[KOK 0225] 12 Mar 2003

大学で映画を上映することの意味


【チョムスキーはなにを語るのか? 】

今日あなたのうちに届けられた新聞にはなにが書いてありましたか?たまたまつけたテレビの画面にはどんな風景がうつっていましたか?高度な情報化の時代といわれながら、見聞きする情報はどれもあまりに似通っていて場当たり的で、知りたいことにちっとも答えてくれないのはなぜなのでしょう?「どうして、また戦争がおきるの?」。あなたは、それを考えたいだけなのに。

この映画の中でチョムスキーは静かに力強く語ります、「自由の国」アメリカが、その歴史のなかで弱く貧しい国々に強権的な暴力を行使してきたたくさんの事実を、そしてその事実がいかに美しい言葉にすり替えられてきたのかを。

生成文法という理論によって人間の言語能力の背景にある普遍性を説明しようとするチョムスキーは、同じようにその緻密な思索と豊富な知識によって、政治や戦争について時代や国をこえた普遍的な法則を解き明かします。たとえば彼は世界政治における商業メディアの利用に注目します。多数のメディアを利用して巧妙に情報を操りながら、みせかけの正義や正当性に訴え人々の危機感があおられるのは、なんのため?

チョムスキーが批判するのは一つの国家としてのアメリカだけではありません。アメリカ的なるものは今や世界を覆い尽くそうとしています。一部の大金持ちの利益のために世界の政治が動かされ、このゲームでは世界の大多数の人が損をするのが解っているのに、誰もそのゲームから降りられない。

感情論に流されがちな政治論議の中にあって、公平と自由を装って世界を侵食する「市場」というゲームの狡猾なメカニズムについて、チョムスキーは理性的に分析していきます。その語りは、目から鱗が落ちるような新鮮な体験です。

【なぜ大学で上映するのか】

みずからも言語学者としてアカデミズムに身を置くチョムスキーは、制度化された学問が政治の中で果たしてきた「役割」を痛烈に批判しています。大学の学問はいったいなんのためにあるのでしょうか?資格のため?就職のため?大学が与えてくれるそんな権威がほしくて人はここに集まるのでしょうか?

しかし、学問という重く苦しい経験は、飽くなき知的好奇心なくして続けられるものではありません。

今年はじめて大学に入ったばかりの人も、一度大学というものをのぞいてみたい人も、すでに大学の中で長い時間を過ごしている人も、大学という場でなにがおこなわれているのか、そしてここでなにができるのかをもういちど考えてほしいのです。

もちろん上映実行委員会のわれわれも考えたいのです。わからないことを知りたいのです。そう、好奇心のうずきに耐えられないのです。この映画が映画館ではなくて大学で上映される理由は、ここは考えたり語ったりすることが好きな人があつまる場所だからです。

【映画を通して考えたいこと】

映画のあと講演会を準備しています。しかし専門的な立場から一方的に情報を伝えるような講演会にしたくはありません。この講演会は演者のそれぞれが違った角度から映画を掘り起こし、それを自分なりの言葉で語り合うものにしたいと考えています。グローバル化するメディア支配に対する抵抗は、周縁からわきおこる「小さな声」に始まると信じるからです。

映画のプロデューサーの山上さんはこう書いています「この映画は、これから私たちが何をすべきかということについて答えを提示するものではありません」。なんと!答えはないのです。

チョムスキーは言います「『繭』の外の声を聞くのは難しいことではない」と。

なんども繰り返しになりますが、この映画に求めているのは「知ること」です。それは、ひとりひとりが「どうして、戦争がおきるのか」を考えるために避けて通ることのできない作業なのだと思います。

この映画と講演を通して、すこしでも多くの好奇心豊かなみなさんとともに「知ることの力」を体験できればと願っています。

▲  [kok0226]

大学で映画を上映することの意味
[kok0224]  ▼


© TAKEKAWA Daisuke