儀礼としての戦争

[KOK 0188]

05 Nov 2001


【無辜】
わかりました、罪もない人々を死に追いやった行為に報いるための戦いを認めましょう。ただし、その戦いの際、一滴たりとも罪もない人の血を流してはいけませんよ。(ベニスの商人より改訳)

ロール

テロは非日常だが戦争は日常だ。今日もアフガニスタンの人々はアメリカによる空爆の恐怖に震えている。いま自分がいる場所から、この事実の意味をまじめに考えること、それは、加害者側にたつ人間としての最低限の道義だろう。

皮肉なことにゲリラやテロは、もともと近代国家による「殲滅戦」に対する抵抗として生まれた戦法だ。いかなる理由がつけられていようと、20世紀に起きた大量虐殺は、ドイツ、日本、アメリカ、ロシア、中国、カンボジアなどの「近代国家とその軍隊」よって引き起こされたという重たい現実から目を背けることはできない。孤独なテロリストよりも、多くの国民が支持する国家の方がいつだってよほど残酷なのだ。

国家vsテロリズムという構図は、覇権主義を擁護する側にとってまったく都合の良いものの見方だろう。案の定、アメリカの尻馬に乗って、中国は新疆ウイグル自治区を、ロシアはチェチェン共和国を、イスラエルはパレスチナ自治区を、インドはパキスタンをテロ集団であると非難しはじめた。当のアメリカも、すでにテロ国家はアフガニスタンだけではないと明言している。

お菓子

あるMLで、「軍隊をもたない国家など世界のどこにもない以上、非武装は非現実的である」という主張が流れていた。こういう主張は、いろいろな場所で見かけるが、そもそも事実として正しくない。ソロモン諸島国は独立国だけど、ぼくの記憶ではたしか軍隊を持っていなかった。

気になったので調べてみた。こういうときぐらいしかお世話になりたくないけど、CIAのサイトには各国の国勢資料がそろっている。 [Field Listing] から [Guide to Fields]をえらび、[Military - note] [Military branches] [Military expenditures]を表示してみよう。

コスタリカやアイスランドは軍隊を持たない国として日本でもよく知られているが、それ以外にファロエ諸島、ハイチ、キリバス、ルクセンブルグ、マーシャル諸島、ナウル、サモア、ソロモン諸島、ツバル、バヌアツなどの国々が、常備軍をもたない国(no regular armed forces)としてあげられている。備考の項目(Military - note)には、自前の軍隊を持たず他国に守ってもらう条約を結んでいる国のリストがあるが、それを含めれば軍隊を持たない国の数はさらに増える。

これらはほとんどが太平洋に浮かぶ小国であり、ぼくにとってはなじみの国々ばかりである。こうした地域は他国から侵略されるおそれが少ないというより、わざわざ軍をつくる経済的余裕もないし、つくったところで大洋に散らばる島々を守りきれないという現実がある(本気でやろうと思ったら国民よりもたくさんの軍人が必要かもしれない・・)。

ついでにこの資料でもうひとつひときわ目を引くのが、一番最初に出てくるアフガニスタンである。「国家を基盤にした軍隊は存在していない」そう書かれている。
Afghanistan: NA; note - the military does not exist on a national basis; some elements of the former Army, Air and Air Defense Forces, National Guard, Border Guard Forces,

アフガニスタンは国家としての軍隊がないと認識されている以上、理屈の上ではアメリカになにをされようと、アメリカに対して戦争という儀礼で返すことができないのだ。

気球

さてもうひとつ、非武装の話になると、国連が認める国の固有の自衛権を根拠に、軍備の必要性を説く主張もよく目にする。しかし、これにもいささか論理上の無理を感じる。たとえば国ではなくて個人の権利に置き換えて考えれば、この主張のどこが変なのかすぐにわかる。

国と同様、われわれには誰しも「自分の命を守る権利」が認められている。この権利を保障するために、たとえば「個人が防衛のためのだれもが銃を所持できるようにすべきだ」というのが先の論理である。

しかし実際には、世界には個人による銃の所持を認めない国が多い。では、こうした国々では「自分の命を守る権利」はないがしろにされているのだろうか?そんな理屈にはならないだろう。むしろ事実として、誰もが銃をもてるアメリカのような国の方が、よほど個人の命が守られていないようにみえる。

そもそも軍隊を持つことは、ほんとうに国家や国民全体の安全を保障することにつながるのだろうか。いまの時代に、もし国家に対する脅威があるとすれば、どんな事態を想定すれば良いのだろうか。

この辺の問題をはっきりさせるために、経済的な不利益と利益もさることながら、安全面からの弊害と利点もふくめて、軍隊を持ち戦争を行使することのコストとベネフィットを、きちんと考えなければならない。

実は先のソロモン諸島国は一時期軍備を検討したことがある。それはこの国で島どうしの内戦が起きたときである。皮肉にもこの事実からわかるように、軍隊がもつ銃の先は、時に自国民に向けられているのである。

軍隊というと、どうしても外敵と戦うためというイメージが強い(たぶんそういう姿が意図的に喧伝されている)、が実際には、悪名高い日本の憲兵やドイツのゲシュタポ、東チモールにおけるインドネシア国軍など、軍や軍と結びついた秘密警察が特定の政治権力を背景に、「自国民」に危害をあたえる形で「治安維持」をおこなう例はいくらでもある。内乱という「脅威」に対する軍事の利用は文字どおり両刃の剣である。あなたはもしかするとあなたを守るためにつくられたはずの軍隊に殺されるかもしれない。

さて、それでは「外敵」に対する効果はどうなのだろう。いまの時代、軍隊をもつことで、あらゆる「脅威」や「攻撃」を防ぎ、国を守きれるのだろうか。世界最強の軍事国といわれるアメリカといえども核ミサイルの先制攻撃をふせぐ技術すらいまだおぼつかない。そして今まさにアメリカを戦々恐々とさせている生物兵器や化学兵器はどうだろう。たとえ戦争に勝つことができても、その結果、国家が恒常的に脅威と不安にさらされる事になるのであれば元も子もない。

たぶんすでに多くの人がうすうす気づいているだろうが、いまや他人の命を救うために、危険性を甘んじて背負っている人々は、軍人ではなく消防士なのである。先進国の社会においては軍人よりも消防士の方がよほど死の危険性が高いかもしれない。だから、仮に軍隊をなくしたとしても、軍人たちの失業問題を心配する必要はない。人殺しのための訓練やその高価な道具に使う予算で、人の命を救うための精鋭のレスキュー隊を創設すれば、軍人たちの生活や誇りは多くの人の感謝とともにしっかりと保証されるだろう(実際これまでの自衛隊の活動のほとんどが災害救出のためのものであったのだから、これは決して無理な話ではなかろう)。

ハクチョウ

では結局、戦争によって可能なことはなんなのだろうか。多くの人の命を犠牲にした連日の激しい報復は何を意図しているのだろう(ようやく今日の本題にはいる)。

とても国際面のニュースにはならないが、ソロモンやニューギニアのような社会でも、村や言語グループ(部族)のあいだで戦争がある。こうした戦争は、女が寝取られた、豚がころされた、呪いをかけられた、土地を取られた、などの理由で起きることが多い。そしてこれらの戦争ではほとんどの場合、相手方のだれか一人を犠牲にして終わり、先に仕掛けた方が勝つ。

戦争というほどではないが、ぼくもソロモンで実際の村どうしの諍いを目の当たりにしたことがある。ふだんは穏和な村の男たちの表情が一変した。刃渡りが1メートルにもなるブッシュナイフをもって、船着き場に集まっていたとなりの村人達に襲いかかっていく。たまたまぼくは隣村の人々と一緒に船着き場のまん中におり、殴り込みをかける村の男たちを正面から迎えることになった。

抜刀した数人の男たちは、横一列に広がって迫ってくる。こっけいなことに、その瞬間ぼくは「これは止めなければいけないのではないか」などと無茶なことを考えていたのだ。しかし村の男たちは、おろおろするぼくには目もくれず、隣村の男たちにむかっていく。女や子供は悲鳴をあげてしゃがみ込み、隣村の男たちもまたふってわいた急襲に抵抗もできず、次々に海に飛び込んで泳いで逃げていく。

半時間も過ぎただろうか、隣村の男たちはあらかた逃げ切った。襲いかかった僕の村の男たちは、勝ち鬨を上げて凱旋する。一方的な勝利である。そして実は、あんなナイフを振り上げながら、カヌーが一つ壊されていただけで、ほとんど誰も傷つけてはいなかったことが後になってわかった。すべてが終わった後に、おもむろにチーフが登場し、隣村に賠償をもとめる使者を送った。

こうした「戦い」は確かに暴力によるコミュニケーションを指向するが、現実には多分に儀礼的な行為であるように感じた。決して相手をとことん打ちのめしたり、全滅させることが最終的な目的ではないのだ。それを知らなかったぼくは、怒り狂う男たちを前にひたすらおびえ、うろたえるばかりだった。

その時の諍いの原因は2年前から続いていた土地争いであった。こうした事態が起きたときに共同体や氏族の中の不満や葛藤を解消するために戦争は準備される。そして、戦争が終わり、賠償の手続きがなされるとともに、まるで何事もなかったかのように再び隣村との交流が始まる。

cawsworth

さて、ここでもう一つのエピソードを紹介したい。

半月ほど前、ぼくはイギリスのマンチェスター郊外に住むソロモン人の友人ビショップ・ウイリーのうちに遊びに行った。そこでは、相も変わらぬ心温まる歓待を受けた。そして夕刻にいつものように雑談や噂話にふけっていると「第二次世界大戦のビデオをみつけたのだけど見ないか」とたずねられた。

それはナショナルジオグラフィック社が編集したガダルカナル海戦に関するドキュメンタリー映像だった。「残酷なシーンがあるから子供たちは二階で遊ばせた方がいいよ」そういって子共たちを二階においやるとウィリーはビデオのボタンを押した。

映像は、現在の戦跡調査の様子と、両軍によって戦時中にとられた記録フィルムを重ねながら、当時の状況を淡々と再現していった。昔の映像は意外なほど鮮明で、今のわれわれとほとんどかわらない様子で、戦いの合間に楽しげに野球などの余興にふける日本人やソロモン人アメリカ人たちの姿を映し出していた。しかし映画の中の状況とわ れわれの住む世界には、想像を絶するほどのギャップがある。

それぞれ日本とソロモンに生まれた僕とウイリーがイギリスで再会し、暖かい部屋の中でソファーにすわりながら紅茶をすすり、ガダルカナル海戦のビデオを見ている。もし生まれた時代がわずか半世紀ずれていたら、ぼくは彼と戦場で出会っていたかもしれないのだ。

そして・・・、口にした紅茶の熱さも忘れてしまうような恐ろしい映像が、このビデオの中盤から展開しはじめた。戦いの火蓋が切られたのだ。

一木支隊。太平洋戦争の歴史に興味がある人ならば一度は耳にしたことがある名前だろう。1942年8月20日、約2000名の兵士からなる一木支隊はガダルカナル島にあるルンガ(ヘンダーソン)飛行場を奪回するために決死の総攻撃をかけたと戦史は語っている。よく21日朝、全滅した日本兵士の死体は海岸を埋めつくし、あたりは血で真っ赤に染まっていたという。

その一木支隊の攻撃の様子を記録した映像が残っていたのだ。アメリカ軍は、トーチカの中から機関銃を連射するかたわらで、カメラをまわしてその一部始終を撮影していたのだ。

テレビの中には、ジャングルの中から銃剣をもって飛行場内にあらわれ、やみくもに突撃してくる 日本兵たちがいた。しかし彼らは、アメリカ側の切れ目ない機関銃の弾幕を前に、わずか数メートルを前進する事すらできず、一方的にばたばたと倒れていく。日本人は森の中から、これでもかこれでもかという感じで次から次にあらわれる。そして、みな、おどろくほどあっけなく、その場に倒れこみ折り重なっていく。

カメラの望遠レンズは一人一人の兵士の表情までとらえている。もだえ苦しむわけでもなく、何が起きたの考える時間すらなく、体内を撃ち込ぬいた無数の小さな弾丸によって、ただ無表情に死に向かう。

それは攻撃と言うよりは、自殺だった。いや、正直なところ自殺の重みすらない。今ここでひとりの人間の一生が終わってしまったのだという感傷にふける間もないほど、ひたすら「自動的」な出来事だった。戦いの残酷さを死者の数で語ることにどれほどの意味があるのか解らないが、たとえば一分に一人を殺しても、600人を殺すには10時間かかるという単純な計算くらいはできる。数百人の人間がただ一方的に殺されていく映像。それが奮戦とよばれたこの突撃の姿だった、

なにをどう考えても、映像の中に記録されているものは、敵に勝とうという行動ではなかった。「すごいね」沈黙して画面に食い入るぼくに、ウイリーはいう。「ソロモン人にはできないね」。あの日本人たちは何をやろうとしていたのだろう、どうしてこんな事になってしまったのだろう。日本人であるぼくは、死んでいく一人一人の男たちが死に到るまでに出会ったはずのさまざまな人々の人生まで想像する。たぶんその中には今も生きている人がいるだろう。しかし彼ら自身の生は、彼らが愛する人々の生活とは全く関係のないこんな場所に、うち捨てられるためにあったのだろうか。

bishop

以前、こくら日記のナショナリズムの項で、ぼくは「ナショナリズムは、人々の不満を消し、痛みを消し、幸せな幻想を演出する、いわば政治の麻薬だ。麻薬もナショナリズムも度が過ぎると中毒を起こす。」と書いた。

戦争というのは、まさに麻薬に中毒し、すでに痛みすら鈍くなり、朦朧とした状態をさすのだろう。勝とうなどと思わなくても戦争はできる。戦争をしていることそれ自体が、人々の不満や痛みをやわらげてくれるのだ。

かつて欧米のブロック経済によって引き起こされた不況の痛みを乗り越えるために、日本は戦争に踏み切った。その結果はどうだったか、歴史に「もしも」はないとしても、完膚無きまでに壊滅させられた戦後の惨状と比較すれば、たとえどんな理不尽な不況であってもそれに耐えていた方が、経済的にはよほどましだっただろう。

日本は軍隊を持たないと他国から侵略されるのだと本気で心配している人がいるらしい。しかし、ろくな資源もない極東の島国を支配したいという無謀な国が今の世界のどこにあるのだろうか。日本における唯一の資源が日本人の手による技術力なのだから、人々を排除して日本を支配してもなんの意味もないだろう。

いやいや、むりに仮定の話などしなくてもいい。日本は、実際にすでに国土の多くを焼き尽くされ他国に侵略されたのだ。そのとき軍隊は国民を守れなかったばかりか、国民をより危険な道に導いていく元凶であった。そしてこの時代においては、自国の軍に支配されるよりも他国に侵略された状態の方が、結果的によほどましだったのだ。これは決して敗者の卑屈なものの見方ではなく、戦後の日本を見たときに多くの人が認める皮肉な現実であろう。

アメリカや日本は自国の痛みをそらすために戦争に走った。いつの時代でも欲求不満のはけ口を求める人々は、そこにいくばくか希望を感じて、正義が示される時がきたと、わくわくしながら喝采するのだろう。しかし、戦争によって痛みの原因そのものを取り除くことは決してできない。痛みを感じなくなったのは単に麻薬の作用である。痛みの原因を取り除くものは、地道な作業の積み重ね以外にない。

そう、拳を振り上げるのは、なにも相手を闇雲に叩きのめすためばかりではないのだ。日常世界の話であれば、平手でほおをペチリとやるほうが、股間を思い切り蹴り上げるよりも、時により有効な場合があることくらい誰でも知っているのに。

怒りや憎しみをおさめるにはそれなりの儀礼が必要である。長い人類の歴史を通じて、戦争とは常にそうした儀礼の一つであった。しかし近代合理主義は、儀礼の象徴性や虚構性をあざわらい、より「効果的」に相手を殺すための強力な武器を造り出していった。殲滅戦、ホロコースト、無差別攻撃、粛正。儀礼性を失った「野蛮」な戦争は、麻薬に犯された人々による象徴性のかけらもない乾燥した死の積み重ねによってのみ贖われる。

お菓子

21世紀はわれわれの時代である。戦争の儀礼性をもういちど取り戻すか、あるいはナショナリズムという麻薬と手を切るか、それはわれわれのこれからの選択である。

ぼくは「沈黙は弱者の賢い処世術である」とうそぶく自称「弱者」がもっとも嫌いである。いじめがおきている状況において、沈黙を守っている者こそが、もっとも深くいじめに荷担しているという悲しい景色を、死ぬまで決して忘れることはできないだろう。そしてそれがどんな意見であろうと、自分の口からそれを発することではじめて世界の見え方は変わるのだ。

右翼や左翼とかいったレッテル張りを恐れてはいけない。そんな乱暴な言葉で二分されてしまうほど世界は単純ではない。レッテル張りをしたがる人の目的は、ただ相手を沈黙させたいだけなのだ。だからいわれのないレッテルを恐れて口をつぐむのは、レッテル張りをしたがる人々の思うつぼなのである。

誇り高き戦士は、戦争の儀礼性と尊重し、その象徴性を愛しているはずだ。そして自分の心の中に芽生えたナショナリズムをどう手なずけていくかという課題は、どんな立場に立とうとも、今を生きるすべての人々が自分で考えなければいけない問題である。

オックスフォードで始まった古くからのNPOとして知られるOXFAMは、現地で救援活動の際にアメリカ軍の攻撃を受けた。フランスの新聞はことしの7月にアラブ首長国連邦の病院でCIAのスタッフが入院中のビンラディン氏と接触していたらしいと報じ、アメリカからは世界貿易センターのビルの一つにCIAの隠れオフィスがあったことが報じられている。

ちょうど軍用機が爆弾と同時に食料を投下しているように、現実世界では、敵と味方の枠組みすら世間で思われているよりもずっと複雑なようだ。マッチとポンプを持っているのはほんとうは誰だ?ただ間違いなくいえることは、こうしたさまざまな事実が隠蔽されながら、すでにひとつの現実が選択されて、一方的な戦争が遂行されているということである。

おくればせながら、オックスフォードでも爆撃の中止をもとめる集会や張り紙を所々で見かけるようになった。日本ではあまり見かけない風景だが自分の家の窓に主張をかいてはっている人もいる。自らが口に出して述べること、そこから世界を変えるようという意思の表れだろうか。たぶんホームページもまた同じ役割をはたすのだろう。

以下は、前に案内をしたアメリカのテロ事件に関して 「それぞれの思いを伝えあいませんか・ちいさな声」というホームページに、ぼくが投稿した文章である。

【国際貢献】

日本の国際貢献が不十分だという英米の批判を憂いておられる首相に謹んで進言いたします。すばらしい秘策がございます。今これをすみやかに遂行すれば、我が国の武勇は広く世界に記憶され、高飛車な批判などたちまちのうちに霧散することでありましょう。

すばらしい秘策。それは、首相みずからアフガニスタンの最前線におもむき戦いの先陣を切るというものであります。狂牛病が発生した際に国民の前で焼き肉を食べた大臣よろしく、誇り高き民主国家の文民を代表し、ひとり空手に日の丸を持ち、戦場に揚々とそれを掲げるのであります。国民を鼓舞し国家を顕示せしめるには、まず万軍の兵より一騎の将であります。

欧米諸国が口ではいかに大仰なことを申せども、自由と民主主義の危機をかんがみ、首相が身をもって示されたこの勇気ある貢献を、まねできるものはありますまい。ただ刮目して恐れ入り、おのれの臆病を恥じるのみでありましょう。

畏れ多くも、首相に万が一のことあらば、国民一同、謹んでその御霊を靖国の杜に奉じたてまつり、以後、御国のために自らの命を捧げたお志が、死してまで浅薄な政治家に利用されることがないように、「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」という平和の誓いとともに永遠に封印いたしましょう。

このページに投稿されたたくさんの人の声は、国会議員たちの所にとどけられたようだ。手渡したときの議員の反応についての記載を読むと、国会議員たちがどの程度の認識で事にあたっているのかを知ることができてなかなか面白い。

どれほどの法学者が練り上げたものだか知らないが、日本の戦争参加を可能にするための布石となる「テロ対策特別措置法」はすでに国会を通ってしまった。しかし、戦(いくさ)の儀礼性を正しく認識していただくために日本の首相に献じたぼくのこの一文は、しっかりと呪詛の言霊を込められウエッブの世界に残るのである。

今日のこくら日記は、いろいろなエピソードを書き足すうちに自分でも驚くほど長くなってしまった。ここでむりやりまとめると「戦争というのは本来、振り上げた拳を納めるための儀礼であり、儀礼性が失われた近代戦はたとえ最強の軍隊をもってしても人々の命を守りきれない状態を生み出すだろう。そしてこういうときに自分の命を守るのは沈黙ではなく、あらんかぎりの知恵の中から言葉を模索し、それを発していく自分自身の声である」ということになるだろうか。

cawsworth

【おまけ】

インターネットにはさまざまな人の声が集まっているサイトがある。戦争に賛成すればウヨク・オウム、反対すればサヨク、理解不能ならデンパ系。こうしたサイトではまともな議論ができない人に限っておのれの破綻を隠すために相手にむけて乱暴にそんな発言を投げつける。こうしたやりとりに振り回されながらも、 時に状況を突き抜けるヒントになるような斬新な言葉も残されている。
「海亀広場」
「思想と言論の掲示板」
「問答有用」

もったいぶって隠してたけど、アメリカがいうビンラディン関与の証拠ってこんなもんだったのね。知ってた?いみじくもイギリス政府自ら告白するとおり裁判の証拠にすらならないようなしろもの。
「枝廣淳子・テロ事件/報復戦争への見解や手紙、記事など」

ここも比較的議論が活発そうなサイトである。というか妙な生真面目さといい、性に対するあけすけな興味といい、なんでも点数化したがるところといい、まるで中学生のようなノリのサイトである。嫌いではないが、ぼくがもっとも苦手とする女子学級委員タイプであろうか。しかも、なぜか戦争の話題はほとんどない。
「本源派の協働サイト」

いまさら紹介するまでもなくここも議論が活発なサイトである。議論というより言葉の掃き溜めか。たぶんテレパシーが使える人は、毎日こんな心の会話をきかされながらきっと人間嫌いになっていくのだろう。多くの人々が信じたがっているリアリティの驕慢な姿をのぞき見するのもよい勉強になるかもしれない。
「2ちゃんねる」

どちらにせよ組織というのがどうにも苦手なのだけど、組織的な枠組みの中から生まれてくる戦略というのも当然あると思う。
「Anti War」

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Takekawa Daisuke