持ち点トーナメント制

[KOK 0037]

27 Jan 1997


さて、 [こくら日記kok0035]で、私にまかせてくれれば、「へたなマークシートテストよりは、的確に人を見つけられるのに」と書いた。それにたいして、大阪の哲人N号から以下のような批判がきた。

むしろ「人を見る目」なんか必要ないし、そもそも「人」など見ていないのだ、ということをはっきりさせればそれでいいのではないか、と前々から思っています。

もっともである。私の発言は「ゼミ生を選ばせてもらえるなら」という前提にたったうえのものではあったが、哲人N号の意見には基本的に同意する。つまり、受験の成績が人間性を判定していると思ってしまうところが、すべての元凶であって、それを徹底的に否定できれば問題は解決する。

しかし、人間というものはおかしな生き物で、その人の人間性のほんの一部であっても、他人と比較されると「全人格かけて」競争してしまったりするものだ。おたく世界の知識は狭くて深い。

京都の猿糞先生からは以下のメイルをいただいた。

客観性のよってたつ根拠が不明な現状では、試験もくじびきのようなものではないでしょうか?それにしてはあまりに努力が必要か。

これもそのとおり。だけど、この「試験には根拠がない」という事実を、多くの人が信じないことが問題なのだ。だから、くじ引きである。受験生の人格とはまったく関係のないくじ引きである。

しかしながら前回の「努力点500点で運500点」という提案はあまりに杜撰であった。 せっかく[こくら日記kok0036]で、「乱数決の原理」という画期的なアイデアをだしたのだから、ここは、もう少し工夫してみよう。

受験の点数による順位分けは、評決や選挙のときにつかう「比例確率制」はつかえない。そこで考えた。名づけて「持ち点トーナメント制」だ

すなわち、各自いままでどおり受験をして、その得点をもって、勝ち抜き戦をするのである。もちろん組み合わせは完全にランダムにおこなう。そして、残り人数が定数になるまで、志願者どうしの持ち点をたたかわせるのだ。

こうすれば、よい点数はそれなりに評価されるし(トップは必ず合格だ)、悪い点数の人も、運が良ければ(あったた相手がよければ)生き残る可能性がある。いずれにせよトーナメントの組み合わせは神のみが知る。

どうですか?

社会現象の多くは、それがたとえカオスや複雑系であっても、ふつうの人の目から見ればただのランダムネスである。にもかかわらず、これまでの社会科学では偶然性を不当に無視してきた。

どうせ、どうやったって偶然の入り込む余地はさけられないのなら、それを排除することに力を入れるのではなく、積極的に制度としてとりいれるほうが気が利いている。その方が「人にやさしい社会」だと思うんだけどね。

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Takekawa Daisuke