このごろホームページの投稿がメールに流れていなかったので直しました。うまく直っているかどうか試験送信します。
大丈夫のようですね。
これを機に再び活発な議論が復活することを願っております。
今週の金曜日のゼミは2号館で。沖縄料理をつくるよていです。
遅ればせながら渡辺くんのホームページへのリンクもはっておきます。
今チェンライです。山岳民族の子供たちの寮に滞在してます。子供たちは私のカタコトのタイ語でも大喜びで私の日−タイ語辞典を取り合って話をしようとしてくれます。でも山岳民族はもともとタイ語ではないので寮に入って間もない子はタイ語すら通じません。
貴重な時間ですが、プライベートな時間がないというのはなかなか辛いですね・・・。
昨日はヨハンがメーサーイまで用事があるというのでついて行きました。(ヨハンも山岳民族のアカ族出身)ミャンマーとの国境も見ました。今関係が悪化しているので通ることはできませんでしたが・・・。
谷口さんの農場のこともあるし、卒論のテーマは定まりました。
山岳民族のタイ国内への流出、差別、教育の問題、山を降りる事情を農業や麻薬問題も含めて書きたいと思います。
谷口さんの農場のこともあるし、卒論のテーマは定まりました。
もう見つけたの〜!?
山岳民族のタイ国内への流出、差別、教育の問題、山を降りる事情を農業や麻薬問題も含めて書きたいと思います。
アヘンもって帰ってきてね♪待ってます。
山岳民族のタイ国内への流出、差別、教育の問題、山を降りる事情を農業や麻薬問題も含めて書きたいと思います。
アヘンもって帰ってきてね♪待ってます。
麻薬で空港で捕まったら実刑は確実、最悪死刑ですよ!!!
そして最近はもう阿片はそれほど問題ではなく「ヤヴァ」という麻薬が問題視されとります。一部の調査では高校生の7割は一度は経験した事があるとも言われてます。山岳民族大いに絡んでます。
寮で子供たちの里親への手紙代筆やってんだけど「この間村の父親が麻薬で捕まりました。25年の刑期です。残念です。」とかいう内容もあってかなりシビアです。問題多すぎてもうオナカイッパイです・・・。
山岳民族のタイ国内への流出、差別、教育の問題、山を降りる事情を農業や麻薬問題も含めて書きたいと思います。
アヘンもって帰ってきてね♪待ってます。
だめだめ。そんなの。そもそも麻薬問題の調査なんてそんなに簡単にできるもの?心配だなぁ。
そして最近はもう阿片はそれほど問題ではなく「ヤヴァ」という麻薬が問題視されとります。一部の調査では高校生の7割は一度は経験した事があるとも言われてます。山岳民族大いに絡んでます。
きをつけて。
今チェンライです。山岳民族の子供たちの寮に滞在してます。子供たちは私のカタコトのタイ語でも大喜びで私の日−タイ語辞典を取り合って話をしようとしてくれます。でも山岳民族はもともとタイ語ではないので寮に入って間もない子はタイ語すら通じません。
貴重な時間ですが、プライベートな時間がないというのはなかなか辛いですね・・・。
昨日はヨハンがメーサーイまで用事があるというのでついて行きました。(ヨハンも山岳民族のアカ族出身)ミャンマーとの国境も見ました。今関係が悪化しているので通ることはできませんでしたが・・・。
谷口さんの農場のこともあるし、卒論のテーマは定まりました。
山岳民族のタイ国内への流出、差別、教育の問題、山を降りる事情を農業や麻薬問題も含めて書きたいと思います。
楽しそう〜
今チェンライです。山岳民族の子供たちの寮に滞在してます。子供たちは私のカタコトのタイ語でも大喜びで私の日−タイ語辞典を取り合って話をしようとしてくれます。でも山岳民族はもともとタイ語ではないので寮に入って間もない子はタイ語すら通じません。
貴重な時間ですが、プライベートな時間がないというのはなかなか辛いですね・・・。
昨日はヨハンがメーサーイまで用事があるというのでついて行きました。(ヨハンも山岳民族のアカ族出身)ミャンマーとの国境も見ました。今関係が悪化しているので通ることはできませんでしたが・・・。
谷口さんの農場のこともあるし、卒論のテーマは定まりました。
山岳民族のタイ国内への流出、差別、教育の問題、山を降りる事情を農業や麻薬問題も含めて書きたいと思います。
楽しそう〜
おもそう〜
山岳民族のタイ国内への流出、差別、教育の問題、山を降りる事情を農業や麻薬問題も含めて書きたいと思います。
楽しそう〜
おもそう〜
ちゃんと削除すべきでした。
今チェンライです。山岳民族の子供たちの寮に滞在してます。子供たちは私のカタコトのタイ語でも大喜びで私の日−タイ語辞典を取り合って話をしようとしてくれます。でも山岳民族はもともとタイ語ではないので寮に入って間もない子はタイ語すら通じません。
この辺が楽しそう。
ヨリコてがみついたぞカモノハシ。
夏のホリデーはぜひともバヌアツにまいられい
ヨリコてがみついたぞカモノハシ。
夏のホリデーはぜひともバヌアツにまいられい
よりこは今ニュージーランドだって。
楽しいんだってよ♪
よりこは今ニュージーランドだって。
楽しいんだってよ♪
なんと!バヌアツの方が絶対楽しいのに。
ところであしたはなんの漁でしょうか?うなぎ?
よりこは今ニュージーランドだって。
楽しいんだってよ♪
なんと!バヌアツの方が絶対楽しいのに。
本当にそうだたっかも。今日の朝、オーストラリアに帰ってきましたよ。ニュージーランドは何処に行っても、日本人観光者ばっかりで、興ざめ。
GLOWING WARMという洞窟の中で光りながら育つ昆虫を見てきたよ。洪水で洞窟すべてを見る事ができなかったけど、その青さに感動しました。蛍とは違った光だった。ピカぴかぴかッ っていうのじゃなくって、 つーーーーーと光るって感じ(?!)
来月からは再び学校が始まりまるよ。
なんと!バヌアツの方が絶対楽しいのに。
本当にそうだたっかも。今日の朝、オーストラリアに帰ってきましたよ。ニュージーランドは何処に行っても、日本人観光者ばっかりで、興ざめ。
あきらめるのはまだはやい!!!滞在中に必ずやバヌアツへいかう。ブリスベンからはとても行きやすいのだから、絶好のチャンスだと思います。
二人でいくにはニュージーランドがすてきかもしれないが、一人で行くならバヌアツだ!!
GLOWING WARMという洞窟の中で光りながら育つ昆虫を見てきたよ。洪水で洞窟すべてを見る事ができなかったけど、その青さに感動しました。蛍とは違った光だった。ピカぴかぴかッ っていうのじゃなくって、 つーーーーーと光るって感じ(?!)
なんだこの虫は?
というわけで、ブリスベーン報告を楽しみにしております。
ユウキは今はタイ・・・。
火曜日からチェンライに一週間〜10日行ってきます。
山岳民族の子供たちにタイ語などを教えている寮付の学校みたいな施設で何人かわからないけどヨハンという人が経営しています。
そのヨハンの師匠で、現地の人に米の大量生産法を教えている谷口さん(78歳)という人が火曜日に施設に遊びにくるということなので、それに合わせて行ってきます。
この学校のプロジェクトは民営のボランティアみたいなものですが、無料ではなく山岳民族の親たちから月500バーツ貰っています。現金収入のない山岳民族の人にとって月500バーツはけっこう高いと思うのですがそうまでして子供に教養を・・・とおもう背景など考えることはたくさんあります。
山岳民族の村の中でも500バーツ払える家庭、払えない家庭があるとしたら村の中で現金介入による貧富の差が出てきているのではないか。
子供にタイ語を学ばせて将来どうしたいのか。山を降りて町の仕事に就かせたいのか。それとも差別を受け、立ち退きによって移動させられている現状に対して自分たちの権利を主張するためにタイ語を学ぶのか。
年頃の子供たちの施設での生活は町や近代文化に憧れを抱かせ、卒業後の山離れを起こさせないか。
いろいろと考えてきます。
ほかにもテーマとしては「チェンマイにおける日本人リタイアの姥捨て事情」や「在タイ日本人は西日本(特に関西)出身が多い?!」なども気になりましたが、滞在期間が短いためチェンライに行くことにしました・・・。
みなさんなにか意見や考えられる可能性をお願いします。
火曜日からチェンライに一週間〜10日行ってきます。
山岳民族の子供たちにタイ語などを教えている寮付の学校みたいな施設で何人かわからないけどヨハンという人が経営しています。
そのヨハンの師匠で、現地の人に米の大量生産法を教えている谷口さん(78歳)という人が火曜日に施設に遊びにくるということなので、それに合わせて行ってきます。
行ってらっしゃい。もう出発してるかな。なんだかややこしいけどおもしろそう。その学校だけじゃなくて、ヨハンさんとか谷口さんにも興味あるし。チェンライって象使いの村とかもあるんだってね。それも機会があったら見てきて!楽しそう。
ほかにもテーマとしては「チェンマイにおける日本人リタイアの姥捨て事情」や「在タイ日本人は西日本(特に関西)出身が多い?!」なども気になりましたが、滞在期間が短いためチェンライに行くことにしました・・・。
「チェンマイに〜」の意味がどうしてもわかんない。
また移動です。パヤオに行きます。
ネットできないくらい田舎かも。しばらく連絡途絶えます。
谷口さんと言う仙人みたいなじいさんに面倒みてもらってます。
急いでるのでまた!!
また移動です。パヤオに行きます。
ネットできないくらい田舎かも。しばらく連絡途絶えます。
谷口さんと言う仙人みたいなじいさんに面倒みてもらってます。
急いでるのでまた!!
おお。どこに向かっておるのじゃ!!
気をつけて。
またチェンライです。
谷川さんは相当の頑固おせっかい爺で困ってます。
いそいでるのでまた。
ホームページはじめました。とりあえず卒論をアップしてます。
他にもちょこちょこやってます。
ヒマな時にでもおつきあいください。
[miirakansu]
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8451/
複式呼吸ではなくて腹式呼吸じゃないかとおもうんだなぁ。
複式呼吸ではなくて腹式呼吸じゃないかとおもうんだなぁ。
…そうですね。変換間違いです。気づかなかった。
タイにいってまいります!
とりあえず、いち早く向こうで友人を作りたいです。
またまた山のようにフィルムを持っていくので、帰ってきたら写真会します・・・。
それでは楽しんできます。気になったことはちょくちょく書き込みますんで、みなさん突っ込んでください。
タイにいってまいります!
いってらっしゃ〜い。
あの、空に飛ばすやつ、調べてきてねー。
タイ人の友達いっぱい作って、楽しんできておくれ。
タイにいってまいります!
とりあえず、いち早く向こうで友人を作りたいです。
またまた山のようにフィルムを持っていくので、帰ってきたら写真会します・・・。
それでは楽しんできます。気になったことはちょくちょく書き込みますんで、みなさん突っ込んでください。
いってらっしゃい、ってもう行ったのかな。楽しんでね。
ドウブツエンズキハモグレ
到津の森 公園
園長 岩野俊郎
VS
北九州市立 大学
助教授 竹川大介
6月19日(水) 朝9:00 北九大C-201 「人間活動と環境」
http://www.apa-apa.net/kok/news/kok207.htm
来週の日曜日に豊津の棚田で田植えがあります
くわしくはあらためて
来週の日曜日に豊津の棚田で田植えがあります
くわしくはあらためて
行橋の棚田で田植えをしましょう
場所
ひとくわ農場
6月16日9時からひる頃まで
弁当持参
交通
行橋方面から椎田バイパスの築城インターで降りて右折。
一つ目の信号で左折して畳屋さんのところを右折して、
上り坂に。赤いやねのお稲荷さんが目印。
卒論のタイトルわすれずに出しましたか?
新しいメンバーをメーリングリストに登録しました。届いてますか
卒論のタイトルわすれずに出しましたか?
出しました!
酒とソーセージとマスタードの
今日のマスタードパーティ
わたしはまだ家で仕事中ですが
3時より研究室出発で買い出しにいきます
家に直接くる方は4時から
よろしく
題目届の事です。教務課から今の所電話は掛かってきてません。(まあ今日は掛かってこないでしょうけど)
題目届の事です。教務課から今の所電話は掛かってきてません。(まあ今日は掛かってこないでしょうけど)
事務の中のひきつぎがうまく行っていない可能性がありますね。
でも、そんなひと事みたいなことかかないで、昨日のうちにもう一度対処すべきだったのでは。
理由書を見せにくるかと思って研究室で待っていたのですが、ゼミ室をのぞくともぬけのからでした。
4月のときの事情を考慮すればまだ何とかなる可能性はあるので、月曜日にすぐに理由書をもって行くべきでは?
自分でできるだけのことはしてみて下さい。
題目届の事です。教務課から今の所電話は掛かってきてません。(まあ今日は掛かってこないでしょうけど)
事務の中のひきつぎがうまく行っていない可能性がありますね。
でも、そんなひと事みたいなことかかないで、昨日のうちにもう一度対処すべきだったのでは。
理由書を見せにくるかと思って研究室で待っていたのですが、ゼミ室をのぞくともぬけのからでした。
すみません。劇研の部室でかいていました。
4月のときの事情を考慮すればまだ何とかなる可能性はあるので、月曜日にすぐに理由書をもって行くべきでは?
そうですよね。月曜日の朝一番に行きます。(昨日夕方頃、携帯の番号を書き間違えた気がして教務課へ行き、確認するついでにどうなっているのかそれとなく聞いた所まだ来られていない為、追って連絡するとの事でした。)それから、理由書の内容を確認していただけないでしょうか。打つのが遅いのですぐという訳にはいきませんけれど…。
自分でできるだけのことはしてみて下さい。
はい。ご迷惑ばかりお掛けしてすみません。
ごめん一時的にリンクが切れてた。
火曜日の更新以来のようです。
主観の問題である「おもしろい」をいかに客観の問題として扱うか、
っていうのは、自分がおもしろいって感じたことを、
どう説明するかってこと??
わかんなーい。
参加させて・・・。
こんにちは。
先週は体調が悪くなってゼミを休んでしまいました。
その時にでた問題なのかな?これ↓
「主観の問題である「おもしろい」をいかに客観の問題としてあつかうか。」
表現について考えていく私にとってこの問題はよく考えていかなくてはいけないことです。
大ちゃんがどういう意味でこの文を書いたのかわからないのですが、
この文を読んで考えたことを書いてみます。
「おもしろい」かどうかの判断は、人を多くの面で左右していると思います。例えば「この人おもしろい」と思って他人に興味を持ち、接近したいと考えることがあります。
それは、よく知らない他人なのに一部分からその人の判断をして「おもしろい」と思うことです。
そして「おもしろい」と思ったのがなぜなのか言葉できちんと説明しなさいと言われてもできないことは多いと思います。
むしろ、言葉でうまく説明できないからこそ「おもしろい」と感じるときもあると思います。
選択に迫られた時に「おもしろい」と感じること・直観などの判断に頼ることがあります。なぜなのか説明することはできないけどそうしたかったから、という選択です。
選択をした後で、なぜその選択をしたのかを省みて、「ああ、こうだからだったのかな」と思うことはあっても、選択する瞬間は頭で論理的に考えてしていることは少ないように思います。
たくさんの暗黙の前提(←最近気になる言葉です笑)があって身体がそれを選ぶとも言えるかもしれません。
私が問題だな、と思うこと。
例えば、誰かがたくさんのダンサーが踊り手になった経歴をアンケートから分析するとします。
そうしたらその理由になんらかの傾向があらわれるかもしれません。
そうした分析に意味はあると思います。
しかしその結果から、「ダンサーになる人たちはこういう人たちなんだ」と一般化され、「ダンサーに『なれる』人たちはこういう人たちなんだ」と思うことが起こるとすると問題のように感じます。
客観的な分析が多用されることが常識になることによって、客観的な分析で出た結果に従って判断をしなければならないと思い込むこと。
このことは問題をひきおこしているように思います。
この間NHK教育テレビで小中学校で行われている「表現ダンス教育」の番組と、現代書家の人が小学校で授業をする番組を見ました。
「表現・・」のほうでは、その番組で紹介されていたダンスの授業の方針は「細かい動きができるかどうかに評価を限定しない」ものらしく、子どもが感想で「ダンスは競争じゃなくて誰が一番ってわけじゃないから楽しい」というようなことを言っていました。
書家の授業は子ども一人一人に好きな漢字を一つ選んで好きな素材に好きなように書かせ、好きな場所でそれを写真に撮らせるという授業をしていました。子どもはみんなまったく違う表現方法を取っていて、私はそれを見て感動してしまったんですけど、それは置いといて(笑)。
その授業の感想でも子どもが、「正解がないからいい」というようなことを言っていました。
私は学校に入ってから、特に中学・高校では、正解を常に選択することを強制してくる圧力を常に周りから感じていました。
それがとても嫌だったので、私はほとんどの授業中は授業を聞いていませんでした。耳を素通りさせて、頭をからっぽにして死んだように授業を受けていました。そして定期試験の前に一夜漬けをして知識をいちからインストールしていました。記憶すれば覚えられることを授業を聞いて覚える必要があるとは思えなかったし、なにより授業を聞いていることがしんどくてしょうがありませんでした。今思えば勉強を自分風にアレンジして授業中も楽しめばよかったなーと、大ちゃんのこくらにっきの勉強法を読んで思いました。
勉強とは本来は正解がないから楽しいのであって、勉強は答えを探すためにするものだと思います。
それをねじ曲げて「正解は既に決まっていて、そこにたどり着くために勉強をするんだ」と思わされるようになれば、勉強は楽しくなくなります。
そこにはこなす楽しみがあるだけです。
話を「いかに客観の問題として考えるか」についてに戻すと、
私は「本来は主観で選択して決定してきたものは、外部から決定の基準を押し付けられることでどんな弊害が起こってくるのか」について検討していきたいと思っています。
「おもしろい」という決定は、その選択基準が曖昧で自分なりのものであるからこそだと思います。だからその選択の方法を外側から押し付けられるときに起きる弊害が気になっています。
(そのため今国会で審議されている「メディア規制」法案はとても気になります。
表現方法を権力が上からむやみに押さえ込んでいくこと、これはあってはならないことだと考えます。このことも置いときます。)
こんなことを考えているので、最近カルチュラルスタディーズが気になっているのですが、
この「本来は主観で選択して決定してきたものは、外部から決定の基準を押し付けられることでどんな弊害が起こってくるのか」を考えるのであれば、「主観がどのように個人の表現を形成していくのかをどうやって検証していくか」についても考えなくてはいけないよなあと思いこれからの研究方法・大学院をどこにするかを悩んでいます。
なんだか相談っぽくなってきました(笑)
こうなったら迷ってること全部書いちゃいます。
個人の表現の違いの形成について考えるために福島真人さんの学習理論の本や認知科学の本を読んだりしていたのですが、さしあたり受験勉強をしなくちゃー、でもどこ受けるかがきまらなーい、というジレンマになっています。今日は新しい展開を探そうと九大に文献を漁りに来ているのですが、この文章を書いて一日が終わっていっています(笑)。
(しかしいいんです、こんな日もあります。たぶん今日初めてピアスを開けたので身体の使い方がちょっと変わったのです。書けるときに書いとかないと文章は書けないのでいいのだ、たぶん。)
文化人類学の分野でやっていこう、というのは決めています。
でも、「舞踊」を専門にやっているところやらスポーツ人類学やらもあるし、フィールドはどこにするか決めていないし、「伝統文化」や「民俗芸能」の概念についてや、共同体の変容についてや、イスラム教についてもやりたいような気もする、など中途半端でまとまりません。
「主観の問題である「おもしろい」を『大学院で』いかに客観の問題としてあつかうか。」
これが今の私の問題です(笑)
長くなりましたがぶっちゃけてみました。
全部消したくなってきましたけど、私の「よく知らないことを口に出さない」という癖ももうそろそろ破綻させて恥をかくのに馴れていこうと思いますのでこのまま投稿します。
みなさんよかったらアドバイスがあればお願いします。
おもしろいと「感じる」ことと、おもしろいと「説明する」ことは別のことかもしれないけど、まずもって、本人がおもしろいと感じないことには、そもそもそれを説明したいという欲求は生まれないようにおもう。
「説明する」ことによっておもしろさが半減するという場合もあるかもしれない。逆にますますおもしろくなるという場合もあるかもしれない。
どんなに一生懸命「説明」してもそのおもしろさは他人に伝わらないかもしれないし、そもそも他人はそんなことにおもしろさを「感じ」さえしないかもしれない。
それでも大事なのは「私」がおもしろさを「感じて」いるということであり、なんとかしてそれを他人に伝えようとする欲望のようなものなのだと思う。
もし、自分がおもしろいと思っているものを、おもしろくないと言われたら、なんとかおもしろがらせてやろうとするだろうし、おもしろくないと言われて、そんなもんかなと納得してしまうのであれば、やっぱりその程度のおもしろさなのだろうと思う。
あいつにはどうせこのおもしろさはわかんないのだなんて思うことは、私もしばしばあるけど、それでも、なんとかうまく伝える方法はないだろうかと考えてしまう。
たとえば蕎麦の味がわからない人に、どうしたらこのうまさを説明できるのっだろうか・・・などと。
「主観の問題である「おもしろい」を『大学院で』いかに客観の問題としてあつかうか。」
これが今の私の問題です(笑)
この問題からはずいぶんずれてしましましたが・・・。
長くなりましたがぶっちゃけてみました。
全部消したくなってきましたけど、私の「よく知らないことを口に出さない」という癖ももうそろそろ破綻させて恥をかくのに馴れていこうと思いますのでこのまま投稿します。
とてもよい傾向だと思います。
みなさんもどんどん参加しましょう。
勉強とは本来は正解がないから楽しいのであって、勉強は答えを探すためにするものだと思います。
ちょっと思ったこと。
正解がないから楽しいのだろうか。
正解がないのも楽しいではないだろうか。
だって私達は、答えを見つけようとする。自分なりの答え。自分なりの正解。
自分にとっての正解を見つけるのは楽しい。
あなたと私にとっての正解を見つけ出すのは難しい。
教科書に載っている「正解」にはまるで迷いがない。
どうしてそんなにすっぱりと
「これが正解です」なんて胸をはれるのだろう。
色んな見方、色んな話があるのに、
沢山の物を隠して、ほんの一部分だけ切り取って見せる。
国としてのスタンスが決まっているから、迷わずに済むのだろうか。
もし、自分が何かの教科書を作るとなったらどうだろう?
「答え」を伝えることができるだろうか。
渡辺拓也さま
今日たまたま、稲月さんと昼食をともにしたので、ワタナベ君のことを話しました。谷さんのところは厳しいけれどなかなか面白そうな研究室のようです。
ついでに稲月さんとは、生活誌について、フィールドワークについていろいろ語りましたが、いまのワタナベ君の方法論的な悩みのようなものを考える上で役に立ちそうな気がしました。
私たちはフィールドで体験しなければならないし、なおかつそれを語らなければならないという問題です。
というわけですので、もたもたしないで、ぜひはやめに訪ねて行ってみてください。
大阪市立大もさっそくのぞきにいくとよいと思います(フィールドにあいさつがてらね)。
フィールドワークの経験を持っていること、それがうちのゼミの売りです。(それ以外には、ほとんど売りがないといわれると苦しいけど・・・)でも、まあそのへんは自信を持ってよいと思いますよ。ワタナベ君のこれまでの研究について語ってみてください。
ではでは。
フィールドワークの経験を持っていること、それがうちのゼミの売りです。(それ以外には、ほとんど売りがないといわれると苦しいけど・・・)でも、まあそのへんは自信を持ってよいと思いますよ。ワタナベ君のこれまでの研究について語ってみてください。
ではでは。
ありがとうございます。
早めに稲月先生のところへお邪魔しにいきます。
ネット人類ゼミのMLが動くかな?どうかな?
まだうまく動きませんねぇ。しばしお待ちを。
まだうまく動きませんねぇ。しばしお待ちを。
うまく動いていますよ!!!
オーストラリアはだんだん秋らしくなってきました。気温の変化のせいか、
抵抗力が落ちていたせいか、この前は扁桃腺炎で苦しみました。喉に白い豆腐のようなモノ(自分で自分の喉の写真を撮りました。観覧したい人は教えてください。本当に気持ちが悪かったので。医者もオエーって言っていました。)ができて、食べ物を飲みこむどころが、唾さえも飲み込めなくて、健康の大切さをしみじみと感じさせられました。
ところで、ワラビ餅の話題ですが、私も道端で面白いものに出会ったりします。Possum(ふくろうねずみ、ユビムスビ?),Ibis(トキみたいなの)
Bush Turkey(小さな七面鳥)、Bat( 日本のコウモリよりも大きく、恐いです)大きなゴキブリ(この前私の背中にアタックしてきた!!!)、蟻(噛まれたらすごく痛い)、カワセミ(人間なれしていて、ピザを横取りします。)。
こちらは動物は沢山いますが、日本のように屋台がないのが残念です・・・。
私は今、アボリジニーアートについて調べています。かれらにとって、アートの機能と意味が変化してきているのではないか?ということです。ツーリズムや、マーケットの影響を考える予定です。
それでは近況でした。
賀子。
まだうまく動きませんねぇ。しばしお待ちを。
うまく動いていますよ!!!
ありがとう。まだちょっと微妙な問題が残ってます。MLから流れてきたメールに返事を書くと、MLのメンバー全員ではなくて返事の相手だけにメールが行ってしまうとか。その辺です。
しかしまあ、ホームページから投稿する分には問題ないでしょう。
ゼミも新しいメンバーが増えたので、メールアドレスの再整理もしないといけませんね。
オーストラリアはだんだん秋らしくなってきました。気温の変化のせいか、抵抗力が落ちていたせいか、この前は扁桃腺炎で苦しみました。喉に白い豆腐のようなモノ(自分で自分の喉の写真を撮りました。観覧したい人は教えてください。
観察させてください。
ところで、ワラビ餅の話題ですが、私も道端で面白いものに出会ったりします。
ワラビーとかいうのがいるんじゃない?そっちには。
私は今、アボリジニーアートについて調べています。かれらにとって、アートの機能と意味が変化してきているのではないか?ということです。ツーリズムや、マーケットの影響を考える予定です。
伝統芸術と呼ばれているものと、いわゆる美術とはどこで線を引けばいいのでしょうね。恣意的ないかがわしさを感じます。
それでは近況でした。
近況まってます。
オーストラリアはだんだん秋らしくなってきました。気温の変化のせいか、抵抗力が落ちていたせいか、この前は扁桃腺炎で苦しみました。喉に白い豆腐のようなモノ(自分で自分の喉の写真を撮りました。観覧したい人は教えてください。
観察させてください。
了解!!
ところで、ワラビ餅の話題ですが、私も道端で面白いものに出会ったりします。
ワラビーとかいうのがいるんじゃない?そっちには。
まだ見てない!コアラも見てない!!
私は今、アボリジニーアートについて調べています。かれらにとって、アートの機能と意味が変化してきているのではないか?ということです。ツーリズムや、マーケットの影響を考える予定です。
伝統芸術と呼ばれているものと、いわゆる美術とはどこで線を引けばいいのでしょうね。恣意的ないかがわしさを感じます。
私もそう思います。エッセイが終了しだい詳しいことを報告します。
それでは近況でした。
近況まってます。
本の虫。
よるがやってきました。
申し訳ありませんが、またまた一度テストさせてください。
「主観の問題である「おもしろい」を以下に客観の問題としてあつかうか。」
お久しぶりです
「主観の問題である「おもしろい」を以下に客観の問題としてあつかうか。」
明日、締め切りの学振が書けません。
主観の問題である「おいしい」を如何に客観の問題として暴けるのか。
もう駄目だ…
お久しぶりです
お久しぶりです。電話、話できなくてごめんよー。最近仕事、遊び、飲み、勉強で忙しく、お久しぶりになってしまいました。
「主観の問題である「おもしろい」を以下に客観の問題としてあつかうか。」
明日、締め切りの学振が書けません。
主観の問題である「おいしい」を如何に客観の問題として暴けるのか。
もう駄目だ…
ばたっ・・・。結局書けたのかな。
大丈夫のようですね。
三宅さん、アドレス変更は月曜日にでもしておきます。
というわけで、ぼちぼち、ネット人類もちゃんと再開しましょうね。
まずは、ゼミでする地域通貨についてだな。
あともうひとつ、次の問題だな
「主観の問題である「おもしろい」を、いかに客観の問題としてあつかうか。」これが学問というもののひとつの制約であろう
ネット人類ゼミのMLが動くかな?どうかな?
今日、発表の予定だったんですが、
できそうもありません・・・。
せっかくゼミでみんなに集まってもらうのに、
本当にごめんなさい。
なんていうか、一応、発表のレジュメとかも作ったんですが、
考えることが全然まとまってなくて、
関係ないことが頭に浮かんできてしまって、
発表できる心の状態じゃないっていうか・・・。
ほんとーに自分勝手でごめんなさい。
いろんなことを解決してからちゃんと現れます。
今日、発表の予定だったんですが、
できそうもありません・・・。
せっかくゼミでみんなに集まってもらうのに、
本当にごめんなさい。
なんていうか、一応、発表のレジュメとかも作ったんですが、
考えることが全然まとまってなくて、
関係ないことが頭に浮かんできてしまって、
発表できる心の状態じゃないっていうか・・・。
ほんとーに自分勝手でごめんなさい。
いろんなことを解決してからちゃんと現れます。
卒論なんですけど、タイにもう一度行こうと思っていたのですがもうひとつ気になることができてしまいました。
私の地域は春から夏にかけてワラビ餅の自転車屋台が出ます。全国共通の夏の風物詩かと思っていたら、ほかの地域にはないらしいです。ワラビ餅のおじいさんは人が歩くほどのスピードで手元の鈴を鳴らしながら移動します。ルートが決まっているのかいないのかはわかりませんが、私の家の近所には日曜の午前11時ごろにやってきます。鈴の音は結構遠くでも聞こえるので、聞こえてからすぐに家を飛び出してもまだまだ遠くに居たりして焦らされる思いです。
かといって、「鈴がもっと近くに聞こえるまで・・・」と油断していると我が家の前の通りから一本外れた通りに曲がっていることに気づくのに遅れたりして、買い損なうこともあります。だから鈴の音が聞こえ始めたら、財布を持って家の前で待っているのが正しい待ち方です。
現在のワラビ餅の値段はプラスティック容器が200円(150円かも?)もなか容器が100円です。私は必ずもなか容器のをふたつ買います。アイスもなかのと同じもなかに、黄粉ワラビ餅をたっぷりはさんで、輪ゴムでくくりはしっこに爪楊枝を刺してもらいます。ふたつのうち一つはもなかの蓋を開け、楊枝で餅を刺しながら食べます。最後に容器代わりであったもなかをかじって食べます。(蓋まで食べられるなんてすごくお得感が・・・)ふたつ目はサンドイッチ状態でもなかもワラビ餅も一緒にかぶりついて食べます。これが私流の夏の楽しみでした。
ここ何年か北九州に住んでいたのですっかりこのワラビ餅じいさんのことは忘れていました。先週の日曜日に鈴の音を聞いて思い出し、家の前であの懐かしいワラビ餅を手に入れることができました。昔より黄粉が甘い気がするのは砂糖の量が増えたのか、私の舌が大人になったのか・・・。子供のころは確かもなかワラビは40円から60円だったと覚えています。倍に値上がりです。今も昔もこの自転車ワラビは人気があり、50メートル進むごとに主婦や子供たちに呼び止められじいさん大忙しです。
さいきんこの自転車ワラビが気になって仕方ありません。日曜日だけなのか。どのあたりまで商売区域なのか。雨の日はどうしているのか。秋冬は何をしているのか。商売仲間は何人居るのか。黄粉の味付けは誰がしているのか・・・。
タイもすごく良かったのですが、私の現在の興味は完全にワラビ餅屋台に向いてしまってます。うーん、ワラビ餅屋台で卒論は書けるのか??タイ行きのチケットも早めに考えないといけないし、真剣に悩み中。
誰かに助言を求めたいのですが、最近だれも人類学ネットに書き込まないので・・・。もしかして見てないとか。
どうもです、SE☆ゆうきです。
現在のワラビ餅の値段はプラスティック容器が200円(150円かも?)もなか容器が100円です。私は必ずもなか容器のをふたつ買います。アイスもなかのと同じもなかに、黄粉ワラビ餅をたっぷりはさんで、輪ゴムでくくりはしっこに爪楊枝を刺してもらいます。ふたつのうち一つはもなかの蓋を開け、楊枝で餅を刺しながら食べます。最後に容器代わりであったもなかをかじって食べます。(蓋まで食べられるなんてすごくお得感が・・・)ふたつ目はサンドイッチ状態でもなかもワラビ餅も一緒にかぶりついて食べます。これが私流の夏の楽しみでした。
わらび餅ってそうやって売ってるものなんだー。初めて聞きました。私にとってのわらび餅との出会いはコンビニでした・・・。しかも高校のとき。ある日わらび餅の粉が売ってることを知り、自分で作れるんだという感動を味わったというくらい身近なものではなかったです。
タイもすごく良かったのですが、私の現在の興味は完全にワラビ餅屋台に向いてしまってます。うーん、ワラビ餅屋台で卒論は書けるのか??タイ行きのチケットも早めに考えないといけないし、真剣に悩み中。
誰かに助言を求めたいのですが、最近だれも人類学ネットに書き込まないので・・・。もしかして見てないとか。
はい、見てませんでした。。。野研のHPは開いてみると移動しましたというお知らせがちゃんとあるのに、どうしてネット人類の方はないんだろう・・・?いや、確かにメールでサイト移動のお知らせはあったんですけどねー、いつものとおり忘れてました。何回かはチェックしてたのですがどうやら昔の方を見ていただけだったのですね^^。メールが入ってきてわらび餅って何の話?!と思ってしまいました。
遅いレスでごめんなさい。
鈴を鳴らしてわらび餅を売るとは風流ですなあ。私が知ってるわらび餅売りは(佐世保での話ですが)「わらーびーもち」ってスピーカーから声を流しながら、車で走っているみたいです。なぜ「みたい」なのかというと、見たことがないからです。物干し竿売りと同様、声はすれども捕まえるのは難しいというわけで、見たことはありません。よって、残念ながらわらび餅談義に花を咲かせることはできません。けれど、まつながゆうき談のわらび餅、食べてみたいと思う今日この頃。
ところで、もしタイに行く時は、山の方に行くの?それとも海の方?
遅いレスでごめんなさい。
鈴を鳴らしてわらび餅を売るとは風流ですなあ。私が知ってるわらび餅売りは(佐世保での話ですが)「わらーびーもち」ってスピーカーから声を流しながら、車で走っているみたいです。なぜ「みたい」なのかというと、見たことがないからです。物干し竿売りと同様、声はすれども捕まえるのは難しいというわけで、見たことはありません。よって、残念ながらわらび餅談義に花を咲かせることはできません。けれど、まつながゆうき談のわらび餅、食べてみたいと思う今日この頃。
ところで、もしタイに行く時は、山の方に行くの?それとも海の方?
お久しぶりです。
北の街、チェンマイですね。うーん、いろいろと難しいですね。私はすごく好きになった街なのですが。
上で竹川さんが投げかけている「自分が面白いことをどうやって第三者におもしろがらせるか」(少し意味が違うか・・・。)はどう思いますか?私はわからなくなっています。
北の街、チェンマイですね。うーん、いろいろと難しいですね。私はすごく好きになった街なのですが。
チェンマイか。海側の方なら今月から友達が行っているので、何かできるかもなと思いましたが、山の方はわかりません。^^;
上で竹川さんが投げかけている「自分が面白いことをどうやって第三者におもしろがらせるか」(少し意味が違うか・・・。)はどう思いますか?私はわからなくなっています。
「自分が面白いことをどうやって第三者におもしろがらせるか」はちょっと難しいですね。自分の面白いと思っている気持ちを、他の人にもわかって欲しい。共感してほしいってわけですから。極論したらそんなの無理です。別の人間なんですから。だけど、歩み寄ることはできます。第三者、その人がどんな人間であるかによって、表現の仕方を変え、相手にわかりやすい言葉で伝えるとかね。でも、相手に話を理解してもらうという第一段階のハードルをクリアーした上で、更に面白いと思ってもらう第二段階もクリアするのはなかなか難しい。それから、友達に対してそれをするのは簡単な時があるのに、論文発表とかだと、ニュアンスじゃなくて、まわりくどいストーリーで証明してみせなきゃならないから困ります。しかもそのストーリーは相手のツボにはまらなきゃならないとくりゃ、いや、もう、私はお手上げです^^;
はい、はい、見てます、見てまーす。
私の地域は春から夏にかけてワラビ餅の自転車屋台が出ます。全国共通の夏の風物詩かと思っていたら、ほかの地域にはないらしいです。
大阪にはあったよ。西成区津守、公園の近所。「わ〜らび〜もち〜」と言いながらライトバンがのろのろ走っていた。
アイスクリン屋もあったな。
でも、タイに行ったほうがいいんじゃない?
さいきんこの自転車ワラビが気になって仕方ありません。日曜日だけなのか。どのあたりまで商売区域なのか。雨の日はどうしているのか。秋冬は何をしているのか。商売仲間は何人居るのか。黄粉の味付けは誰がしているのか・・・。
タイもすごく良かったのですが、私の現在の興味は完全にワラビ餅屋台に向いてしまってます。うーん、ワラビ餅屋台で卒論は書けるのか??タイ行きのチケットも早めに考えないといけないし、真剣に悩み中。
誰かに助言を求めたいのですが、最近だれも人類学ネットに書き込まないので・・・。もしかして見てないとか。
ワラビ餅の行商ってあるんだぁ。リヤカーを引きながら小倉の街で行商をしている人を題材に、藤田さんが卒論を書いてるよ。詳しくは卒論集にあるから読んでみては?
ワラビ餅の行商ってあるんだぁ。リヤカーを引きながら小倉の街で行商をしている人を題材に、藤田さんが卒論を書いてるよ。詳しくは卒論集にあるから読んでみては?
ああ、文ちゃんは見てたのね。
今読んでみました。ワラビ餅爺さんの人柄とかまったくわからんけど、買うとき嫌な印象は受けない。まあ、たんたんとこなしてるけど。うまく捕まえられたら会話してみたい。
今週の日曜は私が家に居なかったので近所に来たのかもわからない。そして、たぶん自転車屋台は何人かいるはず。昔「おじいさん」ではなく、「おじさん」くらいの年齢の人もいたから。その「おじさん」は『ビタミン入りワラビ餅』を売りにしていたが、餅がすこしレモン風味であるだけで黄粉との相性もイマイチだった・・・。その後『ビタミン入りワラビ餅』を売っている人は見なくなった。
いつものように私が部屋でパソコンをいじっていると、母が紙切れを持って入ってきた。
「お母さんの職場からのお願いなんだけどね、夕紀の学校の友達にもお願いできない?」
紙切れをちらりと見たところ、何かの署名のようだ。
「嫌。」
私はろくに中身も見ずに断った。
「なんで?別に選挙の政党の署名でもないし、いかがわしどころか今の社会には必要なことよ?」
ちらっと見たとき『天下りを断固拒否・・・云々』と読めたから悪い内容の署名ではないということはわかっている。何しろうちの母はお人よしといえるくらいに正しい人間だ。
しかし私は署名というものが苦手だ。自分の友人関係にその手のものをお願いするなんて真っ平ごめんだ。何でかはわからない。
同じように理由はうまく説明できないけど苦手なものがある。
「募金」や「ボランティア」なんかがそうだ。街角で「お願いしまーす!」とか言って箱を持って並んでいたらその道を避けて通るだろう。その前を素通りしてしまったらそれだけで自分は悪人になった気がする。箱を持った人々や笑顔で募金を済ませた人がこちらを見て非難しているような気がする。たまには「誰かを助けるために名前を書くくらいいいか」、と思って書いてみたりする。一斉に「ありがとうございます!!」。まるでヒーローにでもなったかのようなキラキラした感謝の目(考えすぎ?)。嫌な汗がどっと噴出し、赤面して早足でその場を去る。
かといって、その内容を嫌っているのではない。もし誰も見てないところに募金箱や署名があったら迷わず参加するだろう。電車やバスで席を譲るし、自転車をドミノ倒しにした人がいたら一緒におこすのなんてなんてことはない。こういっては何だが、人よりも親切なほうだと思う。あの場の雰囲気や人々が嫌なのだ。慈善のなかに偽善を疑ってしまう。
「本当の気持ちでやってるのに偽善とはヒドイ!」と言われるかもしれない。それなら本当にごめんなさい。
しかしああやって人前で活動している人々を見ると、どんなことを思いながらやっているのか理解できないのだ。疑ってしまうのだ。
母とは仲が良く、世の中や人間の内面の話などあらゆることを話し合える友人でもある。私が署名を断ったときちょっと怒ったような顔をした。良かれと思ったことを拒絶されて傷つけてしまったのかも知れない。
「あんたがこういうのは嫌いなのは知ってるけど、不正を正すのは小さな『助け合い』なのよ。」
私はこの『助け合い』という言葉すら素直に飲み込めない。
突然のことで申し訳ありませんが
ヒューマンサーバーのネット人類学サイトが閉鎖されるため、ホームページの移転をおこないます。
4月28日(金)までこちらのサイトを使い
4月29日(土)から以下の新しいサイトに移転します。
http://www.apa-apa.net/~jinrui/index.html
新しいサイトはすでに試験的に使えるようにしてありますが、4月29日に古いサイトの最終ログで上書きするのでご注意下さい。
また、メーリングリストのアドレスもあわせて変更となります。
新しいメーリングリストについては、ご案内をする予定です。
突然のことで申し訳ありませんが
ヒューマンサーバーのネット人類学サイトが閉鎖されるため、ホームページの移転をおこないます。
4月28日(金)までこちらのサイトを使い
4月29日(土)から以下の新しいサイトに移転します。
http://www.apa-apa.net/~jinrui/index.html
新しいサイトはすでに試験的に使えるようにしてありますが、4月29日に古いサイトの最終ログで上書きするのでご注意下さい。
また、メーリングリストのアドレスもあわせて変更となります。
新しいメーリングリストについては、ご案内をする予定です。
明日の1限からゼミが始まります
明日のゼミは年間計画です。
今夜のうちによくよく考えて明日は寝坊しないで来てください。
年度の初めの大切なゼミです。
明日の1限からゼミが始まります
だいじな補足
4年生の時間割には2限とありますが、ゼミは1限からおこないますので4年生も一限にきてください!!!1
ゼミは何時からですか?さすがに肉体は存在できませんが、精神は日本のほうにいけますので、教えてください。
ゼミ登場です。自己紹介ですが、私は3年生の脇園 賀子(よりこ)です。
今、オーストラリアのBRISBANEのQUEENSLAND大学というところで交換留学生として学んでいます。こちらはだんだん涼しくなってきました。
みなさん、よろしくおねがいします。
さっそくですが、私が今学んでいることについて少し書きます。
授業は次の4つを専攻しています。
1、物質文化(今日は野外で私達祖先がどのようにして石を使用し、刃物をつくっていたのか又、人の手がかかった石と、そうでない石との見分け方などを学びました。目を保護するために変黒ぶちの大きなメガネを装着して。蚊が沢山いました。)
(この授業のエッセイにはアボリジニーアートを選びました。来月の2日までに約10冊の本を読んで感想などをかかないといけないのですが、それどころではありません。)
2、ファッションと身体、文化 ( 女の人のファッションが男の目を気にしていることは、前から知っていましたが、ビクトリアのコルセットの歴史、
フーコーの理論がファッションに関係していること、とか新しい発見があります。)
4、フランス語
3、写真 (大介先生には、申しましたが、
現在ドキュメンタリー写真の問題性についてエッセイを書いています。
写真は真実ではなく、イメージである。だから、ドキュメンタリー写真は歴史を伝えることができない。しかし、歴史のメッセージや、思い出として利用できるのではないか。ということです。写真はモノそのものをそのまま映し出すと考えがれがちですが、だからこそ、多くの政治家や植民支配者が写真や文章を巧みに利用し私達に悪事を正当なものとして、イメージづけることが簡単にできるのではないでしょうか。JOHN PILGER'S GREAT EYEWITNESS PHOTOGRAPHERSというドキュメンタリーの展覧会の批評を今日までに提出しないといけないのですが、上手く書けません。
泣きそう。 はーーー。
だいたい現実なんて、イメージだとはおもいませんか?
写真はコミュニケーションの一つだから、誤解も沢山あります。
言語だってそうだし。しぐさだってそうです。写真に関わらずなんだってそうです。現実とイメージの違いなんて誰も確かめることはできなし・
そうしたら、どうやって、他人と交流すればいいのですか。
やはり、写真は必要です。私は写真を愛しています。
矛盾していることは分かっています。
だから、エッセイが書けないのです。)
こういった感じです。
今、楽しいことは、大学内の学生の様子を観察することです。
それと、動物も沢山います。
今日はここまで。
賀子。
ゼミは何時からですか?さすがに肉体は存在できませんが、精神は日本のほうにいけますので、教えてください。
さっそくですが、私が今学んでいることについて少し書きます。
授業は次の4つを専攻しています。
1、物質文化(今日は野外で私達祖先がどのようにして石を使用し、刃物をつくっていたのか又、人の手がかかった石と、そうでない石との見分け方などを学びました。目を保護するために変黒ぶちの大きなメガネを装着して。蚊が沢山いました。)
(この授業のエッセイにはアボリジニーアートを選びました。来月の2日までに約10冊の本を読んで感想などをかかないといけないのですが、それどころではありません。)
2、ファッションと身体、文化 ( 女の人のファッションが男の目を気にしていることは、前から知っていましたが、ビクトリアのコルセットの歴史、
フーコーの理論がファッションに関係していること、とか新しい発見があります。)
4、フランス語
3、写真 (大介先生には、申しましたが、
現在ドキュメンタリー写真の問題性についてエッセイを書いています。
写真は真実ではなく、イメージである。だから、ドキュメンタリー写真は歴史を伝えることができない。しかし、歴史のメッセージや、思い出として利用できるのではないか。ということです。写真はモノそのものをそのまま映し出すと考えがれがちですが、だからこそ、多くの政治家や植民支配者が写真や文章を巧みに利用し私達に悪事を正当なものとして、イメージづけることが簡単にできるのではないでしょうか。JOHN PILGER'S GREAT EYEWITNESS PHOTOGRAPHERSというドキュメンタリーの展覧会の批評を今日までに提出しないといけないのですが、上手く書けません。
泣きそう。 はーーー。
だいたい現実なんて、イメージだとはおもいませんか?
写真はコミュニケーションの一つだから、誤解も沢山あります。
言語だってそうだし。しぐさだってそうです。写真に関わらずなんだってそうです。現実とイメージの違いなんて誰も確かめることはできなし・
そうしたら、どうやって、他人と交流すればいいのですか。
やはり、写真は必要です。私は写真を愛しています。
矛盾していることは分かっています。
だから、エッセイが書けないのです。)
こういった感じです。
今、楽しいことは、大学内の学生の様子を観察することです。
それと、動物も沢山います。
今日はここまで。
賀子。
よりこ久しぶり。元気?元気そうだね。
近頃、といってもここ一ヶ月以上気持ちのアップダウンが激しくて収集つきません。人と会っているときはすこしましなのですが。答えの出ない問題がありすぎて、かなり自分がわからなくなっています。実家に戻ったのはやはり失敗だったかもしれません。こんなときなのに心に堪える映画ばかり観てしまい、なおさら鬱なゆうきです。。。
そんなこんなで明日ゼミに行っても力のある発言ができるかわかりませんが、とにかく行きます。福岡から出てくるので一限の時間には遅刻の可能性大ですががんばります。
ニッポンニッキは今まで読んでなかったのですが今回のことで読んでみました。閉鎖されるギリギリまで過去の記事も読んでいきたいと思います。
humanサイトの「管理者」である奥野政勝さんの機嫌を損ねてしまったために、4月末日をもってネット人類学ゼミのホームページは閉鎖されることになりました。経緯はすべてニッポンニッキMLのログに残っております。http://www.human.ne.jp/~nippon/htdocs/
それまでにあらためて別のサーバーを確保できれば良いのですが、もしかしたら間に合わないかもしれません。
できる限り努力しますが、間に合わず一時的に閉鎖状態になった場合はどうかおゆるしください。時間をかけても必ず復活させます。そして再開にあわせてメンバーやシステムの再整理もしたいと思います。
なおメールも使えなくなるので緊急避難的に、 daisuke@kitakyudai.net を4月以降の私の連絡先としておきます。
突然のことで本当に申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いします。
こんにちは、SE☆ゆうきです。
いつか書き込みしてたと思うんだけど、5/3に下関で鶏をさくっといただくの会を行います。多くのまさまささんが鶏を、汐月さんが魚を手配してくださるそうなので、一緒に遊ばない?
私の予定では5/3に下関で一泊二日して、次の日GWの渋滞を恐れながらも長崎か熊本にいるだいちゃんに合流するつもりです。あくまで予定だしその辺はどうなるかは分かんないけど、とりあえずそんな感じなので、一緒に遊ぼうと思う人は都合つく日に遊びましょう。北九州に集合になると思います。
ゼミの2年生3年生の人は面識ない人も多いかもしれないけど、まぁそんなことは気にせず一緒にどうですか?
何かが違う何かが違うと思いながら、自分の生ぬるさがひたすらに気持ち悪く、吐き気がする。
1年ぐらい前かなり壊れてて毎日死にたかったけど、それがなんか大丈夫になってそこにいるだけでしあわせな自分がいて、
気持ちが悪い
壊したいすべてを壊したい
自分を投げ捨てたい
自分を補って完全に見せかけるのではなく不具な自分を見据える所からしか何もないと知っていた、それなのに
多分私は何かが間違っている、自分を追い詰めればそれが何かがわかるだろうか
これを書いている自分もどこか冷静でそのことにいらいらする
軽い言葉はかえしたくないのだけど、それで良いのだと思います。
地獄や苦しみは、その先にあるだろうから。
これからという感じで、息を整えれば。
すいません。連絡手段がほかにないのでここに書きます。
ひろのの携帯電話私が預かってたんやけど、福岡に持って帰るわけにはいかんかったから部室においてます。詳しい場所は部誌に書いてるよ。手元に戻ったら私に連絡してね。
この記事を読むのもいつになるんだろう・・・。
実家に帰ってまいりました!
3年ぶりに会った人達は、変わった人も、
時が止まったかのように変わっていない人もいて、
驚かされることも多々ありました。
私は、沖縄について何も知らないこと、いろんな訛りが混ざり混ざって方言をすっかり忘れちゃってることに危機感を感じて、
今回帰ったのですが、沖縄にずっといる友達は、私よりも何も知らなくってびっくりしました。
こんなんでいいのか?沖縄人!!
私はこれからてーげーの精神以外の沖縄文化にもっと触れて、できるだけ学んで行きたいと思いました。
自分の育った所のことを知るのは、その場所から出て生きていくのには必要だと思います。
実家に帰ってまいりました!
おかえりなさい。昨年度は遠隔ゼミでいろいろ難しい所もあったけど、今年はとことんゼミを楽しみましょう。ゼミは来週の金曜日からです。
私は、沖縄について何も知らないこと、いろんな訛りが混ざり混ざって方言をすっかり忘れちゃってることに危機感を感じて、
今回帰ったのですが、沖縄にずっといる友達は、私よりも何も知らなくってびっくりしました。
日本にいる人よりも海外にいる人のほうが日本についてよく考えているということは、しばしばある話なので、この感覚よくわかります。
私はこれからてーげーの精神以外の沖縄文化にもっと触れて、できるだけ学んで行きたいと思いました。
てーげー精神の神髄も究めたいところです。
卒業生のみなさま
卒論の最終稿のファイルをください。
フロッピーかメールの添付ファイルで。
卒業生のみなさま。ご連絡を!
下記の件です。
卒論の最終稿のファイルをください。
フロッピーかメールの添付ファイルで。
久しぶりのネットです。
ヤフーBBのおかげで、2ヶ月近く手間取ってしまいましたが、今日からADSL環境になりました。大学よりも早い気がします。
というわけで、面白いこと始めましょう。
とりあえず巨大ドームから
久しぶりのネットです。
ヤフーBBのおかげで、2ヶ月近く手間取ってしまいましたが、今日からADSL環境になりました。大学よりも早い気がします。
というわけで、面白いこと始めましょう。
とりあえず巨大ドームから
最近見ないからどーしたのかなと思っておりました。私はお仕事お散歩ひとりドライブの日々。
巨大ドーム材料決まった?いろいろ見ているけど、やっぱりコスト面がね。ちなみに週末なら遊べるの〜しゅうまつ〜しゅうまつ〜しゅうまつ〜。
久しぶりのネットです。
ヤフーBBのおかげで、2ヶ月近く手間取ってしまいましたが、今日からADSL環境になりました。大学よりも早い気がします。
というわけで、面白いこと始めましょう。
とりあえず巨大ドームから
人間関係を察することが出来ず、未だに相手に対して失礼なことばかりしてしまう。特に、男女関係においては、よく察することができない。人に言われてやっとわかったと云うことが多い。あるいは、気づいていても気のせいだと思いたいがため、察することができないのかもしれない。そして、気づいたあと、いつものように接すればよいのに、なぜか意識してしまう。いつまで経っても大人の関係に慣れそうにない。どんどん、自分だけが子供に戻り、他の人は大人になっていく。「オトナになりたい」と願うのに、自分はどんどん子供になっていく。そして、いつのまにか、皆を見上げていた。背伸びをしても、もう届きそうにない・・・。
自分の存在が、他者にとっての脅威となることが過去にいくつもあったが、いつも自分では気づかなかった。教えられた時、自分の情けなさ、配慮のなさに気づく。自らのおとなげなさを恥じた。
本当に、自分は生まれてきてよかったのだろうかと思う。思うたび、心はひんやりとする。
オトナってなんだ?
四泊五日。大学生の私にはたいした時間ではなかったはずの五日間だったが、今の私にとっては非常に長く、楽しいものであった。代休、有給を取り、この日は残業できませんっと主張して得た連休。仕事を終えてから飛行機で東京に向かった。
自分の方向音痴さと物の知らなさを深く考慮し地図や時刻表でなく、駅スパートで調べプリントアウトした結果を手にして出発した。駅スパートというのは皆様ご存知、路線で出発地と到着地を入力し、ついでに時間を設定したら乗り換え場所時間等すべて勝手に計算して出してくれるといふすぐれものである。
こういうものに頼らないといけないというのも情けない話だが、関東には何線があるのか何駅があるのかさえまったく知らない分からないという状態。福岡だったら少しは分かるぞ。にしても友人がいる神奈川、茨城が関東だということさえ今回初めて知った私。それどころか路線図を見て「東京駅ってあるんだぁ」「横浜って神奈川なんだぁ」なんてことにささやかな発見の感動を感じてしまうくらいなのだから仕方がない。
まぁ結果的には駅スパートにきっちり従ったわけではないが(そんなんしたら小学生だよな・・・。みたいなもんだけど。)五日間通して基本的に迷わず目的地へ行けた。案内標識多かったし。案内人も捕まえつつだったし。
神奈川から茨城にいる時に一度だけ寝過ごした。起きてから寝過ごしたことを知るまでに三駅かかり、結果合計九駅乗り越し。埼玉県に突入していた。この時乗り換えてからは、首が痛くなるのを我慢しながらずっと路線図を眺めていた。路線図には東京を中心に、埼玉、茨城、千葉、神奈川などなど周りの県の路線まで表示されている。すごい。福岡では電車の中の路線図に九州各県までは表示されない。そっか一つの県が小さいのか。しかも。小学校の頃覚えさせられた(今は覚えていない)県の並び方と同じではないかっ。東京の右下に神奈川があって、右上に茨城で・・・。すごい。あの日本地図と同じ順序並び方で路線図に各県の駅名が表示されている。こんなところに住んでいたら小学校で苦労した日本地図上の県の順序なんて簡単だろうなぁなんて考えながら電車での時間を過ごした。ちなみにこの感動を帰りが一緒だった山本君とまさやんに伝えたが当たり前っしょみたいな反応だった気がする・・・。
夜中に神奈川の友人宅へ到着した。小学校の先生になった彼女は心身ともに疲れ果てていた。頑張れ。私には無理な職業だ。
次の日茨城に向かった。唯一小学校からの付き合いである彼女にはいつか行くよと約束しつつ4年がたっていた。初茨城。「いばらぎけん」でなく「いばらきけん」だということを初めて知った。
茨城の土浦というところで土浦に住むなら一度は行かなくてはならないとされている場所があるけど行くか、と聞かれた。そういう本人は行ったことがなく、暗い気持ちになるかもしれないと言う。予定がなかったのでそれじゃあお散歩がてらに行こうかということになった。
向かった先は土浦の自衛隊。かつて特攻隊が飛んだ場所らしい。自衛隊の中には小さな資料館があり、特攻隊の人たちの遺書や写真等が所狭しと並んでいた。
軍服を着た写真の中の男の人たちはみんな笑顔だった。かっこいい人もいた。写真の横には地名と殉死、戦死、突撃死、爆撃死、など説明書きが書かれていた。南の島の地名が多かった。出身地は主に九州、岡山、鳥取、茨城などなど。
遺書とされる手紙や日記が展示されていた。どれも内容は似たようなもので、親への、特に母親への感謝の気持ちが多く、後は兄弟への教え、そして出兵への心意気が記されていた。「悲しまず喜んで下さい」「悔いはありません」「幸せです」「お国のために」「母をよろしく。」
悲しい暗い気持ちにはならなかった。綴った後確実に亡くなっていった人たちの手紙。なのに読んでも入り込むことはできなかった。彼らの死に対する悲しみが沸起こりはしなかった。道徳の授業で求められるような感想文を書く気にはまったくもってなれなかった。そこには悲しみや悲観は一片も見られない。あくまで展示されている文面からは、だけど。戦争教育の最大の被害者の一人である彼らの文章を読んでも、悲しみや戦争の酷さは伝わってこない。確かに当時のことを思えば当たり前なことだろう。もちろんその裏に隠された彼らの苦悩を、許せない教育の歪みを想像し読み取ることはできる。それはそうなのだけど。だけど今は2002年で、なのに今、どうしてこの資料館は伝えないのだろう。彼らの手紙を「死を覚悟した『心意気』」と賞賛し、今の日本は彼らの偉業のもとにある、と称える。最後のコメントには「彼らは死を覚悟しても、動揺することなく臆することなく堂々としていた。それはしっかりとした字で綴られた彼らの手記を見ても明らかだ」とあった。死を恐れなかったことをどうして今でも褒め称えられるのだろう。
貴重な資料が並んでいた。私は悲惨さや悲しみを伝えようとしない伝わらない資料館に反発を覚えた。感じない私が悪いのか。いや、何かがおかしい。
信じられないことだが、特攻隊がかっこいいと言う若者もいるのだ。
とはいえ、戦争で戦友や家族を失ったご年配の方からすれば、散華だったと言わなければ報われないのだろうか。平日の昼過ぎ、ほとんど人のいない静かな空間でたくさんの微笑んだ写真に囲まれながら、ぼんやりと考えた。私には彼らを身近に考えることはできず、その立場にたって考えることはできなかった。散華だの殉国の精神だのという言葉を使わなければ、そんな説明書きが一切なければ、私はもっと素直に見ることができたに違いない。もっと素直に手を合わせられたかもしれない。
資料館を出て桜を眺めていると、体格のいい初老の男性に声をかけられた。「何か感じていただけましたか。」あいまいにうなずいた私に彼はこう続けた。「あの時私達は決死の覚悟でたたかっていました。ですが彼らは必死の覚悟で向かったのです。」
『決死』と『必死』。私は違うということすら認識していなかった。考えたこともなかった。だがこの人にとってはとても大きな違いなのだ。言葉の重みも歴史も人によってまったく違う。今の私にはこの違いを実感として捉えることはできないだろう。
リアルに感じられるかどうかということは非常に重要なことである。何かをリアルに感じた瞬間が発見の時だと私は思う。
路線図を見ながら日本地図を感じた私。家に帰って日本地図を広げて眺めると、初めて彼を身近に感じることができた気がした。行った県だけだけど。こうやって自分で足を運ぶにつれて、身近に感じられる、リアルに感じられる場所が増えていくのだろう。自分で行くまでは社会科の授業でちらりと出てきた、テレビで見る場所に過ぎないのだから。それは外国に限らず、日本国内のどこを指しても言えること。身近な場所を増やして生きたい。
話は変わるけど。茨城である友人と話をした。
彼女は鶏や牛、やぎを目の前で殺されたらきっとそれは食べられないと言う。私は目の前の唐揚げを指してこれだって誰かが殺したものだと言ったが、知らないところで殺されている分に関しては構わないらしい。ずるくてもいい、目の前では殺されたくないのだと。それは目の前で殺人があったら悲しいことだけど、遠くであったことに関しては怖いねーくらいな反応しかしないのと同じではと言うと、彼女はそうかもしれないとうなずいた。
リアルに考えたくないことも世の中たくさんあるだろう。だけどリアルに感じられないこともたくさんあるに違いない。
牛が目の前で首を切り落とされなければ、牛肉は生きていたということに気づかない。肉を食べる時に、どの部分かを具体的に想像しながら食べることはしない。切り身でしか魚を食べたことのない子供は、泳いでいる魚と焼き魚を結びつけることはできない。
一人の死は悲劇である。しかし10 万人の死は統計である。
トラックのおじいちゃん達に戦時中の話を聞いた後は、時々夢でうなされていたものである。しかし、9.11やアフガニスタンの現状に対してはそこまでのリアルさがないのが正直なところだ。それがまずいということは分かっている。だけど実感がなく、距離があることはどうしても否めない。世界貿易センタービル。どのくらいの高さだったのか私は想像することができない。せいぜいあれくらいかな、とあてはめてみるくらいである。それじゃだめなのに。
様々なことをリアルに感じるためにもあちこちに出かけ、たくさんの人達に遭い、話を聞いていかなければと思う。毎日パソコンに向かっているだけだと何も起らないまま日々が過ぎていく。どんどん鈍感になっていく気がする。遊びに行こう。
追伸:だいちゃん、囲碁はどうだった?家には4人用のテントならあったよー。前は時々使ってたけど、大学ではいつもサークルのテントだったからほったらかしだったし、けっこう古いかもしれないけどね。
さっきふと見つけました。以前「SE☆ゆうき」、「まつながゆうき」あたりでの話に繋がってきそうな気がするのだけどどう?
http://journal.msn.co.jp/articles/nartist2.asp?w=126160
さっきふと見つけました。以前「SE☆ゆうき」、「まつながゆうき」あたりでの話に繋がってきそうな気がするのだけどどう?
どうもー青井さん、おひさしゅうではないかな別に^^。
やっぱり発見なんだなーと思いました。まだじっくり読んで考えてみたいと思います。眠い・・・。今日一日仕事してないかもしれないゆうきでした@
さっきふと見つけました。以前「SE☆ゆうき」、「まつながゆうき」あたりでの話に繋がってきそうな気がするのだけどどう?
http://journal.msn.co.jp/articles/nartist2.asp?w=126160
かなり興味を引きますね。私が記憶(思い出?)を思い起こすとき、必ず映像や音やにおいも一緒に思い出します。映画や本が好きなのも田口さんの考えと似ています。
「へんな、遊び」に書いてあることには思わずにやりとしてしまいました。私もそんなことばかりしていたので・・・。いまでも「へんな、遊び」はやめられません。ほかの文も読みたかったのですが、興味を引くタイトルばかりで全部は読めませんでした。これから時間をかけて読んでいきますね!
こんにちは。昨日は非常に楽しい一日を過ごしました。
藤井さん、突然の電話にも対応してくださってありがとうございました!すてきな青空の下美味しいしし鍋を頂きました。幸せなひと時でした。ご飯もきれいに炊けてたし、鍋もいももねぎとろも美味しかったし。藤井さん来られなかったのが残念ですが、今度美味しいお酒でも飲みましょう!
汐月さんもかにやらえびやらさかなやら、たくさんの食材をありがとうございました。余った分は私がおかんへのおみやげとして頂いちゃいました^^。食べ物いっぱいあったし、在学生が少なかったのが残念です。みんなあちこち行ってるのかな。
河原でおいしく食べた後、大学に戻ってフリスビーでひと運動。どうして私はあんなに下手なのだろう・・・。そしてどうしてげんのやたっくんはあんなにうまく投げられるの・・・。普段ずっと座ってばっかりだから久々に身体を動かしました。たいして走ってないのに筋肉痛な私・・・。運動不足です。
その後は海を見たいという京都からやってきたさやかお姉さまとまさやんを乗せて門司港に行き、猫や犬に目の前を横断されブレーキを踏みながら奥野さんに電話。突然おしかけてしまいました。お邪魔いたしました。からすみとチーズが素敵でした。中国産のワイン、車じゃなかったらもっと飲みたかった☆ゾマ一度しか行ったことなくって場所ちっとも分かんなかったんだけど、車だと簡単に大学から行けるんだということが分かったのでまた遊びに行きますよろしくお願いします〜。カヌー教室もやろう!
そんでもって次はキャンプしたい!!鶏を買ってさくっと新鮮なお肉を頂きたいのです。5月の3,4,5日どないですかね。ちょっと気が早いんだけど会社に入ってしまったら行き当たりばったりじゃ参加できない人も多いと思うし、予定もあるだろうし。特に東京やら教徒やら鹿児島やら佐賀の方々、遠いし仕事の都合もあるし。山口の特牛(こっとい)に奥野さんお勧めの泊まれるところがあるというのでそこに一晩泊まってあとはどっか島に行ってキャンプしたいなと思うのですが、いかがでしょうか。まだ日にちの予定だけでどうせ詳細は直前になるんだしね。明美さん提案のアメリごっこもしなくちゃ^^。
さやかさん、また帰ってきてくださいね。かきうち嬢もお久しぶりでした。また遊んでちょ。
藤井さん(ゴンギツネさん)からいのししの肉と鍋の材料の野菜一式をどっさり頂いてきました。
今は民研の冷蔵庫にしまっています。
明日は魚と一緒にいのしし鍋ですね!
それと明日は垣内さんも来るそうですー。
やまなかさやかより
午後とは12時以降ですよね?河原だと明るいほうが良いですね。
何時にしよう?
そして、もしかして、もしかするとお魚をともにするのは汐月家とゆうきちゃんと私だけ?
さみしい。
みんなどこにいちゃったの?チェンマイとか北京とか?
仕方がないので渡辺君一緒に帰ろうか。明日京都22時発のバスにのってね。
ところでチェンマイってタイ?
おはようございます〜!ゆうきです〜!
やまなかさやかより
午後とは12時以降ですよね?河原だと明るいほうが良いですね。
何時にしよう?
そして、もしかして、もしかするとお魚をともにするのは汐月家とゆうきちゃんと私だけ?
さみしい。
ですねー。まさやんは来れるって言ってたけど。時間はそうですね、12時過ぎくらいから大学で集まりましょう。その辺の適当な時間に。たぶん天気はいいはずなので芝生のところで待ってますね。あ、もしかしたら民研にいるかもしれないけど。
みんなどこにいちゃったの?チェンマイとか北京とか?
仕方がないので渡辺君一緒に帰ろうか。明日京都22時発のバスにのってね。
ところでチェンマイってタイ?
ですねー。まさやんは来れるって言ってたけど。時間はそうですね、12時過ぎくらいから大学で集まりましょう。その辺の適当な時間に。たぶん天気はいいはずなので芝生のところで待ってますね。あ、もしかしたら民研にいるかもしれないけど。
わたしの所は参加OKです。
みんなどこにいちゃったの?チェンマイとか北京とか?
ところで、大学周辺の人々はどうなっているのでしょうか?門屋はどこにいった?
カヴァはどうする?
来週の金曜日の参加者は?
ですねー。まさやんは来れるって言ってたけど。時間はそうですね、12時過ぎくらいから大学で集まりましょう。その辺の適当な時間に。たぶん天気はいいはずなので芝生のところで待ってますね。あ、もしかしたら民研にいるかもしれないけど。
わたしの所は参加OKです。
それは良かった!楽しみにしています〜。早く来れる人って少ないのかな。10時とか11時とか。考えたら12時過ぎ集合にしたら集まるの1時とか2時とかだしね。お昼ご飯にはすんごく遅くなっちゃうし、わたしの貴重な休みも終わっちゃう。準備や遊びも兼ねるということでもちっと早めがいいかなと。まさやんは民研に泊り込みって言ってたし、きっと大丈夫なはず。と勝手に判断したので11時くらいには襲いに行きます。多分。まぁそのぐらいの時間から来れる時に適当に集まっていきましょう。せっかくのお休み!春!そうだ、狩猟もいいけど、採集はいかがでしょうか。つくしとか菜の花とかなんか食べられそうな集められそうなものって今ちょうどないかねぇ?外で料理したら美味しくいただけるかも。あの川の鴨も気になるところ・・・。
みんなどこにいちゃったの?チェンマイとか北京とか?
ところで、大学周辺の人々はどうなっているのでしょうか?門屋はどこにいった?
カヴァはどうする?
来週の金曜日の参加者は?
カヴァカヴァ!
来週の金曜日、行きたい。けど仕事@@@夜遅くまで騒ぐんだったら考えるんだけどどないなんでしょう。遅くに行ってご飯食べて終わりだったらさみしいしなぁ。飲まないの?飲もうよー。
まずは、だいちゃんバヌアツからのご帰還、お疲れ様でした。
これからゆっくりとお話が聞けると思うと、ワクワクしてしまいます。
たくさんたくさん話して下さいな。
さやかちゃん、もう明後日ですね。
ごめんなさい。ぢつは、この時期、蝦蛄のシーズンにはちと早いらしく、
まだ市場には出回っていない模様。春過ぎからが、シーズンらしい。
だから、次回北九州に帰省した際にでも、・・・・この次は必ず。
ただ、明日市場で物色してはみますが、・・・。
ししゃもは、たぶんOKですが、焼きますか?
あと美味しいそうなお魚を用意しておきます。
そうですね、まだ寒そうなので、海鮮鍋でもして、みんなでつつきますか?
当日、天気は快晴とはいかないようですが、まあまあじゃないかな。
スタートは11時でしょうか?
我が家も、太直と二人ですが、その時間に間に合うように準備を進めます。
とりあえずは、大学に集合でしょうか?
来週15日金曜日の特別ゼミ、親子三人で参加できますでしょうか?
今から愉しみですが、・・・。
何人くらいになるのかな、・・・・行き当たりばったりでいいかぁ。
お魚も適当に準備します。それでは、明後日を愉しみに♪
[kok197]文化の深淵
■論理学的世界において定義や作業仮説が説明されるものではなく説明するためのものであるのと同様に、世界観や社会規制は説明されるためのものではなく説明するためのものであり、おそらく呪術の役割もそれ自体説明されるためのものではなく何かを説明するためのものである。このことはわれわれの日常においてしばしば倒錯して理解されているが、文化を理解したいと考える者はことさら注意深く扱うべき問題である。
■どこの国と限らず、いわゆる文化村や博物館・ホテルのショーなどに出てくる現地人のイメージは、しばしば民族衣装を着てダンスを踊ったり歌を歌ったりするというものだ。たとえば日本人にはほとんど知られていないが、外国人に人気の夜の京都ツアー「腹切り花魁ショー」もそのひとつだろう。
■こうした民族や文化のイメージと実際の人びとの生活には、たいていの場合大きなギャップがある。そして文化を研究する人類学者にとってこの違いは重要な意味を持つ。
■いまどきどんな辺鄙な村でも人びとはたいていTシャツくらいはきており、中国製の花柄模様の食器が部屋のすみにさりげなく置かれていたりする。電池があればラジオだって聞くだろう。
■一般的に文化研究というとどうしても物に象徴される表層的な違いに注目がいくが、しかし人類学者が知りたいと思っていることはとっくの昔にそういう問題を離れている。衣装や家財道具はすぐに変化する。物質文化はたとえば異国情緒あふれる絵葉書のように異文化の表象として誰にでもわかりやすく違いを提示してくれるが、それ以上のものではない。いうまでもなくキモノさえ着れば誰でも簡単に日本人になれるわけではないのだから。
■かたや環境(自然)や人間関係(社会)に対する知識や規範はなかなか変化を受けない。宗教も表層的には受容されるが、価値観や世界観まで変えてしまうのは難しい。なぜならばそれは「生きるための知恵」だからだ。人間は、消費や思索をする前に生きなければならない。
「物」は変わりやすいが「心」は変わりにくい
「物」は見えやすいが「心」は見えにくい
■鉄斧が入れば石斧を捨て、釣り針がはいれば骨を使うのを止め、新しい物質文化は短時間にたやすく受け入れられる。人は以前の生活の枠組みの変化を「最小限」にとどめながら、新しい道具をつかいこなす。
■パンダナスの繊維を織り込んで作られた彼らの伝統衣装は、シンプルな未開生活の表象どころか、Tシャツになどに比べればよほど高度で複雑なスキルを要求するやっかいな代物だ。そしてTシャツは文明の表象などではなく、たんにその方が楽だからそうしているだけなのだ。鍋、ホーローの皿、コップ、サンダル、ランプ、こうした物によって彼らの生活が西洋化されグローバル化されたと考えるのであれば、それは大きな勘違いである。物はすぐに真似され変化する、しかし心は簡単には変わらない。
■私たちだってほんの二十年前までコンピューターで字を書くことなんて想像もしなかったではないか。しかし、その一方でそれによって書かれるものの内容はなかなか変化しないのだ。本質、それを本質と呼んでいいのかどうか若干躊躇するが、あるいは深淵、文化とよばれるものの中には、変わらない事象や変わりにくい事象がたしかにある。
おおざっぱに整理してみよう。
一世代中にまねできるもの・・・物の利用
二世代かかるもの・・・・・・・言葉や音楽などの表層的受容
数世代以上かかるもの・・・・・自然や社会に関する知識や規範そして世界観
==
■フツナ島。バヌアツ共和国の端の端。最も近くの島まで70キロ以上も離れている孤島。しかも面積がわずか11平方キロメートルしかないこの島全体が、火山の山頂に残された隆起珊瑚礁によって形成された標高666メートルの岩山なのである。フツナ、現地名はエロナン、現地の言葉で「岩にすぎない」を意味するフツアナという言葉をヨーロッパ人が聞き間違えて名づけられた絶壁の島である。
■島の周辺は切り立った崖に囲まれ、中腹に形成された集落から浜に下りることすら容易ではない。人びとはわずかな斜面を利用して耕作し、村と畑をつなぐつなぐ踏み跡は、しばしば大きな岩に阻まれ梯子を伝って乗り越えなければならない。
■よくぞこんな厳しい環境に人びとが住みつづけられたものだと思う。「この孤島で生きるための彼らの知恵を学びたい」。島の端にかろうじて建設された石ころだらけの空港に6人乗りの軽飛行機で降り立ったとき、私は真摯にそう思った。
■今回は予備調査ということもあって島での生活は短かったが、実に印象的な日々を過ごすことができた。自然にまつわる話で言えば食物禁忌。人間関係にまつわる話で言えば独特なチーフ制度。十分に理解できたわけではないが、その断片をここに書いておこう。
■島にはさまざまな食物禁忌があった。たとえば年に一度なるイフィという木の実。季節の最初の実を食べるときは必ず皮ごと焼いて食べなくてはならない。そして、実をナイフで切ってはいけない。
■島ではしばしば禁漁区と禁漁期間をもうけ1年から3年のあいだそこで漁をすることができない。
■島で死人が出たときには特別な死装束を着せ埋葬する。この作業には二人の男が携わるが、彼らは、そのあと一年間、食べ物を直接手で触れてはならない。必ず葉でくるむか誰かに口まで運んでもらうかしなければならない。そうしないと歯がとれてしまうという。そして、自分の髪の毛を直接触ってもいけない。髪の毛が抜けてしまうという。
■島には岩の割れ目から流れ落ちるいくつかの水場がある。島の中でもっとも冷たい水が流れ出ているといわれる水源は、険しい谷の間にあった。ここには2つの流れ口があり、ひとつは男の水、もうひとつは女の水と呼ばれている。女の水はやや奥まったところにあり近づきにくいが水量がある。女の水は病気の女性や死体を触った男は決して触れてはならない。
■ラマガというのはトビウオ漁の季節をさす。島では季節的に巡回してくるトビウオが非常に重要な食料源になっている。ラマガにまつわる禁忌は多い。この時期、漁に出る男たちは夜に家に帰って寝てはならない。海岸の洞窟で夜を仮眠をとる。トビウオ漁ではトビウオを餌にマグロやサワラやカジキを釣るが、これらの魚を浜でさばいたりウロコをとったりしてはいけない。地面に置いてもいけない。必ずそのまま村に持って帰り、女たちがその仕事を受け持つ。トビウオの肉でトビウオを釣ってはいけない。こうした禁忌を破ると魚が来なくなる。漁に出る日は魚も食べてはならない、タロやヤムの畑に行く者も魚を食べてはならない。魚を食べたものが畑をいじると作物が育たなくなる。だから魚を食べなかった子どもに畑の植付けをさせることもある。
■食物採集や資源利用の観点からこうした禁忌の機能を説明するのは決して容易な作業ではない。そして、実際いかなる有効性が証明されたとしても機能的説明というのはそれ自体きわめてあやしいものである。たしかに規制によって実際に資源や環境がコントロールされている部分はあるだろうが、決してそれがすべてではない。規制にはもうひとつ、象徴としての役割がある。
■彼らの膨大で多様な自然に関する知識の中から規制という形で表層に現れるものはほんの一部だろう。人類学者がついついそういうタブーに飛びついてしまうのは、表層に現れたそうした規制を研究するのはなにがしか意味がありそうだし、ずっとたやすいからだ。
■しかし、食物禁忌とはそれ自体なんらかの機能を持つものであるというよりは、深淵に隠された彼らなりの世界観や、説明・納得の体系が表に現れたものだと考えるべきである。
==
■そして社会システム。フツナにはバヌアツの中では唯一のポリネシア起源の人々が住み、文化的にもポリネシアの影響が強い。島には4つの村があり、それぞれの村にはだいたい3人ずつチーフがいる。ひとりはナムルケと呼ばれる家系のチーフで、もうひとりはカウエメタと呼ばれる家系。3人目はファノと呼ばれる。
■ナムルケの家系の人間は、穏やかでしばしば謙遜し、自分からあまり話をせず、たとえば二匹の魚があるときは人に大きい方を与えるような性格だという。
■カウエメタの家系の人間は、攻撃的で、自己主張が強く、あいまいな言葉を嫌う。
■かといってカウエメタのチーフの方がより影響力があるのかというと必ずしもそうではない。ナムルケの人間は別名「静かなサメ」とよばれている。
■ナムルケとカウエメタのチーフは伝統的な会議の場では直接話を交わすことができず、その間を取り持つのが両方の属性をもつファノとよばれる家系のチーフである。ファノは、ある時は穏やかに、ある時は能弁に語りながら両方の家系のチーフを仲立ちする。基本的にナムルケとカウエメタの家系は互いに婚姻関係をもたず、まれに両者の間に子どもが生まれたときは子どもの性格から判断し、どちらかの家系かあるいはファノの家系の名前を与えるのだという。
■ナムルケ−カウエメタ・システムが意味するところはなんだろか。これは人間の性格の両極を制度化したきわめて恣意的で高度な社会構造だといえる。しかし、今の段階では安易な解釈はひかえておこう。実際に私はナムルケのチーフの家でお世話になったが、ものしずかな彼の性格は、たしかに言われているようなナムルケそのものであった。
==
■人は納得したい動物である。なぜ規制をするのか、なぜ複雑な社会関係を構築するのか、それは説明したいからである。規則は何かの事象によって説明されるものではなく、むしろ説明するために規則があるのである。説明が規則をつくるのではなく、規則が説明をうみだすのだ。つまり、規則がなければ説明もない。この転倒はきわめて重要である。そしてまるで人間がそこで生きているのを証明するかのように細やかな規則が小さな島社会を覆っている。繰り返すが、人は規則によって生きているのではないのである。生きていることを規則によって説明しているのである。人間とはかくも屈折した世界に住む存在なのだ。
(以下は補足です。文中に入れられずはみ出してしまいました。これについては別の機会にいずれしっかりかみくだいて議論したいと考えいています)
■法や道徳を守ることが人間が生きることであるという態度は、多分に倒錯的でありおよそ語るに足る哲学とは思えない。法や道徳が人間の思索によって作られたものである以上、人間の存在は法や道徳を超越していると考えるのが自然だろう。
■しかしながら、だからといって人間が生きるために法や道徳を利用しているのだというヒューマニスティックな考え方にもどこか不十分なものを感じる。人間の存在は法や道徳を超越しながら、しかしそこから自由ではない。
■つまり人間にとって非常に不幸なことに、法や道徳の力を借りずして人の生は語れない仕組みになっている。なぜかといえば「人間が生きていること」そのものを説明するために法や道徳が用意されているからである。
[kok198]全的理解と積荷信仰
■バヌアツには各国からボランティアの人びとがやってくる。教育と医療と地域開発が彼らの職種の三本柱である。
■首都の宿に泊まっている時にニュージーランドからきたボランティア女性と話をする機会があった。日本からのボランティアはたいてい20代の若者が中心であるが、海外からのボランティアはさまざまな年齢層にわたり、彼女もまた50代ですでに十分なキャリアをもった教師であった。
■地域に密着しながら生活をするボランティアたちの経験を聞くのは面白い。人類学者の視点と彼らの視点は重なり合うことが多いからだ。そしてこのニュージーランドの女性との話は特に楽しいものだった。
■彼女は、ボランティアの経験をとおしてメラネシア人のものの理解の仕方に独特なものがあるのではないかと感じていた。そして西欧式の教育システムにはどこか無理があるのではないかというのだ。
■彼女の実感を簡単に説明すると、バヌアツの子どもたちは教えたことを丸ごと覚えるのは得意であるが、概念化して論理的に組み立てるような作業に入るととたんに行き詰まってしまうというものだ。
■「これってなんだろう」彼女は問い掛ける。包括的で非統合的な学習法。「つまりそれはホーリックな理解なのでしょうか」私は言葉を選んで返す。「なるほどホーリックね」彼女はうなずく。
■私にもその感覚はよく分かった。そして私は彼女に、日本語をテープレコーダーのように完璧に覚えてしまったソロモンの若い語り部の話をした(ソロモンタイム「モダニズム批判」 http://www.human.ne.jp/~daisuke/solomon/index.htm 参照のこと)。人間がものごとを理解する時にはおそらくさまざまな過程があるはずだが、近代教育ではその中でとくに分析と統合というアプローチに偏りすぎているのではないかと指摘した。「読み書きそろばん」といったリテラシー教育において、文字や数字というのはまさに概念のアナライズ・シンセサイズ操作の象徴みたいなものである。
■彼女はニュージーランド先住民であるマオリの人びとの教育にたずさわったこともあり、そのときもやはり同じような印象をもったという。そしてニュージーランドでは彼らの伝統的な教育システムを再検討し始めていると語った。
■私はメラネシアの人々の知的能力が劣っているとはまったく思っていない。たとえば絶海の孤島に島流しにあって生き残れるのは私ではなくまちがいなく彼らである。複雑な人間関係や多様な自然環境の中で生きていくときの彼らの卓越した能力には、何度も驚かされてきた。実際、村での暮らしの中で私の持っている能力などほとんどなんの役にも立たない。
■それよりも気になるのは彼らの理解の仕方である。
■別の人からこんな話も聞いた。バヌアツの人にコンピュータを教えているときに、あるアイコンをクリックするようにいった。そのアイコンはたまたま画面の右上にあった。するとそれを隣で見ていた人が、自分も同じようなことをしようと画面の右上をクリックしようとする。しかし彼の画面では同じアイコンが右下にあった。それを見ていて、彼らにはシンボル操作ができないのではないかと感じたという。
■伝統社会の中で変化にとむ象徴体系をつくり上げてきた彼らが単純なシンボルを操作できないとはとても思えない。しかし物事を理解する過程のどここかに根本的な違いがあるのではないかという指摘には同意できる。それをどう呼んでいいのかうまく説明できないないが、やはりある種のホーリック(全的)な世界理解をそこに感じる。
■2月15日。私はタナ島にいた。おりしもその日は年に一度ジョンフルムという聖者がが莫大な富を持ってこの地を訪れるとされている特別な日であった。ジョンフルムの再来を信じる人々がスルファベイという海岸に集まり一昼夜踊りつづけた。
(タナ島には定期的に溶岩を吹きあげる活火山があり、そのふもとが彼らの聖地である。地鳴りが鳴り響く中、夜を徹して繰り広げられる風景は、まさに「土人の踊りと火山」という冒険ダン吉にはじまり手塚治虫やモスラに引き継がれた、南洋のモチーフの原点を目の当たりにする思いであった)
■第二次世界大戦前後にメラネシア各地でさまざまなカーゴカルト(積荷信仰)が生まれた。不思議なことにこれらの信仰では、地理的にはなれた島々で独自の教義が同時多発的に発生している。タナ島ではジョンフルムと称する白人が大量の積荷を持って島に現れるというすじがきで信仰が形成された。
■こうした積荷信仰の背景には、第二次世界大戦のときにアメリカ軍が大量の物資を持って各地の島に現れ、戦闘終了後にそれをそのままおいて帰ったという歴史的な事実がある。タナ島の場合は座礁した輸送船がそのはじまりであると言われている。しかしその一回きりの出来事を、信仰にまで高めてしまう彼らの世界観とはいったいなんだろうか。
■童謡「待ちぼうけ」の元になった守株の故事は、たまたま切株にウサギがぶつかって死んだのを目撃した農夫が、それに気をよくして農作業をやめてしまい次のウサギが株にぶつかるのをひたすら待ちつづけるという笑い話である。メラネシアのカーゴカルトを見ているとこの話が笑えなくなる。
■いうまでもなく現在の彼らは、第二次世界大戦とアメリカ軍の関係を知っている。すでに教育やラジオによってわれわれと同じような知識をもち、国際的な政治状況についても決して無知ではない。なぜあの時積荷がきたのかという因果関係はわかっているのだ。わかっていながら、必ずまたそれは来ると信じるのである。
■しかもこのカーゴカルトは蒙昧な土着信仰などではなく、キリスト教の影響を強くうけた新興宗教であり、植民地からの独立を志向する前衛的な民族主義運動につながっていったのである。
■最もはやく外来文化を受容しそれを希求したカーゴカルトのメンバーたちが、不思議なことに最も強烈に伝統社会への回帰を訴えカスタム(昔ながら)の暮らしを守ろうとするというのは、なんとも理解しがたい現象といえる。
■海の向こうからやってくる幸せをひたすら待ちつづけるという能力は、決して侮れないものである。それはあたかも、われわれが論理性と呼んでいる思考法の卑小さをあざ笑うかのようにすら感じる。そして、おそらくこうした世界観や価値判断は彼らが離島で生きていくにあたって十分に有用で適応的なものだったのだろう。
■やみくもに神秘化し異質化するつもりはないのだが、フィールドにいるとメラネシア的心性としかいいようのないものにしばしば直面する。貨物船の漂着という事件から海の向こうの千年王国を創造する論理的飛躍(われわれからみればそういわざるを得ない)が、たとえばかれらがもつ全的理解の能力にどこか関わりがあるのではないかと、そんなふうに考えてしまうのだ。
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こ く ら 日 記
[198]
06 Mar 2002
daisuke@human.ne.jp
http://www.human.ne.jp/~daisuke/index.html
バヌアツ報告会特別講義
3月15日午後6時より
北九州市立大学4号館402教室にて
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[kok199]悲劇の島エロマンガ
■エロマンガ島、健康な中学生時代をおくった日本人男性であればだれしも一度は地図帳の中にその島を発見し、ささやかな期待としかし現実にはありえないはずの風景を夢想した経験があるだろう。最近の地図帳にはイロマンゴ島と書かれているらしいが、現地の発音にもっとも近い表記はエロマンゴ島である。
■エロマンガ島はバヌアツ南部のタフェア島嶼群のひとつであり、面積は975平方キロメートル、800メートルを越えるピークを持つ火山性の島である。
■しかしエロマンガ島はその蠱惑的な名前のイメージとは裏腹に悲劇の歴史を背負った島であった。
■空から見るエロマンガ島は、まばらな森と草原が広がっている。集落はほとんど見られない。草原は柵でかこわれ、その中で牛たちが草を食んでいる。島には8人乗りの軽飛行機がかよっているが、観光客はおろか人類学者すらほとんど訪れない。行くのが大変だからではなく、行っても何もないからだ。
■「エロマンゴには見るべき文化はないよ」調査地を探していたときに何人もの人にそういわれた。はじめ私はその理由を、この島はあまりに辺境であるために複雑な社会構造が発達しなかったのだろうかと考えた。しかし現実にはどんなに辺境であっても、いや、かえってそうであればあるほど、知るべきことはたくさんある。そしてエロマンガは地理的にみても決して辺境ではない。
■私はエロマンガ島を調査地の候補のひとつに加え、島の情報を集め始めた。そしてしだいにこの島がおかれていた歴史的な状況がわかってきた。
■かつてエロマンガ島には数千人から1万人をこえる人々が住んでいたと推定されている。しかし1820年代に白人によって白檀の樹が発見され、それ以来おおくの交易船がこの島を訪れるようになった。交易船と言っても実際には略奪に近く、小さな鉄の塊と交換に船一杯の材木を運び出したり、別の島からつれてきた人質を食人を目的に島民に供して取引をしていたようだ。
■エロマンガ島内に豊富にあった白檀はわずか40年後の1860年にはほとんどなくなってしまったという。そして代わりに白人が持ち込んだインフルエンザ・ジフテリア・百日咳などの病気によって、その間に島の人口は4000人まで落ち込んでいる。
■エロマンガ島には多くの宣教師も訪れている。宣教師たちが与えた毛布や衣料を経由して伝染病が感染しさらに多くの島民たちが亡くなった。かつて白人たちは伝染病を蔓延させアメリカ大陸やオーストラリアの先住民を一掃するために、病人が使った毛布を居住地に配り殺戮を繰り返したが、エロマンガ島におけるこのときの宣教師たちの意図が、同じものであったかどうかはわからない。いずれにせよキリスト教に改宗しない事に対する神の罰としてこうした伝染病がおきるのだと宣教師たちは説明したのである。
■さらにオーストラリア・クイーンズランド州のサトウキビ畑で働かせるため、大がかりな奴隷狩りブラックバーディングが始まった。度重なる伝染病の流行と働き手の喪失により1930年代までにエロマンガ島の人口はわずか400人になってしまった。50年の間に生き残れた人間はわずか5%にも満たなかったのだ(自分の家族や友人の顔を思い浮かべながらこの悲劇がどういうものであるかを想像してほしい)。たとえ生き残れたとしても、ほとんどはおそらく幼児期に免疫を獲得できたほんの一握りの若い人びとで、文化を継承する壮年層は壊滅的な状態であったと考えてよいだろう。
■現在エロマンガ島民の人口は1500人まで回復してきているが、彼らの生活を語る際に、こうした過去の歴史を考慮しないわけにはいかない。人びとが死に絶え伝統的な土地所有システムが破壊されたエロマンガ島には、その後、牛が導入され牧草地がつくられた。熱帯雨林は伐採され、広い草原になり島の景観や気候は一変した。おそらくエロマンガ島がかつてのような人口を支えることはもはや不可能であろう。なぜならば牛一頭を生かすためには人間よりもずっと多くの土地と資源を必要とするからだ。
■そしてすでにすっかりキリスト教化された島の住民たちは、かつての絶滅の歴史を、宣教師を殺したことの罰であり、食人をした報いであると教えられている。残念なことに通りすがりの観光客はおろか地元で長く働いているボランティアたちですら、なぜエロマンゴ島が現在の姿になったのか、その理由をほとんど知らなかった。バヌアツ共和国の中で絶滅の危機に瀕した島は、エロマンガのほかにメリング・マエウオ・アネイチュムなどいくつかある。そして奴隷狩りの被害は全域に及んだ。
■1860年代から1930年代といえば日本が明治維新を経て近代化に邁進している時期である。そんな時に太平洋の小さな島々が非常につらい時代を経験していたのである。
■こうした人びとの大量な死を、あらためて欧米人の歴史的責任として断罪するのは無理な話なのだろうか。彼らは知らずに持ち込んだ伝染病まで責任を問われる理由はないと開き直るのだろうか。あるいは、反論として現地の人を救おうとした「良心的」な宣教師たちのエピソードでも披露してくれるのだろうか。
■たしかに当時は今ほど情報が発達していなかったという釈明はできるかもしれない。そんな感染病が広がっているということを、多くの人は知らなかったのだと。しかし、情報が発達している現在といえども、なにが変わったというのだろうか。
■誤爆と称してアフガニスタンの人々を殺戮し、食糧不足をもたらし伝染病を蔓延させ結果的に罪もない人々を大量に死に追いやりながら、一方で英語が達者で思考が欧米化された政治家たちを頭に据え、「人道的」で「献身的」な医療ボランティアを派遣し、「閉塞的な因習的社会から人びとを開放したのだ」と良心のバランスをとる白人たち。かつてキリスト教が開明の証であったのと同様に、いまや民主主義と地域貢献は錦の御旗である。
■開放という言葉で異文化を一掃し、復興という言葉で自文化を押し付け、過去の陰惨な歴史の繰り返しをほとんど省みることすらしないヨーロッパ文明(あるいはイギリスに端を発するアングロ・サクソン的価値観か)の傲慢さは、今もほとんど変わらないように感じる。その心性のあさましさは、宣教師であろうと交易者であろうと奴隷商人であろうと本質的な違いはない。そして、この聖と邪をあわせもつ両面性はボランティアと兵士という形で姿を変えて今に継承されている。
■さて、人びとの良心が結果的に生み出すものを私は強く疑い批判するが、決して良心そのものを責めているわけではない。私は私自身を責めている。知らなかった私自身を責めると共に、われわれの誰しもが避けようもなく陥ってしまうこの種の「一方的な鈍感さ」に絶望している。私はここでナイーブでヒューマニスティックな役割を演じるつもりはさらさらない。望むものはむしろその逆で、人間中心主義の限界を看破し、悲劇を再生産する構造を謙虚に省みたいのだ。
■村の人たちが特別にもてなしてくれた夕食で、血合い肉のツナ缶を食べながら、私はどうしようもなく悲しむのだ。ツナ缶がまずいからではない。ツナ缶は村ではご馳走だ。私は村人たちの好意に感謝し、同時にとても幸せである。
■しかし村人の誰もが、欧米や日本ではそれが犬の餌に使われていることをすでに知っている。そして、実際に首都に出れば、人のよさそうな白人たちがスーパーマーケットで抱えきれないほどの「犬用のツナ缶」を買って帰る姿を見ることができる。最低賃金が時給50円であるこの国の人びとにとって、それが30時間分の給料に相当することも知ってか知らずか。
■犬に石を投げるバヌアツ人を残酷だと非難する人々は、バヌアツ人に犬の餌を与えることについては鈍感である。自爆テロを繰り返すパレスチナ人を残酷だと非難する人々は、他人の土地を略奪した過去の歴史については鈍感である。
■他者の残酷性をかたるわれわれ自身、他者に対して残酷なまでに鈍感であることをしばしば忘れている。あるいはこう言おうか、残酷という言葉は、他者の姿すら見えていない鈍感な幸せ者にこそ与えるべき称号である。自らの鈍感さを免罪符にする人はたいてい残酷である。エロマンガ島の悲しい歴史は語りつづける。そして私は残酷な人間になりたくない。どうすればよいのだろうか。考える。
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こ く ら 日 記
[199]
07 Mar 2002
daisuke@human.ne.jp
http://www.human.ne.jp/~daisuke/index.html
バヌアツ報告会特別講義
3月15日午後6時より
北九州市立大学4号館402教室にて
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[kok200]カヴァ
■かつて私はフィジーのカヴァを日本の学生たちに披露した事があった([kok014]「このあいだのカヴァパーティのこと 」http://www.human.ne.jp/~daisuke/kok/index.htm)。しかし、今にして思えばそれは全く不十分なものであった。正直に告白すれば当時のわたしは、カヴァ文化を十全に理解していたわけではなかった。
■今回バヌアツの滞在中に私はさまざまな機会にカヴァを飲んだ。そしてこのダウン系のドラッグが演出する深遠な世界をようやくにして垣間見ることができたと思う。フィジーで飲んだ乾燥した粉のカヴァと違い、バヌアツの新鮮な生カヴァの汁は、その効果といい味といい比較にならないほど強烈なものであった。
■首都ビラの街のナカマル(カヴァ飲み店)、バヌアツの中でもっとも強いことで有名なタナ島のカヴァ、そして極めつけは屈強の男たちが噛みながら唾液と混ぜてつくるフツナ島の噛みカヴァ(超強烈)。暗闇の中で体の力がすべて失われて、けだるさの中をふわふわ漂う快楽はほかのドラッグではなかなか味わえないものだ。
■そして、カヴァは実に平和な飲み物である。カヴァを飲むと諍いが収まるという。たしかにあらゆる気力が失われ下手をするとそれは翌日まで影響する。それだけに興奮剤好きの勤勉な日本人にはなかなか受け入れられにくいドラッグかもしれない。バヌアツの人々はソロモンやアメリカやアフガニスタンにカヴァを送りたいと語る。バヌアツとソロモンの違いは、カヴァとベテルナッツの違いでもある。たかが嗜好品といいながらこの違いは決定的だ。攻撃的なソロモンと、のんびり屋のバヌアツ、文化的にはほとんど違いのない両国民の性格の違いは嗜好品によって生み出されているとしか思えない。
■ちなみにもっとも飲みやすくて気持ちよく効いたのはペンテコスト島北部由来の、すりおろしカヴァであった。海外青年協力隊員の方に教えてもらったのだが、味といい質といい非常に洗練されたものであった。ポートビラではビニヒというナカマルで飲むことができる。一杯200VTの高価なカヴァだ。
■さて、話だけではつまらないだろう。ぜひカヴァを飲んでみたいという人もいるはずだ。そんな好奇心旺盛な方のために一キログラムのカヴァを日本に持ち込んだ(もちろん合法である)。限定20名。残念ながらこれは乾燥された粉カヴァであるが、ダウナー世界の雰囲気をそれなりに味わうことはできると思う。飲みたい人はぜひ連絡を。日にちと場所をセッティングしましょう。なお当日は昼食を抜いて空腹状態で飲みます。
p.s.おりしも幻覚キノコの法規制を厚生労働省が検討している今日このごろ。習慣性もありその効果も害の多い悪質ドラッグであるタバコやお酒は認めるくせに、習慣性もなく地球にやさしいドラッグは禁止する。この法案の意図がどうにも理解できない。ダウンでけだるい空気は日本にはあわないのだろうか。
http://www.mhlw.go.jp/public/bosyuu/p0307-1.html 厚生労働省・意見募集
http://www.keddy.gr.jp/~mush/top.html 京大キノコ部
[kok201]貧乏ゆすりの進化に関する適応的観点からの考察
今週金曜日3月15日はいよいよヴァヌアツ報告会です。車で参加を予定される方は駐車場を確保しますのでご連絡ください。人数が少なそうなので、そのあとカヴァパーティをしたいと考えています。カヴァを飲みたい人は必ず昼食を抜いてきてください
■いったい、どうやって嗅ぎつけるのだろうか、村ではほんの小さな傷をしただけで、すぐにそこにハエが群がりはじめる。ハエたちは気づかぬ間にそっと傷口にとまり、いつのまにかペロペロとその傷をなめるのだ。ハエの舌はときおり痛点を刺激するらしく、ちくりとした鋭い痛みを感じてそこに目をやると、夢中にしがみついている黒い影を確認することになる。
■そやってなめられているだけならまだしも、このあたりのハエはまちがいなく不吉な病原菌をいっぱい媒介しているはずだ。ハエになめられた傷口は、やがて確実に膿み始めさらにそれは広がっていく。そして必然的にもっとたくさんのハエを呼び寄せることになる。こんな時ほど表皮の重要な役割について再認識し、バンソウコウのありがたみを感じる瞬間はないのである。
■実際のところもしバンソウコウがなかったらどうなるのだろうか。ハエが引き起こすこの悪循環をどのように防げばよいのだろか。いうまでもなく、まだ人類がバンソウコウを発明する前の時代にもハエはいただろう。きっと今よりももっとたくさんいただろう。そんな時代の生活では、ほんの小さな引っかき傷ですら致命傷になりかねない。
■牛や馬はハエを追い払うためにいつもしっぽを振っている。しかし残念なことにわれわれ人類の祖先は、樹上生活していたある段階でしっぽを放棄してしまった。
■ハエは動いているものがあまり好きではないようだ。歩いている間は決して寄ってこない、しかしいったん立ち止まり座り込んだ瞬間に、いずこよりか患部に舞い降りてくる。
■さて、そろそろ話がみえてきただろうと思う。貧乏ゆすりというのは、現代人においてもっとも嫌われるふるまいの代表格となっている。少なくとも、みっともなくて不要な行動以上の評価を与えられることはないだろう。しかし、もともとこの行動にはハエを寄せつけないという適応的な機能があったのではないだろうかというのが今日の仮説だ。
■静かにじっとしているときに無意識に体の一部を動かしつづける、それができる人にはハエが近づかず病気にもなりにくかったというわけだ(チンパンジーは貧乏ゆすりをするのだろうか)。
■ハエは足元にあたりによく群がる。たしかに貧乏ゆすりは座っているときなどに足を動かすことが多い。そして実際、足を揺らせばハエはその場を離れる。
■いみじくも現代社会において貧乏ゆすりは、ハエと共に生活するような劣悪な環境の中でこそより効果を発揮する。貧乏ゆすりの貧乏たるゆえんはそこにあろう。だからこそ、のちに発明された仏事に使われる払子のような道具は、その貧しさから逃れた人間の一種のステイタスになりえたのかもしれない。
■もしこの仮定が正しければ、本来自然に対して適応的であった普通の行動が現代においては貧乏の象徴として忌み嫌われているということになる。足の裏の角質化や、花粉症などのアレルゲンへの過剰反応の話に似て、これはちょっと淋しい話なのである。
■しかしながら残念なことに、この仮説をうまく検証することはできなかった。村にいた2月はまさに雨期の真っ最中のハエの季節。そこいらあたり五月蠅いこと五月蠅いこと。いらいらしながらハエを追い払う私を横目に、村の人たちは平然と食事をとっていた。そして注意深く見ていたが、残念ながら貧乏ゆすりをしている人はいなかったのである。
今朝帰国しました。そしたら11年来の家族である猫が昨日の朝死んで、家に帰るなり大泣きしてしまいました。猫は死に際に姿を消すのが普通です。自分の死期がわかるそうです。うちのもしきりに外に出たがったらしいのですが、人様の庭などで最後を迎えて迷惑をかけることもあろうと、絶対に外に出さなかったそうです。出発前から食べ物も受け付けなくなっていたので覚悟はしていたのですがやはりさびしいですね。
チェンマイは楽しかったです。現地の高校生やインターネットカフェに集まる人々と交流がありました。このあたりを題材にしたいと思っています。あわよくば、高校に行ってみたい。ところで、三月はゼミするのですか?竹川さんは帰ってきているのですか??
実家に引っ越して大学まで出て行くのに時間がかかるのでだれか早めに教えてください。
どうもです、SEゆうきです。おかえりなさいー。
チェンマイは楽しかったです。現地の高校生やインターネットカフェに集まる人々と交流がありました。このあたりを題材にしたいと思っています。あわよくば、高校に行ってみたい。ところで、三月はゼミするのですか?竹川さんは帰ってきているのですか??
実家に引っ越して大学まで出て行くのに時間がかかるのでだれか早めに教えてください。
10日はお暇ですか?一緒に遊ばない?チェンマイの話をききたいです。イギリスの時のような投稿も楽しみにしていますので〜。
チェンマイは楽しかったです。現地の高校生やインターネットカフェに集まる人々と交流がありました。このあたりを題材にしたいと思っています。あわよくば、高校に行ってみたい。ところで、三月はゼミするのですか?竹川さんは帰ってきているのですか??
帰ってきてました。さっき会いました。バヌアツの報告会をしてくれるそうです。まつながゆうきもしよう。
周辺へ周辺へ、観光客がたむろするバヌアツの首都ポートビラからできるだけ遠いところに。誰も行かないような小さな場所をめざして。
長年のフィールドでの経験によって確かなのはそれだけだ。
その先のことは何があるかわからない。
そして、見つけました。すてきな島を。
というわけでかえってきました。40日という私としては短い滞在だったけど、とても中身の濃い毎日でした。2年のイギリスがすっかりかすんでしまいました。
バヌアツはいい。すごく面白い。報告会をかねて、特別ゼミをします。いつにしましょうか
周辺へ周辺へ、観光客がたむろするバヌアツの首都ポートビラからできるだけ遠いところに。誰も行かないような小さな場所をめざして。
長年のフィールドでの経験によって確かなのはそれだけだ。
その先のことは何があるかわからない。
そして、見つけました。すてきな島を。
というわけでかえってきました。40日という私としては短い滞在だったけど、とても中身の濃い毎日でした。2年のイギリスがすっかりかすんでしまいました。
バヌアツはいい。すごく面白い。報告会をかねて、特別ゼミをします。いつにしましょうか
10日がいい。って無理?だめなら静岡で。楽しみにしています。
バヌアツの報告会をかねて特別ゼミをおこないます
場所と時間は以下の通りです。
日本にいるゼミ生は必ず参加のこと。4649
3月15日。午後6時より北九州市立大学4号館402教室にて
バヌアツの報告会をかねて特別ゼミをおこないます
場所と時間は以下の通りです。
日本にいるゼミ生は必ず参加のこと。4649
3月15日。午後6時より北九州市立大学4号館402教室にて
15日!?どうしても15日?その日はどーーーーうしてもはずせない予定が入ってるんですけど!
15日!?どうしても15日?その日はどーーーーうしてもはずせない予定が入ってるんですけど!
どうしてもはずしてくれぇい。卒業祝いをかねてもりあがろう。
在学生には「いまならまだ間にあう春の調査!」特集としたい。
15日!?どうしても15日?その日はどーーーーうしてもはずせない予定が入ってるんですけど!
どうしてもはずしてくれぇい。卒業祝いをかねてもりあがろう。
在学生には「いまならまだ間にあう春の調査!」特集としたい。
一ヶ月以上前から予約していてもうはずせないんです。先約だし・・・。たしかひろのもその日はどうしても無理だ、と。
今さっきバスで北京につきました。朝までいたジ−ナンでは黄河を見ていたら、おじさんに田舎は危険だ。文化も道理もない。といわれて怖じ気づき風邪までひいてしまいました。おじさんは中国の現状を知っているか?とたずね、空虚だ。といいました。おじさんは失業しているようでした。
すっきりしないかんじで思い付きで北京にきてしまいました。とりあえず風邪を治します。
今さっきバスで北京につきました。朝までいたジ−ナンでは黄河を見ていたら、おじさんに田舎は危険だ。文化も道理もない。といわれて怖じ気づき風邪までひいてしまいました。おじさんは中国の現状を知っているか?とたずね、空虚だ。といいました。おじさんは失業しているようでした。
すっきりしないかんじで思い付きで北京にきてしまいました。とりあえず風邪を治します。
ゆうこちゃんお元気?って風邪ひいてるのか。
身体と身の危険にだけは気をつけて楽しんできてください。
せっかく行ったんだし、怖気づくだけじゃもったいないしね^^。
とりあえずは風邪を治すところから頑張ってくださいな。楽しい旅をね〜。
今さっきバスで北京につきました。朝までいたジ−ナンでは黄河を見ていたら、おじさんに田舎は危険だ。文化も道理もない。といわれて怖じ気づき風邪までひいてしまいました。おじさんは中国の現状を知っているか?とたずね、空虚だ。といいました。おじさんは失業しているようでした。
すっきりしないかんじで思い付きで北京にきてしまいました。とりあえず風邪を治します。
からだはたいせつに。「文化も道理もない」って味のある台詞だね。
今さっきバスで北京につきました。朝までいたジ−ナンでは黄河を見ていたら、おじさんに田舎は危険だ。文化も道理もない。といわれて怖じ気づき風邪までひいてしまいました。
風邪をひくほど怖気づいたのか・・・。
おじさんは中国の現状を知っているか?とたずね、空虚だ。といいました。おじさんは失業しているようでした。
すっきりしないかんじで思い付きで北京にきてしまいました。とりあえず風邪を治します。
いつまでいるのですか?私は今朝帰って来ました。帰ってからもいろいろと立て込んでいて、フィールドノートをまとめるのに時間がかかりそうです。あきよしも楽しんできてね。
いつまでいるのですか?私は今朝帰って来ました。帰ってからもいろいろと立て込んでいて、フィールドノートをまとめるのに時間がかかりそうです。あきよしも楽しんできてね。
15にちにかえるので、ゼミにも出られます。
三月九日土曜日に帰ります。遊んでください。美味しいお魚もたべたい。
ゼミ室に行けばだれかいる?
ゆうきちゃんたちはお仕事かな?
いづれにしろとりあえず遊んでください。
三月九日土曜日に帰ります。遊んでください。美味しいお魚もたべたい。
ゼミ室に行けばだれかいる?
あそびましょう。研究室にいます。
三月九日土曜日に帰ります。遊んでください。美味しいお魚もたべたい。
ゼミ室に行けばだれかいる?
あそびましょう。研究室にいます。
土曜日はばあちゃんと出かけるかもしれません。日曜日お魚食べましょうよ。バヌアツの話もイギリスのはなしも聞きたいです。あおちゃんたちにもあいたい。
やまなかさやか
三月九日土曜日に帰ります。遊んでください。美味しいお魚もたべたい。
ゼミ室に行けばだれかいる?
ゆうきちゃんたちはお仕事かな?
いづれにしろとりあえず遊んでください。
おー、さやかだ。元気かい。僕は、鼻水でぐしょぐしょです。
久しぶりなので、会いたいけれど、9日10日は予定があります。
いつまでいるの?
三月九日土曜日に帰ります。遊んでください。美味しいお魚もたべたい。
ゼミ室に行けばだれかいる?
ゆうきちゃんたちはお仕事かな?
いづれにしろとりあえず遊んでください。
どうも。このネットゼミには、初登場の汐月です。
さやかさん、おひさです。雪山は愉しかったですね。
来週末ですか、是非何とかしたいのですが、ゆうきちゃん
同様、土曜日、私のとこも会社がらみの飲み会が入ってます。
夜10時過ぎくらいには終わると思いますが、・・・・。
ただお約束通り、さやかさんには、お魚を食べて頂かなくては
なりません。
よって、提案ですが、翌日曜の10日の午後とか如何でしょ?
若しくは、時間的に都合が付かぬ場合、お魚を土曜午後
お届けしますので、場所を決めていただければ、OKかな。
あと参加予定の人数も把握したいので、お知らせ下さいな。
食べたいお魚も募ります。
取り急ぎ、ご連絡まで。
よって、提案ですが、翌日曜の10日の午後とか如何でしょ?
若しくは、時間的に都合が付かぬ場合、お魚を土曜午後
お届けしますので、場所を決めていただければ、OKかな。
ありがとうございます。日曜日でも大丈夫です。
あと参加予定の人数も把握したいので、お知らせ下さいな。
食べたいお魚も募ります。
参加予定か・・・。とりあえずゆうきちゃんは来てくれるのかしら?
日曜日あいてる方、一緒においしいお魚たべようよう!
食べたいお魚:山中さやかはできればしゃこ食べたいです。あとししゃも。
楽しみだー。
よって、提案ですが、翌日曜の10日の午後とか如何でしょ?
若しくは、時間的に都合が付かぬ場合、お魚を土曜午後
お届けしますので、場所を決めていただければ、OKかな。
ありがとうございます。日曜日でも大丈夫です。
あと参加予定の人数も把握したいので、お知らせ下さいな。
食べたいお魚も募ります。
参加予定か・・・。とりあえずゆうきちゃんは来てくれるのかしら?
もちろん、大丈夫ですよー!
会えるのを楽しみにしています。
日曜日あいてる方、一緒においしいお魚たべようよう!
食べたいお魚:山中さやかはできればしゃこ食べたいです。あとししゃも。
楽しみだー。
にしてもしゃこが出てきますかー。小さい頃初めて食べた時その形と味にいたく感動して、またいつかリクエストするために心の中で何度も何度も「しゃこ、しゃこ、しゃこ・・・」とつぶやいていた想い出があります。当時の私には耳慣れない単語で覚えにくかったので。
場所はどうしましょうか。晴れだったら外でもいいですね。学校でもいいし、川原でも平尾台でも気持ちよさそう。そろそろものすんごく気持ちいい季節ですしねぇ。あったかくなってぽかぽかしてお散歩でもごろんでも・・・うーん、すてき。花粉症の人にはそれどころじゃないのかもしれないけど☆
後は民研とかになるのかな?
こんばんは。
汐月@どうもゼミBBSにカキコすることに抵抗がある。
みなさんの調整のおかげで、10日の日曜午後と言う事で
OKのようですね。
場所は、天気の具合もありますが、民研か河原でもいい
ような気がします。
お魚のリクエストは、了解しました。
ただ、シャコとししゃもだけだったら、とても簡単で
よいのですが、これで終わりというわけには、・・・。
また、鍋でもしますか?河原で、・・・いい感じかも。
ししゃもは焼くしかないけど、・・・。
これに関しても、意見を募ります。
また、人数がある程度、わかんないと魚の用意が、・・・。
ご協力、お願い致します。因みに、我が家は、太直と
ふたりで参加いたします。(麻理佳は塾のため)
以上。
PS.おくのまさまささんは、不参加ですか?
久しぶりにお会いしたい気もしておりますが、・・・。
こんばんは。原田悠貴、まだ会社にいたりします。先月の残業時間が一ヶ月で6時間だった私にとっては久しぶりなこと。
みなさんの調整のおかげで、10日の日曜午後と言う事で
OKのようですね。
場所は、天気の具合もありますが、民研か河原でもいい
ような気がします。
天気がよければ河原がいい!!!絶対!!!火をおこしてご飯を食べましょう。
お魚のリクエストは、了解しました。
ただ、シャコとししゃもだけだったら、とても簡単で
よいのですが、これで終わりというわけには、・・・。
また、鍋でもしますか?河原で、・・・いい感じかも。
ししゃもは焼くしかないけど、・・・。
これに関しても、意見を募ります。
さしみは大大大好きです。んでも河原で焼いて食べるのもすてき。ホイル焼きとか、直接あぶったりとかしたいです〜。
また、人数がある程度、わかんないと魚の用意が、・・・。
ご協力、お願い致します。因みに、我が家は、太直と
ふたりで参加いたします。(麻理佳は塾のため)
塾・・・しっかりおべんきょしてくれぃ・・・がんばれ☆
最近はみんな春休みでどっか行ってるのかな。野研でも声をかけてみよう。
以上。
PS.おくのまさまささんは、不参加ですか?
久しぶりにお会いしたい気もしておりますが、・・・。
私もあんまり会っていない気が。そうでもないのかな。ネット上でもお見かけするくらいですねぇ。お元気ですか?おまたの話を読んでいると、あぁ奥野さんだぁと思いました。最近お忙しいのかな。最近ってもとからかな。う〜む。いかん、いかん、お仕事せねば。
PS.おくのまさまささんは、不参加ですか?
久しぶりにお会いしたい気もしておりますが、・・・。
いつでも遊びにお出で下さい。
私もあんまり会っていない気が。そうでもないのかな。ネット上でもお見かけするくらいですねぇ。お元気ですか?おまたの話を読んでいると、あぁ奥野さんだぁと思いました。最近お忙しいのかな。最近ってもとからかな。う〜む。いかん、いかん、お仕事せねば。
いつでも遊びにお出で下さい。
16日(土)、AIMでパーティがあるけど、来ますか?濃ゆい本物のSEなんかが集まるよ。
お知らせ。
藤井さんが猪の肉を提供するそうです。
くそ、猪食いてぇ。
さやかへ。
月曜か火曜に誰も遊んでくれなくて、寂しかったら連絡下さい。遊んでいただきます。
やまなかさやかより
お知らせ。
藤井さんが猪の肉を提供するそうです。
くそ、猪食いてぇ。
たべたい。
さやかへ。
月曜か火曜に誰も遊んでくれなくて、寂しかったら連絡下さい。遊んでいただきます。
時間があればぜったいあそんでもらいます。
PS.おくのまさまささんは、不参加ですか?
久しぶりにお会いしたい気もしておりますが、・・・。
いつでも遊びにお出で下さい。
私もあんまり会っていない気が。そうでもないのかな。ネット上でもお見かけするくらいですねぇ。お元気ですか?おまたの話を読んでいると、あぁ奥野さんだぁと思いました。最近お忙しいのかな。最近ってもとからかな。う〜む。いかん、いかん、お仕事せねば。
いつでも遊びにお出で下さい。
僕も多くのまさまささまにに会いたいです。結局フィールドワークの話を直にすることもできなかったし。卒論も読んでもらいたいな。
僕も多くのまさまささまにに会いたいです。結局フィールドワークの話を直にすることもできなかったし。卒論も読んでもらいたいな。
いつでも、遊びにお出で下さい。
いつでも、遊びにお出で下さい。
一回もゾマ行ったことないです。
いつでも、遊びにお出で下さい。
一回もゾマ行ったことないです。
さがしていらっしゃい。
こんばんは。原田悠貴、まだ会社にいたりします。先月の残業時間が一ヶ月で6時間だった私にとっては久しぶりなこと。
みなさんの調整のおかげで、10日の日曜午後と言う事で
OKのようですね。
場所は、天気の具合もありますが、民研か河原でもいい
ような気がします。
天気がよければ河原がいい!!!絶対!!!火をおこしてご飯を食べましょう。
お魚のリクエストは、了解しました。
ただ、シャコとししゃもだけだったら、とても簡単で
よいのですが、これで終わりというわけには、・・・。
また、鍋でもしますか?河原で、・・・いい感じかも。
ししゃもは焼くしかないけど、・・・。
これに関しても、意見を募ります。
さしみは大大大好きです。んでも河原で焼いて食べるのもすてき。ホイル焼きとか、直接あぶったりとかしたいです〜。
さやかさんお久し振りです。いいなぁ魚かぁー。私も参加したいのですが、日曜の昼間は用事があるので、行けないです…。残念。
さやかさんは9日のいつ頃来られるんですか?
また、人数がある程度、わかんないと魚の用意が、・・・。
ご協力、お願い致します。因みに、我が家は、太直と
ふたりで参加いたします。(麻理佳は塾のため)
塾・・・しっかりおべんきょしてくれぃ・・・がんばれ☆
最近はみんな春休みでどっか行ってるのかな。野研でも声をかけてみよう。
以上。
PS.おくのまさまささんは、不参加ですか?
久しぶりにお会いしたい気もしておりますが、・・・。
私もあんまり会っていない気が。そうでもないのかな。ネット上でもお見かけするくらいですねぇ。お元気ですか?おまたの話を読んでいると、あぁ奥野さんだぁと思いました。最近お忙しいのかな。最近ってもとからかな。う〜む。いかん、いかん、お仕事せねば。
三月九日土曜日に帰ります。遊んでください。美味しいお魚もたべたい。
ゼミ室に行けばだれかいる?
ゆうきちゃんたちはお仕事かな?
いづれにしろとりあえず遊んでください。
どうもー、ゆうきですー。さやかさんお元気ですかー?お元気でしょうね^^。
残念ながら私はその日会社の集まりがあるので、行けないのです。
同じ歳の先輩が辞めてしまわれるのでその関係で。
かなり残念・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
もしかしたらどうにかすれば夜中に行けるかもしれないのですが、何時に終わるのかもさっぱりで@
というわけでまた分かったら連絡しますねー。
次の日の日曜はあいてますけど、他の予定があるのですかな?
チェンマイ二日目です。今日は地元の高校生に話し掛けられました。
なかなか楽しい時間を過ごせました。こっちの高校生は制服に草履を履いています・・・。
明日朝早くからバスでスコータイまで行ってきます。
チェンマイ二日目です。今日は地元の高校生に話し掛けられました。
なかなか楽しい時間を過ごせました。こっちの高校生は制服に草履を履いています・・・。
制服に草履……いいな、それ。
明日朝早くからバスでスコータイまで行ってきます。
いろいろ変なもんを見つけてきてください。楽しみにしてます。あ、ホームレスとか見てきて欲しいな(笑)。
チェンマイ二日目です。今日は地元の高校生に話し掛けられました。
なかなか楽しい時間を過ごせました。こっちの高校生は制服に草履を履いています・・・。
制服に草履……いいな、それ。
明日朝早くからバスでスコータイまで行ってきます。
いろいろ変なもんを見つけてきてください。楽しみにしてます。あ、ホームレスとか見てきて欲しいな(笑)。
それが、いないんですよー。というより、ホームレスなのかなんなのかわからない人だらけ。みんな道端でごろごろしているからなあ。暑いから日中動かない人はたくさんいる。
タイでどんなものを見つけたかな。ぜひ話を聞かせてください。
明日から10日間タイに行ってきます。さまざまな発見や疑問があることを期待しています。それはすでにほかの人から発見されていることかもしれませんが、違った捕らえ方があるかもしれないので、どんな一見くだらなさそうなことでも見逃さないようにしたいと思っています。
では。
明日から10日間タイに行ってきます。さまざまな発見や疑問があることを期待しています。それはすでにほかの人から発見されていることかもしれませんが、違った捕らえ方があるかもしれないので、どんな一見くだらなさそうなことでも見逃さないようにしたいと思っています。
では。
わたしも中国行ってきます。短いけど。
わたしも中国行ってきます。短いけど。
前行ったところに行くの?それとも一から発掘しなおすの?
明日から10日間タイに行ってきます。さまざまな発見や疑問があることを期待しています。それはすでにほかの人から発見されていることかもしれませんが、違った捕らえ方があるかもしれないので、どんな一見くだらなさそうなことでも見逃さないようにしたいと思っています。
では。
わたしも中国行ってきます。短いけど。
ぬわぁにぃぃ、ええのお。二人とも愉しんできてね。帰ってきてからのお話を楽しみにしています。
明日から10日間タイに行ってきます。さまざまな発見や疑問があることを期待しています。それはすでにほかの人から発見されていることかもしれませんが、違った捕らえ方があるかもしれないので、どんな一見くだらなさそうなことでも見逃さないようにしたいと思っています。
では。
私が返事を考えている間に旅立ってしまったわけですね。面白いものが見つかるといいですね。私は時間が空いたら、キューピーちゃんとかについて返事を書いときますから、帰ってきたら、また相手して下さい。
明日から10日間タイに行ってきます。さまざまな発見や疑問があることを期待しています。それはすでにほかの人から発見されていることかもしれませんが、違った捕らえ方があるかもしれないので、どんな一見くだらなさそうなことでも見逃さないようにしたいと思っています。
もう旅立っているかもしれないね。
趣味に走りながら動き回ったらいいと思う。面白いことはたくさんあるだろうけど、捕まえるには追いかけないと。短い時間だからとにかく貪欲に、少し無理して追いかけたらいいよ。「卒論になりそうなこと」とかあまり考えない方がいいかも。
いってらっしゃい。
書いてるうちに脱線してどんどん長くなっちゃったんですけどおひまな方はよかったら読んでください。
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私はまだ完璧なブラインドタッチが出来ません。
キーボードをちらちら見ながら打たないと、打つスピードがとても遅くなってしまうので、中途半端な習得のままで打っているのです。
しかしこれではいけないとは思っているのでパソコンに付いているタイピングソフトで練習したりしています。
今日はこの練習をしていて考えたことを書いてみようと思います。
他の人がどんな風にブラインドタッチをしているのかは分からないのですが、私の打ち方には二通りのキーの位置の認知の仕方があります。
その1、頭の中で「このキーはこっちだったよな」と一度確認してから打つ方法。
その2、打つ文字を決めた瞬間に指が動いて打つ方法。
これは「慣れ」の問題はあると思います。よく使うキーを打つ場合は勝手に指が動きます。逆にCやVなどは「あれどこだっけ?」となることがしばしばです。
身体技法を習得する場合には1のような「頭で覚える」段階から2の「身体で覚える」段階へと習熟していくことが多いのではないでしょうか。この習熟過程についてもよく考えたいのですが今日は別の所に置いときます。
今日練習をしていて気付いたことは「右手と左手で慣れ方が違う」ということです。
ブラインドタッチをするために手元を見ずに画面だけを見て打っていると、右手よりも左手の方が間違いが多くなります。そして、右手でほとんど上記の1の場合の認知でキーを打つことが出来つつあるのと違って、左手は2の認知の仕方が右手に比べると多く、1の認知の仕方で打とうとすると右手に比べて不安感があります。
その事実に気付いたため、ブラインドタッチをしながら、右手と左手の違いを感じてみることにしました。
すると、右手に安定感があり動かしやすいのに対して、左手は動きが鈍いです。
私は利き手が右なので右手が動かしやすいのは当然なのですが。
何が言いたいかというと、自分の身体の中に具体的な誤差があることを実感した、ということです。
ほんと当たり前のこと書いてるんですけど。
普段ブラインドタッチを習得する過程では「初めは手元を見てもいいけど、徐々に見ないようにして打ったほうがいい」という風に思ってやっています。しかし右手のキーを打つ場合と左手のキーを打つ場合では認知の仕方にもおそらく誤差があります。この誤差から起こりうる問題は、それでも強いて画面を見ずに両手を使ってブラインドタッチの練習を続けることで左手が十分に動くようになることで解決されると思われます。誤差が気にならなくなるまでに習熟すれば「キーを打つ場合には」問題はないからです。かといって両手の習熟過程はそれぞれの手で異なっているはずで、違いは残ると思います。
自分の身体は、よく知っているようで実は知らないことが山ほどあるのだと思います。
私は自分の顔を鏡を使わずに自分の目で直接見ることがないまま死ぬのでしょう。
自分の知らない顔を自分はたくさん持っているに違いない。
仮に顔を直接に見たとしても「見方」は無数にあって、「違う見方」を考えれば考えるほど気が狂いそうになる。実際に本気で自分の認知の方法を常に疑ったら日常生活はおくれなくなると思います。
でもやっぱり確実に誤差は存在するのです。
「私」はたまたまこの身体を持っていますが、左足を切断したとしたらその左足は「私である」とは一般的に認識されなくなるのでしょう。「私」は不定形なものです。「私」というのはひとかたまりの身体で完結したものを指して仮に「私」としているだけで。「内山雅世」という名称は後付けにすぎない。
話は少し飛びますが、私は「自分」にこだわればこだわるほど怖くなることがあります。
それは私が「私」という認知の方法を取っているからこそ「私」にこだわることができるからです。私がもし脳を損傷したとしたら認知の仕方自体に圧倒的な変化が生じ、その「私」は「それまで作り上げてきた私」を忘れてしまうことがありうる。
子どもの頃からこういうことを考えてたにも関わらず、私が日常生活をおくれているのはなぜなのかを考えると、それはこの現実を作り上げている「幻想」に好ましい類のものがあったからではないかと思います。
例えば私は子どもの頃から梅干が大好きだったんですけど、その梅の実をそのように加工し「梅干」と名付けるそうした現実がなぜなのかわからないけど好きだったからだと思います。
今では、なぜそれが「梅干」たりえるのか、ということも知りたいんですけど。その隠れた構造を探っていきたいものです。
でも、私が実際に「梅干」というものを受け入れた段階にはその隠れた構造よりもひとりよがりな「幻想」が関与していたと思われます。
キーボードを打つ方法のことに戻りますが、「初めは手元を見てもいいけど、徐々に見ないようにして打ったほうがいい」という方法を個人が取り入れるほうがいいかどうかは一概に言えないと思います。それは方法として有効だけれども、その方法は試行錯誤してから既に習熟した者がその習熟方法を「端的に」言うことでしかない。でも最初にその方法だけを目にした者はその方法の字面のみから受け取ることがありうるからです。
全くパソコンのキーボードを打ったことがない人はその説明を聞いて「そうか初めは見ていいけどしばらくしたら見たらいけないんだ」と思うかもしれない。しかしそうやってその方法だけに基づいて練習を行うと行き詰まりが出てくる。
なぜなら右手と左手の習熟など様々な誤差があるために、その方法を自分が適用する時は自分に都合がいい方法に形を柔軟に変える必要があるけれど、その方法のみに強くこだわることで必要な柔軟さを持てなくなるからです。
現代ではあらゆるものが便利になっていく。スイッチ一つ押せばいろんなことが自動的に出来る。それは便利でいいこと。でも、最初からその方法でものを使っていると、現実には多くの誤差があることに気付かないままになることがありうる。
それって怖いことじゃないだろうか。
例えば「このスイッチを押せば日本人全員が死ぬ」という言説があったとして、そのスイッチを持つ人が「日本人」というものに対して「日本人はだめな集団」という「幻想」しかなかったとしたら、スイッチは押され様々な違いを持った日本人が十杷一からげにされて全滅するかもしれない。
極端な例ですけど。
でも、「違い」「誤差」「ズレ」があることを意識しなくなり方法としての「幻想」に強く依拠した場合、事態の大きさに違いはあれこういったことが起こりうるのではないでしょうか。
こんにちは、まさやん。
身体技法を習得する場合には1のような「頭で覚える」段階から2の「身体で覚える」段階へと習熟していくことが多いのではないでしょうか。この習熟過程についてもよく考えたいのですが今日は別の所に置いときます。
私は逆で、まず身体が先に覚えて、後から頭で認識することの方が多いと思います。頭と身体は別々のもので、頭で理解したからといって身体がついてくるというわけはないので。まぁ、これはおいといて。
今日練習をしていて気付いたことは「右手と左手で慣れ方が違う」ということです。
ブラインドタッチをするために手元を見ずに画面だけを見て打っていると、右手よりも左手の方が間違いが多くなります。そして、右手でほとんど上記の1の場合の認知でキーを打つことが出来つつあるのと違って、左手は2の認知の仕方が右手に比べると多く、1の認知の仕方で打とうとすると右手に比べて不安感があります。
その事実に気付いたため、ブラインドタッチをしながら、右手と左手の違いを感じてみることにしました。
すると、右手に安定感があり動かしやすいのに対して、左手は動きが鈍いです。
私は利き手が右なので右手が動かしやすいのは当然なのですが。
私はタイピングの練習には、既存の文書を使いました。小説や新聞、お気に入りのものなどを写していくという作業です。自分で考えながら打つとどうしても遅くなってしまうからです。暇つぶしでもあったけど。ただ写しているだけでもフォントや字体、行数行間によって文章の感じが変わってしまうことがおもしろくって時々やっていました。同じ言葉、文章でもほんのちょっとのことでまったく違った印象をもちます。舞台で大道具の場所をほんの50cmずらしただけで芝居全体の印象が変わるのに似ています。まぁそれはおいといて。キーボードに関して言えば、私は頭では覚えていません。どこに何のキーがあったなんてことを考ながら打っているともたもたしますし、何も意識していない時はスムーズで早く打つことができます。ただ、アルファべットを打つ時になると見ないと分かりません。CATやDOGでさえ、すらすらとはいかないのです。普段よく使う単語でさえ、ゆっくりになります。
ゆうきさん(これはSEのゆうきさんの方)レスありがとうございます。
返事が遅れてごめんなさい。
身体技法を習得する場合には1のような「頭で覚える」段階から2の「身体で覚える」段階へと習熟していくことが多いのではないでしょうか。この習熟過程についてもよく考えたいのですが今日は別の所に置いときます。
私は逆で、まず身体が先に覚えて、後から頭で認識することの方が多いと思います。頭と身体は別々のもので、頭で理解したからといって身体がついてくるというわけはないので。まぁ、これはおいといて。
えーっと、私が書いたのはまず「キーボードのどこにどのキーがあるかを把握する」という段階のことを「頭で理解する段階」という意味で書きました。その段階がきっと最初にあるのではないかと。
でも、キーボードのどこにどのキーがあるかということも「頭で整理して覚える」のではない人が多いのかもしれないですね。
そこで今、キーボードを打つ時のキーの認識の仕方を少し変えてキーを打ってみました。
1:「こういう身体を持った私がキーボードの上に右手と左手をのせて画面に向かっている」という状態を頭の中をクリアにして意識させる傾向のあるいつもの身体の使い方から
↓
2:キーを打つ手を意識しないで、「打ちたい文字」だけを意識して打つ方法です。
打つ速度は後の方法の方が速くなります。
でもどちらにしても「頭(脳)」を使わない段階など本当は存在しないでしょうね。
2の方法にしても脳の認識方法は1の方法と変えているのではないかと思いますけど、「頭(脳)を使わず脳以外の身体の部分だけを使う」わけではなく脳を使っているのは間違いないですよね、きっと。
それに「頭で覚える段階」自体も「身体で覚える段階」と言えますよね、考えてみれば。脳も身体の一部ですから。
そもそも「頭(脳)」と「身体」を分けること自体おかしいとも言えますよね。
だから、「頭で覚える」「身体で覚える」というカテゴリー分け自体が不毛かもしれません。
頭と身体の使い方が方法によってどんな風に違うか、ということが大事であって。
2の方法のようにキーを打っている時には「そこにある実物のキー」を脳で認識の対象として意識しないのかもしれないと思いました。2の方法では、キーを速く打つ道筋に自分を没入させて身体(脳を含む)を動かし、その時キーの認識に関しては打ち込む文の認識とは別の「自立した」認識方法が使われているのかもしれないと思いました。
自立神経、みたいな?
てきとうに類推して書いてますけど(笑)
この辺のことはちゃんと調べてみないとなあ。
続き。一回目送る時にプレビューで見たら前半部分が見えなくて、後半部分が表示された後に全体が表示されてて変だなと思いながら送ってみたら見えなかった前半部分だけ送られていた・・・。なぜだろう・・・。何回プレビューしてみても変だったのよ。というわけで失われた後半部分。
何が言いたいかというと、自分の身体の中に具体的な誤差があることを実感した、ということです。
ほんと当たり前のこと書いてるんですけど。
自分の身体の左と右には違いがあるということは何かをする時に再認識することが多いです。中学の体育の棒高跳びで初めてきき足の存在を知りました。右左によってまったく違うということを身体で実感した覚えがあります。私は自転車で右に曲がるのが苦手です。車が多いところではちょっと危険です。一般的に走るのも左の方が楽なはずですよね。運動場のトラックも左回りだし、追いかけられて逃げる時、人は左へ、左へと走っていくと言います。(左利きの人はどうなんだろう。トラックは走りにくいのかな。)
ですが、私は車の運転では左に曲がるのが下手だったりします。左に曲がろうとハンドルをきる時に左手がうまく動いてくれない。変にハンドルを傾ける私に教習所の先生は左手を使わず右手を左にやりなさいと教えてくれたけど、それもなかなか難しくて。身体を傾けるのは左の方がやりやすくて、手を使うハンドルの時は右手の方がやりやすい。最近身体で実感しました。
普段ブラインドタッチを習得する過程では「初めは手元を見てもいいけど、徐々に見ないようにして打ったほうがいい」という風に思ってやっています。しかし右手のキーを打つ場合と左手のキーを打つ場合では認知の仕方にもおそらく誤差があります。この誤差から起こりうる問題は、それでも強いて画面を見ずに両手を使ってブラインドタッチの練習を続けることで左手が十分に動くようになることで解決されると思われます。誤差が気にならなくなるまでに習熟すれば「キーを打つ場合には」問題はないからです。かといって両手の習熟過程はそれぞれの手で異なっているはずで、違いは残ると思います。
自分の身体は、よく知っているようで実は知らないことが山ほどあるのだと思います。
私は自分の顔を鏡を使わずに自分の目で直接見ることがないまま死ぬのでしょう。
自分の知らない顔を自分はたくさん持っているに違いない。
仮に顔を直接に見たとしても「見方」は無数にあって、「違う見方」を考えれば考えるほど気が狂いそうになる。実際に本気で自分の認知の方法を常に疑ったら日常生活はおくれなくなると思います。
でもやっぱり確実に誤差は存在するのです。
「私」はたまたまこの身体を持っていますが、左足を切断したとしたらその左足は「私である」とは一般的に認識されなくなるのでしょう。「私」は不定形なものです。「私」というのはひとかたまりの身体で完結したものを指して仮に「私」としているだけで。「内山雅世」という名称は後付けにすぎない。
話は少し飛びますが、私は「自分」にこだわればこだわるほど怖くなることがあります。
それは私が「私」という認知の方法を取っているからこそ「私」にこだわることができるからです。私がもし脳を損傷したとしたら認知の仕方自体に圧倒的な変化が生じ、その「私」は「それまで作り上げてきた私」を忘れてしまうことがありうる。
私が「それまで作り上げてきた私」を忘れてしまった時、私はどんな人間になるのだろうと考えることがあります。時間をかけて少しずつ確立してきた人への関わり方、小賢しい立ちまわり方、自分の居場所、情や想い、想い出。これまでに培ってきた様々なことをすべて忘れてしまったとしたら、私はどんな人間になるのだろうか。いろんな経験や想いがなくなってしまったら、「原田悠貴」という人間の中心部分があらわになるということだろうか。となると中心部分とはいったいどのように形成されたのだろう。どんな私なのだろう。答えは出てきませんが興味があります。
子どもの頃からこういうことを考えてたにも関わらず、私が日常生活をおくれているのはなぜなのかを考えると、それはこの現実を作り上げている「幻想」に好ましい類のものがあったからではないかと思います。
例えば私は子どもの頃から梅干が大好きだったんですけど、その梅の実をそのように加工し「梅干」と名付けるそうした現実がなぜなのかわからないけど好きだったからだと思います。
今では、なぜそれが「梅干」たりえるのか、ということも知りたいんですけど。その隠れた構造を探っていきたいものです。
でも、私が実際に「梅干」というものを受け入れた段階にはその隠れた構造よりもひとりよがりな「幻想」が関与していたと思われます。
キーボードを打つ方法のことに戻りますが、「初めは手元を見てもいいけど、徐々に見ないようにして打ったほうがいい」という方法を個人が取り入れるほうがいいかどうかは一概に言えないと思います。それは方法として有効だけれども、その方法は試行錯誤してから既に習熟した者がその習熟方法を「端的に」言うことでしかない。でも最初にその方法だけを目にした者はその方法の字面のみから受け取ることがありうるからです。
全くパソコンのキーボードを打ったことがない人はその説明を聞いて「そうか初めは見ていいけどしばらくしたら見たらいけないんだ」と思うかもしれない。しかしそうやってその方法だけに基づいて練習を行うと行き詰まりが出てくる。
なぜなら右手と左手の習熟など様々な誤差があるために、その方法を自分が適用する時は自分に都合がいい方法に形を柔軟に変える必要があるけれど、その方法のみに強くこだわることで必要な柔軟さを持てなくなるからです。
例えば何かを始める時に、これはこういうふうにするんだよ、と人から教えられるとします。
それに対して、ある人はそうなんだ、こうするんだ、と苦労しながらもその方法に慣れるまで練習を続けるかもしれない。ある人はふーん、そうなんだと思いながらめんどくさい、もしくはやりにくいからと自分のやり方で練習するかもしれません。ここで重要なのは、何故今までこれがいいと言われているのかを理解すること、そしてその上で自分のやり方を考えることではないかと私は思います。何も考えずにただ言われたとおりにしてしまうと、まさやんが言う通り柔軟性がなくなってしまうかもしれない。かといって初めから自分のやり方でしてしまうと、ちゃんとした方法を知っておけば簡単にできることなのに知らないが故にすごくめんどくさいことしてしまっているかもしれない。どうしてこの人は今までこういう方法をとってきたのか。どうして一般的にこういう方法がうたわれているのか。そこをふまえいろいろ試した上で、自分がどのやり方をとるのか選べるのがいいと私はいつも思います。もちろん分野によって違います。初めのうちは何でか理解できないかもしれないがいずれ分かるからと言われることも多いです。言われるがままその通りにしているとほんとに後で言われたとおりだ、と思うこともありますし。だからその通りにするかどうかと言うのはその時の相手や、やることによって判断が必要となるのですが。いろいろなことに気づけるようでいたいと思います。
そういえば「マニュアル」がないと何もできない人が増えたという話がいつだったかよく出てたよね。あれも関係あると思う。(あぁ、これもちゃんと本読まないままほったらかしてた・・・。)
現代ではあらゆるものが便利になっていく。スイッチ一つ押せばいろんなことが自動的に出来る。それは便利でいいこと。でも、最初からその方法でものを使っていると、現実には多くの誤差があることに気付かないままになることがありうる。
それって怖いことじゃないだろうか。
例えば「このスイッチを押せば日本人全員が死ぬ」という言説があったとして、そのスイッチを持つ人が「日本人」というものに対して「日本人はだめな集団」という「幻想」しかなかったとしたら、スイッチは押され様々な違いを持った日本人が十杷一からげにされて全滅するかもしれない。
極端な例ですけど。
でも、「違い」「誤差」「ズレ」があることを意識しなくなり方法としての「幻想」に強く依拠した場合、事態の大きさに違いはあれこういったことが起こりうるのではないでしょうか。
私にはまさやんの言う「幻想」と「誤差」いう言葉の意味がはっきりと捉えられていないです。その「幻想」とは私にとっての無意識に行っている認識、思い込み、といったものなのでしょうか。私の「無意識な思い込み」は、何かを実感した瞬間、何かに驚いた瞬間に表に出てきます。そこで初めて今までこう思っていたんだよ、と、自分でも気づかなかったそれの存在に気づくのです。それまでは私の中のどこかで埋もれていて、とらえることも認識することもないくらいに当たり前に知らぬ間に存在しているもの。だからこそ何かを発見したり、実感した時にささやかな感動とそのことの重大さを感じる私であったりします。
何だか思いついたことを書き並べてしまいました。まさやんの内容にあってないところも多々あるかもしれないけどまぁよいということで。私はきっとまさやんが伝えたいことをきちんと理解していない部分がたくさんあると思うのでとりあえず書いてみました。
SEゆうきさんの続きの文の返事です。
自分の身体の左と右には違いがあるということは何かをする時に再認識することが多いです。中学の体育の棒高跳びで初めてきき足の存在を知りました。右左によってまったく違うということを身体で実感した覚えがあります。私は自転車で右に曲がるのが苦手です。車が多いところではちょっと危険です。一般的に走るのも左の方が楽なはずですよね。運動場のトラックも左回りだし、追いかけられて逃げる時、人は左へ、左へと走っていくと言います。(左利きの人はどうなんだろう。トラックは走りにくいのかな。)
ですが、私は車の運転では左に曲がるのが下手だったりします。左に曲がろうとハンドルをきる時に左手がうまく動いてくれない。変にハンドルを傾ける私に教習所の先生は左手を使わず右手を左にやりなさいと教えてくれたけど、それもなかなか難しくて。身体を傾けるのは左の方がやりやすくて、手を使うハンドルの時は右手の方がやりやすい。最近身体で実感しました。
左利きの人はいろいろと大変なことがあるのでしょうね。
世の中のモノはほとんど右利き用に作ってあるわけで。
くろださやかは左利きなのですが、中学生の時に左利き用のはさみを使うまで、はさみで真っ直ぐ紙を切れないのは自分が不器用だからだと思っていたそうです。
私が「それまで作り上げてきた私」を忘れてしまった時、私はどんな人間になるのだろうと考えることがあります。時間をかけて少しずつ確立してきた人への関わり方、小賢しい立ちまわり方、自分の居場所、情や想い、想い出。これまでに培ってきた様々なことをすべて忘れてしまったとしたら、私はどんな人間になるのだろうか。いろんな経験や想いがなくなってしまったら、「原田悠貴」という人間の中心部分があらわになるということだろうか。となると中心部分とはいったいどのように形成されたのだろう。どんな私なのだろう。答えは出てきませんが興味があります。
私は時々生きてきた中で確立してきた「方法」や「思い入れ」をなるべくリセットしてみる時間を持つことがあります。
自分が本当は何を望んでいるのか、今何が自分の心の中にひっかかっているのか、そういうぼんやりしたものに触れてみようとします。
自分が眠っている時みた夢から探ってみたり。
それがなんなのかはっきりとはわからないんですけど。
そういえば「マニュアル」がないと何もできない人が増えたという話がいつだったかよく出てたよね。あれも関係あると思う。(あぁ、これもちゃんと本読まないままほったらかしてた・・・。)
そういう話を聞きますね。
ゆうきさんそれについて何かいい本を知ってますか?
よかったら教えてください。
でも、「違い」「誤差」「ズレ」があることを意識しなくなり方法としての「幻想」に強く依拠した場合、事態の大きさに違いはあれこういったことが起こりうるのではないでしょうか。
私にはまさやんの言う「幻想」と「誤差」いう言葉の意味がはっきりと捉えられていないです。その「幻想」とは私にとっての無意識に行っている認識、思い込み、といったものなのでしょうか。私の「無意識な思い込み」は、何かを実感した瞬間、何かに驚いた瞬間に表に出てきます。そこで初めて今までこう思っていたんだよ、と、自分でも気づかなかったそれの存在に気づくのです。それまでは私の中のどこかで埋もれていて、とらえることも認識することもないくらいに当たり前に知らぬ間に存在しているもの。だからこそ何かを発見したり、実感した時にささやかな感動とそのことの重大さを感じる私であったりします。
自分には知らないことがたくさんある、という事実を受け入れるのは、自分確立せず不安だったりもするのですが、世界のすべてを知り尽くせる人などいないのだから、本当は人はみな何らかの「幻想」を更新しながら生きているはずです。
でもそんな風に書く私も人につけいる隙を与えないためには確立しているふりをしたりもします。
「違い」は世界の中に無数にあって、自分はそれを知り尽くすことはできないのだということを知っていること(「無知の知」ってこういうことなのかな?)が大事なように思います。
お返事遅くなりました!ごめんなさい。ドラフトに入ってた☆
そういえば「マニュアル」がないと何もできない人が増えたという話がいつだったかよく出てたよね。
あれも関係あると思う。(あぁ、これもちゃんと本読まないままほったらかしてた・・・。)
そういう話を聞きますね。
ゆうきさんそれについて何かいい本を知ってますか?
よかったら教えてください。
ごめんなさい、何かの時に新聞や雑誌でかじったことしか覚えてないの・・・。誰か知りませんか?今探しているところなのでまさやんもいいのがあったら教えてね。
自分には知らないことがたくさんある、という事実を受け入れるのは、自分確立せず不安だったりもするのですが、世界のすべてを知り尽くせる人などいないのだから、本当は人はみな何らかの「幻想」を更新しながら生きているはずです。
でもそんな風に書く私も人につけいる隙を与えないためには確立しているふりをしたりもします。
「違い」は世界の中に無数にあって、自分はそれを知り尽くすことはできないのだということを知っていること(「無知の知」ってこういうことなのかな?)が大事なように思います。
幻想も真実も違いも何もかも人の数だけ存在する。そのこと自体はきっと知っておこう、覚えておこうと意識的に思って頭においておくことではないのだと思います。だけど、気づかないまま流されてはいけないのだと思う。自分の考え方だけだと決めつけちゃいけない。だけどそれだって、意識的に決めつけようと思ってするわけでも決めつけまいとすることでもない。何事でも頭の中で勝手に知らない間に決めつけているものだと思います。そんでもってたいていの場合決めつけてるという自覚はまったく無かったりします。完全に無意識の中で決めつけてるものが多い。だからこそたくさんの人の真実や幻想に触れながら、違いは常に無数に存在しているのだということを再確認して実感することが貴重に思えます。「えっ、そうなの?!わたしゃ今までこうだとばかり思っていたよ」とか「あぁ、言われてみればそうよねぇ、考えてなかった」って感じのこと。今この会話に出会えてよかった、みたいな。その積み重ねが柔軟性にもつながるのではないかと思ったりもします。
自分の身体の左と右には違いがあるということは何かをする時に再認識することが多いです。中学の体育の棒高跳びで初めてきき足の存在を知りました。右左によってまったく違うということを身体で実感した覚えがあります。私は自転車で右に曲がるのが苦手です。車が多いところではちょっと危険です。一般的に走るのも左の方が楽なはずですよね。運動場のトラックも左回りだし、追いかけられて逃げる時、人は左へ、左へと走っていくと言います。(左利きの人はどうなんだろう。トラックは走りにくいのかな。)
ですが、私は車の運転では左に曲がるのが下手だったりします。左に曲がろうとハンドルをきる時に左手がうまく動いてくれない。変にハンドルを傾ける私に教習所の先生は左手を使わず右手を左にやりなさいと教えてくれたけど、それもなかなか難しくて。身体を傾けるのは左の方がやりやすくて、手を使うハンドルの時は右手の方がやりやすい。最近身体で実感しました。
私は誰かと二人で歩くとき、絶対左側でないとうまく歩けません。
隣の人との距離感、自分がまっすぐ歩けるか、隣の人を見失わないかなど、右と左とでは大違いです。とくに最後の見失わないかどうか。
おそらく私は空間理解が右側と左側では違っているのです。道路は歩行者は右ですが(普通守っていないけど)私は安全のためにも左側通行します。左側に注意を配れないので、車が左をすり抜けるのが怖くてしかたありません。
でも二人で歩くとき、誰かが右にいると落ち着くということは実は右側の注意を人に任せて安心しているとも考えられます。誰かが左側に来ると落ち着かないのは、敏感に反応しているともとれます。
はじめは利き手の問題かと思っていました。私は基本的には右利きですが、自転車の片手運転は左手のほうがうまくできます。みかんの皮を剥くのも、ハンバーグのタネをこねるのも、左手です。というか、どちらでも作業できます。しかし歩くときはどうしても左側でないと・・・。これはたぶん、脳みその問題かもしれないですね。
自分の身体は、よく知っているようで実は知らないことが山ほどあるのだと思います。
私は自分の顔を鏡を使わずに自分の目で直接見ることがないまま死ぬのでしょう。
自分の知らない顔を自分はたくさん持っているに違いない。
仮に顔を直接に見たとしても「見方」は無数にあって、「違う見方」を考えれば考えるほど気が狂いそうになる。実際に本気で自分の認知の方法を常に疑ったら日常生活はおくれなくなると思います。
私は写真で自分の顔を見るたびに「自分はこんな顔じゃない!」と思います。同じように、テープで録音された自分の声も変な気がします。(これは体の中で反響した声を自分の声と認識しているからですが。)同じようにスナップ写真に写った普段の自分の顔が他人のような気がして、「気持ち悪い」と思ってしまい、写真嫌いになる人はたくさんいます。あと、人に自分の知らなかったほくろを指摘されてびっくりしたりします。私は一時期自分の体中のほくろの位置が気になり、ひとつずつ確認しながら『キューピーちゃん』に書き入れていこうと思ったことがあります(笑)。
話は少し飛びますが、私は「自分」にこだわればこだわるほど怖くなることがあります。
それは私が「私」という認知の方法を取っているからこそ「私」にこだわることができるからです。私がもし脳を損傷したとしたら認知の仕方自体に圧倒的な変化が生じ、その「私」は「それまで作り上げてきた私」を忘れてしまうことがありうる。
私が「それまで作り上げてきた私」を忘れてしまった時、私はどんな人間になるのだろうと考えることがあります。時間をかけて少しずつ確立してきた人への関わり方、小賢しい立ちまわり方、自分の居場所、情や想い、想い出。これまでに培ってきた様々なことをすべて忘れてしまったとしたら、私はどんな人間になるのだろうか。いろんな経験や想いがなくなってしまったら、「原田悠貴」という人間の中心部分があらわになるということだろうか。となると中心部分とはいったいどのように形成されたのだろう。どんな私なのだろう。答えは出てきませんが興味があります。
逆に、何らかの原因で記憶をすべて失ったら本当の自分がどういう人間なのかがわかる(というか、現れる)のだと思います。その人間の核?とでもいうのか、性質が・・・です。今の「松永夕紀」を作り、人格を支えているものは環境や思い出や、人が私に対して抱いているイメージです。「私は人にこんな人間だと思われている」という意識が私の言動に影響していることは確かです。記憶や思い込みがすべてなくなったら、私の本質が見えてくるかもしれません。
例えば私は子どもの頃から梅干が大好きだったんですけど、その梅の実をそのように加工し「梅干」と名付けるそうした現実がなぜなのかわからないけど好きだったからだと思います。
今では、なぜそれが「梅干」たりえるのか、ということも知りたいんですけど。その隠れた構造を探っていきたいものです。
でも、私が実際に「梅干」というものを受け入れた段階にはその隠れた構造よりもひとりよがりな「幻想」が関与していたと思われます。
キーボードを打つ方法のことに戻りますが、「初めは手元を見てもいいけど、徐々に見ないようにして打ったほうがいい」という方法を個人が取り入れるほうがいいかどうかは一概に言えないと思います。それは方法として有効だけれども、その方法は試行錯誤してから既に習熟した者がその習熟方法を「端的に」言うことでしかない。でも最初にその方法だけを目にした者はその方法の字面のみから受け取ることがありうるからです。
全くパソコンのキーボードを打ったことがない人はその説明を聞いて「そうか初めは見ていいけどしばらくしたら見たらいけないんだ」と思うかもしれない。しかしそうやってその方法だけに基づいて練習を行うと行き詰まりが出てくる。
なぜなら右手と左手の習熟など様々な誤差があるために、その方法を自分が適用する時は自分に都合がいい方法に形を柔軟に変える必要があるけれど、その方法のみに強くこだわることで必要な柔軟さを持てなくなるからです。
例えば何かを始める時に、これはこういうふうにするんだよ、と人から教えられるとします。
それに対して、ある人はそうなんだ、こうするんだ、と苦労しながらもその方法に慣れるまで練習を続けるかもしれない。ある人はふーん、そうなんだと思いながらめんどくさい、もしくはやりにくいからと自分のやり方で練習するかもしれません。ここで重要なのは、何故今までこれがいいと言われているのかを理解すること、そしてその上で自分のやり方を考えることではないかと私は思います。何も考えずにただ言われたとおりにしてしまうと、まさやんが言う通り柔軟性がなくなってしまうかもしれない。かといって初めから自分のやり方でしてしまうと、ちゃんとした方法を知っておけば簡単にできることなのに知らないが故にすごくめんどくさいことしてしまっているかもしれない。どうしてこの人は今までこういう方法をとってきたのか。どうして一般的にこういう方法がうたわれているのか。そこをふまえいろいろ試した上で、自分がどのやり方をとるのか選べるのがいいと私はいつも思います。もちろん分野によって違います。初めのうちは何でか理解できないかもしれないがいずれ分かるからと言われることも多いです。言われるがままその通りにしているとほんとに後で言われたとおりだ、と思うこともありますし。だからその通りにするかどうかと言うのはその時の相手や、やることによって判断が必要となるのですが。いろいろなことに気づけるようでいたいと思います。
そういえば「マニュアル」がないと何もできない人が増えたという話がいつだったかよく出てたよね。あれも関係あると思う。(あぁ、これもちゃんと本読まないままほったらかしてた・・・。)
現代ではあらゆるものが便利になっていく。スイッチ一つ押せばいろんなことが自動的に出来る。それは便利でいいこと。でも、最初からその方法でものを使っていると、現実には多くの誤差があることに気付かないままになることがありうる。
それって怖いことじゃないだろうか。
例えば「このスイッチを押せば日本人全員が死ぬ」という言説があったとして、そのスイッチを持つ人が「日本人」というものに対して「日本人はだめな集団」という「幻想」しかなかったとしたら、スイッチは押され様々な違いを持った日本人が十杷一からげにされて全滅するかもしれない。
極端な例ですけど。
でも、「違い」「誤差」「ズレ」があることを意識しなくなり方法としての「幻想」に強く依拠した場合、事態の大きさに違いはあれこういったことが起こりうるのではないでしょうか。
私にはまさやんの言う「幻想」と「誤差」いう言葉の意味がはっきりと捉えられていないです。その「幻想」とは私にとっての無意識に行っている認識、思い込み、といったものなのでしょうか。私の「無意識な思い込み」は、何かを実感した瞬間、何かに驚いた瞬間に表に出てきます。そこで初めて今までこう思っていたんだよ、と、自分でも気づかなかったそれの存在に気づくのです。それまでは私の中のどこかで埋もれていて、とらえることも認識することもないくらいに当たり前に知らぬ間に存在しているもの。だからこそ何かを発見したり、実感した時にささやかな感動とそのことの重大さを感じる私であったりします。
何だか思いついたことを書き並べてしまいました。まさやんの内容にあってないところも多々あるかもしれないけどまぁよいということで。私はきっとまさやんが伝えたいことをきちんと理解していない部分がたくさんあると思うのでとりあえず書いてみました。
私は誰かと二人で歩くとき、絶対左側でないとうまく歩けません。
隣の人との距離感、自分がまっすぐ歩けるか、隣の人を見失わないかなど、右と左とでは大違いです。とくに最後の見失わないかどうか。
すぐ見失うのね・・・(笑)
おそらく私は空間理解が右側と左側では違っているのです。道路は歩行者は右ですが(普通守っていないけど)私は安全のためにも左側通行します。左側に注意を配れないので、車が左をすり抜けるのが怖くてしかたありません。
でも二人で歩くとき、誰かが右にいると落ち着くということは実は右側の注意を人に任せて安心しているとも考えられます。誰かが左側に来ると落ち着かないのは、敏感に反応しているともとれます。
はじめは利き手の問題かと思っていました。私は基本的には右利きですが、自転車の片手運転は左手のほうがうまくできます。みかんの皮を剥くのも、ハンバーグのタネをこねるのも、左手です。というか、どちらでも作業できます。しかし歩くときはどうしても左側でないと・・・。これはたぶん、脳みその問題かもしれないですね。
ちなみに私は歩く時は右側です。利き手があいてないといやでした。かばんを肩にかけるのは右でしかできないし、手に持つ時は左手で持ちたかったりする。そういえばみかんをむくのは左手です。右手じゃうまくむけません。かつて左手をちょっと骨折した時、利き手じゃなくてよかったと安心したのはつかの間、左手がないと不便なこと、右手ではうまくできないことというのがぼろぼろでてきて驚いたことがありました。
私は写真で自分の顔を見るたびに「自分はこんな顔じゃない!」と思います。同じように、テープで録音された自分の声も変な気がします。(これは体の中で反響した声を自分の声と認識しているからですが。)同じようにスナップ写真に写った普段の自分の顔が他人のような気がして、「気持ち悪い」と思ってしまい、写真嫌いになる人はたくさんいます。あと、人に自分の知らなかったほくろを指摘されてびっくりしたりします。私は一時期自分の体中のほくろの位置が気になり、ひとつずつ確認しながら『キューピーちゃん』に書き入れていこうと思ったことがあります(笑)。
すてきすぎる・・・。知らないうちに発生したとしか思えなくて病気だと疑ったことはあるけど。
話は少し飛びますが、私は「自分」にこだわればこだわるほど怖くなることがあります。
それは私が「私」という認知の方法を取っているからこそ「私」にこだわることができるからです。私がもし脳を損傷したとしたら認知の仕方自体に圧倒的な変化が生じ、その「私」は「それまで作り上げてきた私」を忘れてしまうことがありうる。
私が「それまで作り上げてきた私」を忘れてしまった時、私はどんな人間になるのだろうと考えることがあります。時間をかけて少しずつ確立してきた人への関わり方、小賢しい立ちまわり方、自分の居場所、情や想い、想い出。これまでに培ってきた様々なことをすべて忘れてしまったとしたら、私はどんな人間になるのだろうか。いろんな経験や想いがなくなってしまったら、「原田悠貴」という人間の中心部分があらわになるということだろうか。となると中心部分とはいったいどのように形成されたのだろう。どんな私なのだろう。答えは出てきませんが興味があります。
逆に、何らかの原因で記憶をすべて失ったら本当の自分がどういう人間なのかがわかる(というか、現れる)のだと思います。その人間の核?とでもいうのか、性質が・・・です。今の「松永夕紀」を作り、人格を支えているものは環境や思い出や、人が私に対して抱いているイメージです。「私は人にこんな人間だと思われている」という意識が私の言動に影響していることは確かです。記憶や思い込みがすべてなくなったら、私の本質が見えてくるかもしれません。
高校で読書感想文を書く時に、「人の持ち合わせた人格や人間性には一流、二流とある。そしてその差は子供の頃からはっきりと浮き出てくるものだ」と主張して先生に否定されたことがあります。人間に一流、二流なんて差をつけてはいけない、と言われました。私は心の中で、そうは言ってもやっぱり全然違うのだと思ってました。勉強ができるかどうか、お金がある家かどうか、そういったものの優劣は関係なく、その人の「人間」がどうなのか、ということに関しては隠すことも努力でもどうすることもできない部分というものがあると思います。
記憶を失う時だけでなく、本質とか核というのはこどもの頃はっきりと浮き出てる部分で感じることができるような気がします。育った環境や経験で人って変わっていったり形成されていくものではあるけど、こどもというのはほんとにその人の核が表出する時期であるように思えます。素直に態度に出るこども。周りのことを気にせず、相手にどう思われるかなんて気にせず振舞う子、逆に周りの人の顔色を見ながら振舞う子。そういうのを隠す技術、隠そうとする思考(?)みたいのが未熟であるためにはっきり核が表に出てくるのだと思います。ある程度歳を重ねてくると、周りのことを気にして動く、ということを考えられるようになってきます。もちろん人によるけど。笑顔を浮かべることも、相手を気遣うことも、気遣うそぶりをみせることも、人に合わせることも、人に合わせないようにすることも、余裕があるように見せるのも・・・何だってよくも悪くもやろうと思えば何だってできちゃいます。周りのことを気にしすぎて動けなくなってしまうのも、自分の主張だけで周りのことを気にしなさすぎるのも私は嫌です。身体で空気を読み取るということができる人でありたいと思います。
話がずれましたが、核というのは追い詰められた状況になると表に出てくるとも思います。映画とかでよくある話ですが、大勢で監禁された時や、山で遭難した時、島に流れ着いた時人はどうなるのか。
たいていああいうのでは、余裕がなくなる人、リーダーシップをとる人(これ主人公)、それをサポートできる人などそれぞれの人間性があらわになっていくものです。
映画や小説を見てる分にはいいのです。平和な映画館や部屋の中である程度のスリルや人間観察が楽しめるかもしれません。だけど、もし自分がそこに立ちあったら・・・。私はどうするだろう。
限られた食物を大人数でどうするか。人肉を食べるか。危険な作業を一人だけ背負わないといけなくなったら。全員はボートに乗れない時沈む船に残るか、蹴落としてボートに乗ろうとするか。誰かが目の前でひどくいじめられていたら。もしもここが戦場であったら・・・。
もちろん、想像できるはずもありません。そして想像したくないです。とにかくそんな目に遭わないでいたいと思います。そう思うことがどんなにずるくて自分中心であっても。と言い切ってもそれはそれで嫌で。
この手のことを考えているとどっちにもどこにもつきたくなくてエンドレスになるのでちょっとおいておきます。
何が言いたかったのかと言うと、「原田悠貴」という人間には核があり、私という人間には経験や今後の努力では変わらないことがある。その上でこれまでの人生(人生という言葉を使うにはまだまだ短いけど)での様々なものに培われ支えられた状態が「原田悠貴」だと。そして今の「原田悠貴」を支えているものは経験やこれまでに培われた人間性、考え方だけでなく、私をとりまく平和で余裕のある今の環境(上記のように追い詰められていない状況)がなくてはならないものである、ということです。
お金があるから、とか先進国である日本だからよゆうがあると言っているのではありません。そうではなく、そんなことは関係なく、とにかく私が今、この瞬間にいる場所、状況、環境というのが今の瞬間の「私」を左右している、支えているということをちょっと再認識したというかそういえばあまり考えてなかったなぁなんて書きながら思いました。
私は写真で自分の顔を見るたびに「自分はこんな顔じゃない!」と思います。同じように、テープで録音された自分の声も変な気がします。(これは体の中で反響した声を自分の声と認識しているからですが。)同じようにスナップ写真に写った普段の自分の顔が他人のような気がして、「気持ち悪い」と思ってしまい、写真嫌いになる人はたくさんいます。あと、人に自分の知らなかったほくろを指摘されてびっくりしたりします。私は一時期自分の体中のほくろの位置が気になり、ひとつずつ確認しながら『キューピーちゃん』に書き入れていこうと思ったことがあります(笑)。
キューピーちゃんはいいアイデアだと思います。でも、「自分はこんな顔じゃない!」と思う時、自分の顔に対して何らかのイメージを持っていて、それとは違うということでしょうか?
何らかの原因で記憶をすべて失ったら本当の自分がどういう人間なのかがわかる(というか、現れる)のだと思います。その人間の核?とでもいうのか、性質が・・・です。今の「松永夕紀」を作り、人格を支えているものは環境や思い出や、人が私に対して抱いているイメージです。「私は人にこんな人間だと思われている」という意識が私の言動に影響していることは確かです。記憶や思い込みがすべてなくなったら、私の本質が見えてくるかもしれません。
「私の本質」というのが私にはどうも違和感があります。全て失ったら、もうそれは「私」ではない全く別物だと私は思います。繋ぎ止めておくものなど何もないのに、何故それを「私」だと呼ぶのでしょうか?
「核」なんてあるんでしょうか?
こどもの頃を振り返って、これが私の「核」になるものだというものが思い当たりますか?もし思い当たるならば、それはどうして「核」だと思えるのでしょうか?例えば人の顔色を伺うというのが、今の自分の意識の根底にあるからだとしましょう。こどもの頃、そして今も人の顔色を伺うのが自分を決定付けていると。では、その決定付けているという判断はどの時点でなされるでしょうか。こどもの頃?いや、そういう自分がいると認識し、それを繕おうとした時点ではないでしょうか。認識できるようになった理由としては、成長ということがあげられるかもしれません。自分を意識できるかできないかというのは大きな違いです。でも、意識するには、何かしら意識できる形を整えていなければなりません。それは一回きりの事実ではなく、何度もそうだったという事実です。気づくことのできるだけの量の既成事実(私は人の顔色を伺って行動した)が積み重なり、私はこんな所があると認識するに至る。もしもその既成事実が今も積み重ねられ、脈々と息づいていると判断されるならば、それは「私の核」と呼ばれるのでしょうか?それはただ単に、私の中の一部を構成し始めてから長い時間がたっているというだけではないでしょうか?そして自分はただそれに慣らされているだけなのではないでしょうか?
私が「核」の話に違和感を持ったのは、そこにいたってどこにも行けない気がしたからです。自分にはどうしようもない決定的なものが自分にはあるのだと受け入れてしまうと、生きているのが面白くなくなる気がしたからです。自分の意識の中では長い間頻出の既成事実であっても、これからそれが変わるかもしれないから、何が起こるかわからないから楽しめるわけで。もちろん、どこにも行きたくなくなるような居心地のいい場所もあります。それはそれでとっておけたらとっておきたい。でも、変わり続けることを止めることはできない。だからせいぜい今、頑張って繋ぎ止めておけるだけ、ここに繋ぎ止めておこうとする。その行為が積み重なった時、前とは別の既成事実が自分の中で強く認識されるかもしれません。時間や経験の積み重ねが「私」を規定していくのは、必ずしも何かに縛られていく行為ではなくて、何かを解きほぐし、壊していく行為でもあると言えるのではないでしょうか。
私は写真で自分の顔を見るたびに「自分はこんな顔じゃない!」と思います。同じように、テープで録音された自分の声も変な気がします。(これは体の中で反響した声を自分の声と認識しているからですが。)同じようにスナップ写真に写った普段の自分の顔が他人のような気がして、「気持ち悪い」と思ってしまい、写真嫌いになる人はたくさんいます。あと、人に自分の知らなかったほくろを指摘されてびっくりしたりします。私は一時期自分の体中のほくろの位置が気になり、ひとつずつ確認しながら『キューピーちゃん』に書き入れていこうと思ったことがあります(笑)。
キューピーちゃんはいいアイデアだと思います。でも、「自分はこんな顔じゃない!」と思う時、自分の顔に対して何らかのイメージを持っていて、それとは違うということでしょうか?
「このキューピーさえあればバラバラ死体になっても私かどうかわかるでしょ?」と言ったらおもいっきり嫌がられました・・・。
自分の顔ってたいていは鏡を見て認識しているわけじゃないですか。だから私のように顔がちゃんと左右対称でない人間は、反転していない本当の自分の顔を見て「アンバランスで気持ちが悪く」なるんです。って書いときながら、私が本当に「気持ち悪い」と思うのは自分の表情なんです。鏡の自分の表情はたいていは無表情。(ごくまれにわらってみたりすることも・・・。)スナップ写真も無表情なものもありますが、なんか違う。鏡の無表情は意図的な無表情でしょ?笑いながら眉毛は描けないから。あれ?逆か??でも証明写真の私は明らかに感情のない蝋人形に見える。感情がないというより命が感じられない。鏡を見るとき、私の意識は間違いなく私自身に向けられ、私の目は私の体を見ている。でも写真の自分はいろんなところに意識が行ってて、自分とは関係ないことで笑ったり、考えてたり、まったくなんにも考えていなかったりする。そういうときの自分の表情が私にも理解不能でつかめない。私のことなのに私はわからなくて違和感を感じる。
何らかの原因で記憶をすべて失ったら本当の自分がどういう人間なのかがわかる(というか、現れる)のだと思います。その人間の核?とでもいうのか、性質が・・・です。今の「松永夕紀」を作り、人格を支えているものは環境や思い出や、人が私に対して抱いているイメージです。「私は人にこんな人間だと思われている」という意識が私の言動に影響していることは確かです。記憶や思い込みがすべてなくなったら、私の本質が見えてくるかもしれません。
「私の本質」というのが私にはどうも違和感があります。全て失ったら、もうそれは「私」ではない全く別物だと私は思います。繋ぎ止めておくものなど何もないのに、何故それを「私」だと呼ぶのでしょうか?
「私」について、「私」ひとりきりのことで考えるとあおいさんのいうことはわかります。でも、周りの人間(家族とか)が「松永夕紀」のことを知っている限り、私自身が記憶を失っても「あなたは松永夕紀という名で私の家族なのよ」と言われるでしょう。私の中ではとっくに無くしてしまった記憶や繋ぎとめていたものを知っている誰かがいれば、「全くの別物」とは言いがたい。
「核」なんてあるんでしょうか?
こどもの頃を振り返って、これが私の「核」になるものだというものが思い当たりますか?もし思い当たるならば、それはどうして「核」だと思えるのでしょうか?例えば人の顔色を伺うというのが、今の自分の意識の根底にあるからだとしましょう。こどもの頃、そして今も人の顔色を伺うのが自分を決定付けていると。では、その決定付けているという判断はどの時点でなされるでしょうか。こどもの頃?いや、そういう自分がいると認識し、それを繕おうとした時点ではないでしょうか。認識できるようになった理由としては、成長ということがあげられるかもしれません。自分を意識できるかできないかというのは大きな違いです。でも、意識するには、何かしら意識できる形を整えていなければなりません。それは一回きりの事実ではなく、何度もそうだったという事実です。気づくことのできるだけの量の既成事実(私は人の顔色を伺って行動した)が積み重なり、私はこんな所があると認識するに至る。もしもその既成事実が今も積み重ねられ、脈々と息づいていると判断されるならば、それは「私の核」と呼ばれるのでしょうか?それはただ単に、私の中の一部を構成し始めてから長い時間がたっているというだけではないでしょうか?そして自分はただそれに慣らされているだけなのではないでしょうか?
「核」。うーん。違う言い方・・・「癖」?ちょっと違うな。
生まれつきの違いがあるというのは本当だと思います。そのことについてあまり参考にならない話ですが、うちの母の話・・・。
母親同士で話していて一致した意見らしいですが、生まれてきた瞬間から成人した今まで子供の性質が変わらない、と。性格ではなく性質。「おぎゃああああーーー!!」と派手に産声を上げ、よく夜鳴きをして手がかかる子は大人になっても大げさで大変だとか、おとなしく、自分の自己主張をしない赤ちゃんだった子は今でもむっつりしているとか、その程度の話なんですけどね。でも妙に納得しました。
深い記述をできない私は話に参入しにくくなってきました(泣笑・・・泣)。
私は写真で自分の顔を見るたびに「自分はこんな顔じゃない!」と思います。同じように、テープで録音された自分の声も変な気がします。(これは体の中で反響した声を自分の声と認識しているからですが。)同じようにスナップ写真に写った普段の自分の顔が他人のような気がして、「気持ち悪い」と思ってしまい、写真嫌いになる人はたくさんいます。あと、人に自分の知らなかったほくろを指摘されてびっくりしたりします。私は一時期自分の体中のほくろの位置が気になり、ひとつずつ確認しながら『キューピーちゃん』に書き入れていこうと思ったことがあります(笑)。
「このキューピーさえあればバラバラ死体になっても私かどうかわかるでしょ?」と言ったらおもいっきり嫌がられました・・・。
キューピーちゃんの話を私はいいなと思いました。自分を見つけ出してもらえたら嬉しいかもと思いました。でも、そうゆう想像をすると、頭の片隅はちょっと何かを傷つけた気分になります。私が私でなくなった後のことを考えるのは、自分にとっては良くても、人にとってはあんまりプラスとは言えない話です。私が私でなくなった後のことは、他の人のものですから、私が手を出すべきじゃない気がします。でも、想像したくなる気分はどうしようもないかもしれません。
自分の顔ってたいていは鏡を見て認識しているわけじゃないですか。だから私のように顔がちゃんと左右対称でない人間は、反転していない本当の自分の顔を見て「アンバランスで気持ちが悪く」なるんです。って書いときながら、私が本当に「気持ち悪い」と思うのは自分の表情なんです。鏡の自分の表情はたいていは無表情。(ごくまれにわらってみたりすることも・・・。)スナップ写真も無表情なものもありますが、なんか違う。鏡の無表情は意図的な無表情でしょ?笑いながら眉毛は描けないから。あれ?逆か??でも証明写真の私は明らかに感情のない蝋人形に見える。感情がないというより命が感じられない。鏡を見るとき、私の意識は間違いなく私自身に向けられ、私の目は私の体を見ている。でも写真の自分はいろんなところに意識が行ってて、自分とは関係ないことで笑ったり、考えてたり、まったくなんにも考えていなかったりする。そういうときの自分の表情が私にも理解不能でつかめない。私のことなのに私はわからなくて違和感を感じる。
私は集合写真などで自分を探すとき、知らない顔を探しました。この人は見たことある。この人はここにいた気がする。じゃ、ここにいるのがもしかして私?ってな具合に消去法です。最近はすぐに自分を見つけることができますが、こんな感じの顔だろうという認識があるから見つけ出せるだけで、当時の自分の意識とリンクしないこともあります。でも、それはそれ、これはこれ。写真にうつる「私」が「私の意識」と違うのは事実であって、そこに気持ち悪いとかいった感情が混じることはありませんでした。
でも、まつながゆうきは自分の意識と写真に写る表情との間に違和感を持つわけですよね。写真に写る自分の表情は、理解しようにも理解不能だってな具合。ところで、これとは全然別の事で、わからなくても、放置されてるものは沢山あると思います。わからなくても、全然平気な時もあるわけです。でも、表情については、わからないと思うことが違和感という感情に結びついています。どうして平気でいられないんでしょうか。わかりません(違和感はないけど、結論を選べないから、わからないという地点)。
何らかの原因で記憶をすべて失ったら本当の自分がどういう人間なのかがわかる(というか、現れる)のだと思います。その人間の核?とでもいうのか、性質が・・・です。今の「松永夕紀」を作り、人格を支えているものは環境や思い出や、人が私に対して抱いているイメージです。「私は人にこんな人間だと思われている」という意識が私の言動に影響していることは確かです。記憶や思い込みがすべてなくなったら、私の本質が見えてくるかもしれません。
「私の本質」というのが私にはどうも違和感があります。全て失ったら、もうそれは「私」ではない全く別物だと私は思います。繋ぎ止めておくものなど何もないのに、何故それを「私」だと呼ぶのでしょうか?
「私」について、「私」ひとりきりのことで考えるとあおいさんのいうことはわかります。でも、周りの人間(家族とか)が「松永夕紀」のことを知っている限り、私自身が記憶を失っても「あなたは松永夕紀という名で私の家族なのよ」と言われるでしょう。私の中ではとっくに無くしてしまった記憶や繋ぎとめていたものを知っている誰かがいれば、「全くの別物」とは言いがたい。
確かに「全く別物」でないかもしれません。でも、全ての記憶を失った「松永夕紀」は、空っぽになってしまった自分の中に、他の誰かとの関係の中で生じたものを入れていくわけです。その誰かは、記憶を失ってしまう前の「松永夕紀」に関することを沢山与えてくれるかもしれない。けれど、それはその誰かが持っている「松永夕紀」についての記憶やイメージから与えられるもの。与えてくれる人が何人何人もいたら、人によって言うことが違って、「松永夕紀」は混乱してしまうかもしれない。誰かが与えてくれる記憶はその誰かのものであって、「松永夕紀」の持っていたものではない。だから記憶を全て失ったのなら、「松永夕紀」はどのみち、一からやるしかない。記憶を失った自分にもたらされるのは、他の人が自分をどう思い、どうしてほしかったということだけで、自分の本質が出てくるとは思いません。
深い記述をできない私は話に参入しにくくなってきました(泣笑・・・泣)。
そう言わずに、混じってください。
深い記述とか関係なしに、思ったことが書かれるのが一番重要だと思います。
「核」なんてあるんでしょうか?
こどもの頃を振り返って、これが私の「核」になるものだというものが思い当たりますか?もし思い当たるならば、それはどうして「核」だと思えるのでしょうか?例えば人の顔色を伺うというのが、今の自分の意識の根底にあるからだとしましょう。こどもの頃、そして今も人の顔色を伺うのが自分を決定付けていると。では、その決定付けているという判断はどの時点でなされるでしょうか。こどもの頃?いや、そういう自分がいると認識し、それを繕おうとした時点ではないでしょうか。認識できるようになった理由としては、成長ということがあげられるかもしれません。自分を意識できるかできないかというのは大きな違いです。でも、意識するには、何かしら意識できる形を整えていなければなりません。それは一回きりの事実ではなく、何度もそうだったという事実です。気づくことのできるだけの量の既成事実(私は人の顔色を伺って行動した)が積み重なり、私はこんな所があると認識するに至る。もしもその既成事実が今も積み重ねられ、脈々と息づいていると判断されるならば、それは「私の核」と呼ばれるのでしょうか?それはただ単に、私の中の一部を構成し始めてから長い時間がたっているというだけではないでしょうか?そして自分はただそれに慣らされているだけなのではないでしょうか?
私が「核」の話に違和感を持ったのは、そこにいたってどこにも行けない気がしたからです。自分にはどうしようもない決定的なものが自分にはあるのだと受け入れてしまうと、生きているのが面白くなくなる気がしたからです。自分の意識の中では長い間頻出の既成事実であっても、これからそれが変わるかもしれないから、何が起こるかわからないから楽しめるわけで。もちろん、どこにも行きたくなくなるような居心地のいい場所もあります。それはそれでとっておけたらとっておきたい。でも、変わり続けることを止めることはできない。だからせいぜい今、頑張って繋ぎ止めておけるだけ、ここに繋ぎ止めておこうとする。その行為が積み重なった時、前とは別の既成事実が自分の中で強く認識されるかもしれません。時間や経験の積み重ねが「私」を規定していくのは、必ずしも何かに縛られていく行為ではなくて、何かを解きほぐし、壊していく行為でもあると言えるのではないでしょうか。
人の顔色を伺うのが核だとは思いません。「この人は昔からこういう人」「私は小さい頃からいつもこう。そういうことを核だと思っているわけではないのです。それは性格であり、その人の人柄であり変わっていくことでしょう。染み込んだことが変わるのには時間やつよい何かが必要かもしれないし、いつのまにか変わってしまうかもしれないし、もしかしたら死ぬまで変わらないことかもしれない。今までがこうだからこう。またはそんなことを核だの変わらないだのと決めつけたいわけではなく。
だから私にとって「核」と表現したものはこだわりやあきらめて受け入れるべき対象となるものではけしてないのです。そんなことではありません。「核」が私を形成していたり、「核」が本当の自分だとは思いません。ほんのささいなこと。もしかしたら「核」という言葉がよくなかったかも。「核」とは「中心」だものね。そんなものに縛られてたら私はやっていけない。
既成事実が積み重ねられていくことが「縛られていく行為」になることというのは、何だかよくある「私って実はこういう人間なの」「みんなが思っている自分と本当の自分は違う」なんてことにつながっていきそうな感じです。そんなのはしたい人がしたい時期にやればいい。
私が「核」の話で言いたかったことは。
私は自分の中で決定的なものがあると思っています。絶対に変わらないでしょう。ですが、それは大きなことではないのです。けして大きなものではないし自分と言う人間を左右しつづけるものもなく、私と言う人間のほんの一部に過ぎないものです。私という人間は様々なことを積み重ねて考えてできているということが大前提の上で、そこを言いたいのですが、はっきりとこういう部分のこと、と言えないのですよね・・・。もちろん私は変わっていきます。小学校の私と今の私では、大きく異なる部分も、変わっていない部分もあるでしょう。自分の中でも変わらないだろうけど、いつ変わってもおかしくないところなんてとこもたくさんあります。だからおもしろいです。
変わっていく部分もあり、変わらない部分もあり、変えたい部分も大切にしていきたいところもある。いつのまにか私の意思とは無関係な方向に走っていくかもしれない。大切にしたいことを大切にして、変えていきたいところを変えていって、またはこうありたい自分に近づいていくかもしれない。こうありたいという考えだって時間や経験やいろんなことの影響を受けてどんどん変化していく。
そして絶対変わらない部分というものは存在している。それは頑張って繋ぎとめようとすることでも「どうしようもないこと」でも、「そこにいる」と表現することでもなく、それほどにさらりと、存在しているものなのです。私にとって。
例えば私はどうやっても青井さんやゆかりちゃんやまさやんのようにはならない。なれない。それは絶対的です。人間の違い、と言ってしまえばそれまでだけど、そこには私がこれからどう生きようと、どう努力しようとあがこうと変わることがない何かがあります。それは慣らされているわけでも積み重ねてきた既成事実によるものだけでもありません。
そういった認識の仕方を「何かに縛られる行為」と言うのではないでしょう。その事実は受け入れるものでも納得するものでも縛られることでもなく、ただ単なる事実。「解きほぐす行為」や「壊していく行為」、もしくは「既成事実をもとに自分で自分を縛る行為」が「私」を規定していくとしても関係ありません。どこにも行けないとかそういう話でもなく。でもだからと言ってこだわって変わらない、これが私よ、と主張するのはまた違ってて・・・うーん、言葉が難しい。こだわって縛られるのはいやで。そんなのいつまでやってんだよ、って感じで。
私は自分のことが大好きです。そして青井さんやまさやんやゆかりちゃんにはうらやましいと思う部分があります。でもそれは努力でもあがいてもどうしようもないことは分かっているし、そうしようとすることは無意味とまでは言いませんが、馬鹿馬鹿しいことです。例として人を出しましたが、結局のところ自分のことで他人は関係ありません。私は自分を好きで、自分を崇め奉りながら変えられない部分をちょっと気に留めながらも「原田悠貴」でい続け変わっていくでしょう。私は自分が小賢しい人間だということを知っています。すごくいい人だということも知っています。変わっていきそうな部分は何となく分かるし、変わらない、変えられない部分ははっきり分かります。もちろん「今の」私の判断ですが。
何だか「変わらない絶対的なところ」を主張してるようですが、たまたま最初がそういう流れだっただけで、私としては「変わっていくこと」「変わっていく可能性」「変わろうとする努力」のほうも主張したいとこです。青井さんが言われるように。ただ、確実にどちらも存在するということです。違うレベルで。
あきらめて受け入れるのじゃなくて。変わらないと憂うのでも縛られるのでもあがくのでもなくて。変わらない部分はないと否定するのでもなくてただ感じるだけで。変えたくてあがくのではなくて。今ある自分を見て。気にして。誉めて。反省して。認めて。ありたい自分でいて。ありたい自分がいて。
何だか話がずれてきた。書いてるうちに手と言いたいことが走ってしまった。
ゆうきちゃんの言う、さらりとした存在でありながら、絶対変わらないもの。事実みたいなもの。読んでいてなんとなくわかる様な気がしました。でも、書いてみたらもっとわかりました。
私は変わり続けるけれど、人と比較した時に、「違う」人間であるということは確かに決定的です(私はゆうきちゃんにはなれない)。私が他の誰かに、どんなに近づこうとしても、何かしらの違いは残り続けますものね。鉛筆で引いた黒い線が、ものすごい顕微鏡で見たらバラバラな点でしかないみたいに。見せかけることはできても、意識できない所に決定的な違いは存在します。ただ、線の例と、人とでは違いのレベルが異なります。鉛筆で引いた黒い線は、決定的な違いを表現するのが、原子(?)ですが、人の場合は繋がれた状態によります。自分の中にある自分の中にあるこんな部分やあんな部分がどれ位の強度で繋がっていて、どれ位の頻度で出てくるか。もし同じ材料が使われたとしても、繋がり方が違えば全く同じものは生じ得ない。まるで人体みたいです。
私には決定的な何かがあるということ、私なりに理解しました。
変わっていく部分もあり、変わらない部分もあり、変えたい部分も大切にしていきたいところもある。いつのまにか私の意思とは無関係な方向に走っていくかもしれない。大切にしたいことを大切にして、変えていきたいところを変えていって、またはこうありたい自分に近づいていくかもしれない。こうありたいという考えだって時間や経験やいろんなことの影響を受けてどんどん変化していく。
そして絶対変わらない部分というものは存在している。それは頑張って繋ぎとめようとすることでも「どうしようもないこと」でも、「そこにいる」と表現することでもなく、それほどにさらりと、存在しているものなのです。私にとって。
例えば私はどうやっても青井さんやゆかりちゃんやまさやんのようにはならない。なれない。それは絶対的です。人間の違い、と言ってしまえばそれまでだけど、そこには私がこれからどう生きようと、どう努力しようとあがこうと変わることがない何かがあります。それは慣らされているわけでも積み重ねてきた既成事実によるものだけでもありません。
そういった認識の仕方を「何かに縛られる行為」と言うのではないでしょう。その事実は受け入れるものでも納得するものでも縛られることでもなく、ただ単なる事実。「解きほぐす行為」や「壊していく行為」、もしくは「既成事実をもとに自分で自分を縛る行為」が「私」を規定していくとしても関係ありません。どこにも行けないとかそういう話でもなく。でもだからと言ってこだわって変わらない、これが私よ、と主張するのはまた違ってて・・・うーん、言葉が難しい。こだわって縛られるのはいやで。そんなのいつまでやってんだよ、って感じで。
私は自分のことが大好きです。そして青井さんやまさやんやゆかりちゃんにはうらやましいと思う部分があります。でもそれは努力でもあがいてもどうしようもないことは分かっているし、そうしようとすることは無意味とまでは言いませんが、馬鹿馬鹿しいことです。例として人を出しましたが、結局のところ自分のことで他人は関係ありません。私は自分を好きで、自分を崇め奉りながら変えられない部分をちょっと気に留めながらも「原田悠貴」でい続け変わっていくでしょう。私は自分が小賢しい人間だということを知っています。すごくいい人だということも知っています。変わっていきそうな部分は何となく分かるし、変わらない、変えられない部分ははっきり分かります。もちろん「今の」私の判断ですが。
何だか「変わらない絶対的なところ」を主張してるようですが、たまたま最初がそういう流れだっただけで、私としては「変わっていくこと」「変わっていく可能性」「変わろうとする努力」のほうも主張したいとこです。青井さんが言われるように。ただ、確実にどちらも存在するということです。違うレベルで。
あきらめて受け入れるのじゃなくて。変わらないと憂うのでも縛られるのでもあがくのでもなくて。変わらない部分はないと否定するのでもなくてただ感じるだけで。変えたくてあがくのではなくて。今ある自分を見て。気にして。誉めて。反省して。認めて。ありたい自分でいて。ありたい自分がいて。
何だか話がずれてきた。書いてるうちに手と言いたいことが走ってしまった。
ゆうきちゃんの言う、さらりとした存在でありながら、絶対変わらないもの。事実みたいなもの。読んでいてなんとなくわかる様な気がしました。でも、書いてみたらもっとわかりました。
私は変わり続けるけれど、人と比較した時に、「違う」人間であるということは確かに決定的です(私はゆうきちゃんにはなれない)。私が他の誰かに、どんなに近づこうとしても、何かしらの違いは残り続けますものね。鉛筆で引いた黒い線が、ものすごい顕微鏡で見たらバラバラな点でしかないみたいに。見せかけることはできても、意識できない所に決定的な違いは存在します。ただ、線の例と、人とでは違いのレベルが異なります。鉛筆で引いた黒い線は、決定的な違いを表現するのが、原子(?)ですが、人の場合は繋がれた状態によります。自分の中にある自分の中にあるこんな部分やあんな部分がどれ位の強度で繋がっていて、どれ位の頻度で出てくるか。もし同じ材料が使われたとしても、繋がり方が違えば全く同じものは生じ得ない。まるで人体みたいです。
私には決定的な何かがあるということ、私なりに理解しました。
私はこの文章を読んでまず、「黒い線」「顕微鏡」「点」で表現した青井さんと自分の違いを感じました。きっと私はどんなふうに考えたって何について考えたってこういうふうに表現することはないと思います。まず思いつかない。おもしろいです。本を読んでても思うのですが、同じ日本語で、意味はよく分かるし風変わりというわけでもない文章でも、どうひっくり返ったって自分はこんな表現はおもいつかないだろうな、使わないだろうなと思うことがよくあります。発想や思考回路、それを支える教養や経験の違いが出るのでしょうか。様々な表現に触れて自分なりの表現を豊かにしていきたいものです。私ボキャブラリー貧困だし・・・。
例えば私はどうやっても青井さんやゆかりちゃんやまさやんのようにはならない。なれない。それは絶対的です。人間の違い、と言ってしまえばそれまでだけど、そこには私がこれからどう生きようと、どう努力しようとあがこうと変わることがない何かがあります。それは慣らされているわけでも積み重ねてきた既成事実によるものだけでもありません。
そういった認識の仕方を「何かに縛られる行為」と言うのではないでしょう。その事実は受け入れるものでも納得するものでも縛られることでもなく、ただ単なる事実。「解きほぐす行為」や「壊していく行為」、もしくは「既成事実をもとに自分で自分を縛る行為」が「私」を規定していくとしても関係ありません。どこにも行けないとかそういう話でもなく。でもだからと言ってこだわって変わらない、これが私よ、と主張するのはまた違ってて・・・うーん、言葉が難しい。こだわって縛られるのはいやで。そんなのいつまでやってんだよ、って感じで。
人はその時の状態や、時期、経験によっていろいろ変わっていきます。「解きほぐす行為」や「壊していく行為」ができないであがく時もあれば必要な時もあれば自然とやっている時もあり、今書いてる文章は今の私の言葉だなぁと何となく自分の文章を読み返して思いました。
私は自分のことが大好きです。そして青井さんやまさやんやゆかりちゃんにはうらやましいと思う部分があります。でもそれは努力でもあがいてもどうしようもないことは分かっているし、そうしようとすることは無意味とまでは言いませんが、馬鹿馬鹿しいことです。例として人を出しましたが、結局のところ自分のことで他人は関係ありません。私は自分を好きで、自分を崇め奉りながら変えられない部分をちょっと気に留めながらも「原田悠貴」でい続け変わっていくでしょう。私は自分が小賢しい人間だということを知っています。すごくいい人だということも知っています。変わっていきそうな部分は何となく分かるし、変わらない、変えられない部分ははっきり分かります。もちろん「今の」私の判断ですが。
「無意味とまでは言わないけど、馬鹿馬鹿しいこと。」だけどやろうしようとやるまいとしようと、時として自分の意思に従わず思考や想いが勝手に動いてしまうことがあるということは否定できないし、仕方がないとも思います。今の私は上記したように思うのですが、はっきりとそう言いきってしまうことはやっぱりできない気がします。なんとなく読み返してみると、実際そう思うのは間違いないのだけど、言い切ってしまうといつかの自分や誰かのためにフォローをいれてみたくなっちゃったりして・・・^^!。
私が「核」の話に違和感を持ったのは、そこにいたってどこにも行けない気がしたからです。自分にはどうしようもない決定的なものが自分にはあるのだと受け入れてしまうと、生きているのが面白くなくなる気がしたからです。自分の意識の中では長い間頻出の既成事実であっても、これからそれが変わるかもしれないから、何が起こるかわからないから楽しめるわけで。もちろん、どこにも行きたくなくなるような居心地のいい場所もあります。それはそれでとっておけたらとっておきたい。でも、変わり続けることを止めることはできない。だからせいぜい今、頑張って繋ぎ止めておけるだけ、ここに繋ぎ止めておこうとする。その行為が積み重なった時、前とは別の既成事実が自分の中で強く認識されるかもしれません。時間や経験の積み重ねが「私」を規定していくのは、必ずしも何かに縛られていく行為ではなくて、何かを解きほぐし、壊していく行為でもあると言えるのではないでしょうか。
ギリシャ哲学以来のテーマだね。
http://www-miyakelab.mp.es.osakau.ac.jp/morita/philosophy/ancient/vorsok.html
mikkoはさしずめ、アナクシマンドロス の末裔のようだ。
こんにちは。
私は誰かと二人で歩くとき、絶対左側でないとうまく歩けません。
隣の人との距離感、自分がまっすぐ歩けるか、隣の人を見失わないかなど、右と左とでは大違いです。とくに最後の見失わないかどうか。
おそらく私は空間理解が右側と左側では違っているのです。道路は歩行者は右ですが(普通守っていないけど)私は安全のためにも左側通行します。左側に注意を配れないので、車が左をすり抜けるのが怖くてしかたありません。
でも二人で歩くとき、誰かが右にいると落ち着くということは実は右側の注意を人に任せて安心しているとも考えられます。誰かが左側に来ると落ち着かないのは、敏感に反応しているともとれます。
はじめは利き手の問題かと思っていました。私は基本的には右利きですが、自転車の片手運転は左手のほうがうまくできます。みかんの皮を剥くのも、ハンバーグのタネをこねるのも、左手です。というか、どちらでも作業できます。しかし歩くときはどうしても左側でないと・・・。これはたぶん、脳みその問題かもしれないですね。
面白いなー。
そういうのも右利きと左利きで違ったりするのかな。
うーん、もっといろんな人に聞いてみたい。
私は写真で自分の顔を見るたびに「自分はこんな顔じゃない!」と思います。同じように、テープで録音された自分の声も変な気がします。(これは体の中で反響した声を自分の声と認識しているからですが。)同じようにスナップ写真に写った普段の自分の顔が他人のような気がして、「気持ち悪い」と思ってしまい、写真嫌いになる人はたくさんいます。あと、人に自分の知らなかったほくろを指摘されてびっくりしたりします。私は一時期自分の体中のほくろの位置が気になり、ひとつずつ確認しながら『キューピーちゃん』に書き入れていこうと思ったことがあります(笑)。
ほくろを書いていくの面白そう(笑)。
写真は逆に知らない顔が写っているから面白いということもあるよね。
自分はこんな顔も持っているのね、と発見して。
話は違うけれど、写真にはその時々の自分の気持ちが写ってしまうよね。
写した人のも写された人のもきっと。
色んなことが写真から見えてくる。
まつながさんに写真の話を聞いてみたいな。
逆に、何らかの原因で記憶をすべて失ったら本当の自分がどういう人間なのかがわかる(というか、現れる)のだと思います。その人間の核?とでもいうのか、性質が・・・です。今の「松永夕紀」を作り、人格を支えているものは環境や思い出や、人が私に対して抱いているイメージです。「私は人にこんな人間だと思われている」という意識が私の言動に影響していることは確かです。記憶や思い込みがすべてなくなったら、私の本質が見えてくるかもしれません。
記憶をすべて失ったら子どもの時の自分のようになるのかな。
身体は大人になった自分だけど心は子どもに戻るのか。
この今の時点から成長が始まるのだろうか。
そうすると身体の使い方も大幅に変わるんだろうな。
身体の使い方もきれいに忘れてしまったとしたら。
身体で覚えたことも脳の損傷によって全て忘れてしまうのかな。
記憶を無くすまでに身体に染み付いた身体の動かし方の習慣も全て消えてしまうのだろうか。
身体に癖は残るのだろうけど。
子どもの時に戻るのと違って、身体がそのままで記憶だけ失われるから、その身体の時点での思いこみが消えた本当の性質が現れるのだろうか。
うーんわからん(笑)。ちゃんと調べないとなぁ。
ニューギニア、行けなくなりましたー。
他のみなさん、楽しんできてね。
ニューギニア、行けなくなりましたー。
ニューギニアはなかなか厳しいところです。インドネシア側の方がまだ楽かもしれません。
ところでどうせならバヌアツに行きませんか?
今夜のフェリーで大阪行ってきます。
公園と釜ヶ崎のあたりをうろついてこようと思います。
お久しぶり、渡辺君。お元気?
今夜のフェリーで大阪行ってきます。
公園と釜ヶ崎のあたりをうろついてこようと思います。
いってらっさーい。こないだちょっと行ったけどすてきなところだね、あの公園。家が近くなら時々通いたくなるところだった。素敵なおじ様たちもいっぱいいたし、何だか「ホームレス」という言葉が合わないような気がしたよ。博多駅の人達とはまた違う、独自な世界があって、みんなうまくやっていってるんじゃないかって感じ。共和国みたいな。「ホーム」を失ってなるってわけじゃような。ちっと行っただけだから分かんないけどね。
楽しんでおいでねー。
由布院に泊まり、二日間で英彦山、九重、阿蘇を巡るという温泉旅行に行ってきた。
初心者マークの私が車を出し、ナビに慣れていない女三人の旅行だった。読めない地図を片手にこれまであまり気にとめてこなかった標識を確認しながらのドライブ。今まで自分がどんなにひとまかせな旅行(車での)をしてきたかということをつくづく実感した貴重な二日間だった。
◇方向音痴◇
私にとって道や場所は線ではない。点の集まりだ。
この道通ったことがある、ここ知ってる、という記憶はあっても、それがどこなのか、また、それらがどうつながっているのかはまったくぴんとこない。行きに右に曲がったら帰りは左に曲がらないと戻れないという考えれば当たり前なことでさえ感覚として分からないのだから我ながら不思議である。きっとこれを方向音痴というのだろう。
今回行った由布院も日田も九重も阿蘇も初めてではなかった。いや、それどころかけっこう知ってるはずの場所も多い。英彦山はよく登ったし、九重にいたっては大学4年間で20回以上は行った。由布院だって阿蘇だって何回も行ったことがある。
とはいえ相手は福岡と筑紫野が直線(三号線)でつながっているということを最近知って感動した私である。大分や熊本までの道のりなんて当然のように想像すらできず、会社の先輩らから教えてもらった幾つもの方法も理解せぬままとりあえず出発した。
下道と高速の差が分からず、とりあえず下道を選んだ。
ここから始まる二日間は自分で道を考えながら進み、これまでに何度も見たことがある風景を目にしてはあれはここだったのか、という感動の連続だった・・・(笑)。
何度も行ったことあるのだから、見たことあるのは当たり前である。けれどこれまで行ったところというのはたいてい車の中でおしゃべりしているうちに着いていた場所であって具体的に家を出てどうやって行くのかなんて考えたこともなくほとんどワープして行っていたようなものだ。それがみんなつながっている。人に連れて行ってもらっていた場所、遠出する時によく寄っていた場所。これらはすべて同じ大地の上にあり、自分で道を走れば行けるのだ。これは私にとって大きな発見であり感動であった。点でしか残っていない記憶の抜け落ちた部分を自分の足で歩きながら埋めていく作業のようにさえ感じられた。
そういえば初めて車を運転した時、毎日送り迎えしてもらっている片道10分弱の駅までの道が分からなかったという覚えがある。
私の中では恐らくすべての道や場所が点でしか記憶されていないのだろう。これから先、自分で運転しながらそれらが線になっていくのかもしれない。という期待もありつつ。
それでもこの方向音痴は直らないに違いない。でも大丈夫。人に聞けば分かるから。
◇雪◇
山には雪が積もっていた。高くになるにつれ増えていく白い雪やでっかいつららにびっくり。
どうやら私は九州に雪はないと知らず知らず勝手に思い込んでいたようである。雪を見て驚いた自分を見てふとそんなことに気づく。だけど考えてみたら高いところは寒いのよ。
すごいねー、雪だねー、凍結してなくってよかったねーなんてはしゃぎながら英彦山の山道を進む。山道に入って数十分、少しずつ道の雪が増えてきた。視界が白くなってくる。
大丈夫かな、と不安になったその時だった。カーブを曲がってすぐのところでざくっという手応え。地面が雪に覆われていた。もちろんチェーンなんて積んでいない。
進むべきか、戻るべきか。Uターンできる幅はない。
しかしまだまだ上り坂な部分で見える範囲先が真っ白ということもあり戻ることを決意。車内に緊張が漂う。それでも時間をかけてそろそろとバックでさがり、何とかUターンに成功した。緊張も解け一安心。
近くでトラックの運ちゃんに聞いてみると、通ろうとした道はこの季節仕事でも通らないのだそうだ。引き返した自分達の判断を誉ると同時に、普通だったらチェーンなしで行こうなんて思わないのかもしれない、と知識(?)配慮(?)のなさも実感。
九州にも雪が積もる。雪が積もると車は危ない。よく耳にすることではあるが、体験したのは初めてだった。
◇太陽◇
熊本からの帰り。地図と格闘している友人がどうやら道が違うと言い出した。もしかしたら反対方向に進んでいるかもとのこと。Uターンすべきかどうか迷いながら辺りを探る。
ここはどこか。どっちに向かっているのか。
もうすぐ暗くなる時間だ。右手にある太陽がスピードを増しながら沈んでゆく。
・・・あれ?右手?・・・ということは・・・
熊本から帰るにゃ逆方向だっ。太陽が右手にあるということは南に向かっているということぢゃないかっ。
そう、それは原田悠貴にとって非常に大きな発見の瞬間だった。
そういえばだいちゃんや山本君が道を言うときによく東西南北で言ってたっけ。私はその度方角で言われても分からんっと思っていた。
そうか、あれはこういうことだったのか。
だがそれよりも何よりも、分からなくなった進むべき方向を太陽の位置で確認できた、という革新的とも言える事実が私にとっては非常に重要なものであった。
でも真上にいる時はどうやって分かるのだろう。
◇帰り道◇
二人目を姪浜に送ってから都市高速に乗った。大宰府まで行って三号線に乗れば筑紫野の家に着くというのは前回香椎からの帰りで体験済み。なのでとりたてて何も思わず走らせていると。
あれ、降りてる???呉服町で何故か都市高さようなら。中学・高校・会社と通った天神博多をぐるぐる回り都市高の入り口をようやく発見。友達に電話。「香椎方面・水城方面って書いてあるけど大宰府には行く?」
水城でしょ、大宰府行くなら。そう言われ安心して都市高に乗る。もはや私には水城が家の方向なんて思いつくことすらできない。
今度は大丈夫。こないだちゃんと大宰府からそのまま三号線に乗れたのだから降りなければ間違いはないはず。そう言い聞かせながら慎重に運転する。
水城と大宰府の分かれ目地点がやってきた。何で3(△で囲まれてる)は右へ、としつこく書いてあるのだろう、3番って何、と疑問に思いつつも迷わず大宰府方面に。
広がっていたのは高速乗り場だった。しまった。間違えた。だけど何故。わけが分からないまま戻ることもできずチケットを受け取り先に進む。左は北九州・山口方面、右は熊本・長崎方面。
長崎?熊本?どうしよう、福岡県じゃない。どうせ迷うならなじみのある方面のほうが安心だ。大丈夫、北九州ならどうにか帰れる。
混乱した頭でそう判断し自分を安心させながら、何とか流れに乗った。
110キロで走しること15分。私はおそろしいことに気づいた。熊本・長崎方面に進んで筑紫野インターで降りればそのまま帰れたのでは?
・・・。
その後福岡で高速を降り三度目の都市高に乗る。二度目の過ち地点に到達。
さっきはなぜ間違ったのかと標識に注意すると、左は大宰府IC専用、右は水城方面へ、と書いてある。確かに見落とした私のミスだ。だけど確か前回は大宰府で降りたはずだ、水城じゃなかったと思うのになぁと考えると腑に落ちない。大宰府はいづこ。
分からないままきっと香椎から乗った都市高と姪浜から乗った都市高は別のものだったんだ、そうに違いないという結論に達し、右へと流れた。(ほんとは同じものらしい)
合流した先は三号線。(△の中に)3ってのは三番じゃなくて3号線っていう意味かぁと納得しながら無事帰宅を果たした。おめでとう、私。
それにしても結局姪浜から帰るのに都市高3回、高速1回乗ってたどり着いたということになるよな・・・。
ちなみに実際は都市高は一つしかないとのこと。前回は私に道を教えてくれた人が大宰府のところで3号線に出るんだよ、と言ってたから私は「3号線、3号線」と考えながら進んだ覚えがある。だから「水城」を読まず「大宰府IC」には惹かれず「3号線」って言葉だけに反応してちゃんと降りられたのかもしれない。今回は大宰府、大宰府と思いながら走ったからなぁ。
何だか私の思考回路がはっきり分かる帰り道だった。勉強になった。次都市高に乗るときは絶対間違えないだろう。
やまもとです。
私にとって道や場所は線ではない。点の集まりだ。
私の中では恐らくすべての道や場所が点でしか記憶されていないのだろう。これから先、自分で運転しながらそれらが線になっていくのかもしれない。という期待もありつつ。
青い、浅い、甘い!
これではまだまだ悠貴ちゃんが目的地に着けるようになる日は来ないでしょう。
地図でさえ面であり、君が存在しているのは立体的な空間なんだよ。
線がずれただけで補正が効かなくなる姿が目に浮かぶようです。
そういえばだいちゃんや山本君が道を言うときによく東西南北で言ってたっけ。私はその度方角で言われても分からんっと思っていた。
そうか、あれはこういうことだったのか。
違います。
太陽なんて見ちゃいない。
何も意識せずにわかるんです。
何だか大ちゃんの「わかる」話みたいですが、他人に説明するときにだけ太陽とか、お寺の門の向きとか、有名な山・川の位置とか、京都の歴史とかが出てくるだけです。
曇っていたらどうするんだ?
でも真上にいる時はどうやって分かるのだろう。
太陽は絶対真上にはきません。
そんな場所なら、位置を確認するより言葉を覚えるのが先決です。
悠貴ちゃんの健闘を祈ります。
レスありがとー山本君。昨日の議論には参加したのかな?
やまもとです。
私にとって道や場所は線ではない。点の集まりだ。
青い、浅い、甘い!
これではまだまだ悠貴ちゃんが目的地に着けるようになる日は来ないでしょう。
ちゃんと目的地には着けるもんねー。時間がなくせっぱつまった時は全面的に自分の間は頼らず人の言葉を信用するし。迷子になってもいい時は迷子になるけど。困ったら人に聞くし、電話するし、3分前までには駆け込むし^^。あ、時間の制限がなかったから都市高に3回も乗ったのかな @_@
地図でさえ面であり、君が存在しているのは立体的な空間なんだよ。
二次元にもなっていない私に三次元を説いたって無理な話な気がする・・・。でも点が線になるだけでも大進歩じゃない?絶対そういう人って多いと思うんだけどなぁ。
線がずれただけで補正が効かなくなる姿が目に浮かぶようです。
あれー???おかしいな。山本君に電話しよう。「もしもし山本くーん?久しぶり、ところでここどこ?」みたいな感じかな。
そういえばだいちゃんや山本君が道を言うときによく東西南北で言ってたっけ。私はその度方角で言われても分からんっと思っていた。
そうか、あれはこういうことだったのか。
違います。
太陽なんて見ちゃいない。
何も意識せずにわかるんです。
なんか、そういった感覚を持ち合わせていない人っていうのは三半規管かどっかがどーかあるって聞いたことがある。その人いはくある種のびょーきだとか。んでも忘れました・・・。何だったっけ。
何だか大ちゃんの「わかる」話みたいですが、他人に説明するときにだけ太陽とか、お寺の門の向きとか、有名な山・川の位置とか、京都の歴史とかが出てくるだけです。
曇っていたらどうするんだ?
はっ、ほんとだ。雨だったらますますどうしよう・・・。夜だって太陽ないし。って夜は北極星を頼りにすればいいのかな。あーそれだって曇ってたらだめだ・・・。
でも真上にいる時はどうやって分かるのだろう。
太陽は絶対真上にはきません。
そだっけ・・・。でもやっぱり12時1時2時頃って太陽見てもどっちが東か分からない気がする。
そんな場所なら、位置を確認するより言葉を覚えるのが先決です。
それってどの辺?原田悠貴はそういうことちっとも知らないのですよ。あれ?外国って北極星出てるんだっけ。南十字星のあるところとか。
悠貴ちゃんの健闘を祈ります。
いつか京都まで車で行きます。知らないゆえのうそかもしれませんがあしからず☆でもね、今までより全然行動の仕方が広がったよ!すごいことだ。ところで静岡って遠い?車じゃ無理?
お久しぶりです。実家に引っ越し完了!しかしまだまだダンボールに囲まれて過ごしております。
私にとって道や場所は線ではない。点の集まりだ。
私もひどい方向音痴やから、この気持ちよくわかります。だって高校生まで西新と新天町は同じ場所だと思っていたもの・・・。車で移動するようになってからすこしずつ世界が(地元の地名とその位置関係が)広がって、つながっていくのが実感できます。
点が線になって、その線が「浄水通り」と呼ばれていることを知る。線が3,4本つながって面になる。その面が「平尾」だったり、「薬院」であることを知る。その面と面が隣り合っていることを理解する。そうして初めて3次元で道を見る余裕ができる。いつも通る道沿いの建物の二階に怪しい店なぞを発見したり。そうなると楽しくなり、どんどんわき道に入り込む。そうして迷子になり、やみくもに進むうちに再び点と点がつながるという地道な作業を繰り返さないと、私たち方向音痴族はうまく脳みそが作用しないのです。ですよね?ゆうきさーん!!
地図でさえ面であり、君が存在しているのは立体的な空間なんだよ。
最近立体画のカーナビが出てますよね。でもあんまりカーナビ好きじゃないなあ。
そういえばだいちゃんや山本君が道を言うときによく東西南北で言ってたっけ。私はその度方角で言われても分からんっと思っていた。
建物に入った瞬間入り口がどっちの方向にあるとかわからなくなる。もう螺旋階段なんて三半規管をどうにかしてやろうと企んでいるとしか思えない・・・。
なんか、そういった感覚を持ち合わせていない人っていうのは三半規管かどっかがどーかあるって聞いたことがある。その人いはくある種のびょーきだとか。んでも忘れました・・・。何だったっけ。
はっ、ほんとだ。雨だったらますますどうしよう・・・。夜だって太陽ないし。って夜は北極星を頼りにすればいいのかな。あーそれだって曇ってたらだめだ・・・。
でも真上にいる時はどうやって分かるのだろう。
太陽は絶対真上にはきません。
そだっけ・・・。でもやっぱり12時1時2時頃って太陽見てもどっちが東か分からない気がする。
そんな場所なら、位置を確認するより言葉を覚えるのが先決です。
それってどの辺?原田悠貴はそういうことちっとも知らないのですよ。あれ?外国って北極星出てるんだっけ。南十字星のあるところとか。
悠貴ちゃんの健闘を祈ります。
夕紀ちゃんの健闘も祈ってください・・・。
お久しぶりです。実家に引っ越し完了!しかしまだまだダンボールに囲まれて過ごしております。
お久しぶりですー。実家に引っ越したんだ。
私もひどい方向音痴やから、この気持ちよくわかります。だって高校生まで西新と新天町は同じ場所だと思っていたもの・・・。車で移動するようになってからすこしずつ世界が(地元の地名とその位置関係が)広がって、つながっていくのが実感できます。
中学、高校と天神に通っていたけど、西新がどこかはいまだに分からない・・・。いつか車で走ってみよ。行ったことは何度もあるんだけどね。あと地下鉄。下で同じ改札口から出たのに出口によって上がった場所が全然違うのにはいつも惑わされる。下で考えても階段が凹こうなってたらさっぱりだし。
点が線になって、その線が「浄水通り」と呼ばれていることを知る。線が3,4本つながって面になる。その面が「平尾」だったり、「薬院」であることを知る。その面と面が隣り合っていることを理解する。そうして初めて3次元で道を見る余裕ができる。いつも通る道沿いの建物の二階に怪しい店なぞを発見したり。そうなると楽しくなり、どんどんわき道に入り込む。そうして迷子になり、やみくもに進むうちに再び点と点がつながるという地道な作業を繰り返さないと、私たち方向音痴族はうまく脳みそが作用しないのです。ですよね?ゆうきさーん!!
ほんとそんな感じ。でも迷いに迷ってたとこで不意に見知った場所に出たときは一種の感動がある。あれ?何でかわかんないけどちゃんときてるぞ、とか、ここかぁ、ここに出るのかぁみたいな。これは方向音痴な人間にしか味わえまい。といっても地図でたどってみたら必要以上にぐるぐる回ってたどりついたりしてるんだけどね。
地図でさえ面であり、君が存在しているのは立体的な空間なんだよ。
最近立体画のカーナビが出てますよね。でもあんまりカーナビ好きじゃないなあ。
どこに行こうかなーなんて考えながらカーナビ見てると通り過ぎちゃったという経験しかないのであんましすきじゃない・・・。それに機械に道教えてもらったら、人と話さずに生きていけるじゃないかとか思いつつ。便利は便利なのかもしれないけど、機械に頼ってしまったら私みたいな方向音痴は道を考えること自体ができなくなってしまう。もちろん迷って帰れなくなったり、大事な約束の時間に辿り着けなくなったら困ったことだけど。それに第一カーナビ扱いこなせないだろう・・・。
そういえばだいちゃんや山本君が道を言うときによく東西南北で言ってたっけ。私はその度方角で言われても分からんっと思っていた。
建物に入った瞬間入り口がどっちの方向にあるとかわからなくなる。もう螺旋階段なんて三半規管をどうにかしてやろうと企んでいるとしか思えない・・・。
そうなの!もはや帰りにはどこから入ってきたのかさっぱり分からないよねー。目をつぶってぐるぐるぐるなんて必要ないもんね。一瞬瞬きしたら今まで自分がどこからきたのか迷子状態になれる。
悠貴ちゃんの健闘を祈ります。
夕紀ちゃんの健闘も祈ってください・・・。
いつか方向音痴集めてどこかに行ってみよっかー。途中で別れて遠くに待ち合わせ場所を決めてみたりして。きっと方向音痴ならではの心温まるエピーソードがいっぱい生まれるに違いない・・・。
いつか方向音痴集めてどこかに行ってみよっかー。途中で別れて遠くに待ち合わせ場所を決めてみたりして。きっと方向音痴ならではの心温まるエピーソードがいっぱい生まれるに違いない・・・。
いや、本気で捜索願が出されるかもしれません。
いつか方向音痴集めてどこかに行ってみよっかー。途中で別れて遠くに待ち合わせ場所を決めてみたりして。きっと方向音痴ならではの心温まるエピーソードがいっぱい生まれるに違いない・・・。
いや、本気で捜索願が出されるかもしれません。
私が探しに行きませう。もちろん二次災害は覚悟の上でっ!!!
こんにちはー温泉に行ってきました。由布院行って九重行って阿蘇に行って帰ってきました。今から仕事だけど、眠い・・・。
ところで卒論発表会はどうだったのですか?
回りに石仏の居並ぶ乱組の石段を、そろそろと下りている。暗くもないのに足下が見えづらくて危なっかしいのは、首のあたりまで水に浸っているような感触のせいだ。水の不透明さと浮力につきまとわれて、石段でもたついているのは、僕だけではなく、一緒に来た女も同じようだ。
なにも言わないのでなにも聞かないのか、なにも聞かないのでなにも言わないのか、言葉はさっきから途絶えたままで、らちもないこんな逢瀬を恨んでいるのか楽しんでいるのか、さっぱりわからない。
踏んだ石の一つが崩れて、僕の方に倒れそうになった。受け止めようと足を踏ん張るのだが、踏ん張りどころを失って、二人ともどどっと転げる。抱き合って転げたように思ったが、腕の中に女はいない。腕の中にいるはずだった女は、側にかがんで、座り込んでいる僕にたかるアブを、首に巻いていたタオルで払いのけている。
「ありがとう、もう大丈夫だ。」
女は安心したような顔をした。女の顔をまじまじと見るのは、これが初めてだと思った。僕のことを、いくらか心配しているのだと思うと、そのまま座り込んでいたいような、甘えた気分も湧いてくる。
「ここに傷がない?」
頬のあたりに痛みがあるような気がして、女に尋ねた。女は顔を近づける。ぐんぐんと近づいてくる。何度も何度も反復して近づいては遠ざかり、また近づいてくる。それから、触れあう寸前まで近づいて、やっと止まった。
女の目の中に僕が映っていた。女の目の中に、入り込みたいと思った。
太陽が沈み、辺りがほの暗く紫色に染まるころのことだった。街を歩いていると、一軒のジャズバーを見つけた。店の前には「本日で閉店致します」という張り紙が貼られていた。中に入ると、明るい店内で老夫婦が楽器を片手に楽しそうに練習をしていた。老女は黒いドレスに大粒の真珠のネックレスを首に飾り、老紳士は黒いスーツを着ていたがネクタイは締めていなかった。
「何故、店を閉めると云うのにこんなにも明るくなれるのだろう?」
そう思いながら、何もせずに店を出た。外は相変わらずほの暗い紫色だった。街灯が地面を照らしていた。
{女は顔を近づける。ぐんぐんと近づいてくる。何度も何度も反復して近づいては遠ざかり、また近づいてくる。それから、触れあう寸前まで近づいて、やっと止まった。
女の目の中に僕が映っていた。女の目の中に、入り込みたいと思った。
最後の、この終わり方、すきだよ。
でも、女の様子(青白い顔、華奢な肩、
そして、冷ややかな感じの細い指先・・・)とか、そんなんを、書いたらもっとよさそうっぽくない?「死」のイメージ。
書かないのも、想像が湧くから、いいけどね。
私は、夢十夜の、一夜目が大好き。
あの男が女をひたすら待つ姿勢と、人の孤独さ、生と死の境ない感じ、とか。
あと、最後に女が、ユリの花として姿をあらわす場面なんか、
美しい。
他の夢も好きだけれども、正直、意味分からん夢もある。
夢って不思議!フロイトの夢分析とか信じないけど、信じる。うん。
夢と現実が見極められなくなる事って、時々あるよね。(私、犯罪者になりうる???怖っ)
ともあれ、夏目漱石は偉大です。
最後の、この終わり方、すきだよ。
創作ではなく、夢の記述なんで、好きとか言われても、望み通りな夢は見られません。
でも、女の様子(青白い顔、華奢な肩、
そして、冷ややかな感じの細い指先・・・)とか、そんなんを、書いたらもっとよさそうっぽくない?「死」のイメージ。
書かないのも、想像が湧くから、いいけどね。
おんなの顔はほとんど覚えていません。案外、手とか足とかのほうが、印象は強いですね。ことに、夢の中では。
私は、夢十夜の、一夜目が大好き。
あの男が女をひたすら待つ姿勢と、人の孤独さ、生と死の境ない感じ、とか。
あと、最後に女が、ユリの花として姿をあらわす場面なんか、
美しい。
漱石は「坊ちゃん」さえ読んでなくて、ここで話題になったので「青空文庫」で探し出して、読んでみました。
僕は、第十話が好きでした。パナマ帽を被ったら、健さんはどうなるんだろう。
池島も閉山してしまいましたが、釧路にあった炭坑も閉山してしまいます。これで、以前池島に行ったのを最後にして、生きた炭坑を眺めることは、もうないかもしれませんね。
<国内最後の炭鉱「太平洋炭砿」閉山>
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/local/taiheiyo_colliery
3月の中旬から二週間ほど、パプアニューギニアに行きたいな、
と思っています。
大反対を受けて、帰ると監禁されそうなので
やっぱり沖縄にはもっと後に帰ることにしました。
ブリスベンからの飛行機があるようなので調べてます。
(よりこ♪)
オーストラリアへの航空券は問い合わせ中。
往復5万9千円って所があったけど本当かなぁ。
血湧き肉踊る♪♪
こんにちは、ヒロノさん。
3月の中旬から二週間ほど、パプアニューギニアに行きたいな、
と思っています。
トルコやニュージーランドからどうしてパプアニューギニアに・・・^^。
でも面白そう。私も行きたいっっと思ってるところです。休みないけど・・・悲しい・・・。
大反対を受けて、帰ると監禁されそうなので
やっぱり沖縄にはもっと後に帰ることにしました。
私は母親に向こうに知り合いがいるから会いに行くのだと嘘をついて行ってきました。その人の連絡先を教えなさいと言われた時は困ったけど、簡単に連絡取れる所じゃないからね、と言ったりして^^!
ブリスベンからの飛行機があるようなので調べてます。
(よりこ♪)
オーストラリアへの航空券は問い合わせ中。
往復5万9千円って所があったけど本当かなぁ。
血湧き肉踊る♪♪
もう知ってるかもしれないけど、だいちゃんの友達のところで「旅道楽」というところがあります。私もミクロネシアに行った時に一度お世話になったところなので、探す時ついでに竹川ゼミですーと言って値段聞いたらいいかも。
サイトはこちら↓
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tabid915/
もう知ってるかもしれないけど、だいちゃんの友達のところで「旅道楽」というところがあります。私もミクロネシアに行った時に一度お世話になったところなので、探す時ついでに竹川ゼミですーと言って値段聞いたらいいかも。
サイトはこちら↓
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tabid915/
ありがとうございます!
ブリスベン→パプアの予約・値段なんかも含めて
さっき、メールを送ってみました。
やっぱり5万9千円のやつはもう満席だそうです…。
あ〜〜ヒロノのばかー。
おばんです〜。
ありがとうございます!
ブリスベン→パプアの予約・値段なんかも含めて
さっき、メールを送ってみました。
やっぱり5万9千円のやつはもう満席だそうです…。
あ〜〜ヒロノのばかー。
ありゃぁ、それは残念だ・・・。あとはひたすら探すのみ!ですね・・・。
でも早く探さないとすぐ埋まっちゃうから、頑張って探さないと。インターネットも便利だけど、片っ端から電話して見積もり出してもらってもいいかもね。
にしてもブリスベン経由でパプアニューギニアまで5万9千円ってすごい・・・。
にしてもブリスベン経由でパプアニューギニアまで5万9千円ってすごい・・・。
あ、オーストラリアまで値段ですよ!
こんなすばやく決まるなんてほんとすごいよ!!これもゆうきちゃんとみんなの協力のおかげだね。ありがたいね。
さて、私は「本場のかまくら」を見たことないのですが、会社の人から素人が「本格的なかまくら」作るのは簡単じゃないという話を聞きました。子供サイズのかまくら(円の直径2m)でも4時間位かかる。つまり、大人が何人も入って、なおかつ鍋までやる「かまくら」となると、一日がかりの重労働だろうという話でした。そこで会社にいた秋田出身の人に話を聞いてみました。
彼は大人になってからは作ってないそうですが、自分が子供の頃に、誰にも教わらず作れたのだから多分、大丈夫だろうという話でした。で、作り方は、まず、雪を積み上げて山を作りその上に人が乗ったりしながら踏み固めていく。程よい高さになったら、ある程度厚さのある壁を残すよう、注意深く穴を掘る(通気口が沢山できたら寒いからね)。
ちなみに、しっかり踏み固めるのが、かまくらのコツだそうです。
でも、一から作るのは素人には大変だろうから、屋根の雪かきで地面に積もった雪を使うのはどうかという話もありました。雪かきのせいで軒下に積もった雪は上からどんどん積み重ねられてるから、結構しっかしした土台になるそうです。また、ロッジとか借りれば、ロッジ間のスペースが丁度空いているから、かまくらを作るのに適した場所も確保できるし、軒下の雪も確保できるできから一石二鳥というアドバイスをもらいました。(コテージってことは丁度いい!?)
当然の様に鉄製のスコップと長靴は必須だそうです。問題はそれだけの雪が大山にあるかってところですが、それでも鉄製スコップは調達しないといけないでしょう。
さて、そうした雪国人からの話とは別に、インターネット上で調べてみると、「かまくら」の作り方については以下の4パターンがあるようです。
1)雪を丘状に積み上げ踏み固めてつくっていく。2)2mはある大きな雪だるまを作り、それを核ににして作っていく。3)元々積みあがっている雪を利用する。4)ブロックを作り、それを積み重ねる。
<詳しい資料はココ>
1)かまくらの本場、横手市のつくり方
http://www.yokotekamakura.com/05-tanoshimu/yukimaturi/yukimaturi013.htm
1)、2)、3)について
http://www.ulkan.com/outdoor/outdoor05_b.html
4)について
http://www.d1.dion.ne.jp/~n_moriya/kamakura.html
4)は「かまくら」というより「イグルー」と呼ぶべき!?
http://homepage1.nifty.com/hommasa/snowkids.htm
知らないうちにこんなに話が本格的になってたんですね!とっても楽しみです。かまくらの本場、横手町ではかまくらの全国配達?をやっていて雪代はサービスだけど人件費とトラック2台分の雪の輸送料だけで40万だとこの前テレビで見た覚えがあります。それだけたいへんな労働ってことでしょうか、、。でもかまくらづくりは九州人ならだれしも1度はやってみたいちょっとした夢ですよねー。今朝降ってた雪もすっかり跡形もなくなってるし、、
知らないうちにこんなに話が本格的になってたんですね!とっても楽しみです。かまくらの本場、横手町ではかまくらの全国配達?をやっていて雪代はサービスだけど人件費とトラック2台分の雪の輸送料だけで40万だとこの前テレビで見た覚えがあります。それだけたいへんな労働ってことでしょうか、、。でもかまくらづくりは九州人ならだれしも1度はやってみたいちょっとした夢ですよねー。今朝降ってた雪もすっかり跡形もなくなってるし、、
雪だるま作れるぐらいは積もらなかったわけですか。
横手の出前かまくらは、「かまくら名人」達が横手からわざわざ運んできた雪を使って作ってくれるそうです。全国どこでも。という話ですが、九州に呼んだ日にゃあ、大変なことになりそうですね。
んで、余談ですが、そんな遠くの人に気分だけでも味わってもらおうというわけでミニかまくらセットがございます。って別に横手の回し者なわけじゃないけど、個人的にミニかまくらとチョコレートのセットとかいい感じだと思うのです。
http://www.rakuten.co.jp/actrise/453258/
でも、2月にかまくら作りに行こうとしてる人間の言葉じゃないよなあ
^^;)
こんなすばやく決まるなんてほんとすごいよ!!これもゆうきちゃんとみんなの協力のおかげだね。ありがたいね。
すごい情報提供が多くって嬉しかったです。こりゃ勢いで勝手に決めてもいいかな、みたいな^^。みんなで遊びましょう!
さて、私は「本場のかまくら」を見たことないのですが、会社の人から素人が「本格的なかまくら」作るのは簡単じゃないという話を聞きました。子供サイズのかまくら(円の直径2m)でも4時間位かかる。つまり、大人が何人も入って、なおかつ鍋までやる「かまくら」となると、一日がかりの重労働だろうという話でした。そこで会社にいた秋田出身の人に話を聞いてみました。
やっぱ大変なんだ〜。まったく見当がつきません。一番に音をあげるのが私だったりして・・・。ま、そんときは山本君に作ってもらおっと(笑)
青井さん情報提供、ありがとうございます。ちゃんと作れたらいいですね〜。なまくらかまくらになった場合はおっきな雪だるまにしちゃうとか、なんて逃げ道も考えつつ・・・楽しみです。
みなさま、たくさんの情報をありがとうございます!!!
というわけで勝手に場所を決定しました。っていうかもう予約しちゃいました。
先ほど言っていた大山のコテージです。
場所はこちら↓
http://fish.miracle.ne.jp/hatopopo/index.htm
今のところ把握している参加メンバー
汐月さん、まりかちゃん、たすく君、青井さん、さやかさん、白竹さん、山本君、さやかちゃん、ゆかりちゃん、ゆうこちゃん、原田悠貴です。さやかさん、旦那さんは来れないのですかー?
北九州汐月さんの車組はぎりぎりあと一人です。今のところ汐月家に加えてさやかちゃん、ゆうこちゃん、ゆかりちゃん、原田悠貴の4人。ちなみに9日の昼北九州を出て、11日の夕方過ぎに北九州に戻ってくるというものです。あと一人決まっちゃったら他に行きたい人はごめんなさい、自力で来て下さい、ということになっちゃいます。ので、いち早く原田悠貴の携帯にメールしてください。
メールアドレス:yu-ki_daisuki@docomo.ne.jp
予定としては、9日の夕方コテージについてみんなでご飯作って食べて遊んで寝て、10日朝から雪にまみれて、11日の昼前に帰る、って感じです。
当日来れるようになった人は直接来て下さい。
泊まるところは一泊一人4000円それに自炊のご飯代です。人数多くなってもまぁごろ寝で寝れるでしょう。
場所は上のHPに乗っています。東京、京都から参加の人、車メンバー以外の人は、JRや車やバス、徒歩など何らかの手段で米子まで出て来て下さい。さやかちゃんが詳しく調べてくれてたし。ありがとー、さやかちゃん!!!
ではではそういうことで。かまくら作りのノウハウや雪遊び、もしくはご飯はこれを作りたい、などという案があったら投稿して下さいです。私かまくらの作り方なんてさっぱり知らないし^^。
にしてもこんなに早く詳しく予定が決まるってすごくない?!私にしては。なんて一人でこっそり思ってたりしてます。というわけで、あったかいところに行ってるだいちゃんもうらやましいけど、こっちは日本の冬を楽しみましょう♪
予定としては、9日の夕方コテージについてみんなでご飯作って食べて遊んで寝て、10日朝から雪にまみれて、11日の昼前に帰る、って感じです。
当日来れるようになった人は直接来て下さい。
泊まるところは一泊一人4000円それに自炊のご飯代です。人数多くなってもまぁごろ寝で寝れるでしょう。
場所は上のHPに乗っています。東京、京都から参加の人、車メンバー以外の人は、JRや車やバス、徒歩など何らかの手段で米子まで出て来て下さい。さやかちゃんが詳しく調べてくれてたし。ありがとー、さやかちゃん!!!
ではではそういうことで。かまくら作りのノウハウや雪遊び、もしくはご飯はこれを作りたい、などという案があったら投稿して下さいです。私かまくらの作り方なんてさっぱり知らないし^^。
にしてもこんなに早く詳しく予定が決まるってすごくない?!私にしては。なんて一人でこっそり思ってたりしてます。というわけで、あったかいところに行ってるだいちゃんもうらやましいけど、こっちは日本の冬を楽しみましょう♪
いいなあ。すごく行きたい。かまくらってすべての雪の降らない地域の人の憧れなんじゃないかなあ。
でもその日は引越しの日なんです・・・。1人暮しの気ままな生活ももはやこれまでです。
2月いっぱいはここにいます。
動けるのは3月に入ってからです。
どこに行こうかまだ迷ってる状況なんですけど、
アフリカと、ニュージーランドと、グルジアかトルコいいなって思ってます。3年の最初にダーツもあたったし。
でもアラスカ行ってあざらしも食べたい。食べたーい!
でももう行った人いるんですよね。
スウェーデンもいいな。ムーミン探し。
もうちょっと考えて決まらなかったらまたダーツ投げます。
ゼミの時間に!!
そうしようかな〜。決まらなさそうだし。
でも一回沖縄に帰ります。
2年帰ってないし、最近帰る必要性を感じます。
これはどうしても!
ホームシックもあるけど、帰って解決しないといけない問題がある気がするから。これかなり大事。
これがイヤできっと帰らなかったんだろうけど、いい加減ちゃんと帰ろうと思います。
沖縄を旅したい気もするなぁ。
とりあえず、2・3日考えます。
意味ない投稿になっちゃった〜。
アフリカと、ニュージーランドと、グルジアかトルコいいなって思ってます。3年の最初にダーツもあたったし。
スウェーデンもいいな。ムーミン探し。
大介先生、私もダーツ投げたかった!狙いを定めて投げる!
ひろの、卒論の場所きめたの?
トルコいいんやない?物価やすいし。わりと親日的な人多いし、
川を挟んで、ヨーロッパとアジアで別れてるなんて、島国日本に住む私 には不思議な感じ。
それになにより、トルコ料理最高!
ニュージーランドに行くなら、ついでに私に会いに、クウィーンズランド にお立ち寄りください。泊めてあげるよ。
スウェーデンもいいと思うけれど、物価高そう。
(でも、本当に行くなら現地に友達が何人 かいるから紹介する。いい子達ばっかりだから)
でも一回沖縄に帰ります。
2年帰ってないし、最近帰る必要性を感じます。
これはどうしても!
ホームシックもあるけど、帰って解決しないといけない問題がある気がするから。これかなり大事。
これがイヤできっと帰らなかったんだろうけど、いい加減ちゃんと帰ろうと思います。
解決しないといけない問題って?
なんか深そう。このことは個人的にうっくり伺いたいものです。
ひろの、夢十夜のことについても
もっと語ろう。あと今後のことについても・・・。
賀子。
賀子さま
アフリカと、ニュージーランドと、グルジアかトルコいいなって思ってます。3年の最初にダーツもあたったし。
スウェーデンもいいな。ムーミン探し。
大介先生、私もダーツ投げたかった!狙いを定めて投げる!
了解。ホームページでダーツできる奴を作りましょう。
ブリスベンの生活には慣れましたか?たぶん暑いですよね。
カルチュラルスタディーズをするなら、かつてクイーンズランド州に奴隷としてつれてこられたアイランダーのコミュニティについてぜひとも調べてください。面白い話がたくさんありそうです。
それと、そっちにいる間に一ヶ月くらいバヌアツとか行ってみない?ブリスベンからならアプローチはすごく簡単です。ソロモンでもいいけど。カンタス航空がブーメランチケットという割引航空券を売っています。
ぜひとも、時間をとって島をまわってください。
横からごめんなさい。
なんか深そう。このことは個人的にうっくり伺いたいものです。
ひろの、夢十夜のことについても
もっと語ろう。あと今後のことについても・・・。
夢十夜って夏目漱石の夢十夜?
夢十夜って夏目漱石の夢十夜?
そうですよー。
私も好きで、ヨリコは今読んでるんです。
好きなんですか??
夢十夜って夏目漱石の夢十夜?
そうですよー。
私も好きで、ヨリコは今読んでるんです。
好きなんですか??
好きです。
あの中で好きなやつを読んだり、思い出したりすると、すとん、って落ちてく感じがして好きです。
どれが好き?って今読んでる人がいるなら話さない方がいいかな?
好きです。
あの中で好きなやつを読んだり、思い出したりすると、すとん、って落ちてく感じがして好きです。
どれが好き?
全部好きだけど、お気に入りは盲目の子供を負ぶってる話かなぁ。
それと、1夜目。
船から飛び降りるやつ、みんな好き。
意味もなく写本してみたりして。
小説から適当に最初の一文を抜き出して、
次からの一文づつを、みんなで回して書いていくっていうゲーム知ってますか?
授業中にいつもはまってやってたんですけど、
夢十夜みたいになっておもしろいですよ。
ストーリーにどれだけ執着しないかがミソですね。
おもしろくなってくると、一文で止まらないヤツが出てきちゃうから。
究極にヒマな時の、私の娯楽でした。
好きです。
あの中で好きなやつを読んだり、思い出したりすると、すとん、って落ちてく感じがして好きです。
どれが好き?
全部好きだけど、お気に入りは盲目の子供を負ぶってる話かなぁ。
それと、1夜目。
船から飛び降りるやつ、みんな好き。
意味もなく写本してみたりして。
今本を持ってないので私は自分の記憶だけで話ますが、多分、私が一番好きなやつと一緒ですね。真っ暗な道を子を背負って歩いていき、やがてその子の言葉で「ああそうだった」と過去をひらめいたかのように発見するんですよね。話の細かい所はよく覚えていません。でも時々ふと、夢十夜の、光のない世界と「ああそうだった」を思い出します。そしてなんだかわからないけど、私も自分自身の何かも思い出したような気がして「ああそうだった」と思います。
別の話だと、あまのじゃくの声のせいで、馬に乗った女が「あっ」とつんのめって落ちていく所も好きです。一夜目の白っぽい世界も好きです。
小説から適当に最初の一文を抜き出して、
次からの一文づつを、みんなで回して書いていくっていうゲーム知ってますか?
授業中にいつもはまってやってたんですけど、
夢十夜みたいになっておもしろいですよ。
ストーリーにどれだけ執着しないかがミソですね。
おもしろくなってくると、一文で止まらないヤツが出てきちゃうから。
究極にヒマな時の、私の娯楽でした。
それは創作なしで写すんですか?どちらにしても面白そう。いいなあやりたいなあ。
2月いっぱいはここにいます。
動けるのは3月に入ってからです。
どこに行こうかまだ迷ってる状況なんですけど、
アフリカと、ニュージーランドと、グルジアかトルコいいなって思ってます。3年の最初にダーツもあたったし。
でもアラスカ行ってあざらしも食べたい。食べたーい!
でももう行った人いるんですよね。
スウェーデンもいいな。ムーミン探し。
ムーミンはフィンランドじゃないのかな?
もうちょっと考えて決まらなかったらまたダーツ投げます。
ゼミの時間に!!
そうしようかな〜。決まらなさそうだし。
でも一回沖縄に帰ります。
2年帰ってないし、最近帰る必要性を感じます。
これはどうしても!
ホームシックもあるけど、帰って解決しないといけない問題がある気がするから。これかなり大事。
これがイヤできっと帰らなかったんだろうけど、いい加減ちゃんと帰ろうと思います。
沖縄を旅したい気もするなぁ。
とりあえず、2・3日考えます。
意味ない投稿になっちゃった〜。
ムーミンはフィンランドじゃないのかな?
でした!あの辺いいな。
ムーミンはフィンランドじゃないのかな?
でした!あの辺いいな。
そうだね。あの辺り私も行ってみたいなと思う。ムーミンも好きだよ。
発表会計画、踊りのメンバーが決まりつつあります。
予定メンバー
私、黒田清香、劇研の山ちゃん、垣内美希、
というわかる人にだけわかるゴールデンメンバーです。
終わったらそのまま海に行って踊りたいねと言っております。
踊るのは「女船頭さん」と新しく作る踊りのみにしようと思っています。現在、パンダ踊りではなくて「原人踊り」を作ろうかという案が出ています。さて発表にどうこじつけようかなー。
たぬき踊りはビデオも写真もあるのでいいかなと。実際に踊る必要性もあまりないし。
ほかにも参加してくれる方がいれば大歓迎です。
練習は月曜日から本格的に始める予定です。
レジュメは月曜日のゼミまでに作ってきます。
月曜日までに踊りも自主トレしなくては・・・。
明日からほかに用事がないときはゼミ室にこもろうと思っているのでよかったらおひまな方はのぞきに来てください。自己流の姫島盆踊りを教えますよー。
発表会計画、踊りのメンバーが決まりつつあります。
予定メンバー
私、黒田清香、劇研の山ちゃん、垣内美希、
垣内嬢はお元気かな?会いたいです。
というわかる人にだけわかるゴールデンメンバーです。
終わったらそのまま海に行って踊りたいねと言っております。
海・・・海、よいねぇ。山も怪しげな感じでよいぞ。火なんかたいちゃったりして。
踊るのは「女船頭さん」と新しく作る踊りのみにしようと思っています。現在、パンダ踊りではなくて「原人踊り」を作ろうかという案が出ています。さて発表にどうこじつけようかなー。
そらいくらでもできるさね^^。とっぴょうしもなく「というわけで、」なんて始めても楽しそう。
ほかにも参加してくれる方がいれば大歓迎です。
練習は月曜日から本格的に始める予定です。
レジュメは月曜日のゼミまでに作ってきます。
月曜日までに踊りも自主トレしなくては・・・。
明日からほかに用事がないときはゼミ室にこもろうと思っているのでよかったらおひまな方はのぞきに来てください。自己流の姫島盆踊りを教えますよー。
土曜日に多分行きます。
考えたら私、姫島のことちゃんと聞いたことがないかも・・・。今度ゆっくり話してくださいな。
かまくら作って鍋計画進んでますか?ちょっと調べてみました。
まず、どこがかまくら作れる地域かよくわからなかったので、かまくらのお祭りがあってる所なら大丈夫かもと思って調べてみました。
秋田県横手市のかまくら祭りが有名。あとは岐阜(奥飛騨の方)、富山(立山の方)、新潟あたり。なかなか九州からそこまで行くのは遠いかもしれません。
でも、確か福岡から新潟の直江津行きフェリーがあったと思うので、それを使うと行けるかもしれません。
ただ、どうも、かまくら作るのにも雪質の向き不向きがあるらしい。
(参照)
http://www.tsm.toyama.toyama.jp/public/nature/1997/97aki01.htm
乾いた雪の方がかまくら向きだとするなら、中国地方で、標高高い地域を探すのが、雪質からも、九州からの距離からも、いいかなと思います。ただ、そんな雪が降る、具体的地名はわかりません。そこらへんの情報は九州あたりにいる人の方が情報収集しやすそうかなとおもうのですが、どうでしょう?
かまくら作って鍋計画進んでますか?ちょっと調べてみました。
青井さんっありがとうございます!一応調べてはいたのですが、今年は無理かなぁでも行きたいなぁなんて思ってました^^。
というわけで、行くという方向で調べます。2月の9,10,11日の三連休にしてもよいでしょうか?さやかさん、お仕事は大丈夫でしょうか。
みんなもよければ考えといてください。ちなみにかまくら作って中で鍋してもちと魚を焼きたい、というものです。
まず、どこがかまくら作れる地域かよくわからなかったので、かまくらのお祭りがあってる所なら大丈夫かもと思って調べてみました。
秋田県横手市のかまくら祭りが有名。あとは岐阜(奥飛騨の方)、富山(立山の方)、新潟あたり。なかなか九州からそこまで行くのは遠いかもしれません。
でも、確か福岡から新潟の直江津行きフェリーがあったと思うので、それを使うと行けるかもしれません。
探してみます。
ただ、どうも、かまくら作るのにも雪質の向き不向きがあるらしい。
(参照)
http://www.tsm.toyama.toyama.jp/public/nature/1997/97aki01.htm
乾いた雪の方がかまくら向きだとするなら、中国地方で、標高高い地域を探すのが、雪質からも、九州からの距離からも、いいかなと思います。ただ、そんな雪が降る、具体的地名はわかりません。そこらへんの情報は九州あたりにいる人の方が情報収集しやすそうかなとおもうのですが、どうでしょう?
仕事終了!今から探します。
今いろいろ調べていたのですが、大山あたりでも一泊二食付きで8000円程度ってところはあるけど、素泊まりで安いところやコテージなどはなかなかなかったりあいてなかったりします。明日電話して聞いてみるところもあるけど。みんないくらくらいなら大丈夫なのかな。もし二泊にするとなると安いほうがいいと思うし、もしくは一泊にするとか。交通費もけっこうかかるし。車だとチェーンとか大変なんですよね?実は私、交通に関してはまっっっったくだめなので、鳥取がどこなのか、どのくらいかかるのか、なんてこともさっぱりだったりします^^!
とりあえずは明日宿に空いているかと交通アクセスと雪があるかどうかを直接電話して聞いてみようと思っています。
コストはいくらまでがいい、とか泊まるところここはどうか、などありましたらその場でその人に決定権があるということにしますので、情報をお願いします。軽く人数の把握もしたいので意思のある方は名乗っておいてくださいね〜。ゼミの2,3,4年の方々、いかがでしょう。ゆかりちゃんは?青井さんとさやかさんと汐月さん一家は参加ということでいいのかな。
ということで、また明日〜。寝ないと仕事中眠くなるし。んじゃおやすみなさーい!!
春休みは2月22日から10日間ほどタイに行ってきます。
当初一人の予定でしたが、急遽もう一人参加者が増えました。
以前からタイに行ってみたかったそうで、二人なら親も安心、ということで・・・。ほとんど私が引きずりまわすことになるかもしれませんが、私が卒論の予備調査ということは知っているので大丈夫だと思います。
行き先ですが、「チェンマイに行きたい!」とゼミ中に言ったところ、「チェンマイなんて面白くないよー。」と言われてしまい多少へこみました。「ガイドブックに載ってないようなところに行ってみなよ」と言われ、考えてみましたがやはり自分が最初に行ってみたいと思ったチェンマイを見てから移動するかしないかは決めたいと思います。
なぜチェンマイなのかというと、以前アジアの家具について調べていたところ「チェンマイに家具があったよ」とメールが来たことがありました。それも含め、行ってみたいから行く!!の精神で行ってきます。
そのかわり「こりゃだめだ」と感じたらすぐに移動できるように地図などは入手していきたいと思ってます。
日時:2002年1月31日(木)10時30分より
場所:4-301号室(4号舘3階)
1.(10:30〜10:49)
黄砂の大気中濃度測定の新しい試み 井上仁志
2.(10:49〜11:09)
制度の中の北九州市観光案内ボランティア 長尾奈美
3.(11:10〜11:29)
4視点からのPCB処理施設建設問題 角田寿子
4.(11:30〜11:49)
最強への戦い〜勝利のためのファイトスタイル追及〜
森安洋晶
5.(13:10〜13:29)
足立山における土石災害と町の関連性について 浜田圭史
6.(13:30〜13:49)
山に集まる人々〜矢筈山早朝登山〜 三宅加奈子
7.(13:50〜14:09)
家庭騒音の音の広がりに関する研究 中村紗千
8.(14:10〜14:29)
生活の中の化学物質に対する意識調査 松本紘子
9.(14:50〜15:09)
越軌する身体〜姫島盆踊りにおける伝統と創造の葛藤〜
山内雅世
10.(15:10〜15:29)
砂丘活動の変遷と人間活動〜下関市延行条里遺跡を例として〜
平井真希
11.(15:30〜15:49)
公園住居という自立〜ホームレス自立支援をとおして〜
渡辺拓也
12.(15:50〜16:09)
グリーンツーリズムに関する一考察
−安心院のグリーンツーリズムを中心としてー 渡辺亜希子
発表は14分間だそうです。(プラス質疑応答5分、交代時間1分)。
さっきまで30分ぐらいあると思いこんでたのでショック。
日時:2002年1月31日(木)10時30分より
場所:4-301号室(4号舘3階)
発表15分、質疑応答5分?
それとも発表10分、質疑応答10分?
私の発表の情報に2点間違いが。
越軌する身体〜姫島盆踊りにおける伝統と創造の葛藤〜
山内雅世
↓正しくは
越軌する身体〜姫島盆踊りにおける「伝統」と創造の葛藤〜
内山雅世
です。
伝統のカッコと苗字がさかさまのところ。
これは誰に伝えたらいいのかな。
当日間違いを言ってもいいけど。
"名前はたぶん私の打ちまちがい
"携帯から書きこんだらなんか変
黄沙が非常に気になります。
さすがに木曜じゃあ、仕事のある身では動けません。
だれかとっといてくれないかなあ。
まさやん達の発表も気になるけど
見れないから、報告よろしく!
1.(10:30〜10:49)
黄砂の大気中濃度測定の新しい試み 井上仁志
2.(10:49〜11:09)
制度の中の北九州市観光案内ボランティア 長尾奈美
3.(11:10〜11:29)
4視点からのPCB処理施設建設問題 角田寿子
4.(11:30〜11:49)
最強への戦い〜勝利のためのファイトスタイル追及〜
森安洋晶
5.(13:10〜13:29)
足立山における土石災害と町の関連性について 浜田圭史
6.(13:30〜13:49)
山に集まる人々〜矢筈山早朝登山〜 三宅加奈子
7.(13:50〜14:09)
家庭騒音の音の広がりに関する研究 中村紗千
8.(14:10〜14:29)
生活の中の化学物質に対する意識調査 松本紘子
9.(14:50〜15:09)
越軌する身体〜姫島盆踊りにおける伝統と創造の葛藤〜
山内雅世
10.(15:10〜15:29)
砂丘活動の変遷と人間活動〜下関市延行条里遺跡を例として〜
平井真希
11.(15:30〜15:49)
公園住居という自立〜ホームレス自立支援をとおして〜
渡辺拓也
12.(15:50〜16:09)
グリーンツーリズムに関する一考察
−安心院のグリーンツーリズムを中心としてー 渡辺亜希子
黄沙が非常に気になります。
さすがに木曜じゃあ、仕事のある身では動けません。
だれかとっといてくれないかなあ。
とっとく ってレジュメのことですか?
来週のゼミでは卒論発表会のリハーサルでもしましょうや。
黄沙が非常に気になります。
さすがに木曜じゃあ、仕事のある身では動けません。
だれかとっといてくれないかなあ。
とっとく ってレジュメのことですか?
うんと、レジュメでも、話でもなんでも構いません。
黄砂のどんな話が出たのかが気になるので。
誰かよろしく!
この度無事に?ゼミ生になりましたキノリエです。
本名です。4文字です。
皆さんどうぞよろしくお願いします。
なんか早くメール送りたかったのですが
遅くなってしまいました。
皆様に会える日を楽しみにしております。
キノリエさま
皆様に会える日を楽しみにしております。
今日にだってあえるぞ。
ところで春のブラジルはどうなりました・・・もうすでに出発していたりして・・・。
卒論発表会の計画を考えていたらとてもわくわくしてきました。
思わず「早く書き込みをしなくては!」と民研から走って家に帰ってきました。
計画その1、個人によって微妙に違うボンアシを実演する
その2、「女船頭さん」という踊りを実演する
その3、「たぬき踊り」を実演する
その4、新しい踊りを私が製作して踊る(今の予定では「パンダ踊り」を作る予定)
普通の発表もしつつ踊るから30分で全部できるだろうか?と思いますが、発表込みの練習をやっておけば大丈夫だよなと。削ってもいいし。
というわけでメンバー募集をします。
2,3,4の踊りを一緒にやってくれる人募集です。
2は女の人がいいなと。さみしいからできれば3人ぐらいずつは欲しいです。多ければ多いほどいいですけど。
(スペースは机を動かして作らさせていただきます)
恥ずかしければお面をかぶってもいいですよ(よけい恥ずかしいか?)
真面目に踊りたくなければ一人でアバレボーをしてもいいですよ。
というか大歓迎。
妄想炸裂です。誰か私を止めてください。
みなさん私と1月31日の発表会で踊ってください。
一緒に踊り作りませんか?
真剣です。
卒論発表会の計画を考えていたらとてもわくわくしてきました。
思わず「早く書き込みをしなくては!」と民研から走って家に帰ってきました。
計画その1、個人によって微妙に違うボンアシを実演する
その2、「女船頭さん」という踊りを実演する
その3、「たぬき踊り」を実演する
その4、新しい踊りを私が製作して踊る(今の予定では「パンダ踊り」を作る予定)
普通の発表もしつつ踊るから30分で全部できるだろうか?と思いますが、発表込みの練習をやっておけば大丈夫だよなと。削ってもいいし。
というわけでメンバー募集をします。
2,3,4の踊りを一緒にやってくれる人募集です。
2は女の人がいいなと。さみしいからできれば3人ぐらいずつは欲しいです。多ければ多いほどいいですけど。
(スペースは机を動かして作らさせていただきます)
恥ずかしければお面をかぶってもいいですよ(よけい恥ずかしいか?)
真面目に踊りたくなければ一人でアバレボーをしてもいいですよ。
というか大歓迎。
妄想炸裂です。誰か私を止めてください。
みなさん私と1月31日の発表会で踊ってください。
一緒に踊り作りませんか?
真剣です。
なんかすごく面白そう。ここに書いてあるまさやんの文を読んでたらすごくわくわくしました。私も是非一緒に踊りたいなぁ。
なんかすごく面白そう。ここに書いてあるまさやんの文を読んでたらすごくわくわくしました。私も是非一緒に踊りたいなぁ。
ありがとうさぁや。なにをやらかそうかねぇ。
卒論発表会の計画を考えていたらとてもわくわくしてきました。
思わず「早く書き込みをしなくては!」と民研から走って家に帰ってきました。
妄想炸裂です。誰か私を止めてください。
みなさん私と1月31日の発表会で踊ってください。
一緒に踊り作りませんか?
真剣です。
すごい!かなりすてき。身体性を伝えるにはやっぱり身体を使わなくてはならないでしょう。ありきたりな言葉でしか表現できない人に自分のやり方での発表を見せてあげて。そんでもって何かあった時はにらみ合いをしたりして^^。
見られないのが残念です。仕事勤めの自分の立場が悲しい・・・。
考えたら今年もだいちゃんは卒論発表会いないのね。というわけで応援しています。頑張ってねー。
すごい!かなりすてき。身体性を伝えるにはやっぱり身体を使わなくてはならないでしょう。ありきたりな言葉でしか表現できない人に自分のやり方での発表を見せてあげて。そんでもって何かあった時はにらみ合いをしたりして^^。
見られないのが残念です。仕事勤めの自分の立場が悲しい・・・。
考えたら今年もだいちゃんは卒論発表会いないのね。というわけで応援しています。頑張ってねー。
逃げずにやらかす覚悟をしなくてはいけないなと思っています。
ゆうきさんありがとう。
最近、お店にはバレンタイングッツが並ぶようになりました。
女の人って、甘いもの好きな人が多いけど、男の人って、女性に比べる と甘いものに、そこまで執着しないような気がする。
多くの男性は男性のイメージを壊さないようにするために甘党な事を 隠しているという説もあるけど。
果たして、女性は生得的に(?)甘いものが好きなのかな?!
それとも、そういった傾向は社会がつくりあげたものなのかな?
今、「食べる社会学」っていう本、読んでるんだけど面白い事が書いてあった。チョコレートは官能的で、女性的な食べ物だとさ。
チョコレートの誘惑で思い出したけど、映画「ショコラ」にでてきた牧師さん(男)は、禁欲を守り続けていたんだけど、ついにイースターの前夜に爆発。チョコレート食べすぎで、チョコまみれになって倒れてしまうという一面があった。(昨日ケーキ2個食べちゃった、自分を弁護するわけではございませんが)自分の気持ちに正直になって、食べ物を楽しむことって大切だなーって思う。メディアの影響で、スタイルとか表面的なものばかりに捉われて、(摂食障害にもこれは大きく関連していると思うけど)食べる事を楽しめなくなったら悲しい。
おとこのひとも、おんなのひとも
だいすきなひとといっしょに
ちょこれーと、たべましょう。
なんで、バレンタインはチョコレートなんだ?
やっぱり、‘チョコレート誘惑‘には、皆弱いんだよ-
どうも、はじめまして。SE☆ゆうきと申します。以後よろしくお願いしますー。
最近、お店にはバレンタイングッツが並ぶようになりました。
女の人って、甘いもの好きな人が多いけど、男の人って、女性に比べる と甘いものに、そこまで執着しないような気がする。
多くの男性は男性のイメージを壊さないようにするために甘党な事を 隠しているという説もあるけど。
確かに男の人はパフェとかケーキとか好きっていうの隠す人多いよね。んでも日本で最初にチョコレートを口にしたのは何とかっていう男の人だったし、ヨーロッパにもたらしたのも将軍だったはず。でも新しい物に触れるのが男の人が先な時代だからかな。まぁ、昔の男の人もチョコレートは好きだったということで^^。
おとこのひとも、おんなのひとも
だいすきなひとといっしょに
ちょこれーと、たべましょう。
なんで、バレンタインはチョコレートなんだ?
バレンタインにチョコレートって確かモロゾフが最初に広告を出してからなんだよねー。
とはいえイベントに振り回されるのはやだけど、楽しむためなら利用されて利用するのは全然OKだと思う私。チョコレート会社の陰謀だっとか言っても楽しいなら利用して楽しまないと損だと思うし。とかなんとか言って私は毎日仕事しながらチョコレートを食べてたりします。
やっぱり、‘チョコレート誘惑‘には、皆弱いんだよ-
長寿の秘訣だったりエネルギー源だったりといろんなことにあがめられてたんだよね。やっぱり神秘とか情熱とか甘いとかってそういうのに結びつくのかな。
関係ないけど、季節限定のチョコレートを見ると今年も冬が来たなと感じる身体になってしまいました。季節は肌で感じたいものだけど、コンビニでチョコレートを見てあぁふゆだなぁと思うあたりがすごいなぁ何か間違ってるなぁと思います。
さて、チョコレート食べながら仕事しよっと。
チョコレートってほんとは甘くないのよ。
そしてチョコレートは惚れ薬。
研究室にカカオ純度99%のチョコレートがあります。
自分でこっそり食べてます。
そして、自分のことがもっと好きになります。
おとこのひとも、おんなのひとも
だいすきなひとといっしょに
ちょこれーと、たべましょう。
グリコ森永犯みたいな文章だね・・・。関係ないけど。
どうしても旅に出たくてしかたのない人に、面白い場所を伝え、トラブルのさけ方をアドバイスする事はあっても、旅に出る気もない人に旅に出ろなどという事は、どう考えても私の仕事ではないと思う。
旅から帰って変わった人と旅の面白さについて語りあうのは大好きだけど、どこに行っても、なにを見ても、だれに会っても、結局同じことばかり繰り返す人に、もっと面白いことを語ってくれと頼むのは、どう考えても私の仕事ではないと思う。
なにかを知りたいとか、なにかをしたいとか、なにかを考えたいとかそんな好奇心すら抑圧し、いつもだれかに強制されるのを待っていて、普通の生活こそが一番などとうそぶくやつを、どうして相手にしないといけないのだろう。なんだかとても間違っている。
勘違いしないで欲しい、旅に出ればいいというものではない、旅に出るのは当たり前のことで、それは単なる前提だ。旅はどこにでもあるし、いつでも出かけられる。大切なのはその先でなにかを面白がれるかどうかなのだ。面白がれるものがないのなら、どうしたってはじめから無理なのだ。面白がるのは一種の才能だ、こればかりは根性だけで乗り越えられるものではない。
危ないから行くなと止めることはあっても、行く気もない人の尻を叩くつもりはない。そんな人にはむしろやめた方がいいとアドバイスしよう。旅を楽しむためには大変なことがたくさんある、才能もいる、好奇心がなければやってられない。こんなこと人から言われてできるものではない。いつだって最後は自分で決めるしかない。
いくら長年相手にしてきた義理があるとしても、旅をする以前の段階でうだうだ甘えるやつの面倒をみなくちゃいけない自分がすごく嫌になっている。行きたくて行きたくて仕方のないやつに注意を促し、語りたくって語りたくって仕方のないやつに冷や水を浴びせるのが私の仕事だ。そうそう、そもそも、それ以前のやつなどフォローする必要など全然ないのだ。はじめから違う世界の人だと思えばお互いそれでいいんじゃない?そうしようよ。
だから、インドネシアとか中途半端な気持ちで行くのはやめた方がいいと思うよ門屋君。ほんとうに。なんの目的もない休学なんてほとんど意味がないのだから、それよりはやく卒業しちゃった方がいいと思うよ。ほんとうに。たぶんこのままでは一年たっても今までどおりなにも変わらないし、よけい自分を追いつめてしまうだけだと思うよ。ほんとうに。イギリスへの語学研修、それってとてもいいんじゃない?
なにがあなたの人生にとって必要なものかは、自分で考えてくださいな。私はなんにもいたしません。ただ自分に必要な旅に出るだけです。
なにがあなたの人生にとって必要なものかは、自分で考えてくださいな。私はなんにもいたしません。ただ自分に必要な旅に出るだけです。
そうですね。何が必要なんだろうね、面白くなることかな?
そうですね。何が必要なんだろうね、面白くなることかな?
このくそガキは、私がなにに腹を立てているのかさっぱり解らない様子。
先生は頭が良いから、ネット人類に書いたのは、何か意味があってのことなのだろうと思っています。
こんなメールを送ってきた。
3年間色々考えさせられ、楽しかったです。もう付き合いたくないと言われたのはごもっともです。
こんなメールも送ってきた。
返信先がわからないのでここで返事を書いておく。
私の頭が良かろうが悪かろうが、ネット人類に書いたことは意味があることに決まっている。頭とは関係ない。
「ごもっとも」だそうだけど。本当にそう思っているのか?
さっぱりわかっちゃいないくせに、たぶんどうせ口だけだろう。
ほっとけばいいよこんな奴と文ちゃんは言う・・・。ほっとくべきなんだろうけどな、といいつつ投稿する私。
「どうせ俺が悪いんだよ、へーんだ」なんてことを、またどっかでうそぶいてるんだろうな。処置なしだな。ほーんと処置なしだ。
ばいばい。
まさやんと話した。踊っていると、自分の身体と気持ちがこっちの方にこういったら心地よくなる予感があるそうだ。その予感に従って踊るのだという。
そうは言っても、全ての意識を失っているわけではないから、踊れる空間の限界等、物理的なことを頭で把握している。頭で把握できるのならば、全てをあらかじめ用意し、観客に伝わるように完成させた形を作ろうとすることもできるだろう。その方が、自分の予感で踊るよりも、観客にはインパクトもあるわかりやすい踊りができるかもしれない。一度、頭の中で組み立てて、意図的に作り出した踊りをやってみたそうだが、見た人にうさんくさい(?)という様なことを言われたという。だから、見る人がどう思うかということよりも自分の予感に従って踊るのだという。
もし、私がまさやんの意図的な踊りを見ていたとして、そのうさんくささに私が気づけるかどうかはわからない。
以前の自分なら好んで見たはずの内容の劇を見た時に、ここでこう来るなと予想した通りの動きしかない、とても陳腐な物語にしか思えないことがある。予想通りの動きだとしても、例えばお笑いのポーズ、「かとちゃんぺっ!」みたいなわかりきってるのに面白いということがある。なのに、私はその物語をとてもつまらなく感じてしまう。私がその物語の「意図」をしっかりと把握できる状態にあるせいもあるだろう。そこにはもう何の疑いの余地も想像の余地もない。一方、「かとちゃんぺっ!」はわかりきってても、「おかしい」というツボに入る。いや、笑いの話をすると脇道に外れ過ぎるのでやめよう。とにかく、大切なのは、私が見るという継続の中で「意図」を把握できるようになっているかどうかということだ。「物語」なら必ずしも長い継続がなくても容易に把握することができるかもしれない。でも、舞踏はちょっと無理な気がする。
私は表現者側に立ったことがない。そのせいか、例えば、演劇でも踊りでも絵画でも何かの表現を見ていると時々、表現者側と自分との間に大きな壁があって、理解したり感じたりする手がかりがまったく掴めない時がある。舞踏は私の意識の理解を超えていて、ほんとにわかる手がかりをまったく掴めなかったりする。
でも、まさやんの踊りはかきうちさんの踊りとも、私がこれまで見た(数少ないけど)舞踏とも違う気がする。その踊りで表現者であるまさやんが何を思い、何を伝えようとしているのか。見る側の私としては非常に気になる。でもまさやんは意図的に作りだす踊りを行わず、自分のこころと身体の向く方を動くことに専念し、見る側からの気持ちはその後についてくると話していた。つまり、踊り全体の流れの中に「物語」のような脈々とした「意図」を見出そうということは鼻っから否定されているのだ。見る側でしかない私にできるのは、踊る人の動きの流れにそって自分も動いてることをイメージしたり、こうしてまさやんと話したりする中で感じたり、見えてきたりすることを積み重ねることだろう。
あおいさんと御所をずんずん歩きながら
話せて楽しかったです。
一度返事を書いたのだけど消してしまいました。
言葉はむずかしい。
まさやんと話した。踊っていると、自分の身体と気持ちがこっちの方にこういったら心地よくなる予感があるそうだ。その予感に従って踊るのだという。
予感というかそっちにふっと道ができる感じがしてそこにからだが落ちるような。そこに落ちると限りなく気持ちがいいんです。落ちるではなくて昇るという感じの時もあるけど。滑るとか。消えるとか(?)。
最近音楽を聞いてたり普通に電車に乗っているときにもからだを動かしたくなったら動かしています。首の筋を伸ばしたり指を1本動かすだけの時もあるのだけど、それだけでふーっと気持ちよさに入ることができます。
そうは言っても、全ての意識を失っているわけではないから、踊れる空間の限界等、物理的なことを頭で把握している。頭で把握できるのならば、全てをあらかじめ用意し、観客に伝わるように完成させた形を作ろうとすることもできるだろう。その方が、自分の予感で踊るよりも、観客にはインパクトもあるわかりやすい踊りができるかもしれない。一度、頭の中で組み立てて、意図的に作り出した踊りをやってみたそうだが、見た人にうさんくさい(?)という様なことを言われたという。だから、見る人がどう思うかということよりも自分の予感に従って踊るのだという。
もし、私がまさやんの意図的な踊りを見ていたとして、そのうさんくささに私が気づけるかどうかはわからない。
伝わるという保証はなんにもないです。
こないだ大ちゃんは人と同じ感覚を共有することは奇跡だといってました。
いつも、全くもって伝わらないかもしれないと思っています。
伝えたいことが明確にあるわけじゃなく、伝えようとするのは「感覚」だし。でも見ている人に対してコミュニケーションの通路の糸みたいな細い隙間めがけて祈るようにぶつける瞬間はあります。
以前の自分なら好んで見たはずの内容の劇を見た時に、ここでこう来るなと予想した通りの動きしかない、とても陳腐な物語にしか思えないことがある。予想通りの動きだとしても、例えばお笑いのポーズ、「かとちゃんぺっ!」みたいなわかりきってるのに面白いということがある。なのに、私はその物語をとてもつまらなく感じてしまう。私がその物語の「意図」をしっかりと把握できる状態にあるせいもあるだろう。そこにはもう何の疑いの余地も想像の余地もない。一方、「かとちゃんぺっ!」はわかりきってても、「おかしい」というツボに入る。いや、笑いの話をすると脇道に外れ過ぎるのでやめよう。とにかく、大切なのは、私が見るという継続の中で「意図」を把握できるようになっているかどうかということだ。「物語」なら必ずしも長い継続がなくても容易に把握することができるかもしれない。でも、舞踏はちょっと無理な気がする。
「意図」とか「表現方法の選択」についてはまたちゃんと文章を書きたいと思っています。
私は表現者側に立ったことがない。そのせいか、例えば、演劇でも踊りでも絵画でも何かの表現を見ていると時々、表現者側と自分との間に大きな壁があって、理解したり感じたりする手がかりがまったく掴めない時がある。舞踏は私の意識の理解を超えていて、ほんとにわかる手がかりをまったく掴めなかったりする。
でも、まさやんの踊りはかきうちさんの踊りとも、私がこれまで見た(数少ないけど)舞踏とも違う気がする。その踊りで表現者であるまさやんが何を思い、何を伝えようとしているのか。見る側の私としては非常に気になる。でもまさやんは意図的に作りだす踊りを行わず、自分のこころと身体の向く方を動くことに専念し、見る側からの気持ちはその後についてくると話していた。つまり、踊り全体の流れの中に「物語」のような脈々とした「意図」を見出そうということは鼻っから否定されているのだ。見る側でしかない私にできるのは、踊る人の動きの流れにそって自分も動いてることをイメージしたり、こうしてまさやんと話したりする中で感じたり、見えてきたりすることを積み重ねることだろう。
見る側の気持ちが後からついてくるというのはちょっと違って。
見る側からの何らかのものも踊っている最中に感じようとしています。
それは私が一方的に感じていると思いこんでいるだけかもしれないけれど。
その場にあるあらゆるものから何かを感じようとする。そしてそのスイッチをたくさん切り替えます。
「物語」も勝手にできることが多いです。踊っている最中に。
その物語は思いもよらぬ方向に進んでその時までわからない。
そういえば卒論にもそんなこと書いたっけ。「物語」という言い方は変えたけど。
舞踏だと振りも決まってないから盆踊りよりももっとどういう物語になるのか予想がつかないです。
見たことないものがみたいです もっともっと
あおいさん、もっと話しましょう
[前置き:前の話から気になる所や、これから書く文章に関わってくる所は、最後に引用してるので、そこを参照して下さい。]
一つだけ前の私の文章で訂正。「見る側の気持ちが後からついてくる」と書いた「後からついてくる」というのは「二の次」という意味です。まさやんが踊っている時の比重は、まさやん自身の「感覚」の思うがままに動くという所にまずあって、見る側がまさやんの踊りをどう思うかは「二の次」。つまり、まさやん自身の「感覚」(見る側からしたら絶対見えっこない「感覚」という物)の元にまさやんは踊っているのだということです。
でも、まあそれはまさやんに否定されました。まさやんは「見る側からの何らかのものも感じようとしている」と書きました。見る人が理解するのを拒むような踊りをやっているのに、見る側をわかろうとしてたなんて私には驚きです。舞踏では、自分の世界に浸り、そこから何かを伝えようとしてると思ってました。座って見ているもの達をわかろうとする行為が混じってたなんて想像だにしませんでした。
私が何かの表現者なり物なり見ていて、戸惑うのは、表現者側の思いをはかりかねるからです。絵を描く人(表現者の側)は、私には想像できない様々な意味を込めて描いていたりします。例えば先月私が見た虹色のクレヨンを使って描かれた絵は、絵描きが色彩をただの色彩ではなく、「見る人の内面に向かって”光”を放つ色彩へ」と変身させようとした成果ということでした。でもそんなの私に到底わかるわけなくて。私は私なりの視点(例えば色のグラデーションが好きとか)から見るしかないわけです。まあ、この時はなんとなくその絵が気に入ったからいいけれど、大抵、絵を見た時というのは、わかる余地も感じる余地もまったくなかったりするわけで。
向こう側(表現者の側)には様々な意味があるのに、そこに辿り着けない。その意味を少しでも分けてくれたら、もっとわかることができるのに。ああ、一体何を思って表現しているんだろう。どうして、もっと説明してくれないのだろう。
と、いつも「見る」だけの私は思うのです。だけど表現者の側はそんなに「説明」してくれない。表現物をほいと差し出して、「わかるもんならわかってみろ」状態。もし私が「わかろう」ともせずに、「わからない」と放置してしまったら、どうなるんでしょう。そこには深い深い溝がぽっかり開いたまんまになっちゃいます。それで私はなんだか「わからない」なりにも「わかろう」とすることが必要な気がして、自分の可能な限り「見ている」わけです。
まさやんが伝えようとしているのは彼女自身の「感覚」だといいます。しかし、まさやんが伝えようとした「感覚」を私が掴むことは難しい。彼女のふと伸ばした手が、どうしてそう動いたのかを、彼女自身明確に捉えることができず、ただ、ふっと出てきた道筋に従って落ちていくわけだから。その断片的な道筋を追うのは容易いことではないでしょう。蛍みたいに暗闇の断絶の後に、光がふーっとあがったり、ふーっと下がったりする。踊る時の光方はそんな定期的ではないだろうけど、とにかく、どっかへふーっと行ってしまう。そして跡形もなく消えてしまう。もう、わからない。ふーっと伸びた一筋の光そのものも、何故、そう動いたのかわからない。光ってる間何を思ってたかもわからない。それを見る側がどうわかればいいのでしょうか。
そういえば、劇の舞台なんかは生物で、客と一緒に作り上げられるもんだという話を聞いたことがあります。その日の客によって、劇の雰囲気とかが変わってくるという話です。
確かに「笑い」を取る場面とかだと、客から伝わってくる反応というのは確かに劇を大きく変えるものかもしれません。でも、どうでしょう。客が身動き一つ取ることが生じ得ないような静かな劇(青年団とかそんな感じじゃないですか?)だったら、どうでしょう
バードマンハウスでライブがあってる時、客が何も伝えていない感じがよくしました。聞いている人々が異様にじーっとしてる感じがしたんです。歌っている人の真ん前にいる人でさえ、身動きせずにじーっとしていたりする。あれはあれで何か伝わってるんでしょうか?
大抵のライブハウスに行くと、客の反応は一目瞭然で、のってる人はのってる人程動くし、そうじゃない人はつまらないからじっと座ってると思います。客はステージ上のアーティストに対して、自分の気持ちを伝えているわけです。だけど、舞踏を見ている時みたいにそもそも皆一様にじーっとしていたんでは、表現者の側へは何も伝えられない気がします。いやそもそも何も伝える気などないのかもしれません。
それでも、まさやんの「感覚」からのびた触覚は、反応していないもの(物・者)達に対してのびていき、まさやんはまさやんなりに「感触」を見出し、また、まさやんの「感覚」の内側へ戻っていく。
見ている側の私は、まさやんの踊りがわからないと思っている。一体まさやんが何を思って踊っているのか、伝えようとしているのか。わからない。
ただ、以前私は地に転がるまさやんを見る度に、転がるのを止めて早く立ちあがって欲しいと思っていました。まさやんが感じていた物が何かはわからない。けれど、そのまさやん自身の「感覚」とは別に、私に早く立ちあがって欲しいと思わせる何かが、伝わって来ていたわけです。私なりの思いを生じさせるものがそこにはあったわけです。
一体、まさやんの思い(感覚)をどうわかればいいのか私にはわかりません。けれど、自分なりに解釈して「あそんで」みるのは見る側(客)の醍醐味かもしれません。丁度、見る側が伝えようと思っていなくても、まさやんがまさやんなりの「感触」を見出すように。見る側も、まさやんが伝えようとは関係なしに、自分なりの世界を構築してあそぶのです。私が考えていた見る側の「わかろう」とする行為はちょっと気張りすぎてたかもしれません。
ところで、私はこうして書いている間に、書き始める前には思ってもいなかった所に辿り着きました。思いつきで繋げた言葉が流れ流れていくうちに上の結論に辿りついたんです。もう一度同じ道をたどれと言われても無理です。もう、自分が最初にどこに手を伸ばしたのかも忘れてしまいました。
もしかして、これってまさやんの踊る状態に通じるかな?その瞬間の思いの向いた方に動いていくあたり。ただ、通じてたって、文章だと辿った”あとかたち”がしっかり残ってるから、振り返ることができてしまう。つまり、人から最後の後味としてではなく、全体として把握されちゃうんだけどさ(わかりにくいって言われるわけだ)。
<まさやん>
予感というかそっちにふっと道ができる感じがしてそこにからだが落ちるような。そこに落ちると限りなく気持ちがいいんです。落ちるではなくて昇るという感じの時もあるけど。滑るとか。消えるとか(?)。
伝わるという保証はなんにもないです。
こないだ大ちゃんは人と同じ感覚を共有することは奇跡だといってました。
いつも、全くもって伝わらないかもしれないと思っています。
伝えたいことが明確にあるわけじゃなく、伝えようとするのは「感覚」だし。でも見ている人に対してコミュニケーションの通路の糸みたいな細い隙間めがけて祈るようにぶつける瞬間はあります。
<あおい>
でも、まさやんの踊りはかきうちさんの踊りとも、私がこれまで見た(数少ないけど)舞踏とも違う気がする。その踊りで表現者であるまさやんが何を思い、何を伝えようとしているのか。見る側の私としては非常に気になる。でもまさやんは意図的に作りだす踊りを行わず、自分のこころと身体の向く方を動くことに専念し、見る側からの気持ちはその後についてくると話していた。つまり、踊り全体の流れの中に「物語」のような脈々とした「意図」を見出そうということは鼻っから否定されているのだ。見る側でしかない私にできるのは、踊る人の動きの流れにそって自分も動いてることをイメージしたり、こうしてまさやんと話したりする中で感じたり、見えてきたりすることを積み重ねることだろう。
<まさやん>
見る側の気持ちが後からついてくるというのはちょっと違って。
見る側からの何らかのものも踊っている最中に感じようとしています。
それは私が一方的に感じていると思いこんでいるだけかもしれないけれど。
その場にあるあらゆるものから何かを感じようとする。そしてそのスイッチをたくさん切り替えます。
「物語」も勝手にできることが多いです。踊っている最中に。
その物語は思いもよらぬ方向に進んでその時までわからない。
そういえば卒論にもそんなこと書いたっけ。「物語」という言い方は変えたけど。
舞踏だと振りも決まってないから盆踊りよりももっとどういう物語になるのか予想がつかないです。
見たことないものがみたいです もっともっと
一つだけ前の私の文章で訂正。「見る側の気持ちが後からついてくる」と書いた「後からついてくる」というのは「二の次」という意味です。まさやんが踊っている時の比重は、まさやん自身の「感覚」の思うがままに動くという所にまずあって、見る側がまさやんの踊りをどう思うかは「二の次」。つまり、まさやん自身の「感覚」(見る側からしたら絶対見えっこない「感覚」という物)の元にまさやんは踊っているのだということです。
でも、まあそれはまさやんに否定されました。まさやんは「見る側からの何らかのものも感じようとしている」と書きました。見る人が理解するのを拒むような踊りをやっているのに、見る側をわかろうとしてたなんて私には驚きです。舞踏では、自分の世界に浸り、そこから何かを伝えようとしてると思ってました。座って見ているもの達をわかろうとする行為が混じってたなんて想像だにしませんでした。
私は、「他人にとって心地よいもの」を創ろうと意図することが苦手です。日常の行動でもそうなんですけど。これは私のコンプレックスでもあります。
だから、人をゆったりとくつろがせるものを創ることができる人を時にうらやましく思います。自分の頑なさが悲しくなることもあります。
でも、私には私なりの関わり方があるのではないかと今は考えています。
私は私なりの方法で他人を憩わせることができるかもしれない。
私の方法を突き詰めていくことで。
岡本太郎という人がある本の対談で、「爆発する、命を無条件におし開いていくことが、ぼくにとってメディテーションなんだ」と言っていました。
私は私自身の思い込みを壊すことで、新しく自分だけの方法を見つけたいと思います。
見る人が理解するのを拒む踊りを踊ろうと思ったことはありません。
でも、理解させようとする道筋を常に壊しつづけることはあります。安易な方に行ってしまうんじゃなくて、自分だけの方法を探り出すように。
私が何かの表現者なり物なり見ていて、戸惑うのは、表現者側の思いをはかりかねるからです。絵を描く人(表現者の側)は、私には想像できない様々な意味を込めて描いていたりします。例えば先月私が見た虹色のクレヨンを使って描かれた絵は、絵描きが色彩をただの色彩ではなく、「見る人の内面に向かって”光”を放つ色彩へ」と変身させようとした成果ということでした。でもそんなの私に到底わかるわけなくて。私は私なりの視点(例えば色のグラデーションが好きとか)から見るしかないわけです。まあ、この時はなんとなくその絵が気に入ったからいいけれど、大抵、絵を見た時というのは、わかる余地も感じる余地もまったくなかったりするわけで。
向こう側(表現者の側)には様々な意味があるのに、そこに辿り着けない。その意味を少しでも分けてくれたら、もっとわかることができるのに。ああ、一体何を思って表現しているんだろう。どうして、もっと説明してくれないのだろう。
と、いつも「見る」だけの私は思うのです。だけど表現者の側はそんなに「説明」してくれない。表現物をほいと差し出して、「わかるもんならわかってみろ」状態。もし私が「わかろう」ともせずに、「わからない」と放置してしまったら、どうなるんでしょう。そこには深い深い溝がぽっかり開いたまんまになっちゃいます。それで私はなんだか「わからない」なりにも「わかろう」とすることが必要な気がして、自分の可能な限り「見ている」わけです。
見る方法っていっぱいありますよね。
よく、一度読んだ本でも読んだ時の年齢や状況によって全く違う受け取り方ができる、と言う人も多いし。
私は、展覧会などに行くと、すーっと絵の前を通り過ぎることがなかなかできません。特に昔はそうでした。
もっと違う見方があるんじゃないか、私はここからもっと違う何かを得られるんじゃないか、と思って、何も特別なものを感じなかった絵のところにもう一度戻って見てみたり。
けど今は、「その時の私が何を受け取れるか」を大事にしようと思っています。でも新しい発見を逃さないようになるべく細心の注意を払うようにはしているんですけど。(でも、面倒くさがりで雑な所も多い性格なのでどうだろ(笑)。)
説明されて、「その言葉にこれの表現するものを限定しちゃうのはもったいないんじゃない?」と思うこともあります。
作品について言葉で説明できることって一部だと思うので、私はあんまり説明の言葉は信用しなくてもいい気もしています。
まさやんが伝えようとしているのは彼女自身の「感覚」だといいます。しかし、まさやんが伝えようとした「感覚」を私が掴むことは難しい。彼女のふと伸ばした手が、どうしてそう動いたのかを、彼女自身明確に捉えることができず、ただ、ふっと出てきた道筋に従って落ちていくわけだから。その断片的な道筋を追うのは容易いことではないでしょう。蛍みたいに暗闇の断絶の後に、光がふーっとあがったり、ふーっと下がったりする。踊る時の光方はそんな定期的ではないだろうけど、とにかく、どっかへふーっと行ってしまう。そして跡形もなく消えてしまう。もう、わからない。ふーっと伸びた一筋の光そのものも、何故、そう動いたのかわからない。光ってる間何を思ってたかもわからない。それを見る側がどうわかればいいのでしょうか。
そういえば、劇の舞台なんかは生物で、客と一緒に作り上げられるもんだという話を聞いたことがあります。その日の客によって、劇の雰囲気とかが変わってくるという話です。
確かに「笑い」を取る場面とかだと、客から伝わってくる反応というのは確かに劇を大きく変えるものかもしれません。でも、どうでしょう。客が身動き一つ取ることが生じ得ないような静かな劇(青年団とかそんな感じじゃないですか?)だったら、どうでしょう
青年団の練習には舞踏のメソッドが取り入れられているという話を聞いたことがあります。
そういえばあまり関係ないけど、以前見た青年団の芝居で、女の人がただ階段をゆっくり登っていく後姿を見ていてすごく気持ちがいいと感じたことがあります。舞踏を見ていて気持ちがいいと感じるのに似ているような気もします。
バードマンハウスでライブがあってる時、客が何も伝えていない感じがよくしました。聞いている人々が異様にじーっとしてる感じがしたんです。歌っている人の真ん前にいる人でさえ、身動きせずにじーっとしていたりする。あれはあれで何か伝わってるんでしょうか?
大抵のライブハウスに行くと、客の反応は一目瞭然で、のってる人はのってる人程動くし、そうじゃない人はつまらないからじっと座ってると思います。客はステージ上のアーティストに対して、自分の気持ちを伝えているわけです。だけど、舞踏を見ている時みたいにそもそも皆一様にじーっとしていたんでは、表現者の側へは何も伝えられない気がします。いやそもそも何も伝える気などないのかもしれません。
うーんどうなんでしょう。私は自分が客の時は、あまりに感動していると逆に身動きが取れなくなったりします。今日ちょうどバードマンハウスのライブに行ってきたんですけど、あまりにすごいものを聞いているときは、衝撃を受け止めるのに必死で頭を押さえて下を向いてしまったりします。
伝わらないんだろうなあ、どうやって伝えたらいいんだろう、こんなに感動していることを。
そして、本当に感動したら言葉にして伝えられないことが多いです。
そして悔しい思いをするんです。
こんなにこんなに感動してるのにーって(笑)。
そんな自分なので、お客さんのことは反応ではなく空気で感じようとしている所が多いです。
あーでも難しい。
姫島の盆踊りは良かったなー。
盆坪の外から「最高!」とか声が掛かったりして。
私の場合、「手拍子」とかが苦手なんです。
「見る流儀」みたいなものが。
見る人は楽な姿勢で自由に見られるほうがいいと思います。
見てる人が踊りだしちゃったりするのもいいなぁ。
ごろ寝して見てもいい雰囲気が欲しいものです。
ごろ寝しててもすごく感動してる時もあるのだから。
だいたい私は「見る人」と「演る人」の完全な分離がけっこう嫌いです。
見てるお前も踊れよ―!っていう。
もちろん嫌なら踊らなくていいんだけど。
それでも、まさやんの「感覚」からのびた触覚は、反応していないもの(物・者)達に対してのびていき、まさやんはまさやんなりに「感触」を見出し、また、まさやんの「感覚」の内側へ戻っていく。
見ている側の私は、まさやんの踊りがわからないと思っている。一体まさやんが何を思って踊っているのか、伝えようとしているのか。わからない。
ただ、以前私は地に転がるまさやんを見る度に、転がるのを止めて早く立ちあがって欲しいと思っていました。まさやんが感じていた物が何かはわからない。けれど、そのまさやん自身の「感覚」とは別に、私に早く立ちあがって欲しいと思わせる何かが、伝わって来ていたわけです。私なりの思いを生じさせるものがそこにはあったわけです。
一体、まさやんの思い(感覚)をどうわかればいいのか私にはわかりません。けれど、自分なりに解釈して「あそんで」みるのは見る側(客)の醍醐味かもしれません。丁度、見る側が伝えようと思っていなくても、まさやんがまさやんなりの「感触」を見出すように。見る側も、まさやんが伝えようとは関係なしに、自分なりの世界を構築してあそぶのです。私が考えていた見る側の「わかろう」とする行為はちょっと気張りすぎてたかもしれません。
ところで、私はこうして書いている間に、書き始める前には思ってもいなかった所に辿り着きました。思いつきで繋げた言葉が流れ流れていくうちに上の結論に辿りついたんです。もう一度同じ道をたどれと言われても無理です。もう、自分が最初にどこに手を伸ばしたのかも忘れてしまいました。
もしかして、これってまさやんの踊る状態に通じるかな?その瞬間の思いの向いた方に動いていくあたり。ただ、通じてたって、文章だと辿った”あとかたち”がしっかり残ってるから、振り返ることができてしまう。つまり、人から最後の後味としてではなく、全体として把握されちゃうんだけどさ(わかりにくいって言われるわけだ)。
書いてるうちにそうなった、って面白いなー。
この文章でたどった道筋を文字で振り返ることはできるけれど、あおいさんがどんな風に気付いたかは、あおいさんにしかわからないことですよね。あおいさんに文章を書かせた要因は実はきっと無数にあって、それはあおいさんだけが持ちえた文脈なのだと思います。舞踏もそんなんかもしれません(私の場合は、ですけど。)
私が途中で入れたレスはあおいさんの結論と似た見解だと思います。
「私なりの感触を探ること」。それってずーっと続くことだと思うのですが、何が「私なり」なんだか、「私」って一体なんなんだかわからないです。
感覚は感じたその人だけのものだと思います。
でも、それでも他人との間に何かをつなげたいと思います。
だから探り続けたいです。
見る方法っていっぱいありますよね。
よく、一度読んだ本でも読んだ時の年齢や状況によって全く違う受け取り方ができる、と言う人も多いし。
私は、展覧会などに行くと、すーっと絵の前を通り過ぎることがなかなかできません。特に昔はそうでした。
もっと違う見方があるんじゃないか、私はここからもっと違う何かを得られるんじゃないか、と思って、何も特別なものを感じなかった絵のところにもう一度戻って見てみたり。
けど今は、「その時の私が何を受け取れるか」を大事にしようと思っています。でも新しい発見を逃さないようになるべく細心の注意を払うようにはしているんですけど。(でも、面倒くさがりで雑な所も多い性格なのでどうだろ(笑)。)
説明されて、「その言葉にこれの表現するものを限定しちゃうのはもったいないんじゃない?」と思うこともあります。
作品について言葉で説明できることって一部だと思うので、私はあんまり説明の言葉は信用しなくてもいい気もしています。
言葉で説明することには限界があります。説明にはがっかりすることもあります。でも不思議なのは、そんな当てにならないはずの言葉を求めてしまう自分がいることです。私なりに導き出したものよりも、表現者側の言葉の方を求めてしまうのは、相手の口から真実がもれるのではないかと狙っているからでしょうか。
青年団の練習には舞踏のメソッドが取り入れられているという話を聞いたことがあります。
そういえばあまり関係ないけど、以前見た青年団の芝居で、女の人がただ階段をゆっくり登っていく後姿を見ていてすごく気持ちがいいと感じたことがあります。舞踏を見ていて気持ちがいいと感じるのに似ているような気もします。
そんな劇中のシンプルな動きにも感覚は反応するんだ!あの静けさにもそんな感じるものがあったとは。
バードマンハウスでライブがあってる時、客が何も伝えていない感じがよくしました。聞いている人々が異様にじーっとしてる感じがしたんです。歌っている人の真ん前にいる人でさえ、身動きせずにじーっとしていたりする。あれはあれで何か伝わってるんでしょうか?
大抵のライブハウスに行くと、客の反応は一目瞭然で、のってる人はのってる人程動くし、そうじゃない人はつまらないからじっと座ってると思います。客はステージ上のアーティストに対して、自分の気持ちを伝えているわけです。だけど、舞踏を見ている時みたいにそもそも皆一様にじーっとしていたんでは、表現者の側へは何も伝えられない気がします。いやそもそも何も伝える気などないのかもしれません。
うーんどうなんでしょう。私は自分が客の時は、あまりに感動していると逆に身動きが取れなくなったりします。今日ちょうどバードマンハウスのライブに行ってきたんですけど、あまりにすごいものを聞いているときは、衝撃を受け止めるのに必死で頭を押さえて下を向いてしまったりします。
感動して身動きが取れなくなるのか。それは考えてもみなかった。動かなくなることが逆に感動を意味するのなら、私が最初に思ってたことはほんとに当てはまらないね。
伝わらないんだろうなあ、どうやって伝えたらいいんだろう、こんなに感動していることを。
そして、本当に感動したら言葉にして伝えられないことが多いです。
そして悔しい思いをするんです。
こんなにこんなに感動してるのにーって(笑)。
ああ。それはあるかも。同じ言葉繰り返すことしかできなくて。もどかしかったりするね。
私の場合、「手拍子」とかが苦手なんです。
「見る流儀」みたいなものが。
見る人は楽な姿勢で自由に見られるほうがいいと思います。
見てる人が踊りだしちゃったりするのもいいなぁ。
ごろ寝して見てもいい雰囲気が欲しいものです。
ごろ寝しててもすごく感動してる時もあるのだから。
「見る流儀」なんて考えてしまうのは、「演る人」を意識しちゃうからかな。「演る人」の気持ちを想像したら、「見る人」としての反応を伝えなきゃいけない気がしてさ。ごろ寝されて「演る人」は平気でいられる?もし大丈夫だとしたら、その舞台が始まる以前に「見る人」と「演る人」が打ち解けてないと無理じゃないかな。
だから、まさやんが「手拍子」を苦手とする理由は、「見る人」の流儀だからっていうより他の大前提がある気がするんだけどどうかな?
だいたい私は「見る人」と「演る人」の完全な分離がけっこう嫌いです。
見てるお前も踊れよ―!っていう。
もちろん嫌なら踊らなくていいんだけど。
「演る人」が「見る人」へ移るより、「見る人」が「演る人」へ移るハードルは高いと思います。踊り出したい気分にはなっても、ぽんっと飛び越えるのはなかなか難しいです。
一体、まさやんの思い(感覚)をどうわかればいいのか私にはわかりません。けれど、自分なりに解釈して「あそんで」みるのは見る側(客)の醍醐味かもしれません。丁度、見る側が伝えようと思っていなくても、まさやんがまさやんなりの「感触」を見出すように。見る側も、まさやんが伝えようとは関係なしに、自分なりの世界を構築してあそぶのです。私が考えていた見る側の「わかろう」とする行為はちょっと気張りすぎてたかもしれません。
ところで、私はこうして書いている間に、書き始める前には思ってもいなかった所に辿り着きました。思いつきで繋げた言葉が流れ流れていくうちに上の結論に辿りついたんです。もう一度同じ道をたどれと言われても無理です。もう、自分が最初にどこに手を伸ばしたのかも忘れてしまいました。
もしかして、これってまさやんの踊る状態に通じるかな?その瞬間の思いの向いた方に動いていくあたり。ただ、通じてたって、文章だと辿った”あとかたち”がしっかり残ってるから、振り返ることができてしまう。つまり、人から最後の後味としてではなく、全体として把握されちゃうんだけどさ(わかりにくいって言われるわけだ)。
書いてるうちにそうなった、って面白いなー。
この文章でたどった道筋を文字で振り返ることはできるけれど、あおいさんがどんな風に気付いたかは、あおいさんにしかわからないことですよね。あおいさんに文章を書かせた要因は実はきっと無数にあって、それはあおいさんだけが持ちえた文脈なのだと思います。舞踏もそんなんかもしれません(私の場合は、ですけど。)
私が途中で入れたレスはあおいさんの結論と似た見解だと思います。
「私なりの感触を探ること」。それってずーっと続くことだと思うのですが、何が「私なり」なんだか、「私」って一体なんなんだかわからないです。
自分が見い出したものは全て「私なり」のもの。自分のもの。そしてその積み重ねの上に「私」はあると思う。だから後からついてくる「私」はほっといて、探し続けること自体が一番重要だと思う。ただ、何かの素材から何かを見い出す感覚を持つのは、なかなか難しかったりして。私はほら、動かない人からも何かを受け取るなんて感覚持ってなかったし。ほんとやりとりの積み重ねだ。
感覚は感じたその人だけのものだと思います。
でも、それでも他人との間に何かをつなげたいと思います。
だから探り続けたいです。
私は「見る人」で「演る人」にはならないから、つなげるってのはちょっと難しい。相手に通じようとしたら「見る流儀」の型に入っちゃうし。でも、「演る人」に意識をもっていくのではなくて、自分自身の感覚に意識を持っていけば、「見る人」でありながら、その内側では「演る人」でありうるね。そしたら、面白いかも。ただの「見る人」だった時とは全然違った世界で、つながる余地が出てくるね。
私はまさやんの踊りがわからない。
でも、まさやんの踊りはかきうちさんの踊りとも、私がこれまで見た(数少ないけど)舞踏とも違う気がする。その踊りで表現者であるまさやんが何を思い、何を伝えようとしているのか。見る側の私としては非常に気になる。でもまさやんは意図的に作りだす踊りを行わず、自分のこころと身体の向く方を動くことに専念し、見る側からの気持ちはその後についてくると話していた。つまり、踊り全体の流れの中に「物語」のような脈々とした「意図」を見出そうということは鼻っから否定されているのだ。見る側でしかない私にできるのは、踊る人の動きの流れにそって自分も動いてることをイメージしたり、こうしてまさやんと話したりする中で感じたり、見えてきたりすることを積み重ねることだろう。
シゲは「わかる」という言葉を「説明できる」という言葉に翻訳して理解していたのだという。驚いた。わかるというためには説明できないといけないと思っているそうな。驚いた。
私は、説明できなくてもわかることはたくさんあるし、すでにわかってしまった人にとって説明は蛇足にすぎないと思っていた。
「じゃあわかるってなにさ」とシゲがきく。
「わかるっていうのは、できるとか、楽しめるとか、面白がれるとか、そんな感覚に近いのではないだろうか」と私が答える。
私がまさやんの踊りがわからないのは、どうしても、どうしても、なんどみても、まさやんの踊りが面白くないからかもしれない。
それはまさやんのせいではなくて私のせい。でもまさやんのことをもっとわかりたい。だから見る。
シゲは「わかる」という言葉を「説明できる」という言葉に翻訳して理解していたのだという。驚いた。わかるというためには説明できないといけないと思っているそうな。驚いた。
高校生の頃まで、「説明できなきゃ分かったことにはならない」と散々言われたことがある。人にたいして言葉に出して説明できるくらいにならなければ、完全に分かったことにはならないと、多くの教師は言う。
最初に連絡です
生態人類学会に参加する予定の方は至急ご連絡ください。至急です。3月23・24日静岡です。
京都はとてもたくさんの人が登場して楽しかったですね。いろんな人と話をして、もしなにか考えたことや思ったことがあれば、ぜひここに書いてください。そういうの読みたいです。いけなかった人残念、次の機会に。
やまなかさやかとかねこだいちゃんにはお世話になりました。ありがとう。
卒論は、結局どうなったかな。長尾さんやワタナベ君は時間内に出せたかな。今年は例年になく全員がもたもたしており、かなり不完全燃焼なところがありますが、とりあえず一区切りついたと言うことで、ご苦労さまでした。卒論生以外の人も助けてくれてありがとう。
来年は、もっときちんと準備をして進めていきましょうね。その方がずっと楽しいし最終的に満足できると思います
(最後にばたばたするのは大変だしつらいです。研究が面白くなりかけたところで終わっちゃうというパターンだけは絶対にさけたいと思います)。
というわけで春休みにむけてフィールド調査の予定を立ててください。
最初に連絡です
生態人類学会に参加する予定の方は至急ご連絡ください。至急です。3月23・24日静岡です。
はらだゆうき参加です。
やまなかさやかとかねこだいちゃんにはお世話になりました。ありがとう。
本当にお世話になりました。さやかさんはだいちゃんの話を聞いての私の想像とはまったく違っていました。すてきでした。また遊んで下さいね☆
京都、楽しかったー。京都の人は東西南北で道を教えてくれるのにびっくり。あと、あたりまえのことなんだけどことばが全然違う。ほんとにあたりまえのことかもしれないけど、銭湯に行った時に特に実感しました。いろんなところの銭湯に入りたい。
というわけで今日地図を買いに行きます。簡単に動けるのに何がどこにあるのか分からないのはもったいないと思って。やっぱり私はこっち側(?)のが好きだなぁと思いました。会社に入っていい人達に恵まれてはいるんだけど。
とりあえず福岡佐賀近辺で気軽に通えそうなお気に入りところを増やしていこっと思いつつ。車でもどこにでも行けるんだし♪知っている人がいたら教えて下さい。島にも行きたいな。
久しぶりに踊りたくなった
中庭でふらふら踊った
ゆきが降っていて風が冷たくて気持ちよかった
卒論が終わったらいっぱい踊りたいと思った
またたくさん踊る時期が来るのかもしれない
踊るのはいい