[KOK 0265] こくら日記のトップページにとぶ 31 Nov 2005

海の砦(生々しく危険な地平)

 

水族館劇場北九州公演「月と篝火と獣たち」は、どのような演劇だったのだろうか。

テント芝居というとアングラ劇がイメージされることが多い。たしかに水族館劇場もまた70年代に勃興したアングラ劇の流れをくむが、しかしサイードの自伝を引く「はじめに野生の劇場ありき」という桃山邑の宣言は、むしろアンダーグラウンドな時代との決別を意味するものであろうと私は考えた。

これは桃山の「ポップな芝居」という発言にも端的にあらわれているが、水族館劇場は、野に身を置きながら、テンポが良くわかりやすい物語性を志向している。実際に、この演劇をアングラととらえようとした評論のことごとくは途中で評価の指標を見失い破綻している。水族館は決して大衆にこびているのではない、明瞭な物語性を批判することによって彼らの演劇の迫力が失われたと解釈するのはあまりに拙速である。むしろ難解で意味ありげなメタファーをふんだんにちりばめた、いわゆるアングラ劇が内包するある種の教条主義にたいする強烈な反発が、水族館にはある。

海の砦

徹底したリアリティ。生々しい野生のリアリティ。結論を急ぐようだが、水族館の目指すべき方向性のひとつがここにあるような気がする。

そうした現実味を演出するにあたり、今回の北九州公演で唯一の失点は、アイヌの物語を取り上げたことだと私は考える。この地方の人々にとって、北海道のアイヌはむしろリアリティというよりはファンタジーの世界を連想させてしまう(もちろん同じ日本でありながら北海道の現実が九州で共有できない事実自体、問題なのであるが。いやこれこそは大問題だよまったく)。

しかし、たとえばこれが韓国や中国と国境をかまえる現代九州の流れ者の物語であったならどうだろう。たとえば家船の民や在日異邦人。これらは実際の日常世界とあまりに生々しくつながる問題であるために、決して軽く扱うことは許されないが、それだけにこの地においてもっと緊張をはらんだ展開が期待されただろうにと思う。

海の砦

さて、意外に思われるかもしれないが水族館劇場の芝居をみて私がまず感じたのは、宮崎駿のアニメーションの世界であった。仕掛けに満ちた「海の砦」という芝居小屋自体、たとえば彼が描く「油屋」や「動く城」によく似ている。水族館の芝居が人気を得ているひとつの理由は、遊園地のアトラクションを思わせる迫力のある仕掛けであることは間違いない。劇中に実際の伝統芸能や大衆演劇や見せ物小屋を挿入し、3時間という長丁場の芝居でありながら見るものをまったくあきさせないのもそうした仕掛けのひとつだ。

宮崎駿はかつて映像アニメーションではなく紙媒体のマンガにおいて「風の谷のナウシカ」というきわめて整合性のとれた緻密な物語=歴史=神話を完成させている。しかし彼の映画作品は「紅の豚」を最後に物語性から遊離し、宮崎自体の欲望の露骨な表象である巨大構造物と美少女・美少年へと傾倒していった。皮肉なことに、この路線は言語や習慣など文化的な背景に依存しないファンタジーであると解釈され、娯楽として成功し各国で高い賛辞をうけた。しかしこれら近年の作品を私自身はあまり評価していない。

海の砦

私は「月と篝火と獣たち」以外の桃山邑の作品を見たことはないが、ホームページなどに掲載されている彼の文章を読むかぎり、そこにまるで絹糸を織り込むような繊細な作業を感じる。宮沢賢治、稲垣足穂の影響をうけたと思われる彼の詩的な言葉遣いは、耽美主義的なファンからの誤解を受けやすいが、単なるファンタジーに終わらない泥にまみれた土着の物語性がある。(先ほどつい失点と書いてしまったが、桃山の台本の描写は実によく調べられており、アイヌの現実を知る人にとっては決してファンタジーではないことを、ここであわせて付け加えておかなくてはならない。)

今回の芝居では主演女優が公演直前に落馬し、台本と配役を大きく書き替えるという事故があり、桃山は台本の終盤でそのつじつま合わせに苦戦した。ここで物語を宙づりにしたまま思わせぶりな伏線を残して幕を上げるという手法も選択としてあっただろうと思う。しかし彼はそうしなかった。その結果、複数のサイドストーリーが大河のように流れ込むはずのエピローグが冗長さを帯びてしまった。私は制作過程から立ち会っていたためだろうか、物語的な整合性と迫力のある舞台展開との葛藤の間で桃山がぎりぎりまで苦しんでいた過程が、観劇しながら痛いほど感じられた。

しかし、それは決して台本の評価を下げてしまうような破綻ではなく、むしろよくぞここまで話を持ってきたという共感とともに、見るものの心を驚嘆させ激しく揺さぶるものだった。一期一会の芝居、野生の演劇の真骨頂を感じた人々は、すし詰めの桟敷に座ったまま物語の終演を望まずわくわくしつづけた。おそらく桃山自身も予期していなかったことだと思うが、観客もまた物語をドライブさせるのだ。

海の砦

私は水族館劇場の仕掛け芝居が目指すべきものとして、ファンタジーやスペクタクルな活劇を求めているわけではない。せっかくの野生の演劇が、大衆演劇の人情物や、飼い慣らされた役者たちの調和のとれた物語に堕してしまっては元も子もない。

だからといって反権力の旗のもと演劇の理念性を極めてほしいとも思わない。演劇に限らずカリスマ的な代表がひきい強固なメンバーシップを誇る組織が、権力や支配に抵抗し戦いながらも、結局勝利の暁を前に同じ轍を踏んでいく、そんな歴史をたくさん見てきた。

ここで私ごときがお願いするのは僭越にすぎるが、桃山をはじめ水族館の自律的な役者たちは、さらに伸びやかで柔軟な舞台を展開し、調和をも権力をも超越した危険(クリティカル)な地平を目指してほしい。生々しい野生のリアリティ、それが土着の力である。遊撃戦こそがわれわれの未来をひらくだろう。共に闘わん。


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