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メジャーな田舎 ■旅の楽しさは、なにも珍しいものを見ることばかりではない。知らない土地のさりげない日常を体験するだけで旅はずっと深いものになる。ぼくの旅にとって一番大事なことは、人に出会うこと。違った土地で生きてきた人々と話をすることだ。 ■日本から両親が来ていた。ふたりとも海外旅行はもう何度目かで、ぼくはてっきり旅慣れている人たちだと思いこんでいた。しかし、よく聞いてみるとこれまでの海外旅行は、全部パックツアーで、プランもたてずに海外に来たのは初めてだという。
■今回は、3週間の時間があるという。ぼくは、オックスフォードだけでも十分その時間を楽しむことができると考えた。川沿いの道を散歩しながら、ゆっくりここの土地の人々の暮らしを味わうのは悪くない。
■最初の一週間はまあそれなりに楽しんでいたようだ。しかし、やがて「せっかくイギリスまできたのだからどこかに行きたい」といいはじめた。日本から持ってきたガイドブックを夜な夜な取り出しては、名所の案内を読みふける。彼らにとって旅というのは観光をして回ることで、これまで長年に渡って刷り込まれてきた習慣は、そうそう変えられないらしい。 ■母親は湖水地方(lake district)に行きたいというが、情報を集めれば集めるほど、いやな予感がする。イギリスでレイクディストリクトと呼ばれているこの地域は、なぜかどのガイドブックでも日本語で「湖水地方」と呼ばれている。そのせいか日本人の観光客がものすごく多いらしい。イギリスにはもうひとつピークディストリクト(peak district)と呼ばれている国立公園もあるが、日本のガイドブックにはこちらはほとんどふれられていない。
■日本のガイドブックとイギリスのガイドブックを比べると特徴的な違いがある。日本のガイドブックはおおむね写真もきれいで、細かな解説は読んでいて楽しいのだが、載っている情報にひどく偏りがある。たとえば「おすすめのレストラン」みたいな感じで、まるでその街にはレストランが一軒しかないかのような感想文に紙面が割かれていたりする。しかも、母親は3冊くらい違うガイドブックを持ってきたのだが、それぞれに載っている情報は不思議なほど似通っていた。 ■イギリスのガイドブックはどちらかというと網羅型である。レストランでも宿でも、詳しい情報は少ないが、可能なかぎり網羅されている。電話番号や格付けは必須である。ぼくにとって理想的なガイドブックとは、正確な地図と交通と宿の情報が整理されているものである。そういう意味ではイギリスのガイドブックのほうがまだ役に立つ。見た目はきれいかもしれないが、北がどちらかもわからないようなイラストマップは自分で街を歩くのには全然使えないし、自分で実際にそこに行くのだから他人の感想文はいらない。 ■「湖水地方で生きている本物のピーターラビットみて感激」なんていう記事にあこがれる母親を、ウサギならそのへんの草むらにもたくさんいると説得し、とりあえずオックスフォードの近くの観光地から行ってみることにした。
■調べてみるまで全然知らなかったのだが、オックスフォードの北部の丘陵地帯は、コッツウォルズ(Cotswold)と呼ばれており、イギリスの古い田舎の風景で有名なところらしい。小高い丘が続き、きれいな川も流れている。交通機関もほとんどないという。もしかしたら良いところかもしれない。日本人の感性にあうのか、日本のガイドブックにも大きく紹介されている。翌日われわれは、オックスフォードから列車に乗って30分ほどのモートンインマーシュ(Moreton-in-Marsh)駅を起点に小旅行を楽しんでみることにした。 ■はちみつ色の石でできた可愛い家々。古き良き骨董の街。イギリスで一番の美しい村。さまざまなイメージを事前に仕込んでいたわれわれは、バスに乗り継ぎコッツウォルズの村におりたってまずびっくりした。 ■小さな村々にあふれんばかりの観光客がうろうろしている。どこに出もあるようなアイスクリームやさんとおみやげ物店。とってつけてような骨董品博物館。観光バスと自家用車でいっぱいの村はずれの駐車場。確かに交通機関は少ないが、みなロンドンからきて車で村巡りをするのだ。それと、若い日本人の女性ふたり組が多いのが印象的であった。アンノン族はいまだ健在か。
■日本で言えば、ちょうど湯布院や嵐山・大原を思い浮かべてもらって間違いない。「ひなびた田舎」や「昔の暮らし」を餌にして、実際には列をなす観光客と土産物屋にあふれている場所。そんなこと初めからわかってるってか?だれも本当の田舎や、ただの田舎にはいきたくないってか?そうかもしれない。多くの人にとって旅とはこんなものなのだろう。しかし、それはさておき、日本だけでなく、イギリスにもこういう場所があったということに、ぼくはとにかく驚いた。 ■このコッツウォルズの風景が決定打となり母親に湖水地方を断念させ、そのかわりに南ウェールズに行くことにした。スコットランドやアイルランドも魅力的だが、オックスフォードからそれほど遠くないことと、ガイドブックに割かれているページが少なかったのが選択の基準であった。 ■これが予想以上におもしろい旅行となった。 ■以前にオックスフォードはメジャーな田舎と書いたが訂正する。オックスフォードは街である。そしてその周辺には本当の田舎がある。メジャーな田舎とは湖水地方やコッツウォルズの事であった。 |
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ウェールズ語
■列車から見える風景は、ブリストルチャンネルを過ぎると急に変化する。それまで地平線まで続ていたイングランドの平原が、突然あらわれた山と海によって切断され、空気が湿り気を帯びてくる。沿線には密集する家々がならび、雑然とした工場がそこかしこに見える。そして列車はゆっくりとカーディフの駅に入っていく。駅舎にとまるカモメたち。潮のかおり。それはどこか見慣れた風景を思い出させる。
■駅にはそこかしこにウェールズ語と英語で併記された案内版がある。ウェールズについてほとんど予備知識を持たずにここにやってきたぼくにとっては、すでにそれだけで新鮮な驚きだった。それまでウエールズ語のことを英語の方言くらいにしか思っていなかったが、書かれていたウェールズ語の表示はまったく読めないかった。スペルも語順も単語も全然違う。
■ふと「デンマークは英語圏ですか」という内容の手紙を送ってきた学生のことを思い出す。そのときは、たいていの日本人が持っている英語中心的な世界観を軽くたしなめる返事を書いたが、大ブリテン王国自体が、すでに英語圏ですらない事実をどう考えたらいいのだろうか。イングランド人が世界各地で植民地経営に成功した背景には、古くから異文化と接触しつつ共存してきた歴史があるのかもしれない。 ■ウェールズに住んでいるのは、ブリトン人という紀元前500年前後に中部ヨーロッパから移住して来たケルト系の人々で、大ブリテン島の語源は、彼らの呼び名に由来するという。一方イングランドに住む人々は、5世紀初頭にやってきたアングロ・サクソン人の子孫である。
■以来ケルト系の人々は、広大で肥沃な土地をもつイングランド人に対して、常に周辺の民として生きてきた。この1500年もの時間は人類の歴史にとってどのくらいの長さなのだろうか。人の一生をから見れば長いような気もするし、言葉の歴史から見れば短いような気がする。いずれにせよ、ウェールズ語文化は、その後世界中で侵略をくりかえす英語文化のすぐ隣で、ひっそりと、しかし絶えることなく残り続けたのである。
■日本の事を考えた。なるほどケルト人は日本でいう縄文人ではなかろうか。不思議なことに日本の歴史の教科書は、かつて日本に住んでいた人々を彼らが使っていた土器の形状から縄文人とよび、その直系の子孫であるはずの現在のアイヌ人や沖縄人の存在から切り離して教えている。 ■そして土器の技術的進歩と同列にならべ、あたかも縄文人が「進歩」して弥生人になったかのような印象を与えている。さらにその上で狩猟採集をするアイヌ人は弥生化せず「遅れた」縄文文化を残しているというニュアンスの書き方をする。これは、単に学問史的な理由だけでなく、どこか政治的な意図を感じさせる実に巧妙なレトリックではないだろうか。 ■本来ならばこう書くべきなのだろう。日本に先住していたのは、アイヌ(エミシ)人や沖縄(ハヤト)人であり、紀元前300年の頃に大陸からやってきたヤマト人によって彼らは周辺に追いやられたと。
■まあ、そんなことをぼんやりと考えながら、カーディフの街を歩く。目的地はブレコン・ビーコンズ国立公園。南ウエールズに広がる高原地帯だ。 |
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風の谷 ■バレーラインはカーディフ(Caerdydd/Cardiff)を中心にちょうど手の指のように広がっているローカル線だ。不思議なことに、ウェールズに来るまで見た地図やガイドブックに、この線路の記述はほとんどみあたらなかった。本当にこんな山あいに列車が走っているのだろうかと心配しながらカーディフにつくと、なんのことはない、けっこう頻繁に駅の一番端のプラットホームから短い車両の列車が発着していた。
■ちょうどミレニアムを記念して48時間バレーラインを乗り放題の便利なカードが発売されていた。カーディフカードと呼ばれるこの券は、地域のバスやカーディフ周辺の観光施設にも利用できる。われわれはこれを最大限に利用して南ウェールズを探索する事にした。 ■バレーイラインはブレコン・ビーコンズ国立公園の南に広がるいくつかの谷沿いに列車を走らせている。カーディフの街をぬけると渓流の横を列車は高度を上げていく。狭い谷間には集落が広がり、背後に高い丘が見える。これまでイングランドで見慣れてきた景観とはまったく違う。 ■それにしてもこんな狭い谷にどうしてこれほど家が密集しているのだろう。それに、山の合間にしかれた鉄道網も不思議である。ゴトゴトと揺れながら走る電車の中には意外なほど人が乗っている。持ち物や服装からは生活臭がただよい、目が合うと誰彼声をかける気さくな雰囲気は、観光客には見えない。この先の山奥にまだ人が住むような場所があるのだろうか? ■紀元前55年に、ローマ人であるジュリアス・シーザーが大ブリテン島へ上陸すると、ブリテン島の大平原に住んでいたケルト人たちは、この辺鄙な谷あいの地に難を逃れたという。すると山の民か?以来、山の民としての生活スタイルを作り上げたのだろうか?道や鉄道の沿線に上にひしめく集落は、たしかに台湾の山地民(高砂族)の村でみた風景によく似ている。漢民族に追われて山に登った先住民たちもまた、きびしい傾斜地に住居を構え、独特な山地文化を創り上げてきた。
■ビーコン高原への入口は、鉄道の終点の Merthyr Tudful という街であった。まるで化学用語のようだ。だれか、このウェールズ語の表記を、正しく読めるだろうか?「どこに行きたいのか」ときかれて、メァヅィルだのメルチルだの一生懸命考えながら発音してみたものの、全然通じない。事前にウェールズ語の発音規則を勉強しておけばよかったと後悔した。この街の名前はカタカナで表記するとマーサー・ティドュビルという感じになるらしい。 ■マーサー・ティドュビルは予想していたよりもずっと大きな街であった。人口は約6万人、かつては南ウエールズ一の都市として栄えたこともあるらしい。今では規模も小さくなりこぢんまりとしているが、こんな奥まった狭い土地になぜ人が集まったのだろうか。高原都市。渓谷のどん詰まりに突然あらわれた、まるで映画のセットのようなこの街の雰囲気を、ぼくはひとめで気に入ってしまった。
■そろそろ種明かしをしなければなるまい。まるっきり勉強不足でウェールズにやってきたぼくも、マーサー・ティドュビルの街のそこかしこに放置されている廃墟を見ながら、さすがに何かが変だということに気づいた。この街のはなやかさには、どこか陰がある。それはけっして邪悪で毒々しい陰ではない、むしろすでに枯れてしまってひっそりとした陰である。路地裏の店の豪華な装飾はもう何年も放置されたままだ。街の喧噪のうしろに、しずかに寄り添うかのように、かつての栄光の日々の面影がたたずんでいる ■そう、ここは、たそがれの街だ。 ■かつて近代を支えるエネルギーとして石炭産業が隆盛を極めたころ、良質の無煙炭を産出するロンダ渓谷を持つ南ウェールズの山々には、人々の夢と欲望が渦巻いていたという。19世紀末から20世紀の初頭にかけてウェールズの人口は10倍にも増加する。ここで掘り出された新しいエネルギーは、イギリス工業の飛躍的な発展をささえ、海外に輸出され世界の産業を支配していく。そしてこの小さな谷あいの土地が、身分不相応な装いを身にまとうためには、そのわずかな余熱だけでも十分すぎるほどであった。 ■谷をめぐる鉄道網は、石炭を搬出するための名残である。蒸気機関車を走らせる燃料はいくらでもあった。鉄道は海へと石炭を運びおろし、海からは人々が運びこまれた。 ■沿線の小さな村々は、このエネルギーを利用して独自の工房都市に発展した。文化は金の匂いが好きなのだろうか、今でも有名なこの土地の聖歌隊やブラスバンド、カーニバルはこの時代に生まれたものだ。
■列車の待ち時間のあいだにロンダ渓谷とタフ川が出会うポンティプリーズ(Pontypridd) という街におりたち、ちかくをすこし歩いてみた。川の本流から枝谷に沿って登る急な勾配のハイストリート(中心街)。息を切らせながら坂を登ると、道の脇にある小さな中華料理屋の看板に目がとまった。日本語で「風の谷」と書いてある。 ■だれが名付けたかは知らないが「風の谷」という名は、この町の雰囲気に雰囲気にぴったりに思えた。強大な王国の周辺に残る異文化の古層。かつての繁栄の面影を残す工房の数々。清らかな水と、豊かな森が残る小さな集落。それを美しいとよんでしまうのは、あまりに一方的な旅人の感傷かもしれないが、たしかにそこにはある種の美しさがあった。宮崎駿の漫画「風の谷のナウシカ」で描かれるたそがれの時代も、実際にはこんな風景だったのだろうか。
■明るさの中にある滅びの姿を太宰治は愛した。それは滅びの中にある明るさと同じものだろう。夏の宵を照らす豪華な花火よりも、それが終わった暗い帰り道の方が幼い頃の記憶によく残っている。さびしいのではない、まだ心のどこかにほのかに灯っている高揚感がいとおしいのだ。 ■南ウェールズとウェールズ語については以下のホームページが詳しい。 |
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炭坑というエネルギー ■まったくの偶然だが、オックスフォードから電話で予約を入れた宿は、ロンダ炭田の中心地で、ロンダ文化遺産公園( Rhondda Heritage Park )に隣接した宿泊施設だった。ロンダ文化遺産公園とはつまりは炭坑博物館である。巨大なリフトの残骸や不自然に高い煙突がそこかしこにあり、それと知ってよく見ると、かつての炭坑街の面影が川沿いの集合住宅に残っている。
■公園は、かつて地下に降りる縦穴があった場所に設置され、もと炭坑夫がツアーのガイドをつとめている。地上の建物はかなりずたずたで、トロッコや石炭の固まりが施設内のそこかしこに放置されていた。ひとけがなくさびれた感じが何ともいえずもの悲しかった。その感じは去年訪ねた長崎の炭坑である端島や池島と驚くほどよく似ていた。炭坑の周辺の一種独特な雰囲気がイギリスでも日本でも共通しているのは、いったいどういうわけだろう。
■やがてツアーの呼び出しがかかった。ぼくはたいした期待もせずに見学に訪れたのだが、どうやらこのツアーがロンダ公園の目玉らしい。なにかのコンテストでベスト観光施設賞にも輝いたこともあるという。 ■地上の施設内の説明からはじまるこのツアーは、なんと2時間にもおよんだ。しかしその間、見学者たちを飽きさせない仕掛けがそこかしこに施されていた。炭坑の歴史を語るドラマ仕立ての演出では、遠赤外線通信を使った最新型のマルチ言語システムが導入され、ワイヤレスヘッドホーンで日本語の解説を聞くことができた。この日本語の通訳も決しておざなりなものではなくプロの声優による臨場感あふれる内容であった。 ■カナリアが飼われているゲージや、ガスを探知するロウソク、最新の安全システムなどの解説を聞きながらひとおり地上を見学すると、いよいよヘルメットをかぶってエレベーターで坑道におりる。真っ暗なエレベーターは小刻みに揺れながら、やがてウェールズで一番安全な坑道と説明された地底に到達する。
■坑道の中には所々に採掘道具やトロッコが残置され当時の様子を示していた。ガイドの指示に従いながら見学者たちは重い扉をあけて坑道の中を歩いていく。真っ黒な石炭層の壁や、深部に続く横穴から吹き出す生ぬるい風が、ひたひたと異空間を演出する。「周りの人を確認してくださいと」そういって、ガイドがヘッドランプと坑道の明かりを消す。突然おこる小さなざわめきとやがて暗黒の沈黙。 ■それは深い海の潜水や、鍾乳洞のケービングの経験とよく似ていた。世界のだれからも忘れ去られた場所にいることが、ただそれだけでいいようのない恐怖を呼び覚ます。人は、本当はいつだってそうやって世界の中の忘れられたどこかに、たった一人でいるはずのに、ふだんはそれにまるっきり無自覚でいる。分厚い土や水の層は、この事実を明確に示す装置にすぎない。
■よけいな想像をそれ以上ふくらます間もなく、明かりはついた。そして、ダイナマイトを仕掛けるデモンストレーションや映像によるトロッコの試乗を楽しみ、われわれは地上にでた。 ■最後の見学場所は映画館だった。そこでは炭坑の労働運動の歴史と、これまでほとんど目を向けられなかった炭坑夫の妻である女性たちの生活について上映していた。炭坑が隆盛をきわめたころ、女性たちの寿命は短く、彼女たちの地位は低かったという。 ■本当に間抜けなことに、ぼくは、歴史や思想の本で見聞きしたリカードやオウエン、チャーティスト運動という言葉を、まさかここで耳にするとは思ってもみなかった。考えてみれば、この場所はかつて世界の労働運動の発信源とも言うべき場所だったのだ。1920年にはここで有名な最低賃金闘争が起きている。炭鉱労働者の悲惨な歴史から多くの思想がうまれ、自分たちの存在をかけた彼らの闘いが、今のわれわれの社会をつくったといっても過言ではない。 ■スクリーンに映し出される労働争議の様子を見ながら、ぼくは、学生時代に何気なく立ち寄った映画館でかかっていたセルゲイ・エイゼンシュテインの「ストライキ」を思い出していた。その当時、映像ははるか昔の遠い国の話のように感じられた。しかし風景はまぎれもなく100年前のこの街とかさなる。 ■その場にいるときには決して気づくことのできない、なにか巨大な力に振り回されている人間の営み。世界をささえるエネルギーを盾に生きる人々。
■いうまでもなく石炭というのはただの化石である。太古の太陽エネルギーが植物の体をとおして蓄積された遺物にすぎない。人間はそれを掘り出して消費しているにすぎない。いうまでもなく人が石炭を掘り出すエネルギーが、石炭そのものエネルギーに転化しているわけではない。 ■しかし、当時の炭鉱労働者たちの過酷な環境の中から労働価値説は発見される。「石炭の価値とはなんだ?そりゃあ俺たちの流した汗だ」。さらにそれは労働全収権説へと発展する。「俺たちが掘ったエネルギーに比べて、俺たちの賃金がこんなに少ないのはなぜだ?そうだ俺たちは搾取されているのだ」 ■ここが、同じ化石燃料でも自然に吹き出し採掘に人手がかからない石油との際だった違いである。石油王はひっそり人知れず富豪になる。現在の世界のエネルギーを独占する彼らの存在はベールに包まれ、時には大立者の賛美すらうける。しかし石炭は、労働者と資本家の両方をどろどろとした苦悩の中に陥れていく。 ■「俺たちの労働生産物をすべて俺たちのものに」。イギリスで生まれた協同組合の発想は、自分の労働と生み出されるエネルギーのギャプから生じる「労働からの自己疎外」なくしてはありえない。労働価値から出発し、のちに市場での相対価値へと論を展開したマルクスの思想も、なまなましい人の営みが背景にあってはじめて意味を持つ。 ■いまでも近くのサイノン・バレーには、タワー炭鉱というウェールズ最後の深部炭鉱が残っている。このタワー炭鉱は、1994年にイギリス政府による組合の切り崩しによって一度は閉山の憂き目にあったが、その後そこで働いていた労働者によって買い戻され、現在は労働者株主の協同組合として運営されているという。給料や労働条件も改善され、着実に利益を上げている世界に類を見ない炭坑だ。 ■ウェールズのこの谷は、かつてこうしたさまざまな思想の一つの源泉だったのだ。今は静かな高原の街のたたずまいを見おろしながら、ぼくは近代の不思議さを感じていた。もし石炭がイギリスになく、もし石油が石炭よりもはやく利用されていたら、この街はなかっただろう。この街どころか、世界の歴史はまったく違うものになっていたはずだ。 ■参考ホームページ ブリギッテ・ペツォルト「自ら雇い主になったウェールズの炭鉱労働者」
杉本貴志 ■見たい映画 『ウェールズの山』監督:クリストファー・マンガー
『ブラス!』
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ウェールズの水と人 ■カーディフの街の風景にどこか懐かしさを感じるのは、ここが北九州に似ているからだ。そう、炭坑地帯を背景に海に開けた港町。歴史の交差点。 ■訪ねてみてあらためて、カーディフが北九州市の姉妹都市であり、その市立大学である北九州大学とカーディフ大学もまた姉妹大学の提携をむすんでいる理由を再認識した。 ■すでに書いたように、イギリスははじめての外国として留学するには決してよい国とは思わない。しかし、どうしてもイギリスに行きたい人にはこの街を勧めたい。
■紅茶を一口飲んでおどろいた。味がある!そうビーコン高原の水は硬水だ。湯沸かし器の中の電熱器にカルシウムがつかず、そのかわりにすこし錆びていたのが印象的だった。 ■そして、なによりも人が違う。とても人なつっこくて親切だ。なーんだ、イギリス人もやればできるじゃん。 |
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世界一大きな楽器
■クライストチャーチの大聖堂でバロック音楽を聴いた。巨大なパイプオルガンの音色は建物の中に充満し駆けめぐり天井から降り注いできた。まさに天上の音楽とはこのことか。 ■パイプオルガンは大聖堂の建物全体も含めて一つの楽器なのだと感じた。そしていすに座る聴衆たちは、いわば共鳴箱の中にいるのだ。そう、これは世界一大きな楽器だ。
■それならば、世界一小さな楽器はなんだろう。喉と口の中を共鳴させて音を出すホーミー?身体以外に何もいらない小さな楽器だ。 ■いやまて、モンゴルの草原で聞こえてくるホーミーは、どこまでも続く大平原自体が一つの楽器かもしれない。ならば世界で大きな楽器はホーミーとなる。
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三匹の子豚 ■三匹の子豚の寓話は、絵本コーナーの定番だ。ふと気づいたのだが、これを人類学的に読むと、まるで自民族中心主義の権化のようなテキストではないか。もし西欧文化の優越性が、小さい頃から知らない間に洗脳されているとすれば、これはかなり恐ろしいことだ。ちび黒サンボの比ではない。
・木のお家は日本のお家 ・煉瓦のお家はイギリスのお家
■ある日、オオカミがやって吹き飛ばそうしたのだけど、賢い子豚がつくった煉瓦のお家はびくともしない。 ■これを日本流に読み替えればこうなるだろう。 ■ある日、大きなナマズがやってきて、お家をぐらぐらさせたなら。煉瓦のお家に住んでいた子豚は重い煉瓦の下敷きになって死んでしまいました。藁のお家はすぐに壊れましが屋根が軽くて助かりました。木のお家は優れた柔構造のためにすっくと立っておりました。 ■つづいてソロモン流 ■ある日、海の精霊が波をざぶんと送りました。木のお家はバラバラに壊れてしまいました。煉瓦のお家は海の底に沈んでしまいました。でも藁のお家は水の上にプカプカ浮いて極楽極楽。
大切なお子さまに、民族文化に対する偏った価値観を植え付けないためにも、それぞれのお話しをじっくり語り聞かせ、多様な文化の相対性と自文化のほこりをしっかり学習させましょう。 |
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煉瓦の国 ■イギリス人は火事を非常に恐れている。こんな煉瓦の家なのにどうして火事をそんなに心配するのかまったく不思議である。
■考えてみると自然災害が少ないこの国では、火事くらいしか心配することがないのかもしれない。地震はほとんどおきないようだし、台風もこない。洪水もなければ、ひどい日照りもない。近代以降は戦争による被害もほとんどなく、変な言い方だが、人々は災害慣れしていない。 ■イギリス人は古いものを大切にするという。確かにそのとおりだ。リサイクルは盛んだし、古いものがたくさん残っている。どうやらこの国では「人の手垢のついたもの」はむしろ良いものとして意識されているらしい。それは、すこしでも古くなると捨ててしまい、次から次ぎに新しいものを買い求める今時の日本人のやり方とは正反対だ。
■古いものを大事に使うという自然な発想が、いつから日本人は壊れてしまったのだろう。壊れたのではなく壊されたのかもしれない。黒船がうつ大砲の音で江戸という夢から覚めた瞬間に、あるいは戦火で国が焦土と化したあの時代に、たくさんの大切なものが失われ、その悲しさのあまり古いものにこだわる生き方を捨ててしまったのかもしれない。まあそれも、生き馬の目を抜く消費社会を軽快に駆け抜けるためにはむしろ好都合な考え方かもしれないが。
■イギリス人は歴史を愛している。忘れたい歴史をもたない国民は幸せだ。いやいや、恥ずべき歴史をもたないそんな国があるのだろうか?たんにイギリス人は忌まわしい過去をすべて忘れてしまっているだけかもしれない。なになに「忘れちゃいないよ、忘れたふりをしているだけだ」って?。
■煉瓦の家を立て替えるときは外側の壁だけ残して中をすっかり近代化する。煉瓦の家ならそれはたやすい。もしかすると、これはジェントルマンの美意識につながるのだろうか。見かけは立派だが、中身は欲望渦巻くただのオヤジ。ジキルとハイド。 ■同じように大英帝国の歴史も堂々とした外づらはたしかにしらじらと美しい。
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のこされたゼミ生
■風の噂ではユウダイが小倉に帰ってきたらしい。与那国島の泡盛の酒蔵での半年間のフィールドワークを終えてひさしぶりに小倉に戻っているらしい。蔵ではずっと瓶のラベル貼りなんかをしていたようだ。本人ははじめ、造りに興味があると言っていた。途中で、こんな事をしていて卒論が書けるのだろうかと不安のメールを送ってきたが、それでいいのだと返事をおいて突き放した。ラベル貼りにはラベル貼りの世界があるだろう、さて、なにを見てきただろうか。 ■シゲは夏の間三ヶ月間インドネシアの呪術師のところで生活をしていた。むろん呪術師の修行もかねて。その過程でシゲは特別な力を得て、自分が使う呪術によって、診療所に来た人の病気を癒したこともあったという。「精神病者にとってのリアリティとは一体なんだろうか」ということを一年生の時からずっと考えてきたシゲにとって、呪術という、いわば心に働きによって作り出される別の世界の体験は、非常に刺激的であっただろう。「人はなにを現実だと感じているのだろうか」彼のライフワークはまだ続く。 ■コレちゃんは、ボランティアに入った。失礼な言い方だが、およそコレちゃんほどボランティアににあわない男はいない。「人と自分は違うでしょう、人は人、自分は自分」「ボランティアなんて結局は自己満足の偽善じゃないの」ニヒルで偽悪者のコレちゃんはそういいながら、「子供劇場」という小学生や中学生の活動を支援する市民ボランティアに昨年からずっと参加している。とうぜん、動機はものすごく不純。「ボランティアってそんなに正しいことなんですか?」「どんな奴がボランティアやってんのかなと思って」「障害者や老人は嫌いだから、まあ子供相手にしときます」。フィールドワーカーは決して「観察者」ではいられない、「参加者」としてコレちゃんは「ボランティアをして」いる。「自分でやってることは、たぶんボランティアとちゃうんちゃうかな」とぼやきながら。 ■音楽やっているフカガワくんは、小倉のストリートミュージシャンについて調べている。町で歌を歌っている人はたくさん見かけるが、ストリートミュージシャン同士の交流は非常に少ないらしい。どこかたがいに牽制しあっているようだ。自分をどういう立場にして、彼らの話を聞こうかなどと悩みながら、結局、自分もミュージシャンの一人であることを隠しきれずに、「なぜみんながそこで歌うのか」を探っている。たぶん「自分はなぜ歌うのか」を知るために。 ■酔っぱらいオヤジに泣かされたり、ギャンブルオヤジの猥談につき合わされたりしながら、ユカリちゃんは闘牛の世界に入り込もうとしている。徳之島、沖縄本島、石垣島、与那国島を転々と移動しながら、人々が闘牛に熱中する理由を捜している。まだぜんぜんわからないという。ちかいうちにまた「徳之島」に行くという。小倉をひきはらって島に住んでもいいかときく。いいけど卒論どうするんだ。まあいいか。 ■そろそろ、ユウキちゃんは帰ってくるのだろうか。滞在を延長して、まだミクロネシアのトラック島にいる。調子のいいこといってすぐ手を抜くのが玉に瑕だが、たぶんぜゼミ生の中では一番「大変な」ところでフィールドワークをしているだろう。トラックは近代化と伝統の葛藤のはざまでぼろぼろに傷ついてる社会だ。伝統的な生業技術も失われかけ、かといってろくな賃金労働もなく、島では酒におぼれて銃をもった男たちがうろうろしてるという。どんなに大変なところでも「そんなもんじゃない?」で受け入れてしまうのがユウキちゃんのすごさだ。でも「やっぱり、そんなこともいってられないよぅ」という話も聞きたい。 ■北九州市の研究助成金を手にしたナゴシはプレッシャーに弱い。だからちょっとプレッシャーをかけておこう。ナゴシは小倉沖の藍島にかよいながら、そこでおこなわれているスナメリ(イルカ)ウォッチングについて追っている。漁業とのからみで観光資源としてスナメリをどう考えるのかという問題から、この頃は地元の小学生たちのための環境教育と郷土研究の問題に展開をはかろうとしている。というか、あれでいてナゴシは子供好きなのだ。たぶん「なんでかわからないけど時々小学校に現れるお兄さん」として人気なのだろう。子供と遊んでいるのはいいけど、子供に遊ばれないように。 ■ここまでが4年生。もう半年で卒業なんてもったいないから、もう少しいない?3年生たちは、まだなにがなんだかわからないうちに指導教官が日本から消え、4年生の姿を見ながら暗中模索している。
■お芝居をやっているクロダサダコは、夏の間、長い髪を利用して、遊園地のお化け屋敷で小説「リング」の貞子役をしていた。むろんこれはバイトである。彼女は養護施設の自閉症の子供たちをみながら、その子たちの遊びのなかにあらわれる斬新な発想を、彼らと同じ視点から理解しようとしている。お芝居をするときの自分に重ね合わせながら、なにかに「なりきって」遊ぶときの子供の姿を追っている。一筋縄ではいかないテーマだろう。でも、「何歳から子供はお化けを怖がるようになるのだろう。ベビーカーに乗っているようなちいさい子は泣きません」などと、バイトをしながらも見べきところはちゃんと見ている。 ■歳をとってからの夫婦登山にあこがれる山が好きなミヤケは、山小屋でバイトしながら登山客のフィールドワークをすると言っていたが、いきなり「メキシコのロスカボスという所にも三日間ほど滞在したのですが、日本とアメリカ、そしてメキシコの文化の違いというか人間のちがいをひしひしとかんじました。国が違うと人間同士なかなかうまくいかないこともわかる気がする。メキシコでは踊りまくって、まだバカンス気分から抜けきれませんが、もうすぐ夏休みも終わっちゃいますね。」などというメールをよこしてきた。どんな踊りを踊っていたのかは気になるところだが、なかなかよろしい。 ■ナガオナミ。もっぱら内気でおとなしい人という印象で通っているようだだが、ぼくは決してそうは思わない。唐突にこんなメールを送ってきた。 計画をたてました。チケットが取れて良かったです。
9/6 チェンマイにいく トレッキングとかして出来るだけ山岳民族のところへ通う ■おいおい「こんな計画でタイに行くなや」といいたいところである。気をつけて、いや、もうすぐ帰ってくるのか、なにを見てきたのかな。 ■マサヤン。一年生のころこからぼくの周辺に出没しているマサヤンは、ナガオナミと同じく超法規的措置によって学部を越えてやってきたゼミ生だ。初めの頃は芝居の照明の仕事をしていて「もっと光を」とよくわかんことを叫んでいたのが、いつのまにか現代舞踏にはまり、このごろはいろんなところで踊っている。かつてぼくが調査していた頃に村でみたトランス状態を引き起こす伝統歌謡ディキバラの話をすると、それに惹かれて旅に出た。親の反対にもめげず、保護者としておばさんまで巻き込んで尋ねたマレーシアは、マサヤンの踊りを変えただろうか。 ■モンチは2年生。まだゼミ生ではない。1年生の時にぼくとであったのが運のつきで、西表やら軍艦島やらに引きずりまわされたあげく、九州フィールドワーク研究会(略称:野研)の立ち上げまでするはめになり、大学ってこんな所かと、正しくだまされたまま、今はアラスカにいる。いろんな人のところで居候生活をしているらしい。いつ帰ってくるのだろうか。 ■なんの因果か人類学は、自分の体を持ち込んで、その場所にいることからしかなにも語れない。自分のまったく知らない人々や彼らの持ってる世界の異質さに戸惑いながら、ゼミ生たちがなにを見て、なにを考えてきたのか、酒でも飲みながらじっくり聞いてみたい。言葉にならないいろいろなことも、身振りや手振りを交えて伝わるのなら最高だ。これだけの経験を語るのだから、たぶん一夜をあかしても尽きないだろう。どんなささいなこだわりでも、まずは感じたことをすべて吐き出してから、おもむろに卒論にむかうとしようか。来月、いったん日本に帰る。とても楽しみである。 ■ひまがあったらのぞいて欲しい。ついでに、いろいろ書き込んでくれるともっとうれしい。ゼミ生たちをほったらかして、イギリスくんだりでペールエールの水色に思いを巡らす名ばかりの指導教官に代わって、するどい一言をいただけると非常にありがたい。
■「九州フィールドワーク研究会」は誰でも入れる。自然や街や人が好きで、そういう話を楽しみたい人は、ぜひぜひ一緒に遊んで欲しい。今日は書かなかったが、いまなら埼玉までママチャリこいで旅をしたトウソンの、最高にイケてるエッセイが読めるぞ。 ■さいごにゼミの卒業生に連絡。というわけで学祭のときに報告会がてら集まろうと思う。豚を殺して食べる。卒業生のみんなにも伝えておねがい>シラタケさま。 |
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お客様
■10月は人の出入りが激しくて忙しい月だった。オックスフォードで住む家がなくなって最初の一週間は、マンチェスターの近くに住むソロモン人のビショップ・ウィリーの家にお世話になった。ウィリーの妻ケイトは、ぼくがもう10年以上通っているファナレイ村のチーフの妹で、94年にホニアラに住む彼女の家に遊びに行って以来の再会である。ウィリー一家は96年からイギリスに滞在しており、当時まだ小さかった子供たちはもうりっぱな若者になっていた。
■ウィリーの家では本当にゆったりとすごすことができた。これだけリラックスできたのはイギリスに来て初めてである。イギリス生活が長いとはいえ、彼らの歓待はまさにソロモンスタイルそのものだった。食べきれないほどのご馳走と、村の人々の消息をネタにした冗談話。なぜかいまだに英語よりもピジンのほうがのびのび話せる。
■ウィリーは今ちいさな村にある築1000年ほどの古い教会(その筋ではよく知られた教会らしい)の牧師をしている。地域の有名人らしく、村の人々の信望も厚い。道行く人々がみなビショップに話しかけていくのがとても印象的だった。去年ソロモンの若者が日本に遊びに来た時にも感じたのだが、あらためてソロモンの人の適応力に感心した。ぼくがソロモンでうまくやっていけるのも、実はぼくの適応力というよりは、村人のぼくに対する適応力のおかげだったのかと思った。
■そしてもう一つ感心したこと。ソロモンの人たちは本当に子供を扱うのが上手だ、男も女も年寄りも若者も、すぐに子供をてなづけてしまう。これはイギリス人や日本人にはとても真似できない技だ。子供のよろこぶツボをよく押さえており、子供の表情や次の行動を的確に判断している。なにか危ないことをしそうになると、ぼくが気づく前に、なにもいわずスッと手をさしのべる。葵や玄之介も瞬く間にウィリー一家の虜になった。 ■ケイトの料理も美味しかった。料理好きの彼女のためにわれわれも日本の料理を教えた。ケイトはとくにサバの薫製を使った魚料理を喜んでいた。おいしい魚がなくてさみしいのはソロモン人も日本人も同じだ。 ■帰るときになってケイトは「これおみやげだから、帰りに食べなさい」と大きなつつみをくれた。 ■電車の中であけるとなんとニワトリの丸焼きが入っていた。まったく正しいソロモンスタイルである。ぼくはファナレイの村を離れるときに自分のニワトリを潰して持たせてくれた友人の顔を思い出した。バージントレインの中のローストチキンは、友人が白い浜にたたずみながら船を見送ってくれたときの風景とかさなって、なんだかちょっと泣けてしまうほどうれしかった。
■オックスフォードにもどりウィークリーフラット(セルフケータリング)の空きがでるまでは、とりあえず安宿に泊まることになった。ぼくが不在PTA会長をしている志徳幼稚園の先生たち4人がやってきたのはちょうどそのときである。本当は夏に来る予定だったのだが、飛行機がとれずこの時期になった。われわれも家がなかったこともあり、なかなか連絡がつかなくて苦労をかけてしまった。 ■イギリスに来たのは園長と男の先生ふたり、そしてお供として園長の息子だった。こちらでは幼稚園の見学をした。玄之介が通う幼稚園(小学校 first school と併設)に見学の許可をとり、半日かけてイギリスの教育制度と、地域活動とリンクした幼稚園のあり方を見せてもらった。これには通訳兼紹介者としてぼくも参加したが非常に興味深いものだった。
■玄之介の幼稚園は、オックスフォードという地理的条件もあり大学関係の海外からの子供たちが非常に多い。そしてこれはいかにもイギリスらしい事情だが、このあたりは古い下町で労働者階級の子供たちも多いという。こうした複雑な文化的背景をこの幼稚園では逆に教育の場に利用している(先日は学校でインターナショナルディというパーティがあり、みんなで各国の食事を持ちより、民族衣装をきて夕食を食べた。)
■幼稚園と小学校の教科は「国語」「算数」「理科」「地理歴史」「身体教育「美術」「音楽」「技術」「コンピュータ」の9科目ある。とくに「技術」と「コンピュータ」の科目が低学年からあるあたり、いかにも古くからの技術大国の伝統をもつイギリスらしいなと思った。コンピューターは幼稚園のクラスにもインターネットにつながった端末がおかれていた。 ■幼稚園は15人程度の小クラス制、1クラスには2人の先生がついていた。小学校ではオープンクラス制をとり、二学年が合同で授業をしていた。それぞれの授業はグループ単位で活動するのが基本のようだ。同じクラスでもグループによってそのときどきの授業内容や作業が違ったりする。そして、日本と比べて一番違うのは、幼稚園のころからみんなの前で話や歌をする機会が非常に頻繁にあるということである。しかもこうした発表は集団ではなく1人(か2人)ですることが多い。小さい頃から人前で自分を表現する訓練をしているのである。
■幼稚園の先生たちが帰ったあとは、フランスから探検部時代の友人、東桂が遊びに来た。彼女は映像人類学に興味をもち、いまパリで勉強をしている。そしてもう一人ロンドンから大和君が来た。大和君とは、ちょうど5年前の秋(といえばぼくが北九大に来る半年前)の1995年に、京大の吉田寮の廊下であっていらいの再会だった。
■ぼくにとってもいろいろなことがあった5年間だったから、旅をしていた彼にとってはもっとたくさんのことがあっただろう。でも、ふたりとも昔とと変わらない感じで、久しぶりに大学時代を思い出して楽しかった。なにしろ二人とも歩くのがすきな人たちだからよい。観光には興味もないし、おみやげも買わなくていい。だから時間がある。広大な氾濫原を横切り川沿いのパブまでつづく、オックスフォードで一番とっておきの散歩道に招待した。 ■しかも、折しもイギリスはアタックの季節で、夏のあいだずっと目をつけていた栗やリンゴが収穫の時を迎えていた。東桂は人目を気にせず、パブの中にあるリンゴの木に登りはじめる。さすがアタッカーである。そして持ちきれないほどのリンゴを服の下に隠して帰ってくる(からだのラインはボコボコで隠したことになってないのだが)。それでも一日目は十分持ちきれなかったので、つぎの日はリンゴを入れるカバンまで用意しての再挑戦だ。そしてそれは、リンゴたっぷりの美味しいアップルパイになった。(さらに東桂はしきりに鴨をとりたがるのでちょっと困った。しかたがないから市場で買った。同じ事か。) ■イギリス人では、道に落ちているものを拾うのはある種のタブーらしい。公園の栗もあまり拾う人がいない。おかげでわれわれはたくさんの栗を手に入れた。キノコもいろいろな種類がたくさんはえている。これもたくさんとった。(キノコに関しては、図鑑を買ったのだが。イギリスのキノコ図鑑は日本のに比べるとやたら「食べられない」という記述が多い。イグチの仲間にもドクロマークがあるし、まるでマイタケのようなキノコにもダメとある、でもよくわからない)。
■というわけで、一年目の滞在中だけで、なんと16人の日本からのお客様がイギリスを訪ねてくれて、そのうち13人がわざわざオックスフォードまで足を運んでくれた。ばたばたしてちゃんと相手できなかった時もあったけど、みなさんそれぞれ楽しめましたでしょうか?また来年もイギリスに遊びにきて下さいね。 |
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