やさしさと同調性2

[KOK 0079]

23 Jan 1998


街頭インタビューに答えて わたしやさしい人が好きよと
やさしくなれない 女たちがこたえる

もしかするとA君の「気づかい」に共感できる人は、予想以上に多いかもしれない。「竹川さんもそんな厳しいところをつっこまず、いろいろ気を回してるA君のこともわかってやりなよ」そんな声が聞こえてきそうだ。へたをすると「A君の『気づかい』には共感できるが、竹川がなににこだわっているのかよくわからない」なんていう人もいるかもしれない。

大平健という精神科医の著書で「やさしさの精神病理」という本がある(岩波新書)。そのなかで、大平氏はこの本で最近の若い人たちの間で「やさしい」という言葉の使い方が変わってきているのではないかと分析している。

文中では、親に「気をつかって」おこづかいをもらっている高校生が、親に「悪い」ので「塾にいくためにお金を出してくれ」といいだせないという「やさしさ」や、決して鳴らないポケベルを持ってあげることで相手の「やさしさ」を感じる若者など、数多くの事例をもとに、現代の「やさしさ」をあぶり出している。

大平氏は精神科医として「問題をかかえる」患者の相手をする立場からこの本を書いているが、私が人類学者として「正常な」異文化と接する立場から考えても、彼の分析に同意できる点が多い。

彼は「やさしさ」というものは、集団との協調と滑らかな人間関係を目指す「ひとづきあいの技能」であると定義した上で、旧来型のやさしさと、このごろの若い人たちがなじんでいる新しい型のやさしさの違いを分析する。

旧来型の「やさしさ」では、いわば相手の気持ちに配慮しわがことのように考える一体感が大事にされている。これは、まさに「連帯を求めて孤立をおそれず」という時代の言葉に象徴されるような、連帯志向型のやさしさである。いっぽう、A君の気づかいのような新しいやさしさは、「相手の気持ちに立ち入らず、傷つけないようにあたたかくみまもる」そんなやさしさである。

本文中に登場する<患者>の語りによれば、前者のような人の心の中にまで入り込む危険性のあるホットな関係というのは、一見「やさしそー」ではあるけれど「なにかウットーシ」くて敬遠したくなるような感じであるという。そして、彼らが求めているのはウォームな関係、なにもかまわずにそっとしておいてあげるやさしさである。

そしてもうひとつ、医者のようなあるていど距離をおいて語れる相手は、クールな関係であるという。ホット・ウォーム・クールという対人関係の分類には、わたしにも思い当たるふしがある。ここで「やさしい若者たち」を困惑させているのは、クールな相手ではなくてむしろホットな相手であることも重要である。旧来のやさしさを身につけた人が、新しいやさしさを求める若者にたいし、やさしくふるまえばふるまうほど、それは「ウザッタイ」行為であり「ちょっとカンベン」と拒絶されてしまうのである。どちらが悪いのでもない、ここには絶望的なディスコミュニケーションがある。

私が知っている「やさしい」人々は、けっして病的なものではないが、たしかにきわめて過敏で傷つくことをおそれている。彼らの世界には泥沼のようなやさしさがある。人と衝突しないことを求めるあまり、外面をたてまえでよそおい、そのときどきの社交辞令に磨きをかける。そして彼らの最大の悲劇は、それが形式的なものであるということを「自覚」している点である。

極端な話、どんなに親しい友人の前でも、親の前でも、本当の自分は出さないという。他人を傷つけたくないし、自分も傷つきたくないから。最近のはやりである「自分探し」はまさにそんな人々に支持されている。

「自分を見つめる自分がいる」という近代的自我が引き起こす病理、近代思想の根本的なひずみが、この現象の陰にはある。彼らは、社交辞令を弄びながら「本当の自分」はどこか別のところにいると信じている。そんなものはどこにもないのに・・・。そして信じられる誰かの前で、本当の自分(だと思っていたもの)をさらけ出したとたん、悲劇ははじまる。それまで傷つくことにさらされてこなかった自我は、甘えんぼうでわがままな、きわめて未熟な存在にすぎない。

ちょっと、話がすぎてしまったようだ。「やさしさ」に戻そう。傷つくことを避けようという傾向のある新しいやさしさは、それがうまく機能すればきわめて円滑な社会関係をつくることができる。社会の標準化と均質化が進むことがその条件である(じっさいいまの学校社会はそちらの方に進んでいる)。しかし、多様な価値観がいりみだれる複雑な社会ではこうしたやさしさはほとんど役に立たない。

そして皮肉なことに新しい「やさしさ」を身につけた人々は、自分が傷つくのには敏感だが、他人を傷つけることに関しては、おそろしく鈍感である。これは結局、傷つき傷つけるという関係なしに、他者の理解はできないからではなかろうか。

異文化理解が人類学の大きな課題であるとすると、人類学はまさに「傷つき傷つける」学問である。

傷つけられることに慣れてないやさしい人々は、身にまとった社交辞令のひきはがさせると、とたんにどうしていいのかわからなくなる。卒論ができあがった日に皆で食事をしていて、突然キレてしまったA君は、「どうしたのか?」とホットに追求するわたしの言葉を拒絶し、わたしとほかのゼミ生を非難しつづけた。わたしはA君の変わり様に驚いたが、いま思えばかわいそうなのはA君だったのかもしれない。

A君がはじめてフィールドにむかうにあたって、わたしは「とにかく行きなさい、いけばなにか見つかるから」といった。わたし自身こうしてフィールドワークをはじめたし、いまでも「どこかに行く」というスタンスなしで人類学の仕事はできないと思っている。しかし、押し出されるように島に向かったA君は、文字どおり島に行ってそのまま帰ってきた。島に行くのだけれど何もしない、相手に何も尋ねない。

わたしははじめそれを彼の無能さからくるものなのかと勘違いしたが、それは彼なりの対人関係のありかただったのだ。自分では決断しない。相手が自分に話をしてくれるまで待つ。よけいなことはきかないし話さない。相手が気を悪くしないように、なるべく目立たないように島に行きそっと帰る。

卒論を進めていく過程で、こうした彼のやり方は、ことごとく批判にさらされ、彼はなんども島にむかう。ようやく夏が過ぎる頃、彼はほかのゼミ生の助けを得て、島にたったひとりの知り合いをつくる。

「とりあえず」「いちおう」は、A君の口癖である。これは先の「やさしさの精神病理」の中でも、失敗をおそれる「やさしい」人の保険である、と言及されている。これまでそんな慎重な(ある意味で無責任な)生き方をしながら、自己を保存し自己を肯定してきたA君にとって、見知らぬ他人に出会うということがどんなに大変な作業なのか、わたしは甘くみすぎていたのかもしれない。

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Takekawa Daisuke