生態学的人類史の視点

[KOK 0160]

10 May 2001


昨日はオックスフォードでジャレッド・ダイアモンド(Jared Diamond)の特別講義があったので聞きに行った。"Guns,Germs and Steel"という刺激的なタイトルの彼の近著は、「銃・病原菌・鉄−1万3000年にわたる人類史の謎」という書名で昨年に日本語にも翻訳されている。

彼の本はオックスフォードの書店でもけっこう売れており、UCLAからわざわざ招待して講義を依頼するくらいだから、それなりに注目されているのだろう。

日本にいるときに翻訳されたものは読んだ。人類の歴史を自然環境との相互作用から分析し直すという内容で、なかなかおもしろい切り口の本だった。

狩猟採集生活から人類はいかにして牧畜や農耕に移行したのか、家畜化や栽培化がなぜ限られた地域でしか起きなかったのか、彼はその要因を人類の側ではなくて、与えられた生態的な環境の側に求める。そして、環境に適応するための狩猟採集と農耕牧畜のそれぞれのメリットとディメリットを分析しながら、歴史の進行を説明する。

あるいは人口増加と牧畜による感染症の増加によって多様な病原菌への適応をいち早く済ませた西ヨーロッパの人々が、その後、アメリカやオーストラリアに拡散したときになにがおきたか。端的に言ってしまえば、銃を持ち込んで戦争することよりも、自覚のないまま持ち込んだオタフクカゼやインフルエンザのほうがより先住民に壊滅的なダメージを与えたという説明である。

梅棹忠夫が昔使っていた言葉だが「文明の生態史観」という言い方がまさに当てはまるようなアイデアに満ちた本である。

昨日の特別講義では"Ecological Collapses of Pre-industrial Societies" 「前工業社会の生態的崩壊」というタイトルで、ひとつの文明が崩壊する過程を生態学的な要因で説明するというものだった。ジャレッド・ダイヤモンドの著書はどれもどこか大風呂敷でセンセーショナルな書き方をしているのが持ち味だと思うが、彼の話し方にもそれを感じた。

講義では、イースター島やアンコールワットの例を出しながら人間が定住をはじめた結果おきた人口増加と周辺環境の変化によって、どのように生態的崩壊はおきたか。また、こうした生態的崩壊を起こさずに存続した社会はなにをしてたのかを語った(日本びいきでもある彼は、日本を生態的崩壊を回避した社会の例にあげていた)。

そこでは外部からの情報や資源の導入や交換経済の拡大が、生態的崩壊を回避するためのひとつの手段として説明されていた。このあたりは最近はやりの環境論につながるところがあり、いかにも一般受けしそうな話である(だから、かえって、うさんくさい感じもしたのだが)。

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地球が電車に乗ってゴー(いい歌)

言語学的転回をへたポストモダン以降の人類学者にとって、こうした環境決定論的な話はおそらく我慢ならない物だろう。それだけに、彼の話がイギリスで受けていたのはすこし意外だった(それともフランスではなくイギリスだからこそ受けるのか)。

しかし、もし生態人類学がひとつのスタンスを持ちうるとしたら、彼のように人類の進化史や歴史に対してもっと積極的に大胆なセオリーを打ち出していくべきだろうなと、話を聞きながらそんなことを感じた。

進化論を見るまでもなく生物学の知見の単純な歴史への応用は慎重にあるべきだろうと思うけど、本質主義を批判しながら出口の見えない泥沼にはまっているよりは、こういう単純明快な立場から物をいう方が好感が持てる。なんてったって人間だって哺乳類の一種なんだからね。

家の近所で卵を暖めていたハクチョウのヒナが昨日孵りました。ハクチョウもカモの時と同様に、早朝に登場したヒナたちがすぐに川を泳いで巣を変えていました(やはり、水鳥にはそういう性質があるのでしょうか)。ところで、ヒナは同じ日に一斉に現れて移動したけど、みな同じ日に孵っているのだろうか。卵を産んだのはたぶん一日づつだと思うのだけど、一斉に孵るようになにか調節されているのかな?それとも早く生まれたヒナは巣の中に隠れているのかな?

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Takekawa Daisuke