に声にする言葉は「静かに!」だった。極端な主張はクラス運営の妨げになる。なにかを決めるときの発言は、先生の覚えの良い子たちに任せればよい。学校で私たちが、何年もかけてしつこくしつこく教えられたことは、いかに自分を全体に合わせるかその訓練である。全体の意見が一致し、まとまっているクラスは「よいクラス」だと言われる。

両者の違いは一見わかりにくいかもしれない。街の小学校で求められるのは、島の小学校のような「交渉と譲渡」ではない。それとはまったく正反対の「抑制と諦念」である。限られた時間の中で多くの児童たちがいる現場では個別的な意見や個性にとことんつきあう余裕はない。むしろ個人を抑えて全体に合わせるように指導はすすめられる。

そして、特にここ十数年間、日本の小学校教育が発達させてきたもう一つの技法は、「黙殺」だった。北九州の小学校の総合学習の時間につきあいながら、良い先生と呼ばれる人がどんな風にクラス運営をしているのかを見せてもらった。確かに先生たちは児童たちにしばしば意見を求める。しかし、先生の頭の中にはあらかじめ答えができている。

わずらわしそうな意見は丁寧に排除し、用意されている結論に都合のいい意見を積極的に取り上げる。手間がかかる子どもは上手に無視をして、どんなに大声を出そうがまるでそこにその子が存在していないように振る舞う。しかし実際には「黙殺」「無視」といった言葉でイメージされるような殺伐とした光景はない。むしろ、とても親切そうに当たり障りがないように優しく真綿でくるむような教育。こうしたスキルはますます高度化し、良い先生はたくみにトラブルを回避しながら誘導していく。

こうした大人たちの技法に子どもたちが気づかないわけがない。子どもたちもまた、そんなところだけ妙に大人ぶって、「問題児童」を手際よくあしらう。だから子ども同士の目立った喧嘩やいじめは減った、先生があからさまに叱ったりする機会も少なくなっただろう。しかし、それは決して喜ぶべきことではない、衝突がなければ交渉も生まれないのだから。なにしろ先生が一番求めているのはクラスが静かであることなのだ。「静かなクラスですね」は皮肉ではなくほめ言葉だ。

たしかに多くの児童を抱える現場では、こうした教育はなかば仕方のないことなのかもしれない。いやそれどころか、都心を走る満員の通勤電車をみればわかるように、近代に生きる私たちにもっとも必要な技法とは、周りにいる人間を上手に無視し匿名の存在に仕立て上げることなのかもしれない。あわせていえば自分自身が無視されることを受け入れていくのも重要である。だから誰しも学校にいるうちに無視されることに慣れておいたほうがよい。そうすれば、無視されること自体に快感を覚えるようにすらなれるだろう。

悪石島

日頃、大学生たちの生態を見ていても、彼らの人間関係のスキルとはいかに存在を無視するか、あるいは無視されるか、に集約されているように感じることがある。無視するのが下手な人は上手な無視の仕方を友人から習い、無視されるのが下手な人は自意識を抑え現実を受容するようにカウンセラーからアドバイスされる。

しかし元来コミュニケーションの動物である人間は、そうした社会関係に完全に耐えられるような図太い心を持ってはいない。たてまえや社交辞令ばかりいびつに発達させてしまった学生たちは、自分の存在の希薄さを引き起こしている根本的な原因が分からず闇雲に悩み苦しむ。すでにその破綻はいたる所で生じている。対人関係に不安を感じるがゆえに、トラブルから遠ざかろうとし、社交辞令のマニュアルを求め、その結果さらに濃密な関係のスキルを磨く機会を失ってしまう。その悪循環の絶望的なまでの繰り返しである。

さて、島の子どもたちは個性的である、そうして成長した島の大人たちもやはり個性的であった。彼らはよそからやってきた異人に対し、すばやく相手の性格を読み取り、巧妙に関係性を作っていく。決してみんな仲良くというのではなく、はらはらするような衝突をしながらも共存する、ある種、非常に高度な駆け引きと寛容さに長けているのである。

悪石島

少子化が進んだときに日本の政府は教育費を削った。日本という国の将来を考えるときに、あれほど愚かな政策はなかったように思う。なぜ子どもの数が減っていくのにあわせてゆるやかに小クラス制に移行していかなかったのか。目的は教員の雇用の確保と教育水準の向上だけではない。小クラスという環境の中では子どもたちは互いに無視できない個有の存在になる。少子化によって兄弟関係も希薄になった子どもたちが将来に起こすであろう人間関係のトラブルを、事前に回避することのできる経済効果は計り知れない。

建設費や防衛費など日本の現在や将来におよそ貢献しない分野(このさいはっきり断言しておきます)の予算は、だましだまし増えているのに、教育費は議論にもならないうちに削減されてしまった。この現実を知らない人は、久しぶりに小学校をのぞいてみればよい。旧式の教材機器に、貧困な給食、教室の修復も十分ではない。まさに30年くらい前からほとんど変わっていないような懐かしい風景ではあるが、懐かしがってどうする?

はてさて経済発展を国是としているこの国は、じつはそのスローガンとは裏腹にすでに急速にやる気を失っているのだろうか?それならそれでもよいが。あとのことは知らんぞ。

ついでに「静かに」という言葉は、教育の現場では禁句にすべきだと私は思うぞ。これは教員が自分の能力のなさを表明するだけのとっても恥ずかしい言葉であるぞ。まあ書いているように、これは先生のせいじゃなくて環境の問題だから、そんなにいうのは厳しすぎるかもしれないどさ。

悪石島

島の話からすっかりそれてしまった。悪石島のヤギねたも星空露天温泉もヒッピー島も、肝心の子どもたちとの交流もひとつも書かないまま論を閉じることになる。島のおもしろ話はまた別の機会があればぜひ書きたい。一週間の島の滞在を終え鹿児島に帰った。港に着いたとたん、街の光が別世界のように眼に飛び込んできた。


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