死に彩られた旅

[KOK 0095]

19 Fed 1999


5年ぶりのソロモンだった。ファナレイ村のチーフ・フィレイや友人たちのために土産を買って、真冬の日本を離れた。

いやな予感があった。首都にいるはずのチーフの弟イフノアに、日本から全然連絡がとれなかった。前回の滞在中にイフノアは、突然、心筋梗塞で倒れた。その予後が気になっていた。結局、私の訪問を、村の人には誰ひとり知らせることなくヘンダーソン空港に到着した。

空港からはタクシーに乗った。いつもならば、首都ではイフノアの家に泊まるところだが、街でしなければならないこともあり、宿をとることにした。ふと、5年前に別れるときにフィレイが話していたことを思い出した。「まもなくメラネシアン教会があたらしいゲストハウスを建てる。立派なものになるはずだから、今度くるときはそこに泊まるといい」。タクシーの運転手に聞くと、たしかに新しいゲストハウスができているという。「そこにむかってくれ」と頼んだ。

チェスタゲストハウスというのが、教会の新しいゲストハウスの名前だった。建物に入る階段をのぼるときに、私は懐かしい顔を目の前に認めた。次の瞬間、子供たちの歓声が上がった。「タケだ!」

チェスタゲストハウスで働いていたのは、マスラの奥さんジョセフィンだった。私たちはこの奇遇を喜んだ。マスラは私の一番の友人だった。しかし、もう二度と会うことはできない。彼は、1994年私がソロモン諸島を離れる直前に海に落ち亡くなった。高血圧による心臓発作だったという。そのとき私は、村から遠く離れた別の街にきており、ラジオニュースでマスラの死を聞きながら、彼の葬式のために村に戻ることはできなかった。あの日、首都に戻ると、私はうしろがみを引かれる思いでソロモン諸島を離れたのだった。

ジョセフィンとマスラの4人の子供たちは、ずいぶん大きくなっていた。私にとってはあっという間だったこの5年間が、それなりに長い時間であったことを、成長した子供たちは教えてくれた。今回の私の旅は、村でマスラの墓を訪ね、彼の死を確認することから始まるのだろう、そんな心づもりはあった。マスラが死んだ日からソロモンにおける私の時計は止まっていた。

ジョセフィンは、マスラが死に至るまでの話を、おそらくなんども繰り返されたであろう同じ口調で、静かにわたしに語ってくれた。ソロモンでの私の時計は急速に現実の時を刻み始めた。そして、

続けて、ジョセフィンはいった。「チーフのフィレイも弟のイフノアも死んだよ」。フィレイが死んだ?わたしは頭の中が一瞬凍りつき、やがて身体の一部が小刻みにふるえた。リアリティ、ソロモンでのリアリティをようやく取り戻そうとしているその作業の途中で、一番の友人の死を受け入れようとしているそのさなかに、親同然に私を大切にしてくれたフィレイの死をきかされるとは。

村に帰った私は、どこへ行けばいいのだろう。親しい人は、みな死んでしまった。正直な話、恐くもあった。私に関わる人ばかり死んでしまった。ソロモンにおける死の意味や説明は、しばしば日本のそれとはちがう。一年ちかいソロモンの生活で、私自身も決して村の「のろい」から自由でないことを感じ始めていた。

フィレイの死に、私は自分でも驚くほど困惑した。もう、このまま日本に帰りたい気分だった。村にむかうのが気が重かった。別れてもまた会えるというのは、いつでも希望的観測。もう会えない。もう2度と会うことができない。そういう別れがありうること。あたりまえのこと?

思えば1994年、ソロモンを後にした旅の途中のヤップ島で、私はマラリアとその薬の副作用による肝炎に倒れた。時に死はあっけないものだということを、そのとき私は感じていたはずだ。

昨年の秋、フィレイが死んだとき、村の人たちは何とかして私にそのことを伝えようと試みたという。しかし、北九州の中でいちど引っ越しをしている新しい連絡先は、村には届いていなかった。

私は、憂鬱な気分で村に向かう船に乗った。村では懐かしい顔が、大歓迎で待っていてくれた。しかし、一ヶ月の滞在のあいだに、どうしても失ったものの重さを拭いきることはできなかった。フィレイのいない村は、おそろしく空虚だった。

村の人々は私にいった「日本で地震があったときにタケは死んでしまったのだと、みな思った。しかしフィレイはそのときタケは死んでいないという演説をした。だが、そのフィレイが死に、やはりタケは死んだのかもしれないと思った」

私もまた死んだ男だったのだ。死んだ男が帰ってきたのだ。

New▲ ▼Old


[CopyRight]
Takekawa Daisuke