先生と言われるほどの馬鹿でなし

[KOK 0101]

20 Apr 1999


まあ、職業は確かに教師である。それは認めよう。

しかし、あんたに先生と呼ばれる筋合いはない。あんたは尊敬をこめたつもりだなんて言うかもしれないけど、だったら尊師とでもよんでくれるかい。ぼくはあんたの先生じゃない、さっき飲み屋で知りあったばかりじゃない。

まあ、実の子どもからみれば、父親である。それは認めよう。

しかし、あんたにお父さんと呼ばれる筋合いはない。あんたがぼくの娘と結婚する気でもあるなら話は別だけど、幼児向けの教材を売りにきただけじゃない。

まあ、配偶者からみれば、旦那かもしれない。この甲斐性なしのどこが旦那だかよくわからないけど、愛を込めてそう呼ばれるのならしかたあるまい。

しかし、あんたに旦那さんと呼ばれる筋合いはない。ぼくがあんたを囲っているのならともかく。ましてやご主人様とは驚く、あんたのような犬を飼っている覚えはない。

ぼくには「たけかわだいすけ」というユニークな名前がある。

夫婦別姓なんて話がある。自立した近代的個人主義の時代を反映した新しい夫婦関係のありかただといわれている。だけどそんな生き方を実践する男女が「おとうさん」「おかあさん」なんて呼び合っているのをみると、どうにも不思議な気がしてならない。

この人たちはほんとうに個人を尊重しているのだろうか?意味が分かってて夫婦別姓を主張しているのだろうか?この新しい主張が、単なる時代のはやりものや知的階級のファッションに終わらないことを切に祈る。

日本語は第三者の社会関係の呼称を使って個人を特定する不思議な言語だ。英語では他人の子供の父親に対してファーザーとは呼びかけない(もっとも相手が神父さんなら別だけどね)。言い古された指摘かもしれないが、これは単に修辞学上の話だけではなく、たぶん日本人の自己意識や他者意識が反映された結果だろう。たとえば、個人よりも関係性が重視されるといった、そんな人間観。

それが良いとか悪いとかは言わない。「あくまで文化の差異である」と開き直るのもかまわない。近代個人主義のかかえる厄介な問題も重々承知している。なにしろそれがぼくの研究テーマのひとつなのだから。

ただ、ぼくは先生と呼ばれるのが好きではない。その理由は、表題の川柳に簡潔に述べられている通りである。たとえ相手が本当の生徒であっても気持ちが悪い。これ以上ぼくを先生と呼んだらぼくはあなたを生徒と呼ぶぞ。「先生!」「どうした生徒?」70年代のコントのように。

そして、お父さんと呼ばれるのも好きではない。実の子ですら名前で呼んでいるのに、ましてや赤の他人からそう呼ばれる義理はない。むろんぼくは子どもたちの父親であることを拒否しているのではない。いや、なにも難しいことを言っているわけではないのだ。わずか4歳の娘でも幼稚園と家できちんと使い分けている。他人にたいしてぼくとの関係を語るときは「おとうさん」で、彼女にとってのぼくは「大ちゃん」あるいは「大介」だ。

さらに、旦那さんとかご主人はやめてほしい。ぼくの配偶者に失礼である。ぼくなんぞ、せいぜい丁稚どんか奴隷が関の山である。むろん愛の奴隷だが。

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Takekawa Daisuke