おたくボランティア

[KOK 0142]

25 Jan 2001


このごろは、とても忙しいのでなるべく講演を受けないようにしている。けれど今回の到津のあたらしい動物園に関わる講演については、イギリス滞在中にメールで話がきたときに、ぜひやらせてほしいと即答した。

動物園のための講演として、最初にぼくが用意したのは「人は動物になにを感じるか」というものであった。お得意の狩猟採集民やアニマルセラピーの話を交えながら、子供はなぜ動物園が好きなのか、「動物愛護」と「自然保護」の根底にある思想を解説するといった内容である。これは「人類の進化」と「展示としての動物園」の歴史をからめたわりと大きな話になる予定だった。

しかし、もう一方でイギリスにいる間に考えていた「この国のボランティアのあり方」についての話も捨てがたかった。結局、公開講座の担当者との話し合いの中で、一般の人にはむつかしすぎる動物の話はやめ、シンプルにボランティアの話題で1時間あまり話すことになった。

しかも当初は、新しい動物園を運営するためにあつめたボランティアスタッフへの講習という予定だったが、いつの間にか話がふくらんで市が主催の公開講座として一般市民にも参加を呼びかけることになってしまった。

というわけで市民ボランティア公開講座「ボランティアおたく と おたくボランティア−勤労奉仕の美談から脱却しよう」は明日の金曜日、1月26日・北九州大学本館A101にて19:00から20:30まで。無料です。

以下、一足先に、講演のための原稿をこくら日記で配送する。これを読めば話の内容はすべてわかってしまうのだが、あまりお客が少ないとさみしいので、お近くの人はぜひ聞きにきてほしい。


slide

「ボランティアおたく と おたくボランティア−勤労奉仕の美談から脱却しよう」

slide

イギリスにいく直前の5月のことです。卒論のテーマについて話をしていてボランティアをしている学生から「自分は楽しくてやっているだけなのだから、自分のしていることを他の人からボランティアだとは思われたくない」という意見を聞いたときに、ぼくはなんだかとても不思議な気がしました。彼がしていた子供のためのキャンプ支援活動は、はたから見れば紛れもなくボランティアなのに、「それをボランティアといわれるには絶対違和感がある」と彼は主張していました。

「じゃあボランティアってなんだよ」ぼくからの逆の質問に、彼は「ボランティアというのは『いい人』が、みんながいやがること率先してやるもの」だと、そんな風に答えました。「『いい人』しかしないんですよボランティアは」

しかし、それもちょっと変な気がします。こんなことがきっかけで「ボランティアってなんだろう?」と、イギリス滞在中ずっと気になっていました。イギリスは日本よりもはるかにボランティアが浸透している国です。さまざまな社会活動の中でボランティアが活躍しています。イギリスでいろいろな話を見聞きするうちに、日本で一般的なボランティアに対する認識は、ずいぶん特殊なもののように思えてきました。

slide

通常、ボランティアの三要素としてよく取り上げられるのは、「公益性」「無償性」「自発性」の3つです。まず「ボランティアとは何か」ということを考える上で、この三要素についてじっくり検証していましょう。

slide

まずは「公益性」から。日本語の公には国や政府のニュアンスがあるけれども、英語でいえば公はパブリック(public)、「多くの人々」という程度の意味しかありません。公益性というのは簡単にいえば誰かの役に立つことです。その誰かという対象は、すべての人間ではなくて、ほんの一部の人でもかまわないわけです。

むろん誰かの邪魔になることは論外としても、となりの誰かの役に立つことが、まずはボランティアの要件としてあげられるということになります。このあたりをちょっと難しくいうと「他者存在の不可欠性」という感じでしょうか。この議論はあとで、もういちど検討しますが、ボランティアという行為は単なる自己満足ではなく、他者性が前提となるという点はしっかり押さえておかなくてはなりません。

slide

続いて「無償性」です。この「無償性」が指しているものを正確に理解するのは、意外にむつかしいことです。一般的に無償性というと単純に「報酬をもらってはいけない」という意味に理解されがちですが、実はそうでではないようです。たとえば多くのボランティアで交通費や代休が認められています。

「ボランティアにおける無償性とはどういう意味か」この問題を、より見えやすくするために話をすこし広げてみましょう。次のなかで、ボランティアとしてふさわしいと思うものについて手をあげてもらいます。

・公園の草が繁って不快なので草抜きをする
・罰として校庭の草抜きをする
・大学の推薦入試でボランティアでの実績を評価する
・大学入試に有利だからボランティアをする
・ボランティアのために代休を認めてもらう。
・仕事を休むためにボランティアをする。
・ボランティアをしている人に立派だねとほめる
・誉められたいからボランティアをする
・ボランティアのために必要な交通費をもらう
・お金もうけのためにボランティアをする

ここに上げた5組のペアのなにが違うのかといえば、最初と後では話の因果関係が逆転しているということです。後者の例はすべて、○○のためにボランティアンティアをするという形になってることに注意してください。

後者の例の問題点は、ボランティアの目的として、その行為そのもの以外の何か(代償)を求めているという点にあるのがわかります。ほかの目的というのは、たとえばお金や名誉や大学の成績などです。

つまり無償性とはわかりやすくいいかえれば無代償性ということであり、整理すれば「ボランティアの行為に対する報酬は、行為そのものによって得られるべきであり、ボランティアの外部の評価が代償となってはならない」ということになります。

これは、ボランティアを考える上で非常に重要なポイントのひとつとなります。無償性というのは、報酬をもらうかどうかが問題になるのではなくて、その報酬がボランティア行為の代償になるのかどうかが問われているのだということです。

そう考えてみると、たとえばボランティアを大学の単位として認めるとか、ボランティアを教育の一環に入れてしまうという発想にも大きな落とし穴があることがわかります。たしかに、「これまで地道に活動をしてきた人たちに光を当てるというのはよいことだ」という考えや、「より多くの人がボランティアンティアに参加する機会となる」という意見はわかります。しかし、ボランティアの本質が代償を求めないという点にあるということをよく自覚しておかないと、こうした外部の評価自体がボランティアの自滅させてしまう可能性があるのです。

さて「皆が嫌がってしないようなことをする立派な人」というのはどうでしょうか?その人はなぜ苦労してまでそんな大変なことをするのでしょうか?苦労が好きだからでしょうか?それとも嫌々、仕方なくでしょうか?嫌なことに対しては、人は結局、外部に代償を求めてしまいます。だからやはりこういうのはボランティアとは呼びにくい。奉仕活動がボランティアになりえないひとつの理由が、ここにあります。

逆に最初に述べたような交通費や代休は、それ自体が目的になることがなければ、それを受け取っても無償性(無代償性)の枠を越えずにすむのです。

slide

それでは3つ目の「自発性」とはなんでしょうか。いうまでもなく自発性はボランティアの語源になっている言葉です。

自発といっても、先に述べたとおりボランティアには他者の存在が不可欠だから、「自分が好き勝手なことをしていい」という意味ではありません。他者との関係において自分の行為に責任が生じるということを忘れてはいけないでしょう。

しかも無償性という点からは「行為そのものが満足につながらないといけない」つまり「それ自体が楽しいもの」でなくてはなりません。つまりここからは、する人もただ好きでそれが楽しくて、なおかつ他人のためになっている、そんな行為が見えてきます。

これっていったいどういう行為でしょうか。思いつく状況を考えてみましょう。

意外なことに、こうした人間関係に最も近いのは、恋愛や子育てみたいなものではないかと考えます。たしかに恋愛や子育ては、対象となる他者が1人からせいぜい数人と少ないですが、たとえばこうした対象の数が増やしていけば、単純にボランティアと同じような構図が描けるのではないかと考えます。

まあたしかに、世の中にはお金や自分の名誉のために恋愛や子育てをする人は、いるかもしれないけど、そういうのはちょっと別物で、純粋な意味からは少しはずれてしまいます。かといって、恋愛や子育てが「奉仕」か、というとそれもあたりません。している人は多かれ少なかれ幸せを感じてその行為を楽しんでいます(と信じます)。そういう意味でボランティアも同じです。つまりここで、対象に対する「愛」みたいなものがボランティアの要件に加味されていきます。

こうして整理していみると、ボランティアと奉仕活動の明確な違いがいくつか見えてきました。たしかに現状ではボランティアを奉仕活動と混同されていることが多いのですが、丁寧に検討すれば両者は区別することができるようです。奉仕というのはいわばサービスで「ご奉仕しまっせ、サービスしまっせ」の世界です。行政の仕事は言うまでもなくお客相手のサービスです(であるべきです)。ついでにいえば大学の教員もサービスだとぼくは思います。むろんサービス(奉仕活動)がだめだと言っているのではなくて、サービスはサービス、ボランティアはボランティアときちんと整理して考えるべきなのです。

slide

たとえば、ボランティアを、「ていのいい、ただ働き」、たとえば行政の補助活動ととらえているケースがありますが、それも同じような意味で問題があります。行政が個人に対して子育てや恋愛を「させる」ことが変であるのとまったく同様に、行政がボランティアを「させる」というのはある意味とても変なことです。

そうではなくて、もし行政がボランティアに取り組むのだとすれば、行政がボランティアをする場所を提供したり、ボランティアをしたい人の活動を支援するというふうに考えるべきでしょう。それはたとえば子育てを支援したり、恋愛をする場所(公園とかね)を提供するというのと同じような発想です。

さて、このように本来ボランティアと奉仕活動は似て非なるもの、別のものなのに、なぜそれが日本では簡単に混同されてしまっているのでしょうか。次にこの問題について考えてみましょう。

slide

混同された原因をさぐるために、日本における「自己」というものを内省してみましょう。日本語で「自」をつかった言葉として自粛とか自主退学という言葉があります。本来の意味からいえば、自分の判断でやめたり、自分の判断で退学したりする事なのですが、実際にこの言葉が用いられる現場では、もっと違ったニュアンスが含まれます。

たとえば自粛を要請したり「このご時世に歌舞宴曲を自粛しないとはけしからん。」とおこったり。「むりやりやめさせることはできないが、自主退学してもらえないだろうか」と生徒に働きかけたり。自主的にという言葉に対して本来相容れないはずの「外からの強制」「無言の圧力」というニュアンスがこうした使い方の中には含まれています。

つまり、日本のボランティアでは、「自」という存在の曖昧さから、自発性が文字どおりの理解されずに、ある種の強制、「自己を押さえて我慢する美談」に巧妙にすり替えられていることが解ります。

「自分がしていることをボランティアと思われたくない」学生の気持ちの矛盾というのは、実はこのへんの齟齬にあったのではないでしょうか。その学生は、自分の行為は強制されたり代償のためのものではないと考え、だから自分の行為はボランティアではないと主張します。しかし、実は、まさしくそれだからこそ彼の行為はボランティアなのですが。

最後にイギリスの事例をもとに、「ボランティアはいかに可能か」という点について考えてみましょう。

slide

「○○したい人、」「ハーイ」。イギリスでは、理科の実験のときに先生の手伝いをしたり、イルカのショーのときに餌をやってみたりするとき、参加を呼びかけるこうした言葉に、ボランティアという単語が使われていました。みんなの前で「やりたーい」という、それがボランティアという言葉で表現されてたといのは、ぼくにとってもある種の驚きでした。

そういう視点からすると「わたし大学生になったらなにかボランティアがしたいです」という発言はどこかおかしいのです。しかしいっている本人は、そのおかしさに気づいていません。「したいことをするのがボランティア」だというのであるとすれば、「ボランティアをしたい」という表現は、すでに同義反復になっています。でも実際には、そういう人はたくさんいます。ここではこういう人たちをボランティアおたく(略称ボタク)と呼んでおきましょう。

slide

自分の趣味に没頭している人のことを、昔はマニアとよんでいました。今はより自分の世界に閉じこもっているというような意味も含めて、あまりいい語感ではありませんがオタクとよばれるようです。

内容はどうであれ、自分に何ができるかも関係なく、ただひたすらボランティアをしたいと考える人。そういう意味で「ボランティアおたく」という言葉を使います。

slide

しかしボランティアの動機として、先ほどの「ボタク」とはまったく逆に「わたしはこういう能力があるが、これが人の役に立てばうれしい」という発想も可能です。たとえば、もし、おたくと呼ばれる人が、自分の能力を必要ととしている他人の存在に気づいたときに、こういう人は有能なボランティアンティアができる可能性があります。こういう人を「おたくボランティア」と呼びましょう。

動物好きも、ある種のオタクかもしれません。ネコが大好き、ハムスターを飼っている、生き物地球紀行を欠かさず見る。ドーキンスあるいはファーブルの訳本は全部読んだ。昆虫採集をしている。

slide

オックスフォードの公園では、敷地内に線路をひき、毎週日曜日にボランティアの人たちが、自分の模型列車をもちより子供たちを乗せて遊ばせていました(映像)。そこに集まってくる人たちは、日本では間違いなく鉄道マニアとよばれるタイプの人たちで、大の大人たちが自分たちで鉄道会社をつくり、切符まで販売しながら汽車を走らせているのです。おそらくそれぞれの家では、お金のかかる道楽と、けむたがられているいるのではないでしょうか。

slide


この場合、行政が用意していたのは、公園の敷地の中に線路をひくことだけで、あとの運営は、一回70円の乗車賃を子供たちからとって、ボランティアの人々がすべてやっていました。

slide

また、ロンドン動物園には、動物園の里親という制度がありました。それぞれの動物ごとに数人から数十人の里親がおり、会員は会費を払って自分の養子にした動物たちの世話をするのです。年に何回かは同じ動物の里親同士で集まって親睦会をひらいて動物と記念写真をとったり、動物ごとにニュースレターをつくって遠くの会員に様子を知らせたりしているようです。

slide

動物の大きさや種類におうじてボランティアの枠があって、メンバーの名前は檻の横に掲示されています。ボランティアのメンバーは自分の子供(あるいはペット)が動物園にいるわけですから必然的にリピーターにになります。特定の動物について専門以上に詳しい人もいるでしょう。つまりボランティアそのものを直接的な労働力や寄付金を資金源とするのではなくて、むしろそういうものはあてにしないで、「動物園を楽しむ専門家」くらいに考えた方がよいのだと思います。

恋愛でも子育てでもおなじなのだけど、ボランティアもだれにでもできるように見えて、それなりに能力や熟練があったほうがいい。たぶんその方が、よりよい恋愛ができるし、よりよい子育てができるでしょう。

「大変ですね。ご苦労さん。立派ですね。」といわれてやらされているボランティアではなくて、「楽しそうですね。うらやましい。わたしも参加したい。」という感じで、誰かの役に立つのもさることながら、やっている人も得をするようなボランティアがそこには見えてきます。

slide

最後に「やりたい人ができることをする」ということを再度強調しておきたいと思います。ボランティアとは、たぶん他人から与えられてすることではなくて、いわばひとつの「運動(ムーブメント)」であり自動性・自律性を持つ行為なのです。


なんだか整理して書いてみると、わりと当たり前のことしか言ってないような気がするけど、まあいいや。本番ではもうちょっと脱線する予定である。1時間半の中に収まるかどうかわかんないけど。

ところで昨晩の「政治鍋」はじつに面白かったぞ。

New▲ ▼Old


[CopyRight]
Takekawa Daisuke