新権力論

[KOK 0088]

24 Jun 1998


権力(パワー)、この魅惑的な言葉。権力に関する言説はちまたに山のようにあり、権力のなんたるかはすでにさんざん語り尽くされた感がある。ヒトやモノをを動かす絶対的な力。それを求めて人々は争い、それに従い人々は安らぐ。ヒトがふたり以上いるときに生じるさけられない力関係。

最近、この権力ということについて、ちょっと違った視点から考えてみた。もともとのきっかけは定期試験の評価をつけていたときのことだ。大学院生から大学教員になる過程で、研究者としての私の意識はたいして変わらなかったが、単位をもらう側から出す側にかわるという意味で、180度の転向を余儀なくされた。すなわち、その瞬間に、ある種の権力が私に生じたのである。

権力が行使されるのに敏感な人もいれば鈍感な人もる。権力の庇護を求める人もいれば嫌う人もいる。私は、たぶん権力関係に敏感なほうだとおもう。そして、特に不当に権力を行使されることへの嫌悪感は高校の頃から体に染みついている。だから、ついつい無自覚な権威主義者にたてつき、権力関係を無化させるために隠蔽された本質を暴露し、その結果バカをおこらせてしまうという、不毛な消耗戦に巻き込まれがちである(これはたいへん悪い癖です、反省)。

そして日頃から自分自身が権力をかさに他人の行動を制限したり従わせたりすることのないよう、 自覚的に他人と接してしているつもりだ。 ここで、「ほんまけ?」などというツッコミはいれなでね。偏差値76の私がいうのだからほんとに決まっているのだ(^_^;)。(書いてる先からこれだもんねぇ)。このように、人間は油断をするとすぐ権威的にふるまってしまうことも、自戒も込めてつねに確認している。

だから、私が教員になった時点で、学生との関係に私の側からのある種の慎重さが必要だと感じていた。はっきりいって、授業に関しては、学生たちが話を面白く聞いてくれて、彼らがものを考えるときのヒントになってくれればそれでいいや、というくらいにしか考えていない。単位がどうのこうのと、こうるさくいうのもいやだし、ましてや単位を餌に授業の出席を強制する(これってほんと本末転倒だよねぇ)つもりはさらさらない。

そして、どうでもいい以上、自分は権力からは無縁だと思っていた。

しかし、それは大きな勘違いだったようだ。それどころか、むしろ無邪気な権力者にありがちな、あまりに楽観的な希望的観測といってもいいほどの誤謬をおかしていた。私の単位を落としてしまった学生が(もちろん試験の結果において形式的に正当な理由で落ちているのであるが)、異議を申し立てにきて、彼とのやりとりの中で私はそれに気づいてしまった。

「Aにとって大事なことが、Bとってはどうでもいいときの、AとBの関係」それこそがまさに権力関係の本質だったのだ。

権威的にふるまうとか、権力をたてになにかを強制するとか、そういうこととはまったく関係なしに、人は「どっちでもいい」と思った瞬間、権力の側に立つのである。この認識は私にとっては、いわばコペルニクス的転回ともいうべき、思索上の発見であった。

この説明でいけば、いわゆる汚職の温床になっている利権がなぜ権力たりえるのかも簡単に理解できる。公務員A個人にとっては、B社の製品でもC社の製品でもまったくちがいはないのだ、その落札価格すら、自分の利害とは関係ない。しかしB社にするかC社にするかの決定権はAが持っている。公僕として国民の意志を代表し決定をゆだねられているAにとって、皮肉なことに、ある決定に自分の意志を持ち込まないという立場こそが、逆に彼の権力を高めているのである。

これが公務員Aではなく中小企業社長Dであれば話はまったく違う。Dにとっては自分の決定は、自分の利害にかかわる。だから決してB社の製品でもC社の製品でもいいという立場にはなれない。自分がなにかに縛られている状態を相手に見透かされてしまった瞬間に彼の権力は失墜する。いっけん権力のありそうな中小企業の社長よりも、自分の意志の働かない公務員のほうが力を持っているのはひとえにこの理由による。

「なにかにこだわるということは、自分の権力を放棄することである」これもまた新しい発見である。すなわち、ベルギーのランビックビールにこだわる人よりも、そこいらの廉価発泡酒で満足する人のほうが、権力関係としては上だということである。これはなかなか承伏しがたい事実ではあるが、夏の夕方のビヤガーデン的経験からいっておおいにうなずける。げに凡俗と大衆こそ最大の権力者であり、もっともおそるべき敵なるべし。

仕事をしてもしなくても給与にちがいのない公務員がかならず腐敗するのも、どんな善良な家主でも店子にとってかならず悪徳大家になるのも、選挙における浮動票がこそが本来的な意味での民主主義をささえていることも、すべて「どちらでもいい」という立場から派生する無意識的な権力関係によって説明できる。

たとえば、資本主義の先進国であるアメリカにおいて独占禁止法があれほど重要視されているのも、資本主義経済における権力関係に注目すればわかりやすい。たとえ2社であっても、そこで競争がおこなわれている限りにおいて、選択によって生じる権力は消費者側にある。きまぐれな消費者は、インターネットエクスプローラーを使おうがネットスケープナビゲーターを使おうが、おかまいなしだ。そして、その不安定さこそが商品の向上を促進する。

しかし、ひとつの企業がある市場を支配してしまった瞬間に、企業と消費者の権力的立場は逆転する。企業は「不要ならばうちの商品を買わなくてもいいんだよ」となどとうそぶき、ほかに選択のない消費者は自分の欲望を実現するために、企業に提供されたものをおしいただかざるをえない。

モノポリーというボードゲームを見るまでもなく独占が完了するとゲームは終わりなのだ。資本主義の参加者は独占を目指して競争するが、皮肉にも独占こそがこのシステムのもっとも危険な陥穽である。だから、独占が起こりそうなときは、たとえ商品の性能や価格に差があったとしても、あえてそこに介入し競争状態を継続させることが必要になる。そのことによって資本主義のシステムは維持され更新されていくのである。(権力在人民ふうに権力在消費者というスローガンが必要ですね)

独占禁止法は、一般には自由競争に規制をかけるネガティブな統制経済的イメージで語られることが多いが、むしろ、資本主義体制の根幹を支えるきわめて重要なルールなのかもしれない。

さて、今回の話を突き詰めれば、人生のあらゆることに対して「どちらでもいい」と言い切ってしまえる人が、もっとも権力をもち、もっとも強いということになる。すなわち、こだわりが全くなく、川にうかぶ木の葉のように流されるままに、生をあきらめ、悟りをひらいた仙人のような人間である。

そういう人になれたらいいけどね。まあ無理だよね。なんだか面白くなさそうなんだもん。悲しいかな、仙人たりえない煩悩人は、すぐに、なにかにこだわってしまうんだよね。ほら、中島みゆきも歌ってるじゃない。

恋の終わりは いつもいつも
立ち去る者だけが 美しい
残されて 戸惑う者たちは
追いかけて焦がれて 泣き狂う

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Takekawa Daisuke