カミカゼ

[KOK 0180]

12 Sep 2001


憂鬱なのは季節だけのせいではあるまい。テロではなにも変わらない。ナショナリズムついて書いた「こくら日記」を送った矢先の出来事だった。

昨晩、日本からMLをとおしてたくさんのメールが送られきた。そしてその中ではこんな事件があると必ず出てくる「にわか評論家」たちが、ニュースキャスター気取りで安全な場所から威勢のいいことを書き立てていた。ふだんはとても善良な一市民である彼らが、こんなときはどういうわけかいっぱしの憂国ナショナリストになる。いわく、「史上初の本土攻撃」「こりゃ戦争だね、駱駝乗りは皆殺し!?」「テロに屈しないという正義を信じるのみ」。そして必ず最後は取って付けたような「亡くなられた方々に追悼の意を表します」だ。

こんなメールなど読まなければいいのについ目にとまってしまう。そしてこうしたメッセージの背後に潜む無意識な残虐さに、不快感を通り越してひとり怖い気持ちになっていた。大方の世論は彼らと似たり寄ったりなのだろう。世界中でどれだけこんな言葉が飛び交っただろうか。憎しみと偏見にみちた力まかせの正義、そんなものに夢中になる多数の人々。そのことに考えをめぐらすだけでまた暗澹とした気分に落ちていく。

最近のイラクの空爆やイスラエルの軍事行動で何人の死者が出ているのかちっとも興味を示さない彼らが、ニューヨークを舞台にしたハリウッド映画ばりの事件には大騒ぎして食らいつく。情報化社会がどんなに進んでも人間の目は見たくないものは見えないようにできているらしい。たしかに「さあみんな見てくれよ」といわんばかりに世界一の高さのビルを倒したという点では、このイベントは成功なのだろう。だがしかしテロではなにも変わりはしない。

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廃墟

狂信的なテロリスト集団の犯罪であろうとニュースは語る。人々の頭に描かれているイメージは、たぶん映画に出てくる冷血で非道な悪役そのものだろう。首謀者とおぼしき人の名前もあがっている。むろんテロリストを擁護する気は更々ない。しかしテロは頭のおかしなテロリストだけでは決して起こせない。考えてもみて欲しい、だれが理由もなくこんな絶望的な悲しい自殺を志願するだろうか。狂気だけでは人は動かない。テロにはテロの論理がある。そして、その背後にはもうひとつのナショナリズムとそれを支持する多数の人々がいる。

Kamikaze Attacks in New York and Washington. これは当日のABC放送のニュースで使われていた見出しだ。一連の報道を通じて「今回の事件はアメリカの歴史で真珠湾攻撃以来のものである」というフレーズは何度繰り返されたことだろう。「アメリカは自由と民主主義をまもるために断固たる行動をとるであろう」この言葉、以前にどこかで聞いたことはないだろうか。

あの戦争から半世紀たったに過ぎないのに、まるで多くの日本人はきれいさっぱり忘れてしまっているかのようだ。今回の事件で多くのアメリカ人の頭の片隅によぎったのは、かつて自殺攻撃カミカゼを繰り返した狂信的なファシズム国家、日本の姿だ。欧米の映画に出てくる昆虫のような日本軍を見るまでもなく、あの時代に欧米人の目から見えていたはずの日本人の姿と、今日の中東のイスラム教徒にむけられるまなざしは、きれいな二重写しとなる(そして、それを感じてぼくはイギリスでいたたまれなくなる)。

当時、日本は狂っていたのだろうか。もし狂っていたのだとすればそれは戦争の首謀者だけではなかろう。それとも日本は狂っていなかったのだろうか。それを外国の人にどう伝えればよいのだろう。

テロや戦争は首謀者だけでは起こせない。国民は狂っていたわけでもだまされていたわけではない、国民の多数は戦争を望んだのだ。そう、この説明は正しいだろう。しかし、不幸なことに一億総懺悔の時代からことあるたびにしたり顔で引用されるこの言説は、つねに首謀者の責任を隠蔽するための方便として使われてきた。

アメリカという戦勝国が統治をスムーズにするために意図的に温存した首謀者の一人を、結局自分たちの手でまともに裁くことすらできなかった人々に、おのれへの批判を込めた上の言葉の重みを引き受ける資格などない。そして外からみた日本の姿は、先日の靖国騒動を見るまでもなく相変わらず不気味なナショナリズムがまとわりついた得体の知れないカミカゼの国である。

日本ですらそうなのだから、たとえば現在の中東のように、アメリカという一方的な覇者に対する憎悪や恨みをもつ人々が、自らのよりどころを宗教を基盤としたナショナリズムに求める気持ちはよくわかる。もともと、彼らにそれを植え付けたのは、欧米社会が全力で支援して建設したイスラエルというナショナリズムの権化のような国家だったのだし、アメリカが独占する石油への利権である。

しかし、やはりダメなのだ。ナショナリズムの問題を解決するために別のナショナリズムを求めてはダメなのだ。決死の覚悟でビルを壊したところで、今のアメリカにとっては、ニューヨークにメモリアルがひとつ増えるくらいのことにすぎない。そう、結局アメリカの一人勝ちだろう。

そして「テロをに屈することなく、アメリカは民主主義の自由と正義を守るため誇りを持って断固たる対応を取る」そんな勇壮な言葉に酔いしれている人々よ。この同じ言葉が、広島や長崎に原爆を落とし、ベトナムにダイオキシンをばらまいたこともあわせて思い出して欲しい。美しい言葉や心地よい音は、傷を癒すのではなく、痛みを感じさせなくするだけだ。

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虚構の街(レゴランド)

報復の歓声のうらでこれからさき間違いなく死んでいくであろう多くの無名の人々に思いを馳せながら、しかしどうすればよいのかわからないでいる。たとえナショナリズムとの縁を切ったとしても、少数者にはなんの力もない。テロをしようがすまいが、いずれ大きな力に押しつぶされて死ぬしかない人々がいる。ぼくもまたこの大きな力に荷担している。弱いものいじめは嫌いだ、徒党を組むやつも嫌いだ、子供のころからの叫びはまだつづく。そうして憂鬱の秋がしだいに深まっていくのを感じながら、なお一層気分が悪くなるのである。イギリスの空は精神衰弱と不定愁訴がよく似合う。

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Takekawa Daisuke