第三次北九州埋立計画

[KOK 0127]

25 Jan 2000


以下の文章は、北九州で子育サークルに参加している人から、「雑誌の原稿がほしい」と、たのまれて書いたものである。その雑誌の今回の特集は「夫」ということであった。

ふだん「こくら日記」を読み慣れている人ならともかく、いきなりこんな文章が寄稿されたら、かなり問題になりそうであるが、それならそれでもいい。

【第三次北九州埋立計画 − 女性の自立を説く前に】

本州地方における九州男児のイメージは、ぼくが知る範囲では決して悪いものではなかった。少なくともぼく自身、九州に来るまでは、「たくましくてたよりになる」という感じのステレオタイプな九州男児像を疑ったことはなかった。

しかし九州にきて最初の数ヶ月で、その幻想は脆くも崩れ去った。「九州男児は役にたたん」これが、こちらに移住してはや5年目になろうとする今の結論である。

だいたいにおいて客を家に招くのが好きなぼくは、京都にいたころにはよく人を呼んでいた。いまどきはやりのホームパーティというよりは、外で飲むお金がなかったからである。

われわれの家では、自分の客は自分がもてなすというのが原則で、まあ、たとえばぼくがホスト役のときなどは、ちょっと珍しい食材を市場に買出しに行っては、適当な料理を作って客にふるまう。そんなとき客のほうも心得たもので、うれしくなるような一品を披露してくれたりもするわけだ。

しかし、九州にきて驚いたのは、とにかく男が台所に立たない、台所どころか、パーティを盛り立てるためのこまごまとした作業が一切できない。たとえば、ぼくがまだ料理を作っているのに早々とビールをあけ腰を落ち着けてしまう。職業がらぼくは二十歳前後の男の子たちと会う機会が多いのだが、若い連中ですら、すでに役にたたない。さらに年をとるとこの傾向はより悪化する。

そのかわりに妙に嬉々として動き始めるのが、女たちだ。「ぼくがやるからいい」といっていることまで、「そんなことさせては申し訳ないですから」といって邪魔しに来る。申し訳ないもなにも、こっちは楽しくてやってるのだ。九州の女性は世話好きだという。経験的にだいたいあたってるように思う。その結果かどうかは知らぬが、男は家の中で無能者の地位に置かれる。

そもそも、「九州男児」なんて言葉がもてはやされたのは、たぶん戦争か動乱が続いて、家族をかえりみずに国や主君のために命を捨てるような、むやみなパーソナリティが都合よく求められた時代だろう。家を捨ててこそ役に立つこうした「九州男児」は、この平和な時代には、飯を食らい糞をひる以外とくにすることがないのである。しかし、いまのところ九州男はそれでも生きていける。世話好きの九州女がかろうじてその存在を支えている。

昨年、沖縄の西表島で仲間たち数人とキャンプをした。道も途絶え人家もない無人地帯の、うっそうとした亜熱帯の森を背後にひかえた小さな浜で、5日間ほど魚や貝をとりながら楽しく暮らした。

たとえばそういうちょっとキビシメの状態であったら、たいてい自分のことは自分でやって、それに加えて、みなを幸せにするような仕事をそれぞれが分担したりするものだ。

ところが、その中に九州男と九州女カップルがいた。この二人の行動にみな驚いた。九州男は皿洗いや洗濯など各自が自分でしている基本的な仕事をすべて彼女にさせる。女もかいがいしく男の世話をする。ほかのメンバーの存在は二人の眼中にはない。まるでちいさな家庭がそこに発生したかのように。

「わたしがいないとなんにもできないんだから」というせりふを言うときの九州女はどこか自慢げだ。「おまえのおかげだよ、おれが安心して生きていけるのも」そういう九州男は自分の無能さに気づかない。「九州女が九州男をだめにしている」たぶんそれは正しい仮説だ。しかしここで女を責めるのはよそう。

自立というのは「自分のことは自分でする」ということである。九州女は男の自立の足を引っ張りはするが、自分自身はちゃっかり自立している。問題は、Y染色体があるというただそれだけの理由で、小さいころからちやほやされて育った九州男である。根本的に改善するには幼児教育からやり直す必要がある。世話をする相手がいなくても九州女は生きていけるが、世話をしてくれる相手がいないと九州男は生きていけないのだ。

そこで、北九州市に提案である。とうぶん供給過多がみこまれる九州男は、このさい防人のかわりに新コンビナート造成の人柱として響灘に埋め立ててしまってはいかがであろうか。さらにあまった世話好きの九州女を高齢者福祉にまわせば、一石二鳥である。

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Takekawa Daisuke