関係性のインターフェース

[KOK 0191]

12 Nov 2001


前回の「関係ない」の続きである。あの一文をめぐって「性と死と快楽の人類学者」H氏とのあいだ短いやりとりをかわした。そのやりとりのあとで、ここ2年くらい続いているぼくの思索に関して一つの突破口になりうる考え方に思い至った。

もしかするとこのアイデアはここ10年くらいのうちに社会科学のありかたを変えうるかもしれない。(なーんて、とりあえずぼくのオリジナルで、かつ知る限り初出のアイデアではあるし、まあ、ここではできるだけ大風呂敷を広げおこう)。非常にラフな形ではあるが、ぜひ、その記念すべき到達点をここに書きとめておきたい。

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人類は、その歴史的時間のほとんどを人口がせいぜい100人程度のちいさな共同体の中で狩猟採集生活をしながら生きてきた。定住的な農耕社会がこうした狩猟採集社会にとってかわったのは、ぜいぜいここ1万年以内の出来事である。世代にすれば400世代、これはひとつの種が遺伝的な変化をおこして、新しい環境に適応する時間としては、決して十分な長さとはいえない。

つまり、人類はいまだに狩猟採集をしながら小規模な群れ生活をするのに適した身体と認知能力に依存しながら、現代のこういう時代を生きているのである。

人類を万物の霊長に位置づけその知恵を無限で万能なものだと誇る前に、こうした生物としての制約を十分に検討し謙虚に理解する必要があるのではないだろうか。

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人類は近年になって莫大なエネルギーを利用する方法や、大量で高速な情報処理を可能にする科学技術を発明した。しかし、それをあつかう生身の人間の身体的能力は、石器時代からさほど変化していない。したがって、複雑で強力な新しい技術を使う場合には常にその技術と人間のあいだにしかるべきインターフェースをつくることが必要となる。

たとえばそのインターフェースとは、核ミサイルを発射させるための「ボタン」であったり、パワーシャベルを動かす「レバー」であったり、コンピューターに指令を与える「コマンド」であったりする。こうしたインターフェースと実際の機械の働きとのあいだには必ずしも直接的な関連性がなくてもかまわない、しかし、ともかくそうした翻訳をへなければ、限られた身体能力しか持たない人間は、文字どおり身にあまる巨大な力を制御することができないのである。

人間の身体(とくに手や顔)が得意とする動作には、たとえばボタンを押す、レバーを引く、ハンドルを回す、指さす、触る、言葉(コマンド)をかわす、見る、聞くなどがある。幼児用の玩具をながめれば、こうした動作が人間にとっていかに基本的なものであるかよくわかる。

そして一般的に、進化の過程でより原始的な動作に依存するインターフェースの方が、より人間にとって理解しやすく(これらはしばしば「直感的なインターフェース」と表現される)誤操作がすくないようだ。その好例が、コマンドを与えるかわりに(画面上のヴァーチャルな)ボタンを押す方向に進化した近年のコンピューターオペレーティングシステムである。

たしかにインターフェースはヴァーチャルな存在であり実体としての「力」そのものではない。しかし、インターフェースは拡張された身体として「力」と等価の象徴になりうるし(核ボタンを押すという表現は核兵器を発射爆発させることを意味する)、優れたインターフェースとは(理解が困難でつかみ所のない「力」そのものの作用以上に)よりリアルに人間にその「力」を実感させることができるものだ。

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さて、身体と技術におけるインターフェースの話は、この辺にして、いよいよアイデアの核心にとりかかろう。ここまで見てきたような身体的な制約とまったく同じことが、人間の認知的な能力にもあてはまるのではないかというのが次の話である。人間の身体器官から脳だけを特別視して身体と区別する理由はどこにもない。脳もまた他の身体と同様に生物学的な淘汰にさらされながら進化してきた以上、その能力も環境よるバイアスから逃れることはできない。

つまり「人間の認知能力はせいぜい100人程度の集団で群生活をしながら狩猟採集社会をつくるために最適化されているのだ」という仮説をあらためてここに強調しておきたい。

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現代のわれわれの社会活動はすでに地球レベルに膨張し、数百万人を動かすような政治権力や、何億人もの人々の生活に影響をあたえる経済活動が可能になっている。しかし先の仮説に従えば、残念ながらわれわれはこれらの現場で実際に何が起きているのか理解するだけの能力を持ち合わせていないということになる。巨大化した政治や経済の「力」は、ちょうど核やコンピュータの「力」ように、そのままでは生身の人間の体(脳の認知)では制御できないほどになってしまっているのだ。

ここに出てくるのが、社会科学におけるインターフェースという考え方である。たとえばこのインターフェースのもっともシンプルな形は、国家を家族にたとえたり、戦争をケンカやイジメにたとえたりする類のものである。つまり、つかみ所のない「世界の関係」を日常的に理解できる「共同体の関係」に置き換えていく作業である。宗教や呪術、法、規範、政治機構、貨幣、国家、言語、道徳、常識といったもの(つまり社会科学が研究の対象にしているあらゆる「制度」)は、いわばこうしたインターフェースによるさまざまな翻訳の方法をさしていると考えることができる。

(たとえば子供にいま世界で起きていることを説明するときの事を考えて欲し い。そんなときたぶんだれもが、複雑な話を子供たちが体感的に知っている日 常の事象に置き換えて説明すると思う。こういう作業がいわば社会科学のイン ターフェースである。どれほど賢い人間であっても、茫漠と広がる現代社会の 前では、いわば世間知らずな子供のようなものである)

われわれは世界規模で複雑に関係しあう現在の社会の中で、こうした思想的インターフェースを手がかりに、かろうじて理解可能な人間関係を築いているのである。

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それではこうした「イデオロギー」=「想像の体系」を、いわば社会科学におけるインターフェースであるととらえ直してみることによって、次にどんな展開が可能になるのだろうか。もっとも有効なターゲットのひとつは、ポストモダニズム以降の本質主義と構成主義の泥沼の戦いである。

イデオロギーや社会制度の虚構性を暴いたという点ではたしかにポストモダニズムは一定の成果をあげた。しかし、それは同時にすべての価値を無力化する相対主義的虚無感を生み出し、政治的な戦略にすぎないあるひとつの構成主義的立場によって、対立する本質主義的視点を一方的に退けるような極端な主張を生み出した。(ありがちな例としては、あらゆる社会的性差をジェンダーに還元するあまり、人間の脳の生物学的な性差の存在まで否定してしまうトンデモ本に載りそうな主張がそれである。)

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「想像の体系」を一種のインターフェースであると仮定すれば、ある社会的な制度やイデオロギーが虚構であるかどうかは、もはや問題ではない。核兵器を発射させるボタンそのものが核分裂をしないとしても、そのボタンはインターフェースとして核兵器の一部である。たとえボタンという存在を核分裂とは無縁のヴァーチャルな象徴であると暴いてみたところで、それによって核兵器の本質性(核分裂)まで消し去ることができるわけではない。

社会科学のインターフェースは、技術工学のインターフェースと同様に、構成的虚構であると同時に本質的現実でありうるのだ。

今のわれわれの生活は、政治的にも経済的にも、アフガニスタンの難民や、世界のどこかで活動するテロリストや、アメリカがおこした戦争とまちがいなく関係しているはずなのだが、それがいったいどういうたぐいの関連性なのか、丸ごと「体感」することは残念ながら極めて困難である。そしてたとえどんなにすぐれた政治家や哲学者であっても、彼が人間である以上この限界はほかの人とすこしも変わりない。

われわれにできることは、現実と生活的な実感のあいだを橋渡しする優れたインターフェースをつくることだけである。この場合、背景にある本質とどれほど違った姿であっても、本質を有効に解釈し制御することを可能にすれば、それはそれで優れたインターフェースであるといえる。たとえばコンピューターが実際におこなっている電子的な演算(=本質)が、画面上のアイコンの動きとといかに異なるものであっても、アイコンを操作することによってコンピューターをうまく制御できるのであればそれで十分なのだ。

100人程度の集団で群生活をしながら狩猟採集社会をつくる能力。それがいったいどのくらいの程度ものであるのかをもう一度思い返してみよう。狩猟採集民の人間関係を研究しているぼくの実感からいうと、それは未知の可能性を多分に秘めたそれなりに深い能力ではあるが、同じ人類として生きている僕にとって決して理解不能なレベルではないと思う(これについてはいずれどこかで詳しく書こう)。「『解る』ということとはなんなのか」という素朴な問い(ぼくのライフワーク)は、結局人間の生物学的な社会認知能力の限界と可能性を明らかにすることにあるのかもしれない。

いつの時代でも宗教や政治は、その時々の人間活動の規模にふさわしいインターフェースを模索し提供してきた。今のわれわれにはどんなインターフェースがあるだろうか。コミュニズムやナショナリズムやリベラリズムなどの一世代前のインターフェースは、操作がとても難しく、ともすると暴走しがちであることがすでに経験的に解っている。しかし、いまのわれわれに必要なのは、こうしたインターフェースの虚構性を暴くことではなくて、世界の片隅で起きている弱き人々の惨状を、日常的な感覚で解るようなより優れたインターフェースをつくることではなかろうか。(コンピュータでは最新のインターフェースを求めたがる人々が、なぜか社会科学では50年も前のインターフェースに固執するのかとても不思議である)

複雑な社会の現状に対する理解は、すでにどれほど膨大な知識と分析力がある政治や経済の専門家であっても到底ひとりの人間の手に負えるものではない。しかし、その現状を判断し有効に操作するだけなら、誰にでも使える簡単なインターフェースがあればこと足りるのである。(そう、ちょうど多くの人がコンピューターの原理なんて全然解らなくてもワープロソフトをつかるように。)そして、優れたインターフェースとは、決して一面的で画一的な説明を促すものではなく、むしろより多様で創造的な解釈を生み出すものである(クリエーティブな人にとってインターフェースってとっても大切でしょ?「弘法は筆を選ぶ」「単純なインターフェースが簡単とは限らない」)。

むろんインターフェースはあくまでもインターフェース(=表象)である。だから、その虚構性(本質との違い)を十分認識しながら、現実にたいして誤りが少なく(たとえば、他人に対してひどいことをしないような)、なおかつ効率の良い(つまり的確に反応する)インターフェース(=界面活性剤)を「便宜的」に利用すればよいのである。

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われわれの生活世界の中にある日常的なリアリティと、世界で起きている現実がいかに乖離したものであろうとも、身近な生活感覚から世界を語る意味や可能性が多分ここにあるはずだ。

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Takekawa Daisuke