[1934] 卒論 投稿者:だいすけ 投稿日:2002/01/05(Sat) 11:48

3日より、卒論の新年度版改訂校を持ってくると思って待っておりますが、ワタナベ君以外現れないので、ちょっとコメントを書いておきます。

■長尾さん

年末の原稿に朱を入れたのでとりにきてください。

全体的に冗長な文章が目立ち、とても読みにくかったので、その辺をわかりやすく書き直す必要があります。

だいぶ書けてきましたが、「手に入れたデータをもとになにを考え、なにが言えるのか」この部分がほとんど欠落しています。今のままでは、レポート(報告書)としては十分ですが、論文というには問題提起やテーマが全くみえません。

料理にたとえて言えば、食材を切ってそろえただけの印象です。

やはりゼミでのディスカッションが非常に不足しているように感じます。これがまだ12月はじめの段階であれば、もう少し余裕があるのですが、締め切りまであと一週間という状態でどこまで議論が深められるかが最後の望みだと思います。

この題材をもとに私ならどんな話に仕立てていくか考えてみました。たとえば「構造化され行政システムに取り込まれていく自発性。その仕組みと日本型のボランティアの志向性(めざすもの・・というより・・もとめられるものかな)」なんて感じでしょうか、もうすこしポジティブな視点から書けば「個人の自主性をいかに組織化するか」というノウハウを論述していくことになるのかな。あるいは今の枠組みを大幅に作り直して「郷土愛と観光ボランティアの関係」なんていうのも面白いかも。

いずれにせよ、書いた本人の関心事が一番大事ですので、このデーターのなにが面白いのか、それをどう考えるのかを、至急、ほかのゼミ生たちと議論して、考察部分を組み立ててください。

手を入れた原稿は研究室のポストに入れておきます。

■三宅さん

年末に指摘したとおりで、問題点は長尾さんに共通しますが、ディスカッションが足りない感じ。「なぜ山に登るのか」という大きなテーマの結論が、「健康のため」や「楽しいから」ではあまりにつめが甘すぎます。そんな結論は、なにも調べなくてもわかるような話じゃないですか。

料理にたとえていえば、せっかく質のいい刺身や野菜を手に入れたのに、砂糖水にぶち込んで煮てしまっているようなものです。食べられなくはないですが、もう少し何とかしましょう。

せっかく、寝起きをともにして、山に登っていたのですから、70歳を越えたおばあさんを山に駆り立てているもの、単なる習慣や楽しみといった言葉では語り尽くせないものを、もう少し描いてほしいと思います。

考えるべき問題は、きっとその記述の先にあるはずです。

■まさやん

新年バージョンの原稿はできましたか?娯楽や身体表現としての踊りと、観光や文化財としての踊りの両面性による根本的な矛盾を、踊る側の立場からわかりやすく解読してくださいね。特に身体技法の記述は、伝統と創造の間の「葛藤」を示すための有力な証拠になるはずなので、力をいれてね。

あとは、こなれていない文書を直して、はやく図表を完成させる事かな。(まにあうだろうか・・・)

お世話になった島の人たちにフィードバックする大事な論文ですから、自分で納得いくように完璧にしあげてください。

■ワタナベ君

昨年はディスカッションを深めるためにいろいろな人のアドバイスを仰ぐようにしたけど、結果的にはみなちょっと読みはずしてようでしたね。自由という言葉の文脈がうまく伝えられていないのが原因でしょうか。

年明け早々の校正では、荒削りながらようやく形が見えてきたように感じました。昨日あのあと考えたのですが、もう一つのキーワードである「自立」をもっと積極的に全面に押しやっても良いのではないかと思います。今の世の中で、「自立」という言葉が持ついかがわしさについては、いくら語っても語り尽くせないくらい重要な指摘ですから。


多少話が極端になるかもしれないけど、昨日議論したように、泥棒や詐欺によって生活しているホームレスも「自立」という点では、おそらく間違いなく自立でしょう。「自立=善」という構図や、「人は自立しなければならない」というテーゼを、もういちど見直しながら、丁寧に事実関係の記載を切り貼りしていきましょう。そいうすれば「自由」の問題もおのずからまな板に乗ってくるとおもいます。

あとは、全体の文章の流れですね。単品の料理を統一したテーマにそって並べて、もうすこし食べやすくしましょう。

(ところで昨日の新聞読みましたか?釜ヶ崎のホームレスの手に職をつけるために、自転車修理などの技術を「元」ホームレスが、「現」ホームレスに指導する、というような話です。ホームレスの技能ってなんだ?・・・なんて考えると興味深いですね)

■闘神

どの原稿を読めばいいのかわからないのですが、書き直せば書き直すほど泥沼に陥っているように感じます(はじめの方に書かれてものの方がまだ光るものがあったような・・・)。

すでに自覚しているとは思うのですが、残念ながら勝負としては完全に敗北しているとおもいます。ただ、武闘家の戦いにとって、肝心なのは勝ち負けではなく、最後までいかに信念を貫き通すかということでしょうから、逃げないで、かっこいい負け方をしてくださいね(まだ卒業はできても卒論は負けという可能性がありますから)。

近況を知らせてください。

■というわけで、なんとしても今週中に原稿を仕上げて、来週12日にはみなで京都に遊びに行きましょう。

■ところで・・・京都の段取りはどうなっているのだろう。


[1938] Re: 卒論 投稿者:門屋 投稿日:2002/01/09(Wed) 11:01

■三宅さん

年末に指摘したとおりで、問題点は長尾さんに共通しますが、ディスカッションが足りない感じ。「なぜ山に登るのか」という大きなテーマの結論が、「健康のため」や「楽しいから」ではあまりにつめが甘すぎます。そんな結論は、なにも調べなくてもわかるような話じゃないですか。

料理にたとえていえば、せっかく質のいい刺身や野菜を手に入れたのに、砂糖水にぶち込んで煮てしまっているようなものです。食べられなくはないですが、もう少し何とかしましょう。

せっかく、寝起きをともにして、山に登っていたのですから、70歳を越えたおばあさんを山に駆り立てているもの、単なる習慣や楽しみといった言葉では語り尽くせないものを、もう少し描いてほしいと思います。

考えるべき問題は、きっとその記述の先にあるはずです。

一応してみました。テーマである「なぜ山に登るのか」という部分が論文に散々出てきてるけれど、結局「なぜ山に登るのか」があんまりピンとこなかった。最初の部分はちゃんと赤マークつけてたんだけれど、途中で意味がわかんなくなった。ご承知のとおり、添削者の理解度はとわれて当然なんですけれど(笑)

テーマである「なぜ山に登るのか」という問いを答えるためのに、矢筈山の早朝登山者の分析結果を使うという方法に基づいて行なわれるのだろうと思っていたら、それは最初の方と後の方だけで、中盤は大衆登山の歴史が長々とつづき、その後になぜか大衆登山のなかの中高年登山のブームと早朝登山との比較分析が行なわれて・・・。大衆登山(一般登山者?)のなかの中高年登山と早朝登山者との関係もよくつかめないまま、早朝登山者が登る理由の結論へと、と思った。

もっとすっきりした構成が欲しいなと思った。あと、「なぜ山に登るのか」という問いの答えは多様であろうことはすぐに推測できるし、そもそも楽しいからとか達成感とかいう答えもその一つに入っちゃうと、それは典型的な抽象的理由のようにおもえるのですが。

僕なら、「なぜ山に登るのか」を考える上で、登山ブームの中で出てきた中高年登山者に焦点をあてる。それを調べるために、その中高年登山の一つの形態としてでてきた早朝登山者を対象とするということを言う。それを言う前提として、論文の中で中高年登山者と早朝登山者の関係を論文の最初の方で明確にする。それをやったのち、早朝登山者だけに絞っていき、なぜ早朝登山者は矢筈山に登るのかを答える。そして、それから出た結果で何が言えるかを考えてみる。やっぱり、早朝登山者の「なぜ山に登るのか」で現れた答えは、人間(中高年登山者?大衆(一般)登山者?登る人?人間?)の行動を起こさせる理由に反映できるのかが素朴な疑問だなあ。もうちょっと深くすると、その人間行動として現れる登山の中にどういったことが隠されているのか?

何時ごろ行けばいいのかなあ?見たらこれにて返答を!


[1936] Re: 卒論 投稿者: 投稿日:2002/01/07(Mon) 11:56


■まさやん

新年バージョンの原稿はできましたか?娯楽や身体表現としての踊りと、観光や文化財としての踊りの両面性による根本的な矛盾を、踊る側の立場からわかりやすく解読してくださいね。特に身体技法の記述は、伝統と創造の間の「葛藤」を示すための有力な証拠になるはずなので、力をいれてね。

あとは、こなれていない文書を直して、はやく図表を完成させる事かな。(まにあうだろうか・・・)

図表が間に合いそうになかったら手伝うよー

http://www.kitakyudai.net/~yaken


[1935] 今日のゼミ 投稿者:だいすけ 投稿日:2002/01/07(Mon) 11:00

今日7日は正式に授業が始まっているのかどうか知りませんが、そんなこととは関係なくゼミをおこないます。もう大詰めですからね。

時間が足りなくなるおそれがあるので、「5時から」はじめたいと思います。

卒論生は、最新の原稿を「ゼミが始まるまでに」「3部」印刷して持ってきてください(自分用も必要ならば4部)。印刷は、朱を入れやすいように十分に行間をあけて印刷してください。

今年は卒論を出さない人も、たくさん緊急の校正の仕事がはいりますので必ず顔を出してくださいね。

12日からの京都行きの打ち合わせもします。

いま、山本君が手伝いに来てくれているので、ゼミが終わったら、いっしょにうまい魚を食べに行きましょう。






[1930] だいちゃんへ 投稿者:平安 投稿日:2001/12/26(Wed) 22:49

sinkの第9話でたよーん。
そんだけ。

今度、頼子と研究室に遊びに行きます。
いるのかな。


[1945] 初メール。 投稿者:賀子(よりこ) 投稿日:2002/01/19(Sat) 18:01



今度、頼子と研究室に遊びに行きます。
いるのかな。

竹川先生のゼミ生となりました、よりこです。
はじめまして。

ひろの、わたしの名前、間違ってる! 「がこ」とかいてよりこと読む。
それと、昨日、先生がヒロノの卒論のこと、ちょっぴり(?)
心配していたような・・・。

先生、来週の準備は順調ですか?
旅先で先生のアメリと
出会えたら素敵だね。


[1953] Re: 初メール。 投稿者:ヒロノ 投稿日:2002/01/22(Tue) 16:17


竹川先生のゼミ生となりました、よりこです。
はじめまして。
よろしく〜♪やー、変な感じ!
年末きっと私の卒論を添削するんだね。
キャー。
ひろの、わたしの名前、間違ってる! 「がこ」とかいてよりこと読む。
知らなかった…。ごめん。

それと、昨日、先生がヒロノの卒論のこと、ちょっぴり(?)
心配していたような・・・。
はい。私も心配。…がんばります☆
どこに行こうかなぁ〜。


[1947] Re: 初メール。 投稿者:だいすけ 投稿日:2002/01/21(Mon) 12:14

ほんと、どうしてるんだろうねぇヒロノは。

先生、来週の準備は順調ですか?
旅先で先生のアメリと
出会えたら素敵だね。

ありがとう。

ガコさんもオーストラリアとインドを楽しんできてください。


[1931] Soturon 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/12/27(Thu) 13:12

Thanks.

Asu 12/28 soturon kankeisya. Zemi situ ni ki te.

Genkou no naosi sonohoka...




[1932] Re: Soturon 投稿者:平安 投稿日:2001/12/28(Fri) 02:10

Thanks.

Asu 12/28 soturon kankeisya. Zemi situ ni ki te.

Genkou no naosi sonohoka...

だいちゃんどうしたの??
ハードな毎日で壊れてしまったの??

明日の何時ごろかしら?
とりあえず顔出しま〜す。


[1919] 三宅さんへ 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/12/22(Sat) 18:28

ハードディスクに入っていた三宅さんの卒論を勝手に読みました。ごめんなさい。

前にも言ったかもしれないんだけど、ちょっと思ったことを書きます。

僕がフィールドにした西成区には釜ヶ崎という寄せ場があります。寄せ場というのは日雇い労働者が仕事を探しに集まる場所です。公園もそうですが、寄せ場ではお互いの名前や素性について語られません。公園で僕はずっと「大学生」と呼ばれていました。

「寄せ場労働者間の相互作用における「過去に触れない」という規範は、逆説的に、自身と他の寄せ場労働者を同類として認識させる作用を持つ。そうして浮かび上がった寄せ場社会は、お互いの「自由」さが失われ、寄せ場内部に新たな「不自由さ」が成立しないよう秩序づけられているのである。そのような状態の下で、制約されながらも、金の貸し借りや様々な情報の交換や酒、煙草の奢り奢られ、愉快な会話がなされているのである。このような秩序は、寄せ場労働者の組織化や固定的な集団の形成に対し、明らかに抑止的である。それゆえに寄せ場労働者の共同体は、明瞭な構造として捉えがたいものとなる。それは、暴動のように時に急激に姿を現す。「それ以上でもそれ以下でもない」不可視の共同体なのである。」[西澤晃彦『隠蔽された外部 都市下層のエスノグラフィー』P112-113.1995]

山も似たところあるよなーと思いました。「お互いのことを詮索しない」というのは「知っても仕方がない」からなんだろうけど、お互いの素性を気にせずに付き合える場所の気持ちよさというものはあるよね。「非日常」であることを指摘するだけではなく、お互い素性を知らない他者であることを維持する仕掛けについて記述できれば面白いんじゃないかなと思いました。

例えば、必要以上に相手のことを知ろうとすると嫌がられる例とか、山での話題についてどんな話題が多く、どんな話題は少ないか、それがどのように語られるのか、とか。逆に、どれくらい関係を強めようとしているのかという点も重要だと思います。お互いを「ちゃん」付けで呼び合って、関係を深めようとする傾向もあるわけですよね。この逆の傾向はどの辺りで「不可視の共同体」のバランスを保っているのでしょう。

高校の頃、登山部で山に登っていて、他の登山者見ると「あー、みんなばかだなあ、こんな面倒くさいことして」とか思いました。もちろん自分たちについても。

高い山に登るとより「他者度」が高まります。日本アルプスくらいになると本当に全国からいろんな人がやってくる。

山で起こった詐欺事件というのは面白いですね。社会から隔絶しているようでやっぱり社会の一部なんだと思えます。


[1920] Re: 三宅さんへ 投稿者:みやけ 投稿日:2001/12/23(Sun) 01:28

ハードディスクに入っていた三宅さんの卒論を勝手に読みました。ごめんなさい。

いえいえ。後半はまだ思いつき書きだったんですけど、形ができてきたとこで、誰かに意見をもらいたいと思っていました。

「寄せ場労働者間の相互作用における「過去に触れない」という規範は、逆説的に、自身と他の寄せ場労働者を同類として認識させる作用を持つ。そうして浮かび上がった寄せ場社会は、お互いの「自由」さが失われ、寄せ場内部に新たな「不自由さ」が成立しないよう秩序づけられているのである。そのような状態の下で、制約されながらも、金の貸し借りや様々な情報の交換や酒、煙草の奢り奢られ、愉快な会話がなされているのである。このような秩序は、寄せ場労働者の組織化や固定的な集団の形成に対し、明らかに抑止的である。それゆえに寄せ場労働者の共同体は、明瞭な構造として捉えがたいものとなる。それは、暴動のように時に急激に姿を現す。「それ以上でもそれ以下でもない」不可視の共同体なのである。」[西澤晃彦『隠蔽された外部 都市下層のエスノグラフィー』P112-113.1995]

なるほど。
矢筈山では、この寄せ場ほどは強く「過去に触れない」規範が見えるわけではありませんが、こういう意味があったんですね。

山も似たところあるよなーと思いました。「お互いのことを詮索しない」というのは「知っても仕方がない」からなんだろうけど、お互いの素性を気にせずに付き合える場所の気持ちよさというものはあるよね。「非日常」であることを指摘するだけではなく、お互い素性を知らない他者であることを維持する仕掛けについて記述できれば面白いんじゃないかなと思いました。

例えば、必要以上に相手のことを知ろうとすると嫌がられる例とか、山での話題についてどんな話題が多く、どんな話題は少ないか、それがどのように語られるのか、とか。逆に、どれくらい関係を強めようとしているのかという点も重要だと思います。お互いを「ちゃん」付けで呼び合って、関係を深めようとする傾向もあるわけですよね。この逆の傾向はどの辺りで「不可視の共同体」のバランスを保っているのでしょう。

そうですねー。非日常というだけではなくて、もう少し掘り下げることができればと思っています。ここがメインにできればおもしろい論文になりそうなんですが。でも、これについてフィールドのデータがあまりありません…。  もうすこし考えてみます。 

山で起こった詐欺事件というのは面白いですね。社会から隔絶しているようでやっぱり社会の一部なんだと思えます。

私もフィールドワークをして思いました。社会から離れた山に人とのふれあいを求めていくのは逆説的だな と。山での人間関係に何か魅力があるってことですよね


[1923] Re^2: 三宅さんへ 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/12/24(Mon) 00:06

そうですねー。非日常というだけではなくて、もう少し掘り下げることができればと思っています。ここがメインにできればおもしろい論文になりそうなんですが。でも、これについてフィールドのデータがあまりありません…。  もうすこし考えてみます。 

データはあればいいというものじゃないと思う。あるにこしたことはないけど。例えば、聞いてて「つまんない」と思った話題も大事だと思う。つまらない話題でももしかしたらそれは山で出会った人間関係だからこそ口にされるものかもしれないし。

私もフィールドワークをして思いました。社会から離れた山に人とのふれあいを求めていくのは逆説的だな と。山での人間関係に何か魅力があるってことですよね

そもそもの動機は分からないけど、「人に会いたくない」と思って山に登るところもあるんじゃないかな。その結果人に会ったら割と嬉しかったりして。最初は人に会うのが嫌で登ってたら、毎日登っているうちに顔見知りができて。

頂上においてあるノートに他人の分まで印をつけるのは「恩を着せる」とか「親切心で」とかではなくて、あまり意味はないと思いながらもその人との関係を保ちたい、もしくは自分自身に対してその人との関係を確認したいという意味でするんじゃないかな、と思えます。例えば友人と行った旅行の写真を見直すとかと同じ感じ。


[1917] 「ホームレス」における自由を通して 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/12/22(Sat) 04:38

青井さんか奥野さん、時間があったらレスを貰えませんか?

自由とは何かを考えるためにと僕は、自分では不自由だと思えるホームレスのフィールドワークをしました。

西成公園で始めに親しくなったホームレスのYさんは僕の想像をまったく覆す暮らしをしていました。冗談が好きで、器の大きな人に思えました。発電機をまわして電気を使い、テレビを見る。9DKの「豪邸」を構えた彼は世の中の思惑など関係なしに確信犯的にホームレスをしているように見えました。

実際にいっしょに生活してみるとその生活にはさまざまな工夫と努力、彼自身の才覚があることが分かりました。公園で暮らすほかの人たちもその生活を楽しんでいるように見えました。

「君は何のためにここにいるんだ?」と彼らに問われた時に冒頭に書いたようなことを答えました。彼らは納得はしてくれましたが、「しかし、自由か不自由かと言えばここの生活は不自由やで」と一人の人が言いました。確かに、物のあるなし、世間の風当たりなどを考えると不自由でしょう。しかし、公園には公園の自由があると僕は感じました。

ある女性は「夜中に出歩こうと、何時に起きて何時に寝ようと、何も言われないし、気にしなくていい。そんな場所はここだけやで」と言っていました。

ある男性は「自分は仕事が嫌でホームレスになったクチだ」と言いました。彼はたまに日雇いの仕事に言っている人でした。よく「ホームレスは怠け者だ」という見方があります。彼は怠け者なのでしょうか。

怠けてはいけないのでしょうか?ホームレスの「自立支援」というものがありますが、彼らは自分の生活を自分で作り、充分「自立」しています。

「自立」の焦点になるのは「公園に住んでいる」ということではないでしょうか。ちゃんとした家を持っているかいないかが「自立」の焦点になっているのではないでしょうか。もちろん、彼らに家を宛がえば解決するという問題ではなく、根本的な部分で僕たちの社会はある志向の人たちを排除する傾向があるように思います。

ホームレスは単なる失業者ではなく、巧妙に排除されてきた人たちではないでしょうか。俗な話をすれば、公園の人には結構あくの強い人もいて、我の強い人も大勢いました。働く気はあるが、自分の信念を曲げずにきた結果、現在ホームレスである、というような人がいました。それでも余裕をかましながら暮らしている。そういう公園の人たちが僕は好きです。

「〜からの自由」「〜への自由」という分け方があります。普段気軽に自由、不自由を口にするのは「〜からの自由」の領域で、いわば何らかの基準に基づいた「自由度」ではないでしょうか。

ホームレスは物やお金のあるなし、生活の安定という尺度で見れば自由度は低いと言えるでしょう。しかし、本人たちはこの生活に満足している面が多くあります。公園の人の中には家を借りて住むことが可能である人もいるようです。それでも公園を選んでいることからその満足感が推測されます。

意志的に西成公園に「ホームレス社会」を作り出したわけではないでしょうが、自分の信念や素直な思いを貫き続け、結果として公園でしかありえないような満足を作り出したのだと言えます。

しかし、自由とは満足感を得ることができた後の、それまでの過去の営みの名前なのでしょうか?


[1928] Re: 「ホームレス」における自由を通して 投稿者:門屋 投稿日:2001/12/25(Tue) 10:21

「〜からの自由」「〜への自由」という分け方があります。普段気軽に自由、不自由を口にするのは「〜からの自由」の領域で、いわば何らかの基準に基づいた「自由度」ではないでしょうか。

結局、自由というのから逃れられずにいるようですね。卒論のことは別としても、自由を扱うことは非常に難しいと感じます。

この前の大ちゃんの家で飲んだとき、あ、名前忘れちゃった、あの知識欲張りばりのお方がいわれていたように、自由というものを捉えたと思ったとたんに、その思った自由は自由ではなくなってしまうのだと思います。たしかに、自由の概念というのは文献を探せばいくらでも出てくるのだと思いますが、その概念を知ったところで、渡辺さん自身が感じる、あるいは、テーマであるホームレスの人々が感じる自由を言い切ることはできない。

単純に卒論のために自由を扱うのであれば、誰かの自由に対する概念を当てはめればいいのではないでしょうか。そこのところで、渡辺さんの好きなエーリッヒ・フロムが役に立つように思います。しかし、渡辺さんの投稿をみていると、社会心理学の領域で自由を扱うよりも、政治学において使われている自由の概念を扱うほうがいいように思います。ちょうど、政治学のレポートを書くために本を読んでいるのですが、政治学の入門書みたいなやつに、デモクラシーと自由(主義)との関係について書かれてある部分があるので、要約してみます。

〜デモクラシーの自由主義的伝統の根幹をなす「自由」の概念は、ルネサンス的な個の自由や、宗教改革における信教の自由を契機とし、17、18世紀における自然権思想や社会契約論を経て発展されるが、近代市民国家における自由は、理性的個人の自律性を前提としている。その自由とは、絶対主義的権力からの政治的自由・市民的自由の確立、いわば外的強制「からの自由」である。そういった近代市民国家における理性にもとづいた自由主義的思想を代表する人物は、J・ロックである。彼にとって、「社会における人間の自由とは、人々の同意によって国家のなかに確立された、立法権以外のどのような権力にも従属しないということであり、また立法部が自由に寄せられた信託にしたがって制定するもの以外のどんな意志の支配にも、あるいはどのような法の拘束にも従属しない」ということであった。〜

この後に、ベンサムの功利主義における自由の概念や、ベンサムを批判したJ・S・ミルや、T・H・グリーンといった自由主義的思想家の自由概念が続いています。その中でも、ベンサムの功利主義にもとづく消極的自由、つまり、権力に侵されない領域を確保しようという「から」の自由、私的自由ではなく、「へ」の自由(政治的自由、公的自由)といった積極的自由概念をとなえたT・H・グリーンの言ったことが、もしかしたら、渡辺さんの言いたいこととつながるかもしれませんので引用します。

〜自由とは、単なる拘束あるいは強制からの自由ではない。自由は、単に、・・・欲するがままに行う自由ではない。それは、一人あるいは一組の人々が他の人々と一緒に行ったり享受したりする積極的な力または能力である。・・・あらゆる種類の自由は、ある目的に向かっての手段としてのみ価値をもつ。・・・その目的とは、私が積極的な意味の自由と呼ぶもの、換言すれば共同善へ貢献するためのすべての能力を平等に解放することである。」〜

あるいは、所有権の問題を取り扱いたいのなら、まさに、J・ロックの自然権を考えてみるのもいいかもしれません。あるいは、孤独なホームレスをJ・J・ルソーのかんがえる人間と見るのはどうでしょうか?

って、俺もよく知らんですけれど、J・J・ルソーの言っていることには随分引かれました。どうして、人間が理性をもち社会契約を結ばざるを得なくなったのかを、人間の自然状態がどうであったかというところから考えるのはとってもロマンチックだなあって。

さて、僕としては西洋的な自由という概念がほんとうに、日本において受け入れられるのかということが気になるのです。それは結構、日本において社会的弱者が扱われている状態と関係してくるように思います。ああ、精神保健のレポートを書くときにも思ったことなんですけれど、こういうの扱うのってひっ常に難しいんですよね。

がんばってください。っていうか、リアルを求めるというのはどうなっちゃったわけ?


[1921] Re: 「ホームレス」における自由を通して 投稿者:平安 投稿日:2001/12/23(Sun) 04:30

ずっと前、小倉で日雇いのおじさんに話しかけられて、
語ったことがあります。
ビールおごってくれて、「高校3年生」歌ってくれて、
手拍子したら泣き出して、固い握手をして別れました。
寂しくて死にたいとか言ってました。

公園の管理人のバイトしてた時は、
そこに住んでた陽気で下ネタ好きなおじさんと仲良しでした。

ホームレスがみんな不幸な人であるわけではないのですよね。
好きでホームレスしてる人は、好きじゃない仕事を毎日してる人より、自由じゃないでしょうか。
物の不自由って、不自由に入るんでしょうか。
物の自由(?)って自由になんないですよね??
公園のホームレスは自立してるから、自立支援が意味無いんですよね?
なんで家を持たせたがるんでしょう。
家って、帰る場所があったらいいんじゃないんですかね?
公園でも、どこでも。
友達とかいたりして。
日々旅にして旅を住みかとしてる人は、放浪してるのが自由じゃないんでしょうか。
必要かいらないかですよね。

最初に書いたおじさんは、日雇いの仕事を始めてから、
アパートに住んでるって言ってました。
家はあったけど、友達もいなくて、
テレビで知ってる歌が流れた時、手を合わせたとか。
それが高校三年生らしい。
多分、その自立支援とかを受けてたんじゃないのかな。
生活保護?よくわかんないけど。
公園に住んでたホームレスの方が、よっぽど幸せそうでした。
幸せな人の方が自由ですよね?
日本は、いろんな幸せがあると困るんじゃないんですか?
みんなが自由になっちゃうと、んー、なんかやりにくいとか。
幸せ像ってないですか?
これにむかってがんばって、みたいな。

…自由ってなんですかね。
渡辺さんがいやって言ってた「自分らしさ」とかも(自分探しだっけ??)ある範囲内で決めなさいみたいなとこがあって、
そのうそ臭さみたいなのがイヤなんじゃないですか?

なんか脱線してきたので。



[1922] Re^2: 「ホームレス」における自由を通して 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/12/23(Sun) 23:45

ずっと前、小倉で日雇いのおじさんに話しかけられて、
語ったことがあります。
ビールおごってくれて、「高校3年生」歌ってくれて、
手拍子したら泣き出して、固い握手をして別れました。
寂しくて死にたいとか言ってました。

公園の管理人のバイトしてた時は、
そこに住んでた陽気で下ネタ好きなおじさんと仲良しでした。

野宿生活から生活保護を受けて住み始めた人が「自立」できなり理由として「生活の寂しさ」「人間関係の希薄さ」があるという話をよく目にします。野宿生活を「家を持てない不幸」として、家を持てるようになったら寂しくてたまらなくなる。社会福祉は彼らに対してグループワークとかケースワークとかをして交流の場を作り出して「社会性を取り戻させようと」する。それで精一杯の援助をしているとつもりなんだろうけど、そういうもんじゃないと思う。

ホームレスがみんな不幸な人であるわけではないのですよね。
好きでホームレスしてる人は、好きじゃない仕事を毎日してる人より、自由じゃないでしょうか。
物の不自由って、不自由に入るんでしょうか。
物の自由(?)って自由になんないですよね??
公園のホームレスは自立してるから、自立支援が意味無いんですよね?
なんで家を持たせたがるんでしょう。
家って、帰る場所があったらいいんじゃないんですかね?
公園でも、どこでも。

どうして家を持たせたがるんだろうね?公園に住んじゃいけない理由は何だろう。
「公園はみんなのものだから自分のものにしてはいけない」という公共性からの批判。
「きちんと仕事をしないで怠けているから家を借りられないんだ」という批判。それはその人が「毎日嫌な仕事を我慢しながらしている」という不満をぶつけてる八つ当たりではないかと思える。
八つ当たりするしなきゃいられないくらい我慢して働くことに意味があるんだろうか。みんな本当はそんなに働きたくないのに、働かなきゃいけないと思い込んでるんじゃないだろうか?

…自由ってなんですかね。
渡辺さんがいやって言ってた「自分らしさ」とかも(自分探しだっけ??)ある範囲内で決めなさいみたいなとこがあって、
そのうそ臭さみたいなのがイヤなんじゃないですか?

そんな感じ。どうしてわざわざ言われなきゃなんないわけって。


[1925] Re^3: 「ホームレス」における自由を通して 投稿者:平安 投稿日:2001/12/24(Mon) 04:31


野宿生活から生活保護を受けて住み始めた人が「自立」できなり理由として「生活の寂しさ」「人間関係の希薄さ」があるという話をよく目にします。野宿生活を「家を持てない不幸」として、家を持てるようになったら寂しくてたまらなくなる。社会福祉は彼らに対してグループワークとかケースワークとかをして交流の場を作り出して「社会性を取り戻させようと」する。それで精一杯の援助をしているとつもりなんだろうけど、そういうもんじゃないと思う。

去年かな?社会福祉の授業で、神父さん(牧師さん?)でホームレスの自立支援をしている人が来て、そんな話をしてました。
電話がある部屋に住んでも、ほとんどの人が使わなくて、
みなさん、偏見をなくして彼らと交流しましょう、みたいな。
寂しいから自立ができない、寂しいのは偏見があるからです。
って感じで。
一応もっと難しい話だったんですけど。
講演しに来た人は、幸せなホームレスには会わなかったのかな。
私が家=帰る場所って言ったのは、その人が言ってて納得したからで、
そうだとすると、渡辺さんが行った公園のホームレスはホームレスじゃないですよね。
「豪邸」持ってる人とかとくに。
私その頃、家にいるのが寂しくて道で寝たり(憶えてないけど)、
コンビニの外で寝て人に拾ってもらったりしてたから、
あたしってホームレスなんだー!って思ってえらく親近感覚えたりしたんですけど、でも家=帰る場所って分類すると話が違ってくるかな。

どうして家を持たせたがるんだろうね?公園に住んじゃいけない理由は何だろう。
「公園はみんなのものだから自分のものにしてはいけない」という公共性からの批判。
「きちんと仕事をしないで怠けているから家を借りられないんだ」という批判。それはその人が「毎日嫌な仕事を我慢しながらしている」という不満をぶつけてる八つ当たりではないかと思える。
八つ当たりするしなきゃいられないくらい我慢して働くことに意味があるんだろうか。みんな本当はそんなに働きたくないのに、働かなきゃいけないと思い込んでるんじゃないだろうか?

日本ってみんなでハッピーになりましょうって国ですよね。
「働いて働いて、みんなでリッチになりましょう」の中で、ホームレスって究極の自由だから、「コラー!怠け者!」みたいな。
でも究極の自由を追求すると、不自由も多く出てきちゃったりして。
難しいですね。
フリーターって一番自由かも。
そういえばフリーターも批判されますよね。
フリーターの何が悪いのかな。
賃貸マンションに住んでるフリーターで、子供もいなくて恋もしてない人って、最高に自由って思いません?
もっと賢くなると作家とか、フリーなんとか、って職業。
30過ぎだけど独身で、ひげなんかはやしてて、
名刺持ってて、雑学すごくて、男友達は少ないけど女友達はいっぱい、みたいな人。
「〜には知人がいてね、ここにはあと2週間くらいかな。でも夏は沖縄の〜で過ごすんだよ」とか言って。
あれが究極の自由かもなぁ。


[1926] Re^4: 「ホームレス」における自由を通して 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/12/24(Mon) 05:57

早起き?それとも夜更かし?僕は夜更かしです。

去年かな?社会福祉の授業で、神父さん(牧師さん?)でホームレスの自立支援をしている人が来て、そんな話をしてました。

それは多分、呆けすとらの奥田知志さんでしょう。

電話がある部屋に住んでも、ほとんどの人が使わなくて、
みなさん、偏見をなくして彼らと交流しましょう、みたいな。
寂しいから自立ができない、寂しいのは偏見があるからです。
って感じで。
一応もっと難しい話だったんですけど。
講演しに来た人は、幸せなホームレスには会わなかったのかな。

大阪はとにかく数が多いからなあ。北九州のホームレスは確か300人くらい。ホームレス社会の過渡期(?)とでも言おうか。西成公園だけで200人はいるわけで、あの生活は200人規模のコミュニティがあってこそなのかもしれないしね。

仕事があればいいのかなあ?テント小屋にはそのまま住んで。「野宿=不幸」という考えにとらわれてると間違っても「幸せだ」とは思わないだろうし。「支援者」として関わり始めると相手はあくまで「支援対象」に見えちゃうような気はする。

そういえばどこかでYさんと知り合った公園の近所に住んでるおじさんが、しょっちゅう来ては食べ物とか家にあるいらないものとかを置いていってたな。その人は孫を連れてきて「こいつに仕事手伝わせて鍛えてやって」とか変なことまで言い出した(で、しばらくその子は遊びに来ていた)。あー、これなんか、使えそうなエピソードだなあ……。

他にも仕事に行く近道に毎朝夕公園を通り抜けていくおじさんもいた。彼は待機のトラック運転手で、仕事場に行っても一円にもならずに帰る場合があるとか聞いたな。

私が家=帰る場所って言ったのは、その人が言ってて納得したからで、
そうだとすると、渡辺さんが行った公園のホームレスはホームレスじゃないですよね。

そうか、そこは重要だよな。

「豪邸」持ってる人とかとくに。
私その頃、家にいるのが寂しくて道で寝たり(憶えてないけど)、
コンビニの外で寝て人に拾ってもらったりしてたから、
あたしってホームレスなんだー!って思ってえらく親近感覚えたりしたんですけど、でも家=帰る場所って分類すると話が違ってくるかな。

何やってるんだオマエは(笑)。

日本ってみんなでハッピーになりましょうって国ですよね。
「働いて働いて、みんなでリッチになりましょう」の中で、ホームレスって究極の自由だから、「コラー!怠け者!」みたいな。
でも究極の自由を追求すると、不自由も多く出てきちゃったりして。
難しいですね。
フリーターって一番自由かも。
そういえばフリーターも批判されますよね。
フリーターの何が悪いのかな。

フリーターも批判されるよねえ。で、フリーターであることに後ろめたさ感じる人もいるかもしれない。

賃貸マンションに住んでるフリーターで、子供もいなくて恋もしてない人って、最高に自由って思いません?

友達とかいればね。もしくは一人でいるのが好きだとか。寂しくないんだったらいいけど。

もっと賢くなると作家とか、フリーなんとか、って職業。
30過ぎだけど独身で、ひげなんかはやしてて、
名刺持ってて、雑学すごくて、男友達は少ないけど女友達はいっぱい、みたいな人。
「〜には知人がいてね、ここにはあと2週間くらいかな。でも夏は沖縄の〜で過ごすんだよ」とか言って。
あれが究極の自由かもなぁ。

「将来への不安」というのがよぎってしまうなあ。それでもやりたいことやって生きるほうがいいけど。その繰り返しかな。繰り返すくらいならやりたいことやったほうがいいな。ああ、でもずっとこのままというわけにも……(笑)。


[1929] Re^5: 「ホームレス」における自由を通して 投稿者:平安 投稿日:2001/12/26(Wed) 22:45

早起き?それとも夜更かし?僕は夜更かしです。
昼寝をしたため、徹夜です。(よくある)
でも今日は早寝。

大阪はとにかく数が多いからなあ。北九州のホームレスは確か300人くらい。ホームレス社会の過渡期(?)とでも言おうか。西成公園だけで200人はいるわけで、あの生活は200人規模のコミュニティがあってこそなのかもしれないしね。

公園に200人も住んでるんだー。
なんで大阪はそんなに多いの?
沖縄、暖かくて住みやすそうなのに、あんまり見なかった気がするよ。
小倉は多いなぁって思ってた。

そういえばどこかでYさんと知り合った公園の近所に住んでるおじさんが、しょっちゅう来ては食べ物とか家にあるいらないものとかを置いていってたな。その人は孫を連れてきて「こいつに仕事手伝わせて鍛えてやって」とか変なことまで言い出した(で、しばらくその子は遊びに来ていた)。あー、これなんか、使えそうなエピソードだなあ……。

同情して、とかじゃなくて?
友達だったの?

他にも仕事に行く近道に毎朝夕公園を通り抜けていくおじさんもいた。彼は待機のトラック運転手で、仕事場に行っても一円にもならずに帰る場合があるとか聞いたな。

なんか落ち着くのかも。

「将来への不安」というのがよぎってしまうなあ。それでもやりたいことやって生きるほうがいいけど。その繰り返しかな。繰り返すくらいならやりたいことやったほうがいいな。ああ、でもずっとこのままというわけにも……(笑)。

よぎっちゃうねー。不安。
あと2年後って何やってるんだろう。
OLして、お茶くんだりセクハラされたりしてるんかなぁ。
絶対やだー。死んじゃうね。


[1933] Re^6: 「ホームレス」における自由を通して 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/12/28(Fri) 09:44

公園に200人も住んでるんだー。
なんで大阪はそんなに多いの?
沖縄、暖かくて住みやすそうなのに、あんまり見なかった気がするよ。
小倉は多いなぁって思ってた。

小倉は300人くらい。大阪は9000人くらいいるはずだよ。大阪には寄せ場という日雇い労働者が仕事探しにくる場所があるから、そこで仕事にあぶれた人がホームレスになるから多いの。

昨日中央図書館のとこのホームレスと話したよ。「乞食みたいなもんだ」と言っていた。

そういえばどこかでYさんと知り合った公園の近所に住んでるおじさんが、しょっちゅう来ては食べ物とか家にあるいらないものとかを置いていってたな。その人は孫を連れてきて「こいつに仕事手伝わせて鍛えてやって」とか変なことまで言い出した(で、しばらくその子は遊びに来ていた)。あー、これなんか、使えそうなエピソードだなあ……。

同情して、とかじゃなくて?
友達だったの?

友達だったよ。Yさんの暮らしを見たら同情するほうが失礼だと思うよ。

他にも仕事に行く近道に毎朝夕公園を通り抜けていくおじさんもいた。彼は待機のトラック運転手で、仕事場に行っても一円にもならずに帰る場合があるとか聞いたな。

なんか落ち着くのかも。

100円ショップの下請け工場とか、採算とれないのに機械回すらしいよ。赤字でも仕事はしていたいというところが人間にはあるんじゃない?そこで機械止めたら「失業者」でしかないからね。

よぎっちゃうねー。不安。
あと2年後って何やってるんだろう。
OLして、お茶くんだりセクハラされたりしてるんかなぁ。
絶対やだー。死んじゃうね。

平安だと案外適応してそうな気もするんだけど。


[1940] Re^7: 「ホームレス」における自由を通して 投稿者:だいすけ 投稿日:2002/01/16(Wed) 15:30

およそ場違いなメンバーを引き連れていってきましたよ西成へ。

三角公園を探してうろうろしていたときにいろんな場所を見ることができたので、かえって案内者のワタナベ君がいなくて良かったかもしれません。本当は時間を決めてバラバラにまわった方が良かったのですが、あのあたりの地理には見当がつかなかったので、とりあえず行列して歩きました。われわれは相当変な集団でした。

小倉は300人くらい。大阪は9000人くらいいるはずだよ。大阪には寄せ場という日雇い労働者が仕事探しにくる場所があるから、そこで仕事にあぶれた人がホームレスになるから多いの。

昨日中央図書館のとこのホームレスと話したよ。「乞食みたいなもんだ」と言っていた。

そういえばどこかでYさんと知り合った公園の近所に住んでるおじさんが、しょっちゅう来ては食べ物とか家にあるいらないものとかを置いていってたな。その人は孫を連れてきて「こいつに仕事手伝わせて鍛えてやって」とか変なことまで言い出した(で、しばらくその子は遊びに来ていた)。あー、これなんか、使えそうなエピソードだなあ……。

路地をまわりながら考えたこと。やっぱり、そもそも彼らをホームレスと呼ぶのはワタナベ君の論文においてかなり根本的な欠陥なのではないかと言うこと。

ホームレスという概念で彼らをくくるのは非常に無理があるし、誤解を与えてしまいます。むしろあそこは「おじさん共和国」みたいな感じ。

お金はないかもしれないけど、自立していて生活していて、自分たちの世界をつくっているそんな感じ。

せめて公園生活者あるいは路上生活者という視点で切り込まないと、絶対に自立の問題は語れなかったように思う。たしかに非常に複雑で一筋縄ではいかない問題だけど、もっとはやく福祉や援助や近代的市民生活などという視点を切り替えることができたら、論点ははっきり見えたのになと思いました。


[1941] Re^8: 「ホームレス」における自由を通して 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2002/01/16(Wed) 18:07

路地をまわりながら考えたこと。やっぱり、そもそも彼らをホームレスと呼ぶのはワタナベ君の論文においてかなり根本的な欠陥なのではないかと言うこと。

題目は「公園居住という自立 ホームレス自立支援を通して」に変更して提出しました。最後の夜に「公園居住者」「路上生活者」という言葉を前提に彼らを「ホームレス」と呼ぶ一つの傾向をモデルに論文を手直ししました。

だいちゃんの言う通り、彼らを「公園居住者」とらえるほうが適切だと思い修正しました。


[1927] Re^5: 「ホームレス」における自由を通して 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/12/25(Tue) 08:40

去年かな?社会福祉の授業で、神父さん(牧師さん?)でホームレスの自立支援をしている人が来て、そんな話をしてました。

それは多分、呆けすとらの奥田知志さんでしょう。

勘違いしてました。奥田知志さんというのは北九州越冬実行委員会というのをやっていて、東八幡バプテスト教会の人でした。


[1918] Re: 「ホームレス」における自由を通して 投稿者:多くのまさまさ 投稿日:2001/12/22(Sat) 15:05

 にっぽん にっき で やろうよ。

 おもしろいテーマが、たくさんあるから、みんなに、見てもらおうよ。


[1924] Re^2: 「ホームレス」における自由を通して 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/12/24(Mon) 00:08

 にっぽん にっき で やろうよ。

 おもしろいテーマが、たくさんあるから、みんなに、見てもらおうよ。

ニッポンニッキに投稿しました。


[1908] 帰国 投稿者:やまもと 投稿日:2001/12/17(Mon) 23:47


やまもとです。

ご無沙汰しています。

昨日、午後、エチオピアから帰国しました。
あちらでは、発酵食品を探して、車でうろうろしていました。

年始くらいに、おいしい刺身を求めて北九州へ行こうと思っていたのですが、京都に来るそうですね。
おそらく何もないとは思いますが、何か、具体的な予定は立っているのでしょうか?

それでは、また。


[1913] Re: 帰国 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/12/19(Wed) 19:55

昨日まで、伊良部におりました。みんなあいかわらずでした。

2年ぶりにうまい泡盛も飲みました(もちろん、例のうすい泡盛も沢山のみました)。

機会があればぜひ「恩納」をおためしあれ。「まいふな」の人気は上がってますね。いまや「どなん」より上ってかんじ。

年始くらいに、おいしい刺身を求めて北九州へ行こうと思っていたのですが、京都に来るそうですね。

12月24日前後に京都と大阪に行くけどその辺にいますか?

おそらく何もないとは思いますが、何か、具体的な予定は立っているのでしょうか?

いつものことながら「1月12日京都集合」という以上に具体的な予定は不要でしょう?

吉田寮またはそれに類する宿泊施設、約15人分を確保してください。寒くない奴でたのみます。

卒論は、年内できなければ来年度です。ぼく的にはそういうつもり。だから問題なし。>だよね

それでは、また。

それでは、また


[1915] Re^2: 帰国 投稿者:やまもと 投稿日:2001/12/20(Thu) 17:46


お久しぶりです。

昨日まで、伊良部におりました。みんなあいかわらずでした。

2年ぶりにうまい泡盛も飲みました(もちろん、例のうすい泡盛も沢山のみました)。

良いですね。
うらやましい。
薄いのはあまりうらやましくないけど・・・

12月24日前後に京都と大阪に行くけどその辺にいますか?

全然おります。
27日にこちらの忘年会があるので、それまではスライドの現像やらお礼のお手紙やら年賀状やらをやっています。

ところで、私が年始に行くという話はどうなったのでしょうか?
卒論で忙しいから来るな、と言われればそれまでですが。

吉田寮またはそれに類する宿泊施設、約15人分を確保してください。寒くない奴でたのみます。

吉田寮に予約制度などあるのでしょうか?
また、吉田寮に匹敵するような施設が存在するのでしょうか?
とりあえず、明日にでも行ってみます。

それでは、24日前後に。


[1916] Re^3: 帰国 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/12/21(Fri) 14:26


27日にこちらの忘年会があるので、それまではスライドの現像やらお礼のお手紙やら年賀状やらをやっています。

大阪のあと京都によって長野に行く予定でしたが、いったん北九州に戻ることにしました。ごめん。

ところで、私が年始に行くという話はどうなったのでしょうか?
卒論で忙しいから来るな、と言われればそれまでですが。

ぜひおいでください。卒論の詰めに立ち会うという条件でおいしいお魚をふるまいます。

吉田寮またはそれに類する宿泊施設、約15人分を確保してください。寒くない奴でたのみます。

吉田寮に予約制度などあるのでしょうか?

その日に別の宴会を入れないでほしいというくらいかな?確認してみて。

また、吉田寮に匹敵するような施設が存在するのでしょうか?

天理教という手もあります・・・。



[1912] Re: 帰国 投稿者: 投稿日:2001/12/18(Tue) 23:53



昨日、午後、エチオピアから帰国しました。
あちらでは、発酵食品を探して、車でうろうろしていました。

年始くらいに、おいしい刺身を求めて北九州へ行こうと思っていたのですが、京都に来るそうですね。
おそらく何もないとは思いますが、何か、具体的な予定は立っているのでしょうか?

おかえりー。変なお酒はあった?

京都行きは1月の13,14日あたりかな?たしか。
山本に吉田寮の確保とかをしてもらうって言ってたよ。だいすけが。

卒論おわるかなぁ。

http://www.kitakyudai.net/~yaken


[1910] Re: 帰国 投稿者:あおいみほこ 投稿日:2001/12/18(Tue) 15:40

やまもとです。

ご無沙汰しています。

昨日、午後、エチオピアから帰国しました。
あちらでは、発酵食品を探して、車でうろうろしていました。

おかえり。
発酵食品どうだった?
口には合ったの?


[1909] Re: 帰国 投稿者:SE☆ゆうき 投稿日:2001/12/18(Tue) 08:55

やまもとです。

ご無沙汰しています。

昨日、午後、エチオピアから帰国しました。
あちらでは、発酵食品を探して、車でうろうろしていました。

おぉ、帰ってきたか。

こないだ君が夢に出てきてうんちくをならべたてられたよ。また聞かせてくれ。福岡に来い。

年始くらいに、おいしい刺身を求めて北九州へ行こうと思っていたのですが、京都に来るそうですね。
おそらく何もないとは思いますが、何か、具体的な予定は立っているのでしょうか?

それでは、また。

はい。私はみんなと連絡をとると言いつつそのまんま。どうしよっか。
とりあえず日程は1月の12,13,14の連休でよいのかな?

だいちゃんよ、予定は大丈夫?あと卒論も・・・。


[1905] 僕の論文の書き方(ナガヤンへ) 投稿者:門屋 投稿日:2001/12/14(Fri) 08:59

 僕の論文の書き方
 
 1,ナガヤンの論文を読んでの感想
 
 これではダメだと思う。まず、全体の構成がしっかりと練れていないがために、自分でもどういったデータが論文、あるいはテーマに重要なのかがわかっておらず、また、それがゆえにデータに対する分析が全くなされていない。ただ単に、自分が集めたデータを考察以前の章によって記述し、それに即することなく、自分の主観的な意見を考察としている感がある。そして、何よりも全体的にデータも考察も少なすぎるし、客観性に欠けている。さらに付け加えるならば、考察は、フィールドにおいて会った者の意見を受け売りしているにすぎないようだ。これでは論文として評価する以前の段階である。しかし、まだ見込みがあるのは、問題意識の点が良いと思われる。そのため、テーマをもう一度厳密に絞り、構成をしっかり練った上で、今のデータと補足しなければならないデータを探して分析に取りかかれば立派な論文になるだろう。

 2,まず、問題意識から取りかかろう
 
 問題意識というのは、論文を作りたいと思う動機のようなものだ。個人には必ず興味関心というものがある。それは単純にいうならば、個人の価値観だ。個人の価値観が、ある対象に対する問題意識に必ず関わってくる。今回彼女が選んだ対象は、観光案内ボランティア。まず、なぜ彼女が論文の対象にこれを選んだのかを聞く必要がある。それが、彼女の価値観につながっているのならば、論文の進行に非常に都合がよい。もしも、彼女の価値観と今回の対象を選んだ理由が対をしていない場合は、私も、私の価値観から対象について考える必要がある。
 どちらにしても、その対象に対して問題意識を作り出す必要がある。まず、個人の価値観の中でも、この対象に対する理想的なのは何かを聞く必要がある。つまり、個人の価値観による理想と、対象の現実のギャップがわかってくる。そして、その理想を現実に引き下ろした場合に、現実の対象がどういう風に変わってくるかがわかるだろう。
 また、個人の価値観に即した対象の見方(理想)が作り出すものもひとつの現実である。それゆえに、フィールドワークにおいても、その見方が入り込んでいる場合がある。対象の現実(事実)といえども、あくまで現実は作り出されたものであるのだから、この対象は彼女にはどういう風に写ったのか?あるいは、彼女の見方が対象の現実をどういう風に写させたのか? 私はそれを知る必要がある。これは、彼女一人でする事は非常に難しい。そのため、私や他の者と一緒にする必要がある。
 さて、問題意識を作り出すために、ここまでは準備段階と言える。いわゆる、スポーツをする前に体をほぐすように、彼女の頭をほぐすのだ。当然、私の頭もほぐれていなければならない。
 私と彼女は、対象に対する問題意識を作り出すために、彼女と私の見方を探り出した。つまりは、私と彼女の主観の問題を取り扱った。そして、もう一つ必要なことがある。それは、主観に対する客観である。主観ではなく、客観はこの対象をどういった風にみているのか?それによって、対象の現実はどういう風に写し出されているのか?そのことを考えるのがもう一つの準備体操である。
 そのためには、ほぐされた頭から客観といわれるものを探し出さなければならない。それでは、どうやって探すのか?
 まず、自分の頭だけを使って探す方法。それでは主観が混じってしまうのではないかという反論はここでは関係ない。ただ単に、私と彼女が客観と思われるものを探すのが目的である。それが客観かどうかの判断は読み手に任せておけばよい。
 次に、自分の頭と人の頭を使って客観を探し出す方法。この方法は、今では様々な方法がある。文献でもよし、インターネットでもよし、フィールドワークで得たデータでも、とにかく、世の中にある既存のものを使いながら、対象に対してなされた、対象に与えられた現実を見ていくのだ。
 おわかりの方もいられようが、自分の頭だけを使って客観を探し出すのと、自分の頭と人の頭を使って探し出すということをしたときに、その得られた客観が矛盾する場合もある。しかし、論文を書くのならば、この矛盾する中から、客観と思われるものを探し出す必要がある。と同時に、それが本当に客観なのかという問いを持ち続けなければならないのは当然である。つまり、対象に与えられた現実を客観的にとらえているものはどれかを吟味するのだ。
 おそらく、ここまでである程度、この対象をどういった物語で書いていけばよいかがわかってきただろう。それに伴い、自然とどういった問題意識を作り出せば良いかもわかってくるはずだ。問題意識を作り出すというのは、ある意味で自分をだますことかもしれない。そもそも、問題意識なくして対象を選んでいるというものであるのならば、実はもう論文を作る上での大前提をクリアしていないのかもしれない。しかし、必ずしも問題意識が先でなければならない必要はない。
 問題意識と対象は両義的であって一義的なものだ。
 もう問題意識は作り出されたであろうか?作り出されたのならば、それでは、論文を書く上で対象、問題意識と同じくらい重要なものはどうだろうか?というのは、物語の中で一番必要な一本の筋。つまり、問題意識から出てくるテーマである。実のところ、ここでテーマを決めてもいいし、決めなくてもいい。
 

 3,構成を練る
 
 この論文を書く上での全体像が見えてきて、問題意識も作り出されたならば、構成を考える必要がある。構成というのは、論文(物語)を書く上で非常に大事である。それによって、その論文(物語)が面白くなるかどうかが決まると言っていい。また、構成自体がこの論文(物語)をどういった方向にするかを決めるときすらあるだろう。しかし、気を付けておかなければならないのは、問題意識から、(テーマが決まっているならば)あるいはテーマから逸するような構成を考えてはならない。あくまでも問題意識(あるいはテーマ)を前提としながら構成を練る必要がある。ひとつの論文が、個人の対象に対する問題意識のすべてを覆うことはできないのだから。
 前述したように、問題意識が作り出されていたからといって、テーマが決まっているとは限らない。しかし、構成が完成するまでにはテーマが決まっていた方がよい。そうしないと、構成が終わりすべてを書き終わった後にテーマが変わるのが意味するのは、論文の書き直しだからだ。確かに、論文製作段階の最初の方はテーマを決めずに構成を練りながら、何度か論文を書いてみるということをしてもいいのだが。

 4,構成にデータを配置する

 構成が決まったところで、次は集めてきた主観的データと客観的データが、構成の上でどこに位置づけられるのかを考える必要がある。その前に、主観的データと客観的データとはどう違うのだろうか?
 これを答えるのは非常に難しい。というのも、そもそも主観と客観の境界線というのがどこにあるのかが問題だからだ。しかし、この論文で哲学的なことでも語るのではないならば、基本的には自分が主観と思うもの客観と思うものという恣意的な基準ですませておく。かといって、それが本当に主観か客観かという問いを意識しなくて良いというわけではない。3章の問題意識を作りだす時と同じように、主観か客観かということは常に念頭に置いて論文を作成しなければならない。
 構成にデータを配置する前に、ひとつ断っておかないといけないことがある。それは、論文において主観的データという存在があるのかを、私自身が疑わしくおもっているのことだ。しかし、ここではそれを不問にして欲しい。
 さて、私と彼女はフィールドワーカーである。実は、フィールドワーカーにとって、それが主観的データなのか、客観的データなのかという問題を解決するのは、文献のみによって論文を作成する「安楽イスの研究者」より大変なことかもしれない。まずもって、フィールドによって得られたデータというものは、自分が自分の頭だけを使って集めてきたデータであるため、実のところすべてが主観であるといっても過言ではない。しかし、そういったスタンスを取っては書ける論文も書けるわけがないだろう。
 まず、フィールドワーカーは、フィールドワークによって得たデータを主観的データか客観的データに振り分けることから始める必要があるだろう。そのあと、いったいどちらのデータ、あるいはどういったデータが足りないかを考える必要がある。それによって、もう一度フィールドワークに赴く必要があるのか、それとも、その他の方法で済ますことができるかが決まるであろう。
 まず、主観的データが足りないというのは、彼女がフィールドワークを理解していないことが考えられる。実は、それでは全くもって話にならないのだが、それは仕方がない。どうにか、もう一度フィールドワークを思い出して、主観的データを絞り出すことが必要だ。それでも、何にも出てこないのならばフィールドへ直行だ。
 次に、客観的なデータが足りない場合。その場合は、今の時代ならば何とかその他の方法で済ますことができるだろう。電話をつかうもよし、郵便を使うもよし、本もインターネット、人を使うも良しだ。しかし、ここで気を付けておきたいのは、客観的データは二次的なものでしかないので多用するのは避けた方がよい。
 さて、こうなってくると、フィールドワークにおいて何が重要かも少しわかって気はしないだろうか。私は、主観的データが全くない場合にはフィールドワークをもう一度行かないといけないと。つまり、主観的データを集めるために必要な理解というものがフィールドワークにおいて重要だあるのだ。たしかに、二次的な客観的なデータを集めてくることもフィールドワークにおいて重要なことであるが、それはフィールドワークをしなくても入手可能な場合があることをかんがえると、やはり、フィールドワークにおいては主観的データを探すことに重点をおく必要があるだろう。
 話がそれたが、このような主観的なデータと客観的なデータの振り分け作業が済んで初めて、それらを構成のどこに配置するかを考えることができる。
 しかし、それをする前にひとつ問題が残る。いったい、主観的データと分析というのはどういった関係なのかということである。それを次の章で考えてみたい。

 5,主観的データと分析
 
 実のところ、この論文の書き方のような文を書いている私自身は論文を書いたことがない。今まで書いてきた文は、人の論文製作過程における苦戦苦闘がなぜ起きたのかを分析しながら書いているものであって、実のところ、論文を書いたことも無い人間が書く「論文の書き方」であるので、全くもって読むのを勧めることができない。そんなことはまえもって書かなければならなかったのだが、どうも筆がどんどん進むので忘れてしまった。また、断定調の文であるのも非常に危険である。しかし、その点は了承して欲しい。
 話をもどすが、主観的データと分析の関係にはいる前に、私のいう主観的・客観的データについて説明することを忘れていた。たとえば、研究者がある音楽イベントに参加して、客の数が非常に少なかったとする。つまり、「ある音楽イベントの客が非常に少なかった」という事象に研究者は出くわした。そういった事象から得られる客観的データというのは、「<ある音楽イベントの>客が非常に少なかった」である。それから発展して、研究者は、イベントの客の総数をデータとして得たり、毎月このイベントが行われているのなら、統計としてまとめることによって、さらに有効なデータを得るであろう。しかし、そんなデータというのは価値があるのだろうか?
 このように、私の言う客観的データとは、ある事象から、研究者でなくとも子供さえ集めることができるデータのことである。
 では、主観的データというのは一体どういったものを指すかというと、主観が見つけだしたデータである。これではわかりにくいので言い換えると、主観である私がある事象(あるいは、事象の記述)に対して理解したときに得られるデータのことである。先ほどの例にもどると、研究者がこのイベントの「あるイベントの客が非常に少ない」という事象を理解している場合は、客観的データの他に、主観的データが得られるというわけである。「あるイベントの客の数が非常に少ない」という事象に対して因果関係という形で理解をしていると、広報がおこなわれていなかったとか、イベント自体の雰囲気が悪いとか、その日に雨が降った、といった原因としてのデータを主観は見つけだす。逆に、原因がないものとしてのデータを得られる場合もあるだろう。また、そのイベント主催者と近隣住民の関係性という形からその事象を理解していると、主催者の近隣住民における認知度が低いとか、主催者と近隣住民は対立しているとかいったものをデータとするかもしれない。逆に、今回の事象は、主催者と近隣住民の関係性はさほどデータにならないといった場合もある。
 私は、このようなデータを主観的データといっている。付け加えるならば、主観的データを得るまでの過程はあくまで主観にもとづいているのであるが、最終的にそのデータが客観的なデータとして記述できることもあり得るであろう。そして、この主観的データというのは、私の言う客観的データよりも重要なのである。しかし、主観的(データ)と客観的(データ)の基準は決めることができないことは第4章でも書いたことだが、それは個人の認識の問題にしてもらいたい。
 さて、主観の気づきによって得ることができるデータと分析の関係はどういったものであろうか?論文における分析というのは、論文の対象をデータによって語らせた後に、それを見やすくし、そして、意味を持たせることである。あるいは、データに隠されたものを見つけだすことによって、対象に対する自分自身の問題意識を読者に提示しながら、その問題の解決の糸口を見つけていく行為とも言えるのかもしれない。私は、そのような分析の性質が、どういった主観的なデータを出しているかによって変わってくるのではないかと思っている。今の時点ではそれを厳密に説明することはできないが、おそらく、主観的なデータというのが研究者の気づき、つまりある視点によって得られてくるデータであるため、その時点で分析の視点が定まってくるのではないだろうか?
 
 6,書く
 
 さて、構成を練り、データの配置が決まったら、実際に書いてみる必要がある。しかし、この実際に書いてみるという章は、実際に書いたことがない私にはとうてい手に負える代物でない。それでは、僕の論文の書き方はいったんここでおしまいにして、続きは実際に僕が論文を書き出す時期になってからということで、次の章からはナガヤンの論文のテーマと構成について考えてみる。

 7,ナガヤンのテーマ
 ナガヤンのテーマは序章に書かれてある。当然のことだ。序章とは論文の地図にあたる。この論文はどういった地図か、その地図を使って何を見つけだすのか、そして、その地図のどこを使って見つけだすのか?言い換えると、「どういった対象を扱っているのか、その対象にたいする問題意識はなにか、問題意識に即したテーマに何を使っているのか?」である。
 ナガヤンのテーマは「この北九州市の観光ボランティアを例にとり、作られた制度の中で観光案内ボランティアをやっていく上で生じる問題や不満、そしてそれがボランティアたちにとってどう影響しているか考えたい」である。書く必要も無いことであるが、対象は「北九州市の観光案内ボランティア」である。
 さて、ナガヤンの問題意識とは一体なんだろうか?僕はこの点がよくわからなかった。問題意識とテーマは密接に繋がっている。問題意識がそのままテーマとなることもあるだろう。おそらく、ナガヤンの論文はそういった体裁を取るものであるのだと思われる。
 問題意識とテーマを分けないということは、それだけテーマが漠然としたものになりはしないだろうか?前述したように、ナガヤンのテーマは「…生じる問題や不満、…ボランティアたちにとってどう影響しているのか…」というのものである。つまり、ナガヤンは、対象である北九州の観光案内ボランティアの問題と、(北九州の)観光ボランティア制度の問題と、それらの問題によって起きる影響というのをテーマ(論点)として書いていくつもりなのだ。
 たとえ卒論だとしても、これはあまりにも範疇の広すぎるテーマではないだろうか?おそらく、ナガヤンはデータをあまりもっていないがために、テーマを広げて物語を作るという戦略に出たのであろうが、とどのつまり、それが論文を論文たらしめていない一番の原因である。
 ナガヤンはもう一度、問題意識をはっきりさせたうえで、テーマを何にするかを考える必要があるように思う。
 さて、次の章はこのテーマに沿ってナガヤンが作り出した論文(物語)の構成を考えてみる。しかし、テーマをもう一度考える必要性がある以上、現行の構成を考えることはあまり必要ではないように思う。しかし、構成によってテーマが決まる場合もあることは、第3章の「構成を練る」でも述べた。また、論文(物語)を作りだしているものは構成であり、構成が作り出すのは論文(物語)だといったことも、第2章から推測できはしないだろうか。ということから、現行の構成を改めて参照することは、どこに論文を作りしていない要素があるかを探る上で非常に重要である。
 
 8,ナガヤンの論文の構成

まず、現在のナガヤンの構成を写してみる。

 北九州市の観光案内ボランティア

 序章
第一章観光ボランティアガイドの概要
第二章北九州市観光市民大学
第三章北九州市の観光ボランティア
第一節観光ボランティアの誕生
第二節観光ボランティアをやっている人
第三節卒業期生
第四章門司港レトロ地区と観光ボランティア
第一節門司港レトロの案内方法
第二節団体客の案内
第五章北九州市観光ボランティアの4つの地区
○○○
第一節小倉地区
第二節若戸地区と八幡地区
第三節門司地区
第六章地区間の関係性
 考察・結論

といった感じだ。さて、12時頃から書き始めていつの間にか時が過ぎてしまった。いまさらながら、論文を書いたことの無い人間が厚かましくも、論文を書いた人間に対して「論文の書き方」を教えるというのは非常に可笑しいように思う。しかし、いずれ私も論文を書かなければならないならば、せめて人の論文の批評をしながら、論文のシュミレーションをしようと思ったがためにしてしまったことだ。これを傲慢として、愚考ととらえてもよい。ただ欺瞞ではないことは確かだ。

 ナガヤンへ
 添削してみましたが、まずしないといけないのは、テーマを絞り直すのと、構成を練り直すことのように思います。そうすることによって、集めないといけないデータがどさっと出てくるかもしれませんが、それは仕方のないことだと思います。
 なお、照らしあわせをするのならば返答して下さい。
それでは、卒論頑張って下さい。


[1914] Re: 僕の論文の書き方(ナガヤンへ) 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/12/20(Thu) 11:35

いろいろとありがとう(なんてぼくがお礼を言う筋合いではにのだけど)。

データーが不足しているのとテーマが見えてこないという指摘は、ぼくも感じました。テーマというのは言ってみれば論文のストーリーです。

今のままでは行政なり組織が発表した資料をつぎはぎしただけの報告書に終わってしまいそうです。

データの客観性主観性という指摘については、まあ、ちょっと違うんじゃないという感じもありますが、それはまたいずれ。

・・・客観ってなんだよ


[1897] アッタあック 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/30(Fri) 20:55

明日の10時に民研集合!山芋掘りに行きまーす。


[1898] Re: アッタあック 投稿者:SE☆ゆうき 投稿日:2001/12/02(Sun) 01:10

明日の10時に民研集合!山芋掘りに行きまーす。

朝が早い・・・まだゆうき号がきてないから高速バスしかないのよ・・・


[1890] 最初に戻ってみる。 投稿者:まさやん 投稿日:2001/11/27(Tue) 17:02


中間発表で「『意外性』の探求としての姫島盆踊り」としたのだけれど、なんだか盆踊りの目的を意外性の探求と名づけることに無理を感じてきたというか、そもそも名づけることが目的ではないのだけどなぁ、と考えていたのですが、とりあえずもう一度、フィールドに行く前の題名に戻ってみることにしました。

踊る人がみる「世界」
〜姫島盆踊りをめぐる体験的民族誌の試み〜

やはり、この題名の方がわたしのやりたいことに近いような感じがしてきました。
でも、「意外性の探求」について考えたことは意味あったのでそれはそれでよいです。
この題名にもまだ不満はあるのですが、それはまた書いていく段階で考え直せばいいということで。

姫島の人達自身が盆踊りをどんな風に捉えているか、にやはり主眼を置いて、ゆるやかな枠をどんな風に使っているか、という所を細かく記述してみようと思います。

とりあえずフィールドで体験したことから記述していきながら考えることにしようと思います。


[1892] Re: 最初に戻ってみる。 投稿者: 投稿日:2001/11/27(Tue) 22:23


踊る人がみる「世界」
〜姫島盆踊りをめぐる体験的民族誌の試み〜

姫島の人達自身が盆踊りをどんな風に捉えているか、にやはり主眼を置いて、ゆるやかな枠をどんな風に使っているか、という所を細かく記述してみようと思います。

きのう話しを聞いているときにふと思いついたのが、ノッキーの卒論ににているなということ。ノッキーの卒論のキーワードは非日常という言葉なんだけど、どぉ。もし読む余裕があったら、読んでみるといいかも。ゼミ室の論文を置いている棚にあるよ。

http://www.kitakyudai.net/~yaken


[1895] Re^2: 最初に戻ってみる。 投稿者:まさやん 投稿日:2001/11/28(Wed) 12:44

きのう話しを聞いているときにふと思いついたのが、ノッキーの卒論ににているなということ。ノッキーの卒論のキーワードは非日常という言葉なんだけど、どぉ。もし読む余裕があったら、読んでみるといいかも。ゼミ室の論文を置いている棚にあるよ。

前に1度読んだよー。非日常を作る仕掛けが崩れつつあるというところが似てるよね。ちょっと読み返してみようかな。ありがと。


[1886] ドチテ坊や 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/27(Tue) 13:45

僕の隣にドチテ坊やがやってきた。僕はサツマイモを食っている。
「どうちてお兄さんはサツマイモを食っているの?」
「それは、おいしいからだよ。」
「どうちておいしいの?」
「それは、甘いからだよ。」
「どうちて、甘いの?」
「それは、サツマイモの中にしょ糖やブドウ糖に変わる成分があって、それに人間は甘いって感じるんだよ。」
「どうちて、しょ糖やブドウ糖が甘いって感じるの?」
「ん。それは人間には味覚っていうのが人間にあって、舌の表面に味覚を感じる細胞があるからなの」
「どうちて、味覚を感じる細胞があるの?」
「んんん、それがないとおいしいと感じないと、人間食べないじゃん。」
「どうちて、おいしいと感じないと、食べないの?」
「だって、おいしくなかったら食べたくないでしょ。」
「どうちて、おいしくなかったら食べたくないの?」
「たべたくないからなの!」

ドチテ坊やを攻略する方法はあるのか!原因を延々と探るのではない答え方はあるのか!原因と結果以外に成り立つものってなんかないのか!誰か教えてくれ。


[1891] Re: ドチテ坊や 投稿者:SE☆ゆうき 投稿日:2001/11/27(Tue) 18:16

ドチテ坊やを攻略する方法はあるのか!原因を延々と探るのではない答え方はあるのか!原因と結果以外に成り立つものってなんかないのか!誰か教えてくれ。


一休さんでは「なんでいつもなんでなんでって言うの?」で勝ってたけどね。

ちなみに私は同じレベルで言い争います。ショ糖やら味覚やらなんて持ち出さず、何と言おうと食べたいから食べるの!これだけ。後はどれだけ言葉を使わずに会話をするかだな。納得する答えを求めた「どうして」と納得する答えを求めてるわけじゃない「どうして」。あぁ仕事が終わった。飲みに行こっと♪


[1894] Re^2: ドチテ坊や 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/28(Wed) 12:03

ちなみに私は同じレベルで言い争います。ショ糖やら味覚やらなんて持ち出さず、何と言おうと食べたいから食べるの!これだけ。後はどれだけ言葉を使わずに会話をするかだな。納得する答えを求めた「どうして」と納得する答えを求めてるわけじゃない「どうして」。あぁ仕事が終わった。飲みに行こっと♪

ほほう。答えを求めているわけではない「どうして」もあるのかあ。勉強になりやた。


[1889] Re: ドチテ坊や 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/27(Tue) 16:36


ドチテ坊やを攻略する方法はあるのか!原因を延々と探るのではない答え方はあるのか!原因と結果以外に成り立つものってなんかないのか!誰か教えてくれ。

つべこべいわずガキの口の中にサツマイモをつっこめば良いのだ。


[1896] Re^2: ドチテ坊や 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/11/29(Thu) 16:43

ドチテ坊やを攻略する方法はあるのか!原因を延々と探るのではない答え方はあるのか!原因と結果以外に成り立つものってなんかないのか!誰か教えてくれ。

つべこべいわずガキの口の中にサツマイモをつっこめば良いのだ。


私の前にドチテgirlが現れたとき、「どうちては3回までね。」あるいは逆に「どうちて???」をこっちが向こうが逃げるまで鸚鵡返しにしたり・・・。でも一番有効なのはまったく関係ない知識を植え付け、向こうに尊敬されてみることでしょう。

本日最後の親知らずを抜いたまつながゆうきでした。もうこれで親知らずに悩まされることはない・・・。


[1880] 卒論、就職。 投稿者:平安 投稿日:2001/11/27(Tue) 00:48

平安は最近、けっこうハードな生活を送っています。
バイト、バイトの毎日です。
やりがいのあるものなので楽しいのですが、
忙しさにまかせて以前よりもっと物を考えてません。。。

バリに行ったのは本当によかったし、また行きたいですが、
もっと別の場所にも行きたいし、
興味のあるものもたくさんありすぎで、それ以上に中途半端で、
12月なのに私は来年どんな卒論を書くのだろう?と、不安です。

そして、就職。
就職したくなーーい!
バリ行った時、平安は人の真似して「やりたいこと100」を作り、
これを全部やるために生きるんだ―とか思ってましたが、
その時の元気が日々なくなっていくような感じ。
だいちゃんになりたい・・・。


[1887] Re: 卒論、就職。 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/27(Tue) 16:28

平安は最近、けっこうハードな生活を送っています。

大介も最近けっこうハードな生活を送ってます。

そして、就職。
就職したくなーーい!
バリ行った時、平安は人の真似して「やりたいこと100」を作り、
これを全部やるために生きるんだ―とか思ってましたが、
その時の元気が日々なくなっていくような感じ。

それはいかん。」

だいちゃんになりたい・・・。

かわろかわろ、次々に襲いかかるさまざまな締め切りや事務仕事の嵐を見れば、たぶん3日でやんなるとおもうよ。こんな状態で、なんで生きていられるのか不思議なくらい。

バイトいそがくても、暇なときに彼氏といちゃいちゃできるような人生の方がいいかもよ。

いずれにせよ、このままでは死んじゃうので。はやく海外逃亡せねば。(と結論先送り)


[1893] Re^2: 卒論、就職。 投稿者:SE☆ゆうき 投稿日:2001/11/27(Tue) 22:39

平安は最近、けっこうハードな生活を送っています。

大介も最近けっこうハードな生活を送ってます。

そして、就職。
就職したくなーーい!
バリ行った時、平安は人の真似して「やりたいこと100」を作り、
これを全部やるために生きるんだ―とか思ってましたが、
その時の元気が日々なくなっていくような感じ。

それはいかん。」

だいちゃんになりたい・・・。

SE☆ゆうき社会人一年目、けっこういい生活を送ってます。
(いつまでそんなこと言えるかは知んないけどそん時はそん時考えるし☆)

平日仕事して週末そのお金でいろんなとこに行く。遊ぶ。平日も10時過ぎまで働いて残業代を稼ぐ時と、きっちり夕方会社出て遊ぶ日と様々。長期休暇が取れないのが難点で、お盆年末年始の9連休とほぼ毎月くる三連休くらいしかない。そこんとこ対策を練らねば。

かわろかわろ、次々に襲いかかるさまざまな締め切りや事務仕事の嵐を見れば、たぶん3日でやんなるとおもうよ。こんな状態で、なんで生きていられるのか不思議なくらい。

そりゃ遊びすぎ、のばしすぎ!!そんな追われる様々な事に目をつぶり続け逃げ続け、やっぱり追い詰められてまた逃げて、の繰り返しをするからこそ、遊んでるだいちゃんがいるのだろう。追い詰められてないだいちゃんは珍しいし、かんねんして片付けてるだいちゃんも珍しい。

バイトいそがくても、暇なときに彼氏といちゃいちゃできるような人生の方がいいかもよ。

いや、それはそれで他のことができなくなるぞ^_^

いずれにせよ、このままでは死んじゃうので。はやく海外逃亡せねば。(と結論先送り)

私も行きたい。うちの会社で3ヶ月間休みなしで働いた人が一ヶ月間の代休をとったらしい。う〜む。


[1884] Re: 卒論、就職。 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/27(Tue) 12:29

そして、就職。
就職したくなーーい!
バリ行った時、平安は人の真似して「やりたいこと100」を作り、
これを全部やるために生きるんだ―とか思ってましたが、
その時の元気が日々なくなっていくような感じ。
だいちゃんになりたい・・・。

どうやったらだいちゃんになれるか聞くのがいいかも。もしきいたら、僕にも教えて!


[1879] しんどい 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/11/26(Mon) 16:59


 長年の猫愛好精神を捨てなければならないかもしれない。

 拾われ猫モグと暮らしてもうすぐ一ヶ月になるが、一週間ほど前からなんと猫アレルギーを発症してしまった!

 一日中くしゃみ・鼻水・鼻づまりはおさまらず、コンタクトは無理。

 しかしかわいいモグをいまさら野良になんかできない。だってこいつは野良の素質はない。赤ちゃんのころから私の手でミルク飲ましてきたんだもの。

 里親になってくれそうな人は見つからない。日に日に私のアレルギー症状はひどくなっていく・・・。遊んであげたいけどくしゃみが出るというジレンマ。

 好きなものに対してアレルギーは起こりやすいというのは本当らしい。

 つらいことは重なるもので、今日親知らずを抜いた。おかげでうまくしゃべれない。麻酔で舌がまわらない。

    しんどいぞーー。。。

 


[1883] Re: しんどい 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/27(Tue) 12:26


 里親になってくれそうな人は見つからない。日に日に私のアレルギー症状はひどくなっていく・・・。遊んであげたいけどくしゃみが出るというジレンマ。

しょうがないから、大学の構内で飼うっていうのは?


[1878] しんどい 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/11/26(Mon) 16:59


 長年の猫愛好精神を捨てなければならないかもしれない。

 拾われ猫モグと暮らしてもうすぐ一ヶ月になるが、一週間ほど前からなんと猫アレルギーを発症してしまった!

 一日中くしゃみ・鼻水・鼻づまりはおさまらず、コンタクトは無理。

 しかしかわいいモグをいまさら野良になんかできない。だってこいつは野良の素質はない。赤ちゃんのころから私の手でミルク飲ましてきたんだもの。

 里親になってくれそうな人は見つからない。日に日に私のアレルギー症状はひどくなっていく・・・。遊んであげたいけどくしゃみが出るというジレンマ。

 好きなものに対してアレルギーは起こりやすいというのは本当らしい。

 つらいことは重なるもので、今日親知らずを抜いた。おかげでうまくしゃべれない。麻酔で舌がまわらない。

    しんどいぞーー。。。

 


[1867] ゼミ室にこもること 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/22(Thu) 08:50

今週のゼミで話したとおり、今年度中に卒論を出す予定のひとは、これから1ヶ月は「毎日」ゼミ室にこもるようにしてください。そのためのゼミ室です。3年生のひとも冷やかしにいきましょう。

適当なときにぼくの研究室にきても、こちらも飛び回ってますからそうそう相手はできません。ゼミ室にいればぼくの方からからのぞきに行きます。昨日も一昨日も3回ほどゼミ室をのぞきに行きましたが、誰もいませんでしたよ。

コンピューターについては交渉しました。使えます。とりあえず何台必要ですか?

ワタナベ君の下書き読みました。なんでこれだけしか書いてないの?今日、ゼミ室にいれば話に行きます。

以上です。


[1875] Re: ゼミ室にこもること 投稿者:ありむら 投稿日:2001/11/25(Sun) 23:40

もう会ったんだけど、DTお帰りなさい。

今週のゼミで話したとおり、今年度中に卒論を出す予定のひとは、これから1ヶ月は「毎日」ゼミ室にこもるようにしてください。そのためのゼミ室です。3年生のひとも冷やかしにいきましょう。

ここ最近ずっとゼミ室に行っていないので、(というか学校にさえ・・・)
ちょくちょく顔を出したいと思います。

明日はゼミですよね。
私は、「センスアップ講座」というのを受講しますので、
それが終わって間に合ったらゼミ室に行きます。

私信ですが、DTに借りた「夏子の酒」来週返しにいきますね。


[1871] 山芋君のイミ 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/24(Sat) 22:24

 僕はニヒルなペシミストのときがある。ニヒルなら考える全てのものは意味がないのだから考えなければ良いのに、それでは不満足なものだから、自分に意味あるものを見つけ出しては唾を吐き、そういうことをしている自分を忌み嫌う。それを何度も繰り返し、そんな自分に疲れたら、寝る。 それはそれで生き方かもしれないのだけれど、僕のは中途半端だから達が悪い。どうもどん底に落ちず、ちょっとした事ですぐに立ち直ってしまうんだもんな。ニヒルなペシミストなんていうとかっこいい響きだけれど、無気力なくせに、それに不満足な「ダメダメ君」と命名するべきだろう。
 
 一昨日、山芋アタックに行った。山芋アタックというのは、早い話、山芋堀をして食うことをいう。聞きなれない人にはおそらく「アタック」と言うと、バレーのアタックとか、クイズのアタック25ぐらいしか思いつかないだろう。しかし、竹川ゼミ生なら「アタック」という意味を知っていないと、恐らくハブにされてしまうだろうから、気をつけていたほうがいい。ゼミ生にもかかわらず、未だに「アタック」の意味を知らないならば、早く大介研究室の狩猟採集学実習(http://www.kitakyudai.net/attack/index.html)を見たほうが良いだろう。

 今回の山芋アタックは、もう少しでダメダメ君になってしまいそうだった僕によく効いた。アタックで心も身体もスッキリしたのか、今はずいぶん気分が良い。だからといって、山芋アタックがいつも「ダメダメ君解消法」になるわけではなさそうだ。というのも、僕は山芋アタックがあんまり好きではないからだ。どうも僕は採集の方には興奮を覚えないみたいだ。面白いとは思うのだけれど、山芋にかぎらず、狩猟じゃなくて採集によって得る獲物にはそれほど興奮しない。

 こう書くと、「あ、お前山芋アタック嫌いなんだろ?」というアタッカーがいるのであんまり書かないほうがいいのではないかと思うのだけれど、本音だから仕方がない。かといって、嫌いではなく、興奮を覚えないだけだから、暇があればついていく。というよりも、経験から厳密に解釈するならば、ゼミ生ならば、「アタックには、ついてイカナケレバナラナイ」だ。少なくとも、竹川ゼミと3年間付き合っている僕が言っているのだから間違えないだろう。1・2年の頃、大学内で竹川ゼミの連中にあうと、かならず連行された。実家にいる僕に「今からすぐ来い」と電話をかけてきて、早々に家を出た記憶もある。
 
 そんなこんなで僕の山芋アッタクは徐々に上達し、今では山の中で山芋の葉を判別し、蔓を辿る技術を習得するまでになった。しかし、不器用な上、あんまり好きではないから我を忘れて没頭するということもなく、途中でふっと力が抜け、山芋君を折ってしまうことがよくある。僕にとってはどうってことない事なので、「あ、折れた」ぐらいにしか思わない。しかし、他のアタッカーは「あ、折れた」ではすまないようだ。僕が一人で山芋アタックに行くことはない。当然、穴に突っ込んだ顔を出しふり返れば、掘削器が刺さった山芋君に熱い視線をむけるアタッカー達がいる。

 僕が折ったのを知って「あああ」って言って落胆するもの、またかとしたり顔のもの、笑うものさまざまだが、食えないわけではないので、すぐに自分の役割に戻っていく。しかし、山芋君が折れたことに対して、本気で落胆し、あるいは怒る人間が二人いる。僕の「あ、折れた」という声に即座に反応し、即座に激情をきたす彼らは、アタッカーDさんとYさんだ。

 アタッカーDさんとはこういう人間である。アタッカーの中のアタッカー。いつも貪欲な目で獲物を探し出し、獲物を見つけると即座に軽やかなステップで獲物に近づき、アタックするのだ。その能力には感嘆する。しかし、彼が真のアタッカーがために、僕は細い身を生かすべく、全身泥んこになりながら、穴に顔を突っ込み、山芋君を折ると怒られるという羽目になってしまうのだ。
 
 次にアタッカーYさんとはこういう人間である。今ではこの地をはなれ、遠いアフリカでフィールドワークをしている彼は、必ずしも真のアタッカーを目指すような人間ではなかったように思う。しかし、山芋アタックにかけては、真のアタッカーを目指すDさん以上だったかもしれない。あのドヨンとした目で見つめられると敵わないのだろうか、掘削器によって掘られた深い穴から、何の抵抗もせずに山芋君はでてくる。おそらく、山芋アッタクは、どこか彼の美学に共通するところがあるのかもしれない。それがために、山芋君が食えれば折れたって、潰れたっていい僕は怒られる羽目になるのだけれど。<つづく>


[1899] 自然薯 投稿者:plus 投稿日:2001/12/05(Wed) 16:38

途中で折っちゃ、いい科学者になれないぞ。
お初に御目文字します。plusです。


[1877] Re: 山芋君のイミ 投稿者:SE☆ゆうき 投稿日:2001/11/26(Mon) 15:44

 僕はニヒルなペシミストのときがある。
ニヒルなペシミストなんていうとかっこいい響きだけれど、無気力なくせに、それに不満足な「ダメダメ君」と命名するべきだろう。

 

ニヒルなペシミスト・・・どういうふうにこの言葉を解釈しているのかは知んないけど、ほんとにそういう人は自分じゃ言わないし思ってないと思うぞ。そうなりたいのか、浸りたいのかのどっちかとかなのかな。

 一昨日、山芋アタックに行った。山芋アタックというのは、早い話、山芋堀をして食うことをいう。聞きなれない人にはおそらく「アタック」と言うと、バレーのアタックとか、クイズのアタック25ぐらいしか思いつかないだろう。しかし、竹川ゼミ生なら「アタック」という意味を知っていないと、恐らくハブにされてしまうだろうから、気をつけていたほうがいい。ゼミ生にもかかわらず、未だに「アタック」の意味を知らないならば、早く大介研究室の狩猟採集学実習(http://www.kitakyudai.net/attack/index.html)を見たほうが良いだろう。

 ハブってあーた。別におててつないだ仲良しグループでもないんだから(笑)

 今回の山芋アタックは、もう少しでダメダメ君になってしまいそうだった僕によく効いた。アタックで心も身体もスッキリしたのか、今はずいぶん気分が良い。だからといって、山芋アタックがいつも「ダメダメ君解消法」になるわけではなさそうだ。というのも、僕は山芋アタックがあんまり好きではないからだ。どうも僕は採集の方には興奮を覚えないみたいだ。面白いとは思うのだけれど、山芋にかぎらず、狩猟じゃなくて採集によって得る獲物にはそれほど興奮しない。

こう書くと、「あ、お前山芋アタック嫌いなんだろ?」というアタッカーがいるのであんまり書かないほうがいいのではないかと思うのだけれど、本音だから仕方がない。

 門屋が山芋アタック嫌いだろうが、好きでなかろうがいいんじゃないの?誰もとがめたり非難したりしないし、まぁ、何かコメントがついたところでその人の考え方なんだし。私は掘るのよりも食べるほうが断然好き。別に食べれるんなら掘らなくていいし、掘らないと食べられないんなら掘るしみたいな♪

かといって、嫌いではなく、興奮を覚えないだけだから、暇があればついていく。というよりも、経験から厳密に解釈するならば、ゼミ生ならば、「アタックには、ついてイカナケレバナラナイ」だ。少なくとも、竹川ゼミと3年間付き合っている僕が言っているのだから間違えないだろう。1・2年の頃、大学内で竹川ゼミの連中にあうと、かならず連行された。実家にいる僕に「今からすぐ来い」と電話をかけてきて、早々に家を出た記憶もある。

三年・・・もうそんなになるんだぁ。門屋との出会いは軍艦島だったはず。初対面にも関わらずいろんな嘘にだまされる奴だったのぉ^@^ それにしても行きたくないなら行かなきゃいいのにと私は思うぞ。「ゼミ生だから」なんてのは馬鹿馬鹿しいこと。まぁ本人行くようなタイプじゃないのにミスマッチだったり何かがおもしろくて無理やり引きずって付き合わせたくなるようなキャラの人はいるけど、門屋はそのタイプじゃないしね。


 そんなこんなで僕の山芋アッタクは徐々に上達し、今では山の中で山芋の葉を判別し、蔓を辿る技術を習得するまでになった。しかし、不器用な上、あんまり好きではないから我を忘れて没頭するということもなく、途中でふっと力が抜け、山芋君を折ってしまうことがよくある。僕にとってはどうってことない事なので、「あ、折れた」ぐらいにしか思わない。しかし、他のアタッカーは「あ、折れた」ではすまないようだ。僕が一人で山芋アタックに行くことはない。当然、穴に突っ込んだ顔を出しふり返れば、掘削器が刺さった山芋君に熱い視線をむけるアタッカー達がいる。

 僕が折ったのを知って「あああ」って言って落胆するもの、またかとしたり顔のもの、笑うものさまざまだが、食えないわけではないので、すぐに自分の役割に戻っていく。しかし、山芋君が折れたことに対して、本気で落胆し、あるいは怒る人間が二人いる。僕の「あ、折れた」という声に即座に反応し、即座に激情をきたす彼らは、アタッカーDさんとYさんだ。

 アタッカーDさんとはこういう人間である。アタッカーの中のアタッカー。いつも貪欲な目で獲物を探し出し、獲物を見つけると即座に軽やかなステップで獲物に近づき、アタックするのだ。その能力には感嘆する。しかし、彼が真のアタッカーがために、僕は細い身を生かすべく、全身泥んこになりながら、穴に顔を突っ込み、山芋君を折ると怒られるという羽目になってしまうのだ。

軽やかなステップ!?それは間違っているぞ!見てみぃ、あのおなかを!!!!!

それがために、山芋君が食えれば折れたって、潰れたっていい僕は怒られる羽目になるのだけれど。<つづく>


私はぼきぼき折る。きっと折る。必ず折る。性格上細かい作業は私にゃむいていないし、折れても芋は芋。食べられればいい。もちろん長い芋を眺めるのも好きだけど。とか言って自分で掘ったのなんてこないだのちょっとだけだけどね☆_☆ほいでもって私なら折ったことで何と言われようが「いいんだもんねー食べれれば♪」と言うぐらいで気にもしないね。まぁ二人にとって折っちゃもったいないような山芋だったらきっと私なんかには掘らせるどころか触らせもしないに違いない・・・。あの二人ならそうするな。

 
それにしても何か門屋君の最近の文章には「ひとはこう言うだろうけど」「ひとはこう思うのかもしれないけど」「〜はこうなんでしょ」みたいなことが多くって、何だかものすごくひとの眼や捉え方を気にしてるのか決め付けてるような感じがする。あと自分と世の中(?)にラベルつけをしたがっているような感じも。「自分は弱い人間」「ニヒルななんちゃら」みたいなね。あとねー、「頑固」よりは「凝り固まってる」「強固に決め付けようとしている」って言い方のほうがあってると私は思うけど。

何かを言い切るってのは、けっこう難しいことで、的を得た端的な言い方ってのはすてきだけどいろんなことが見えてないでの一方的な端的な言い方ってのは避けたいとこ。小、中、高とあがっていくうちに何かがわかった気になって言ってた自分の言葉ってのはけっこー恥ずかしい。そのときそのときに思ったこと、考えたことって大事だけど、当時わかった気になってかっこいい気がして言ってたラベルはりみたいな発言を思い出すとあぁ若かったなぁなんて恥ずかしくなったりする(笑)

複雑なことでもちゃんとひっくるめて考えた上で自分の判断、捉え方はきちんと持っておかなくちゃとは思うけどね。

例えば「逃げてる」とか「臆病」とか「弱い人間」とか「自分探し」とか「本当の自分」とかそんな言葉が溢れてるけど、そういった言葉に一種の構え(?)っていうよりそういう言葉を使うことへのものすごい抵抗とある種の笑いを感じるようになったのはいつからだろうか。ひとさまが使う分には一向に構わないけどね。ただ何かそういうはやった言葉が持ってるような雰囲気、意味を分かった気になって(もしくは分かって)そういう言葉を使いたがったり、それで自分を表現したがるような自分は恥ずかしくて笑えるなと思うだけ。私が今までのいくつかの経験を語るのにトラウマなんて言葉は恥ずかしくて使えない。私が使ったらウマシカだ。
あ、それとは関係ないけどかつて俺はアダルトチルドレンだーって言ってた彼は元気かな☆

あれ、なんか話がずれてきたぞ^^!


とりあえず自分についてのトピックからこの山芋のことまでの門屋君の文章を読んでて思ったことをつらつらと書いてみました。
仕事中なのでまわりを気にしながら書いたので焦ってるとこもあったかも^_^ 


[1888] Re^2: 山芋君のイミ 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/27(Tue) 16:34

 僕はニヒルなペシミストのときがある。

ニヒルなペシミストなんていうとかっこいい響きだけれど、無気力なくせに、それに不満足な「ダメダメ君」と命名するべきだろう。

賛成


 ハブってあーた。別におててつないだ仲良しグループでもないんだから(笑)

賛成

 門屋が山芋アタック嫌いだろうが、好きでなかろうがいいんじゃないの?誰もとがめたり非難したりしないし、まぁ、何かコメントがついたところでその人の考え方なんだし。私は掘るのよりも食べるほうが断然好き。別に食べれるんなら掘らなくていいし、掘らないと食べられないんなら掘るしみたいな♪

賛成

かといって、嫌いではなく、興奮を覚えないだけだから、暇があればついていく。というよりも、経験から厳密に解釈するならば、ゼミ生ならば、「アタックには、ついてイカナケレバナラナイ」だ。少なくとも、竹川ゼミと3年間付き合っている僕が言っているのだから間違えないだろう。1・2年の頃、大学内で竹川ゼミの連中にあうと、かならず連行された。実家にいる僕に「今からすぐ来い」と電話をかけてきて、早々に家を出た記憶もある。

そんなことはない。自意識過剰というものだろう。門屋がいなければ他を当たるだけのことだ。誰もいなければ1人で掘る。

軽やかなステップ!?それは間違っているぞ!見てみぃ、あのおなかを!!!!!

反対。

私はぼきぼき折る。きっと折る。必ず折る。性格上細かい作業は私にゃむいていないし、折れても芋は芋。食べられればいい。もちろん長い芋を眺めるのも好きだけど。とか言って自分で掘ったのなんてこないだのちょっとだけだけどね☆_☆ほいでもって私なら折ったことで何と言われようが「いいんだもんねー食べれれば♪」と言うぐらいで気にもしないね。まぁ二人にとって折っちゃもったいないような山芋だったらきっと私なんかには掘らせるどころか触らせもしないに違いない・・・。あの二人ならそうするな。

そのとおり。われわれだって人を見る。


[1881] Re^2: 山芋君のイミ 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/27(Tue) 12:15

ニヒルなペシミスト・・・どういうふうにこの言葉を解釈しているのかは知んないけど、ほんとにそういう人は自分じゃ言わないし思ってないと思うぞ。そうなりたいのか、浸りたいのかのどっちかとかなのかな。

浸ってもいいかな(^^;

 ハブってあーた。別におててつないだ仲良しグループでもないんだから(笑)

(笑)

 門屋が山芋アタック嫌いだろうが、好きでなかろうがいいんじゃないの?誰もとがめたり非難したりしないし、まぁ、何かコメントがついたところでその人の考え方なんだし。私は掘るのよりも食べるほうが断然好き。別に食べれるんなら掘らなくていいし、掘らないと食べられないんなら掘るしみたいな♪

どっちかといったら、掘るほうが好き!長芋すって食ってもいっしょじゃん

三年・・・もうそんなになるんだぁ。門屋との出会いは軍艦島だったはず。初対面にも関わらずいろんな嘘にだまされる奴だったのぉ^@^ それにしても行きたくないなら行かなきゃいいのにと私は思うぞ。「ゼミ生だから」なんてのは馬鹿馬鹿しいこと。まぁ本人行くようなタイプじゃないのにミスマッチだったり何かがおもしろくて無理やり引きずって付き合わせたくなるようなキャラの人はいるけど、門屋はそのタイプじゃないしね。

裏の裏の裏な人はユウキさんです。

軽やかなステップ!?それは間違っているぞ!見てみぃ、あのおなかを!!!!!

はは、原動力ですね。

私はぼきぼき折る。きっと折る。必ず折る。性格上細かい作業は私にゃむいていないし、折れても芋は芋。食べられればいい。もちろん長い芋を眺めるのも好きだけど。とか言って自分で掘ったのなんてこないだのちょっとだけだけどね☆_☆ほいでもって私なら折ったことで何と言われようが「いいんだもんねー食べれれば♪」と言うぐらいで気にもしないね。まぁ二人にとって折っちゃもったいないような山芋だったらきっと私なんかには掘らせるどころか触らせもしないに違いない・・・。あの二人ならそうするな。

届かなかったら「門屋いけえ」だな。

それにしても何か門屋君の最近の文章には「ひとはこう言うだろうけど」「ひとはこう思うのかもしれないけど」「〜はこうなんでしょ」みたいなことが多くって、何だかものすごくひとの眼や捉え方を気にしてるのか決め付けてるような感じがする。あと自分と世の中(?)にラベルつけをしたがっているような感じも。「自分は弱い人間」「ニヒルななんちゃら」みたいなね。あとねー、「頑固」よりは「凝り固まってる」「強固に決め付けようとしている」って言い方のほうがあってると私は思うけど。

はあ、そう感じました。なら、ちょっとそういうところは止めて置こう。

何かを言い切るってのは、けっこう難しいことで、的を得た端的な言い方ってのはすてきだけどいろんなことが見えてないでの一方的な端的な言い方ってのは避けたいとこ。小、中、高とあがっていくうちに何かがわかった気になって言ってた自分の言葉ってのはけっこー恥ずかしい。そのときそのときに思ったこと、考えたことって大事だけど、当時わかった気になってかっこいい気がして言ってたラベルはりみたいな発言を思い出すとあぁ若かったなぁなんて恥ずかしくなったりする(笑)

そうですね。文章はありありと出てきますね。今の心情が。ありありと出てますよ、ユウキさんが!

あ、それとは関係ないけどかつて俺はアダルトチルドレンだーって言ってた彼は元気かな☆

元気そうですよ。日記みとる限りでは。

とりあえず自分についてのトピックからこの山芋のことまでの門屋君の文章を読んでて思ったことをつらつらと書いてみました。
仕事中なのでまわりを気にしながら書いたので焦ってるとこもあったかも^_^ 

どうも、どうも、先輩(^」^)


[1885] Re^3: 山芋君のイミ 投稿者:SE☆ゆうき 投稿日:2001/11/27(Tue) 13:00

ニヒルなペシミスト・・・どういうふうにこの言葉を解釈しているのかは知んないけど、ほんとにそういう人は自分じゃ言わないし思ってないと思うぞ。そうなりたいのか、浸りたいのかのどっちかとかなのかな。

浸ってもいいかな(^^;

 門屋が山芋アタック嫌いだろうが、好きでなかろうがいいんじゃないの?誰もとがめたり非難したりしないし、まぁ、何かコメントがついたところでその人の考え方なんだし。私は掘るのよりも食べるほうが断然好き。別に食べれるんなら掘らなくていいし、掘らないと食べられないんなら掘るしみたいな♪

どっちかといったら、掘るほうが好き!長芋すって食ってもいっしょじゃん

それじゃだめなの!!!おいしさが違うもんっ。だから例えばだいちゃんや門屋が掘ったのを食べさしてくれるなら応援するだけ頑張るけど、自分で掘らん奴には食べさせんと言われれば自分で掘るし、みたいな。食べられればそれでいいのよ♪

軽やかなステップ!?それは間違っているぞ!見てみぃ、あのおなかを!!!!!

はは、原動力ですね。

私はぼきぼき折る。きっと折る。必ず折る。性格上細かい作業は私にゃむいていないし、折れても芋は芋。食べられればいい。もちろん長い芋を眺めるのも好きだけど。とか言って自分で掘ったのなんてこないだのちょっとだけだけどね☆_☆ほいでもって私なら折ったことで何と言われようが「いいんだもんねー食べれれば♪」と言うぐらいで気にもしないね。まぁ二人にとって折っちゃもったいないような山芋だったらきっと私なんかには掘らせるどころか触らせもしないに違いない・・・。あの二人ならそうするな。

届かなかったら「門屋いけえ」だな。

そうよん♪♪♪使えるものはうんぬんかんぬん^0^V


はあ、そう感じました。なら、ちょっとそういうところは止めて置こう。

うんにゃ、私が思っただけだからそういうふうに思った人がいるんだくらいで後は自分のやりたいようにやってくれ(笑)




[1872] Re: 山芋君のイミ<つづき> 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/25(Sun) 00:21

 「山芋君の意味」を語る前に、一昨日(2001年11月23日)の成果を報告しておこう。結果から先に言うと、今回のアッタクは成功だった。掘った場所は若園の池の土手と、ある墓場である。場所をたやすく口外してしまうと、おそらく山芋アタッカー好きな方々に申し訳ないので控えておこう。ここは、今年初めて掘りに行ったヘイワカンノン(アタッカーは、平和観音のある山周辺をいつもこう呼ぶ)とは違い、山芋職人達に先を越されていなかった。そのため、山芋堀の季節も終わりにかかっているというのに、僕の山芋アッタク暦の中で一番の収穫だった。しかし、残念なことに、経験から厳密に解釈すれば、「お前はアタックをシテイナイ」と、他のアタッカーから言われてもやむを得ない。というのも、僕はアルバイトのため、掘った後すぐに山芋を口にする事が出来なかったからだ。言わずもがな、アタッカーならば「獲物は取ってすぐに食すべし」だ。

 さて、この投稿をお読みの方の中には、山芋アタックをしたことがなく、山芋堀さえ知らない方もおられるだろう。その中で、この時期にヘイワカンノンのとある地域が、穴だらけになっているのを確認して、不思議に思った方もおられると思う。まさか山男の仕業とか、UFOとか解釈する方はいないだろうが、山芋を掘った後とは知らない人間にとっては、結構不気味かもしれない。あと、この時期にヘイワカンノンで藪コギなどをする人は気をつけたほうが良い。落とし穴のようなトリックがないからといって侮ると、ドツボにはまってしまう。藪をこいでいったら、足の踏み場もないほどの穴があなたを待ち構えていて、身動きが取れなくなるということもありえないではない。掘削の穴が、このように群穴してしまうのは、山芋が自生しそうなところに、たいてい群棲しているためだ。だから、周囲5メートルの地面が穴だらけということもある。普通、山芋堀のマナーとして、掘った後は穴を埋めてしまうのだが、とてつもなくでかくて深いため、完全に掘る前の地面にするは難しい。何しろ山芋を獲得する為に、半径1メートル以上・深さ1.5メートル以上も地面に穴をあけるときもあるのだ。掘削には1時間以上の時間を要する時もあるから、アタッカーが力尽きて、穴を丹念に埋めなないということもある。まあ、兎に角、北九大の野球部やワンゲルなどのヘイワカンノンをトレーニングにしようしている人には気をつけて欲しい。とはいっても、藪コギなどしないだろうが。

 前置きがあまりにも長くなったような気がする。まだまだ芋掘りについては思い出があり、語ることも多いのだけれど、それでは「芋堀君のイミ」という題をつけた目的を忘れてしまうかもしれない。そろそろ、本題に入ろうと思う。<つづく>

 
  


[1873] Re^2: 山芋君のイミ<つづき> 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/25(Sun) 01:30

 本題に入ると書いたが、その前にもうすこしばかり書きたいことがある。

 それは竹川ゼミのことだ。竹川ゼミは概して、自己中心的な人が集まると言ったら語弊があるかもしれない。しかし、集団を重んじるか、それとも個人を重んじるかといえば、何も考えずに個人と答えることが出来る。竹川ゼミの感じというのは、どこかドライな感じにもかかわらず、どこか身体の芯までくると言ったらいいのかな?上手い具合に表現できないのだけれど。もしかしたら、モンゴルの大草原の風はこんな感じかもしれない。あるいは、寒風ふきすさぶアラスカのブリザードかもしれない。この感じは今のゼミにも言えるのだろうけれど、僕自身がゼミ生になった今でも、「竹川ゼミ」の感じというと、竹川ゼミの先輩達の顔が浮かぶ。

 あれは僕が入学して、5月終わりから6月の終わりぐらいだったと思う。環境系のサークルをつくる為に、大ちゃんの研究室にはじめて入ったにもかかわらず、竹川ゼミ生達とつるむようになり、そんなことは忘れてしまう。そして、その年の夏、つまり竹川ゼミの人達にあって2ヶ月後に僕は、彼らと西表島へ行くことになった。このキャンプは大ちゃんによって、「西表★生活」(http://www.human.ne.jp/~daisuke/iriomote/index.htm)と名づけられた。満点の星空の中から幾千もの流れ星を見ながらの夜は、僕には特別なものとなった。

 西表に関して言えば、もう一つ特別なものがある。僕はこの島で初めて「アバンチュール」という言葉のイミを知った。フランス語でAVENTURE(アバンチュール)は一夏の恋とか、危険な恋愛という意味でしられているが、僕がこの言葉のイミを知ったという意味とは、「冒険」だ。僕は「冒険」がしたい。植村直己とか、今でいうなら野口健とかに付けられている「冒険家」になりたいわけではないが、やはり僕のしたいことは「アバンチュール」という言葉が一番あてはまるように思う。一年の夏以来、この言葉に慣れ親しんだのだから、他の人からなんと言われようが仕方がない。「アバンチュール」は、僕にとって大切な言葉だ。

 そして、一昨日の山芋アタックで、僕はもう一つだけ特別なものを増やしてもいい、と思った。それは、「山芋君のイミ」だ。<つづく>


[1874] Re^3: 山芋君のイミ<つづき> 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/25(Sun) 02:33

 山芋君の本当の名前は自然薯(http://naha.cool.ne.jp/abusunbul/bg3-013.htm)だ。山芋君がイミを持ち出したのも、自然薯という粘っこくて真っ白な芋をはじめて掘り起こした時からだろう。
 
 夏休みがおわり、竹川ゼミ生達が思い思いを胸にフィールドから帰ってきて一段落つく頃、決まって口にする言葉がある。「イモアッタク(山芋掘り)の季節やねえ!」。町が秋の匂いに変わりだし、徐々にヘイワカンノンや足立山が色づき始める。そして、ずいぶん紅葉が深まった頃、竹川ゼミのイモアッタクの季節が始まるのだ。竹川ゼミでイモアタックが恒例行事になったのがいつなのか知らない。もしかしたら、僕が一年の頃に大学の近くにあるナフコで、3本の掘削器を購入したのを覚えているから、その時が始まりかもしれない。短いほうは一本3000円ぐらいして、長いほうはもう1000円ぐらい高かったかな?自然薯という芋を掘るからと、わけもわからずついていった僕は、たかが芋掘りになんでこんな高価な鉄の棒を購入するんだろうと思っていた。はじめてアッタクした場所は忘れてしまったが、DさんとYさんがいたことだけは覚えている。

 実のところ、山芋君がイミをもつのには、この二人が欠かせない。

 何度も言っているように、僕はあんまり山芋アタックが好きでない。好きではないというより、厳密に解釈するならば、「山芋を最後までホレナイ」だ。掘っていることに飽きるからではない。ただ、何となく山芋を完全な姿で掘り起こせないのだ。途中で折れると、「あ、折れた」と思うし、最後まで行き着けなかったら「ああ、残念」と思う。しかし、だからといってそれ以上何を思うこともなし、僕は出てきた山芋君をみて納得する。一方、DさんとYさんにとって、やはり山芋は最後の最後まで完全な形として掘り起こすことに意味を見出している。そして、僕の感情とは違った何かが彼らの山芋アタックには感じられる。それは貪欲さかもしれない、達成感かもしれない、そして美学かもしれない。何にしろ、彼らが山芋君を手にする感情と、僕が山芋君を手にする感情はどこか違うのだ。その違いをいつも感じれば感じるほど、僕の中で山芋君は大きくなっていき・・・。

 そして、今日山芋君はイミをもった。<つづく>
 


[1876] Re^4: 山芋君のイミ<つづき> 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/26(Mon) 09:48

一昨日から僕は山芋君のイミを考え始めた。山芋君のイミ、つまり、山芋君が僕に対して放つ意味を、DさんとYさんと僕の山芋君に対する接し方の違いからわかることはできないだろうか?

 対象があるとき必ずその中には意味が隠されていると見なければならない。誰に教わったのか知らないが、今の僕はそう思わないといけないという事になっている。そして、その意味が隠されているのをどうにかして見つけ出さなければならない。それも、誰に教わったのかしらないが、今の僕はそう思わないといけないことになっている。一昨日までに、ここまで山芋君はここまでのイミをもっていた。
 
 そして、ついに折尾駅のミスタードーナツで山芋君はイミをもつことになる。
  
 僕はバイトが終わると、久々に帰宅しようと思い、正午頃に民研をでた。僕の家は小倉からずいぶん遠い。距離的な遠さもさることながら、JRの連絡が悪いために帰宅するのに、遅い時には1時間半ほどかかることのせいもあるだろう。今日も連絡が悪く、僕は折尾駅でいったん降り、いつものようにミスタードーナツで本を読んで時間をつぶした。僕はいつもミスタードーナツに入る前に、近くにある白石書店で手軽な本を買う。何故だかわからないが、こういうときは、新しい本を買って読みたくなるのだ。今日は筒井康隆の『脳ミソを哲学する』という本を買って読んだ。この本は、著者である筒井康隆と、唯脳論を唱えた養老孟司や、ヒトゲノム計画に携わる中村桂子、動物行動学者の日高敏隆、数学者の森毅などの著名な人々との対談集だ。
 
 対談の中で、日高敏隆がチョムスキーについて語っているには驚いた。さらに驚くべきことに、この対談集には僕の「山芋君のイミ」を導く鍵があったのだ。

〈筒井〉 日高さんは動物行動学がご専門ですが、やはり動物の行動というのは面白いですよね。
 〈日高〉 面白いです。
 〈筒井〉 僕は研究には確固とした物語があるから面白いのだと思う。中村桂子さんも物語という言葉を使っていましたが、この言葉は使う人によって意味が違うことが多い。文壇でも、ストーリーという意味で使う人、フィクションの意味で使う人、さまざまです。ですから、対談などで「物語」など言い出したら、話がかみ合わなくてね、なんてことがよく起こるんです。この「物語」というのが登場するのは1970年代初めで、「デモクラシーという物語は終わった」という使われ方をしているのですが、この場合は、近代的理念という意味で使っているんですね。中村さんの場合は歴史という意味が含まれているようですが、日高さんの研究の場合はなんでしょうね、動物の中にある論理でしょうか?
 〈日高〉 そういう意味です。僕がストーリーというのはロジックという意味です。僕は歴史や進化といった話はなるべく抜くようにしている。関係がないというわけではありませんが、そんな話よりもロジックのほうが面白い。人間だってそうですけれど、なんであいつはあんなことしているんだろうって思うと、それなりにロジックがあるんですよ。(略)―『脳ミソを科学する』より―

 研究というのは、対象に意味づけをするものであり、その意味付けは人によって違うの
だ。僕の山芋君に対する意味づけと、DさんとYさんのそれぞれの意味づけが違うからこそ
、僕はDさんとYさんに、どこか自分と違うものを感じてしまったのだ。そして、山芋君が掘り起こされたとき、山芋君は「物語」になる。

 いつのまにか時は過ぎており、窓越しに見える外はすっかり暗くなっていた。僕はざっと
本を読み終えると、もう一度、その対談の部分をよみ、ミスタードーナツをでた。
 
 「今日はバスで帰ろう。」
 いてもたってもいられずに、僕はなぜかはやる気持ちをどこにむけていいのやら、ただ
ただバス停まで歩きつづけた。折尾からバスで帰るなど数十ヶ月ぶりだからだろうか、知ってい
いるはずの町並みがどこか違って見える。もうすぐで、大学に入って3年がすぎていこうと
しいる。大学に入り、僕の「物語」の多くは、竹川ゼミとの関わりが多く記されることにな
った。これといって強調するような出来事はないのかもしれない。けれど、今日で、僕は竹
川ゼミの関わりの中で、3つの特別なものを得ることが出来た。それは、他人にとってはど
うでもいいようなものなのだろう。けれど、西表の夜、「アバンチュール」、そして「山芋君
のイミ」は僕にとっては大切なものなのだ。

 
さて、やっと「山芋君のイミ」は終わったところだし、もうそろそろ筆を置こうかと考
えているところなんですけれど、僕は今重大なことに気がつきました。それは、まだ一昨日
掘った山芋君を食べていないのです。そして、よく考えると僕は、山芋君が僕に放つ意味
は理解したのだけれども、山芋君に対する意味づけはまだ行っていないのでした。

今、山芋君は僕のリュックの中です。そして、山芋君は僕にこうつぶやくのです。
 
「おい中途半端でニヒルなペシミスト!中途半端に終わらせないで早く意味付けし
ろ!!」

終わり


[1857] 後ろに目 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/20(Tue) 11:36

ウサギの目は視界が360度だという。前とおんなじぐらい、後ろのほうも常に見えているということなのだろうか?それだったら、ウサギは困ってしまわないのだろうか?

ウサギのウサ男はウサ子に近づきながら言う。
「俺は前に歩いているんだ?それとも後ろに歩いているんだ?」
ウサ子はこいつばかじゃないかという風な感じで言う。
「前に歩いているんじゃない!」
ウサ男はそれでは納得しない。
「足を運ぶ方向が前なのか?耳の穴の向いているほうが前なのか?足の爪先の向いているほうが前なのか?」

民研には比較文化学科の人がいる。その人と、生成文法について話していた。話していたといっても、一方的に僕が生成文法というのは何かを聞いていた。しかし、答えが出なかった。聞いた本人もよく分かっていないと言うのだからしょうがないとも思うのだけれど、どうも最近は言葉が気になりだした時分、生成文法とはなんぞや問いうが理解できればよいと思った。

生成:(1)生じること。また、生じさせること。(2)物がその状態を変化させて他の物となること。転化

文法:言語を文・語などの単位に分けて考えたとき、そこに見られる規則的な事実。また、その事実を体系化した理論。(2)文章の法 〈YAHOO)

もう何日も前なので忘れてしまったのだが、彼女は生成文法の学問とは、私たち人間にもともと備わっている言語の規則性を探り出そうとする学問なんてことを言っていたような。これを信じていいのか知らないが、生成文法とは、人間に本来生成する文法ということなのであろうか。それが正しいと仮定して、それでは、言語を文・語などの単位に分けて考えたときに、私たちはア・プリオリに備わっている文法で考えていると意識したら、生成文法という学問をすることになるのだろうか?

ウサ男の問いはどうして生まれるのだろうか?雑然とした思考の中で、ウサ男が前に歩いてウサ子に近づいているのか、後ろに歩いてウサ子に近づいているのか、それとも、ウサ子に近づいているのかを、何を使って知ったらいいのだろうと思うのだ。


[1861] Re: 後ろに目 投稿者:多くのまさまさ 投稿日:2001/11/20(Tue) 16:44


生成:(1)生じること。また、生じさせること。(2)物がその状態を変化させて他の物となること。転化

文法:言語を文・語などの単位に分けて考えたとき、そこに見られる規則的な事実。また、その事実を体系化した理論。(2)文章の法 〈YAHOO)

 これじゃ、千年考えても、行き着かないね。

 生成と言うことを、ちょっと考えてみようか。

 自然数ってどんなものか知ってるか?自然数を定義しろと言ったら、どうする?1からはじめて、全部数え上げるだろうか?モンチならそうするかも知れないが、数学者はそんなことはやらない。

 1は自然数である。

 自然数の要素には加えるという操作がある。

 加えて出来たものは、自然数である。


 1に1を加えれば2が出来て、これは、定義に従って自然数だよね。

 同様に、1000でも10000でも、どんどん作ることが出来るよね。

 これが、自然数を生成するってことだ。


 大切な点を言っておこう。要素と操作の組で、自然数が定義できたと言うこと。言語もまた、そのような性質を持ってると、チョムスキーは発見したんだ。

 今日の講義はこれでおしまい。


[1862] Re^2: 後ろに目 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/20(Tue) 19:04

 これじゃ、千年考えても、行き着かないね。

鶴になりたい。で、死ぬ。

自然数ってどんなものか知ってるか?自然数を定義しろと言ったら、どうする?1からはじめて、全部数え上げるだろうか?モンチならそうするかも知れないが、数学者はそんなことはやらない。

数学ダメ。

 1は自然数である。

 自然数の要素には加えるという操作がある。

 加えて出来たものは、自然数である。


 1に1を加えれば2が出来て、これは、定義に従って自然数だよね。

 同様に、1000でも10000でも、どんどん作ることが出来るよね。

 これが、自然数を生成するってことだ。

つまり、人間の中には、個別に1、2、3と考えているわけではなく、連続した一つの概念によって自然数をつくりだした。そして、その概念にただ、数字という記号を作ったに過ぎない。ということかな?

 大切な点を言っておこう。要素と操作の組で、自然数が定義できたと言うこと。言語もまた、そのような性質を持ってると、チョムスキーは発見したんだ。

やっぱり出てきたチョムスキー。インドネシアは辞書が引きにくい。動詞の前後に何かをつけて名詞になったり、名詞の前後に何かをつけて動詞になったりする。それは何か関係が有りそうだ。まあ、いまは考えるのやめた。

 今日の講義はこれでおしまい。

またお願いしますね。


[1851] ひとりごと日記・H 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/11/19(Mon) 15:57


 竹川さんついに帰国したんですねー。しし座流星群、曇っててみえんかったぞ。今夜は見えるかも。



 ロンドンがおもしろくないと竹川に電話で愚痴を言った次の日、私はさっそくロンドンを飛び出すためにコーチステーションに向かった。

 チケットを買い、オックスフォード行きに並んだまではよかったが、なぜかちっとも列が進まない。先頭にいる御一行がバスに乗り込んでくれない。意を決して話し掛ける。

 私「What's happen?」
 上品そうな金髪の女性が答える。
  「NON ENGLISH!」
 
 えっ?!英語だめなのーっ?金髪なのに?(これは私の偏見。)もしかして前に並んでる全員フレンチなの?

 どうやら運転手が呼びにこないので乗り込んではいけないと思っているっぽい・・・。そうこうしている間にバスは誰も乗せないまま出発してしまった。このフレンチ御一行のせいでオックスフォード行きの前には長蛇の列ができ、さすがに様子がおかしいのに気づいた次の運転手が誘導しに来てくれた。この人たち誰も英語しゃべれないのによくここまでこれたな…。

 お昼頃にオックスフォードに到着。ゆうこさんが駅まで迎えに来てくれて、サンドイッチをご馳走してくれた。私の重い荷物を引きずってようやく竹川宅に到着。なぜか表札代わりに『リトルベニス』と書いてある。紅茶を飲んでいると竹川さんのご両親、竹川本人、子供たち&文ちゃんが次々と帰宅。文ちゃんは子供たちになつかれて大変そうだ。
 
 トイレを借りて思ったことだが、イギリスの一般家庭の家にはなぜかトイレの鍵がない。シャワー室と一体化のユニット・バスだからではないと思う。Hastinghsのひとみの家はユニットではないのにやはりトイレは鍵なしだった。万が一使用中に開けられて、見られても平気な国民性なのか?もしくはトイレのドアが閉まっていたら「使用中の危険大!」で、絶対開けないルールがあるとか・・・。竹川宅のルールはやはり使用中はドアを閉め、それ以外はドアを開け放つらしい。ひとみの家は、「中に人がいる気配がする」程度の判断で大丈夫だそうだ。
シャワーボックスもなぜか狭い割には前面ガラス張りで変な開放感がある。うーん、やっぱりイギリスは謎が多い。

 


[1854] Re: ひとりごと日記・H 投稿者: 投稿日:2001/11/19(Mon) 17:41



 トイレを借りて思ったことだが、イギリスの一般家庭の家にはなぜかトイレの鍵がない。シャワー室と一体化のユニット・バスだからではないと思う。Hastinghsのひとみの家はユニットではないのにやはりトイレは鍵なしだった。万が一使用中に開けられて、見られても平気な国民性なのか?もしくはトイレのドアが閉まっていたら「使用中の危険大!」で、絶対開けないルールがあるとか・・・。竹川宅のルールはやはり使用中はドアを閉め、それ以外はドアを開け放つらしい。ひとみの家は、「中に人がいる気配がする」程度の判断で大丈夫だそうだ。
シャワーボックスもなぜか狭い割には前面ガラス張りで変な開放感がある。うーん、やっぱりイギリスは謎が多い。

ぼくもあのトイレはなんだか落ち着かなかったなぁ。
広いし、足がぶらーんぶらーんしてたし、子ども達に狙われるし。



[1852] Re: ひとりごと日記・H 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/19(Mon) 17:08

 竹川さんついに帰国したんですねー。しし座流星群、曇っててみえんかったぞ。今夜は見えるかも。

平尾台は雲ひとつない快晴
空が落ちてくるのではないかと思わせるような
すばらしい流星群の夜でした


[1864] Re^2: ひとりごと日記・H 投稿者:平安 投稿日:2001/11/20(Tue) 22:06


平尾台は雲ひとつない快晴
空が落ちてくるのではないかと思わせるような
すばらしい流星群の夜でした

昨日、友達と歩いて平尾台に向かいました。
3時間はかかるね!とか言いながら、小ビンのウィスキーとつまみを持って、空を見ながら歩いていたのですが、一つも見えませんでした。
「歩いていく気!?何考えてるの〜?」と、道を聞いたタクシーの運転手さんに言われ、しばらく一緒に星を見たりして楽しかったですが、
結局、平尾台までは行かず、長いお散歩の夜でした。
見たかったなぁ。


[1860] Re^2: ひとりごと日記・H 投稿者:SE☆ゆうき 投稿日:2001/11/20(Tue) 12:59

 竹川さんついに帰国したんですねー。しし座流星群、曇っててみえんかったぞ。今夜は見えるかも。

平尾台は雲ひとつない快晴
空が落ちてくるのではないかと思わせるような
すばらしい流星群の夜でした

 見えなかったぁぁぁぁぁっ・・・。

途中まで起きてたけど曇ってたしさっ。

 やっぱり次の日のことを考えるようじゃいかんなと思いました。


[1859] Re^2: ひとりごと日記・H 投稿者:あおいみほこ 投稿日:2001/11/20(Tue) 12:34


平尾台は雲ひとつない快晴
空が落ちてくるのではないかと思わせるような
すばらしい流星群の夜でした

いいなあ。一時間に5000個って一体どんなもんだったんでしょう。
よく、SFでワープする瞬間みたいなのかな。
昨晩のTVで見ただけでは全然見当もつかず、AM2時まで起きていなかったことを後悔しました。


[1849] テロリズムに関する講演会のレポート 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/19(Mon) 00:33

大ちゃんが帰ってきた。今日はみんなでしし座流星群をみてお祝いしているのだ。KOBO、野研の皆さーん楽しんでねえー。僕も要領よくレポートを終わらせていれば良かったものを。

さて、この前のレポートを反省に、どういう風に書くかを決める必要があるぞ。さあ、僕の興味関心から考えないとな。その前に、前提として講演会の先生が話したことに沿ったものでなければならないぞ。「歴史の見方とテロリズムの起こる原因」がキーワードだった。『イスラム世界の危機と改革』をざっと読んでいるから、イスラム世界の歴史を書いても良いな。その歴史というのは、必然的にテロリズムの起こる背景を書き出すことで、本論と考察に繋がらなければならないな。ということは、序文の書き出しは復興主義の延長に今回の原理主義が含まれているということを簡単に書く。そこから原因を探ることは歴史家の役目だ。じゃなくて僕がこのレポートでやりたいのは何だ。前提として政治過程論の授業だから、それに沿ったものでないと、見てくれないな。授業殆どいってないからわからんよう。ああ、怠け者。自分で考えるしかない。

「政治の過程を論ずること」としよう。過程というのは物事が変化・発展していく道筋〈大辞林〉だ。ものの変化・発展ではない。政治ということの変化・発展ということだ。政治が変化・発展していく道筋を論じる。論じるのだから、論じる為のたたき台が必要だ。今回では、イスラム世界のテロリズムの政治的変化と発展がたたき台だ。

まとめると、僕は、テロリズムの正しい見方を歴史を知ることによって養った上で、今日のイスラム世界のテロリズムに対する政治的問題点を、政治過程から論じるレポートを作り出さなければならないんだな。

この前の精神保健福祉のレポートを参考にして、構成を作ろう。

テロリズムの歴史的背景>序論   起
一番知りたかったこと>本論    承
一番書きたかったこと>考察    転
テロリズムに対する政策のありかたの提言>結論  結
 
さて、一番知りたかったことは何だ。あおいさんとのやり取りでなんか見えてきただろう。原則として政治過程論に沿ったもの。んんんんん。10分考えよう。

この授業の先生は政策科学を教えている先生だ。政策科学ってわけわかんねえよな。マックス・ウェバーのことを論じたことがあったな。政策科学と社会学の違いは何だ。政策科学は実践的な学問だって言ってたな。要は政策を作り出すために科学をしようとする学問のことでしょ。科学の部分は何でもいいんでしょ。社会科学だって、理科学だって、良いってことでしょ。政策というのは、A政府・政党・個人や団体などが、政治上の目標達成のための手段としてとる、特定の方法・進路〈大辞林〉だよな。政策科学を大まかなカテゴリーのなかに、政治過程論があると仮定すると、政治過程論について書く上で一番忘れてはならないことは何ぞや。よし、わかんないから、決めちゃえ。忘れてはならないこと、「過程を書くこと。」何の過程?よし、政策の過程を書くこと。ということは、政治上の目標達成のための手段の一つである政策が作り出される過程を書くこと。

ということで、一番知りたかったこと。国際政治は範囲が広すぎ。イスラム世界のことなんて知らん。身近なものでないかな?それに繋がるような。んんん。5分間考える。

いまさら知識を詰め込めない。しかし、本論では客観性を追求する必要があるだろう。簡単にデータが集まることは何だ。面白いことないか?そうだ、比喩を使うのってのはどうだ。どうせみんな出すレポートだ。みんなそれなりにやってくる。僕は怠けていた。かてっこない。違う土俵で勝つ。国際政治×イスラム世界×日本△、僕の身の周り○。身の周りの何かの現象をつかって、今日のイスラム世界のテロリズムに対する政治的問題点を、政治過程から論じる。んんん。俺が結構知っているものでなんか無いかなあ?いざこざがあるもの。あ、サークルの騒音問題なんてどうだ。

よし、対象を決める必要がある。国連=大学の学生課。アメリカ=文化会総会。テロリズム=苦情の電話をかけるAさんだ。で、焦点は文化会総会の政治だ。政治上の政策を作り出した過程=禁酒措置ができるまでの過程。

さあ、こうなると書き方が問題となるなあ。序論はあのままでいい。しかし、本論もそっくり対象化したことを書いていい。さて、考察と結論だ。考察において、一番書きたかったことに、対象化されたことを書いては筋違いになる。結論で騒音問題にたいする文化会総会の政策のあり方についての提言をしたらもってのほか。逆に難しいかなあ?

まああ、書いてみよう。今ごろしし座流星群を見に平尾台へ大ちゃん達はいっているのでしょう。



[1855] Re: テロリズムに関する講演会のレポート 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/20(Tue) 10:18

まああ、書いてみよう。今ごろしし座流星群を見に平尾台へ大ちゃん達はいっているのでしょう。


さて、これで昨日レポートを出したんです。結論から先に言うと、出せませんでした。出す期限を間違えてしまい、愕然としました。レポートのほうも、なんかちゃんとまとまんなくて、かけなくて、最後の1時間ぐらい、書きなぐったものでしたので、情けないながらも、あきらめました。ああ、最後の爪(?)が甘いというか、根本から間違っているというか、笑えます。
けれど、天使の女神は僕を見捨てませんでした。偶然にもバイトへいく途中、このレポートの課題を出した先生に会い、すんなり引き取ってくれました。これで、ちょっと悩んだ僕のレポートクンも安心して天国へいけるでしょう。

さて、さっきもいったように、よくないです。「今回の同時多発テロ〜」の前で、ピタっと筆がとまり、いちどなげだし、もう一度やろうとし、投げ出し。もう、バイトにいかないといけない時間になり、やっぱり再起し、最後の30分で「今回の同時多発テロ〜」からはじめ、何とか書きました。自分でも意味が分かっていないような気がします。が、載せるといったので、載せます。

 今回の講演のテーマは、イスラム原理主義によるテロリズムがおきる背景を、歴史的な過程を概観することによって、現実におきている出来事を正しく理解することであった。そして、講演者は、その歴史的な過程を概観することにおいて、歴史は認識や解釈の恣意性を免れないことをしっかりと認識する必要性を論じた。
 ともすると、歴史に客観的で普遍的であろうとすることが、歴史を絶対的であるものへと置換させてしまう場合がある。確かに、歴史に客観性や普遍性を追求する行為は、過去の出来事を正しく捉えようとする行為であり、そこから、現実で起きている出来事を正しく理解することにおいて非常に有用である。しかし、ある出来事に絶対性を付与することは不可能であるのに、意図的か如何にかかわらず、過去の出来事の客観性や普遍性を絶対的なものとして捉えてしまう人がいる。 また、歴史を語る人や記す人によって、歴史の客観性や普遍性が変わることを往々にして忘れられてしまい、その人の客観性や普遍性をそのまま鵜呑みにしてしまう人がいる。
 このように、歴史を絶対的なものとして認識したり、ある人の表した歴史を鵜呑みにしたりすることが、歴史に偏った認識と解釈をもたらし、現実に起きている出来事に対する正い理解を導くことも出来なくさせてしまうことがある。
 今回の同時多発テロが起きたことに関しても、歴史の認識と解釈に注意し、正しい理解を図らなければならない。イスラム原理主義がテロリズムという、恐怖手段に走らざるを得なかった原因を、歴史的過程から検討していく場合、歴史の客観性や普遍性、つまり、年代や歴史的事実に対する認識や解釈の客観性と普遍性、また、ある編纂者が表した歴史の客観性や普遍性を十分に考慮する必要がある。さらに、年代や歴史的事実といわれるものも、その真実性を疑うことを知る必要もある。同時多発テロの原因、あるいは、原理主義がテロリズムに走った原因を、歴史という手段によって説明するのことには、いつも誤謬がついてまわる。そのため、私は、歴史をもって、現行の出来事にたいする認識や解釈の客観性や普遍性を追求することには異論がある。しかし、だからといって、ある今日的な出来事にたいする認識と解釈が、その現行の事実に対する客観的で普遍的な原因を追求することにおいて、その原因がでてくるまでの歴史的過程を追う有用性がなくなるわけではない。
 では、ある歴史的事実、またはその事実に対する客観性や普遍性を懐疑的なものとして扱い、その上で、歴史から同時多発テロや原理主義のテロリズムが起きる要因として歴史的過程を見ていくとき、どういったことに注意を払わなければならないのだろうか。そもそも、前述したように歴史には恣意性を免れない要素があり、そのことが、そのまま歴史の絶対的な客観性や普遍性の欠如へと繋がるのであるが、何も絶対的な客観性や普遍性というのは歴史に限らず、全ての科学において見出すことは不可能である。ただ、歴史という過去の出来事を認識し解釈するという性質には、ある事実といわれること、およびその事実に基づいた認識や解釈の客観性や普遍性への誤謬を見つけだすことが、他の諸科学より難しい。この性質がどうやって生じるかは様々あるだろうが、歴史が現実の人間が体験、あるいは経験として歴史を認識し得ないことが一つあげられるであろう。つまり、書物や言説から得た歴史的事実の真実や誤謬を、その歴史によって見つけ出すという方法自体に既に誤謬が含まれている。というのは、何度も言うように歴史というのが恣意性を免れ得ないからである。
 さて、今回講演によって歴史的過程から今日のある出来事がおこった要因を探ることを教わったのであるが、このことは何も歴史だけに限らず、私たちが日々過ごしている中で売ることが出来る情報にも同じことが言えるであろう。同時多発テロやテロリズムの情報を、文献および、新聞・テレビ、あるいはその他のマスメディア、人々の言説から入手するとき、その情報についても恣意性を免れるものでない。つまり、出来事というものは、客観性や普遍性といったものは無く、常に認識や解釈によって事実は変わり得る。このことから、出来事を正しく理解するということは、自分の認識や解釈の正しさを追及することであろう。


[1865] 「テロリズムに関する講演会のレポート」と「不合理から生まれた不合理」について 投稿者:あおいみほこ 投稿日:2001/11/20(Tue) 22:27

「不合理から生まれた不合理」に連なる応答の中で、

>90、8 イラク軍クウェート侵攻
>91、1 湾岸戦争開始、米軍中心の多国籍軍による対イラク空爆開始

に始まり、がーっと歴史を書いてるところがあって、一体何が言いたくて書いてるのかわからなかったけど、このレポート読んでわかったよ。誰かに歴史の経過を説明してみせる時に、一つの流れを把握してもらう為に沢山の出来事が抜け落ちてしまう。時には書き手が意図的にある出来事を除いたりするかもしれない。だから、その情報を受け入れるの読者側としては、不信感を否めないってことだね。

でもね、イラク軍が進行したのも、国連が対アフガン制裁を行ったのも事実なわけ、それが事実であるということをちゃんと認識して欲しい。

門屋君はあの系譜で、「歴史には恣意性を免れない要素がある。」ってことが言いたかったのかもしれないけど、違うと思う。

あの系譜から何か恣意的なものを感じるのだとすれば、それは事実の組み合わせ方、または語り方が恣意性を免れ得ないのであって、「歴史」がそうだと決め付けるのは、少なくとも、(私が話題として取り上げてきた)この件に関しては違う。


門屋君は歴史を認識し解釈する時には誤謬がついてまわるのだと繰り返し書いているけど、例えば私が挙げたブッシュ大統領がパレスチナ国家に言及したという事は事実だね。そしてその背景に歴史的経緯を持ってきたね。さて、この歴史は誤謬?

それとも客観的?普遍的?

レポートに頻繁に出てきた、「客観的」だとか「普遍的」、それから「絶対的」だとか「誤謬」といった言葉に一部を除いて違和感を覚えました。

どうして「客観的」や「普遍的」がこの話題において要求されるのですか?そして「誤謬」だなんて話になるのですか?


私が「不合理からの〜」の所で扱ったのは事実です。そしてその事実を材料として話をすすめようとしてきた。でも、門屋君は頭ごなしに「恣意性を免れ得ない」と諦めて「歴史」に価値を見出せない。

じゃ、事実を使わずに、経緯(時間的経過、または歴史)を使わずに、一体何が言えるの?どこに行こうというの?


[1869] Re: 「テロリズムに関する講演会のレポート」と「不合理から生まれた不合理」について 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/22(Thu) 18:12

じゃ、事実を使わずに、経緯(時間的経過、または歴史)を使わずに、一体何が言えるの?どこに行こうというの?

返答になってないかもしれませんが、レスは、間違えて「不合理から生まれた不合理」に書きました。


[1870] Re^2: 「テロリズムに関する講演会のレポート」と「不合理から生まれた不合理」について 投稿者:あおいみほこ 投稿日:2001/11/23(Fri) 00:40

じゃ、事実を使わずに、経緯(時間的経過、または歴史)を使わずに、一体何が言えるの?どこに行こうというの?

返答になってないかもしれませんが、レスは、間違えて「不合理から生まれた不合理」に書きました。

時間がないので、一言だけ、
あんなんじゃ、全然答えになってませんね。理解を深める要素はありましたが。

歴史の話は、この議論で辿りつこうとしていた場所への全然途中でしかありません。

私がずっと「不合理から〜」以下の所でずっとやろうとしてきたのは、門屋君みたいなスタンスをとる人がどうしてそんな態度をとっているのかという所をはっきりさせることです。私のやり方がまずいのかどうかわかりませんが、どんな問いを投げても、門屋君の考えのベースがはっきり出てこない。しょうがないから、私の方のスタンスをちょっとぶっちゃけてみただけです。結局、あんまり意味なかったみたいだけど。


[1882] Re^3: 「テロリズムに関する講演会のレポート」と「不合理から生まれた不合理」について 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/27(Tue) 12:24

じゃ、事実を使わずに、経緯(時間的経過、または歴史)を使わずに、一体何が言えるの?どこに行こうというの?

返答になってないかもしれませんが、レスは、間違えて「不合理から生まれた不合理」に書きました。

時間がないので、一言だけ、
あんなんじゃ、全然答えになってませんね。理解を深める要素はありましたが。

歴史の話は、この議論で辿りつこうとしていた場所への全然途中でしかありません。

私がずっと「不合理から〜」以下の所でずっとやろうとしてきたのは、門屋君みたいなスタンスをとる人がどうしてそんな態度をとっているのかという所をはっきりさせることです。私のやり方がまずいのかどうかわかりませんが、どんな問いを投げても、門屋君の考えのベースがはっきり出てこない。しょうがないから、私の方のスタンスをちょっとぶっちゃけてみただけです。結局、あんまり意味なかったみたいだけど。

ちょっと、まって。終わらないで続けましょう。今度はあおいさんがたどろうとした場所を教えてください。お仕事中の合間にでも。気長にいきませんか。

前回で僕は、出来事に含まれている解釈を見つけ出しました。その点で僕のレポートを書いたことが自分のためになったと思っています。しかし、これで終わっていては、気づきだけになってしまいます。これからが、自分の出来事に対する解釈する能力を身につけていく必要があるのだと思います。
そもそも、今回の出来事に対する僕の解釈というのは、最初から興味の中にはありませんでした。しかし、今後はある出来事に対する解釈から始めたいと思います。
ということで、やっとあおいさんと議論できる土俵に上がる気になったのです。そこで、何を議論するかが問題になる。どうも、イスラム世界はややこしくて。もっと、簡単な出来事にしましょう。どうでしょう!

身近な身近なこと。それも、何かが見つけ出せそうなこと。それも、あおいさんと僕にとって身近な物事とはいったいなんでしょうね?ちょっと考えて明日トピックをあげてみます。どうぞ、付き合ってくださいまし。



[1847] 凝り固まる 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/18(Sun) 17:02

生物は特殊化ということによって環境に適応し生きてきた、と昨日のテレビでやっていた。キリンは高い枝の葉を食べる為に首を特殊化させ、ホッキョクグマは寒さに耐えるために毛皮を特殊化させた。そして、人間はどんな環境でも柔軟に適応できるために脳を特殊化させたのだという。はて、特殊化ってなんだ。どうせ、いっぱい意味があるんだろうな。一般的意味やら、哲学的意味やら、生物学的意味やら、物理学的意味やら、宗教的意味やら・・・。

特殊化:一般的・普遍的なものから特別なものにすること(一般的意味)。〈大辞林〉

だったら、特殊化した脳っていったいどういったことをすんの?
しらんから、これでおわり。じゃ書いた意味無いな。

さて、前からわからんやったんやけれど「こと」「もの」のちがいってなに?

こと:「もの」が何らかの作用・状態・関係などとして実現すること。
もの:(形のある物体を初めとして、広く人間が思考し得る対象を意味する。)物体・物品
「こと(事)」が生起・消滅する現象を表すのにたいして、「もの(物
」はその現象をになう不変な実体を想定してもちいるごである。〈大辞林〉

ということは、脳は「もの」だ。人間というのは、特殊化という「こと」をする(した)脳という「もの」をもっている生物なんだ。

脳を特殊化させる(させた)生物=他の生物より環境に柔軟に適応するもの=人間。首を特殊化させる(させた)生物=枝の高い葉をたべることに適応するもの=キリン。毛を特殊化させる(させた)生物=寒いところでも体温を保つことに適応するもの=ホッキョクグマ

さて、ここからが問題だ。僕の頭は凝り固まっているとあおいさんに言われた。僕は人間だ。みんなからそういわれている。人間であるし、今生きている人間だ。僕は特殊化させる脳を持っていないと、人間ではなくなる。僕が人間ならば、環境に柔軟に適応できる、はずだ。

あおいさんが言った‘凝り固まった'というのを、頑固ということに直す(違う意味だったらごめんなさいね)。僕は頑固。

頑固:他からの話などを聞き分けず、かたくなに自分の考えや態度などを守ること。また、そのさま。〈大辞林〉

頑固たることは、人間としてどうなのだろうか?というより、人間たらしめている僕の脳はどうなのだろうか?はああ、レポートを書くのが面倒だからといって、別のことをやってもレポートは出てこない。





[1840] 不合理から生まれた不合理 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/15(Thu) 13:37

最近の世界はテロのことばかり。一つの大事件が起こると、世のメディアは一気にその事件に傾き、ちまたの人々にお喋りネタを提供する。いったい僕らはアフガニスタンの住民よりも、この事件について知っているのではないかという思いに可笑しさを感じ、そんなことを簡単に可能にするような世界の不思議さに思いが込み上げてくるのだ。

昨日、法学部の特別講演会と称して「米国同時多発テロ再考ーイスラム平和主義から‘テロリズム’へ」という講演会があった。ちょっと前にも内の大学の先生達があつまって講演会を開いていたが、今回はイスラム世界の専門家の人が公演をした。

僕はこの講演会にいった。講演会を聞いてレポートを書くことが課題として出されたからだ。しかし、同時多発テロについて関心がないでもない。おとといになって、北部同盟がカブールに侵攻し占拠したことが新聞で報じられていた。北部同盟のカブール支配に対して、米国を中心とする国際社会がどういった態度をとるのかが気になっていた。

この講演会はご盛況だった。本館のC教室にびっしりと人が埋まった。僕と同じように、課題のためにきている学生もいるのだろうが、関心の高さが伺える。更に、法学部の特別講演会だからなのだろう、法学部の教授が大勢きていた。

ご盛況の中、学者さんの公演が延々と2時間続いた。講義という形はどうも得意ではない。この一方的にあいての考えを聞く形は、自分の考えることがどんどん溜まっていって、そのはけ口は閉ざされてしまっている。だんだん、欲求不満が溜まってきて、体が言葉に拒絶反応を起こし始める。

また、この学者さんの話というのは、「つまりは」とか「要は」というのが多かった。論理的に考えて話すからそうなのか、うまく話せないからこういう言葉を使うのかわからないが、聞いていて面白くないのはこの姓じゃなかろうかと思った。この学者さんは歴史を専門としているため、イスラム社会の歴史をいっぱい語る。

歴史的事実を知れて何も悪くないのだから、そのあとに「つまりは」とか「要は」が必ず付いている。もう、聞こえないくらいのものなのだけれど、どうしてもその言葉が気になってくる。歴史的事実に対する彼の解釈が、突然「つまりは」とか「要は」という言葉とともに、魔法のように付いてくる。僕がこの「つまりは」とか「要は」に惑わされているすきに、彼の解釈の中へと入っていしまっているよう。

大ちゃんが日本日記に「授業中に集中して聞いていると、1つや2つ先生の言っているところのおかしい部分が見つかるだろう」なんてことを書いていたのを思い出した。僕は記憶力がないので、とにかくそのことに注意しながら聞いていた。1時間がたち、2時間がたち、公演が終わった。疑問に思った点はいくつか見つかったが、おかしい部分というのは見つからなかった。そうそう、相手の言っているところがおかしい点を分析することなどできないのだろう。

ここで疑問点をいくつか上げておこう。
1.今回の同時多発テロが起こった原因を、現在という断片的な切り口だけでかたるのではなく、イスラム世界がテロを起こすまでにいたった歴史的な要因をふまえながら語る必要がある、と学者さんが言う。
ギモン テロが起こった原因のさまざまな要因が、歴史をひも解けば分かることが、何になるのだろうか?わからない。

2.学者さんは、テロというのはラベルであって、今回のテロ事件をテロというラベルを貼ったのはアメリカ側に過ぎない。テロリズムが恐怖手段ということを見過ごしてはいけないが、同時にテロリズムが名づけられているということも見過ごしてはならない。

ギモン それもわかる。だからといって、そのラベルを剥がしてしまえばいいのだろうか?わからない。

3.イスラムの教えであるタウヒード(一化思想)を可能にする世界の形が、啓蒙主義時代とともに崩れ始め、一化思想の寛容的で多元的な思想がイスラム世界からなくなってしまった。オスシデントとオリエントという二項対立的な考え方が、対話のない世界を作り出している。

ギモン いったい対話のある世界というのがどういったものか知らないけれど、ここでいう対話のある世界とは何をさしているのだろう?わからない。

4.質疑応答に入って、学者さんが返答で「テロリズムというのは、不合理から生まれた不合理なんです。」と言う。おそらく学者さんは、タリバンの考えに批判的なイスラム世界の世界の見方を言ったのだろう。

ギモン アメリカやヨーロッパからみた世界では、「テロリズムというのは、合理から生まれた不合理」となるのだろうが、テロリズムを欧米側根絶やしにすることは、前者の合理の正当性を強化するに過ぎない。ならば、この合理を不合理とするイスラム世界が前者の合理を認めることで、テロリズムはなくなるのだろうか?わからない。

歴史的事実なんて聞いたうちからどんどん記憶の中から抜け落ちていく中で、こういった疑問は不思議と残るものだ。そして、そんなことばかりが気になりだしてきたら、僕の中では講義は終了してしまい、いつのまにか学者さんの事を聞いているようで、聞いていないのだ。

この学者さんの公演は面白いとはいえなかったが、共感した部分はあった。僕はイスラム世界のことは無知に等しいのだけれど、歴史の捕らえ方やら、現実の見方などをよく考えている人なのだろう、話の節々に現実やら解釈やら客観と主観などの言葉が出てきた。その中で、なるほどと思ったことを書いておこう。

「ここに国際政治学者の方がいらっしゃるので恐縮なのですが、国際政治なんかで問題を解決しようとすることは、そのままアメリカを中心とする非イスラム世界の論理の押し付けになってしまう。だから、私は国際政治の専門家ではないが、国際政治の正義やら正当性なんかは嫌いです。」

「レジスタンスというのが民主化を求めている時は、解放闘争というのは合法的です。それにもかかわらず、パレスチナ解放戦線というのは始めテロリズムだったんですね。それが、和平合意したときにはテロリズムという言葉はどこかへ消えてしまい、アラファト議長はノーベル平和賞をもらったんです。」

「日本はオリエンタリズムという考え方にかぶれてしまっているんですね。盛んに言われるようになったオリエンタリズムというのは、オスシデント(欧米)から解釈されたものに過ぎないにも関わらず、オリエンタルである日本がその解釈に乗っかってしまうんですね。」

「私たち日本人のえるイスラム情勢というのは、間接的情報に過ぎないんですね。その事を知っていないと、イスラム世界を正しく解釈せずに否定的な捕らえ方をしている情報を鵜呑みにしてしまうんですね。」

「外交というのは無関心な聖域なんです。(笑)」

「この中にムスリムを見たことがある人はどのくらいいらっしゃるでしょうか?実は私はムスリムなんですが、ムスリムを見るのが私が始めてだという方もいらっしゃるでしょう(笑)。」ナド

最後に、この講演会で一番来てよかったと思ったのは、資料の中にこのような一説を学者さんが紹介してくれたことだ。それを、みんなに見てもらいたいので、長くなるが載せておこう。

ジャマーロッ・ディーン・アフガーニ(アサダーバーディー)
「そもそも根拠のない恐怖感(ワフム)というものは、恐怖を具体的な姿に作り上げ、固い決意を挫かせるものである。イギリスはアジア人にそのような恐怖感を抱かせ支配を行っている。しかし、彼らは自信は自分の弱さを意識しており、それを覆い隠す努力もしている。この覆いとなっているものこそがアジア人の恐怖である。もし、この覆いが取り除かれるようならば(自覚を持つならば)、アジアのわずかな動きでイギリスはたおれ、消滅するだろう。」(『固き結合』,1884年)

この人がいった恐怖というものが何を指しているかはわからないのですが、なんかいい言葉と思いました。また、レポートを書いてここに載せると思うので、その時は皆さんよろしくお願いします。








[1841] Re: 不合理から生まれた不合理 投稿者:あおいみほこ 投稿日:2001/11/15(Thu) 22:58

読んで思ったことをつらつら返答してみます。

最近の世界はテロのことばかり。一つの大事件が起こると、世のメディアは一気にその事件に傾き、ちまたの人々にお喋りネタを提供する。いったい僕らはアフガニスタンの住民よりも、この事件について知っているのではないかという思いに可笑しさを感じ、そんなことを簡単に可能にするような世界の不思議さに思いが込み上げてくるのだ。

実際はそんなに私達は知らないと思います。アフガニスタンの住民が抱える現実よりも、「スクープ」と呼ばれるようなものだけがピックアップされているばかりですから。報道からだけでは知ることは決して満たされていないことを、中村哲医師のすさまじいスケジュールの講演や、イスラム関連書物等への関心の高さが証明していると思います。知ることで満たそうとするある種の可笑しさはあるかもしれませんが。

ここで疑問点をいくつか上げておこう。
1.今回の同時多発テロが起こった原因を、現在という断片的な切り口だけでかたるのではなく、イスラム世界がテロを起こすまでにいたった歴史的な要因をふまえながら語る必要がある、と学者さんが言う。
ギモン テロが起こった原因のさまざまな要因が、歴史をひも解けば分かることが、何になるのだろうか?わからない。

NYを訪れたサウジアラビアのアルワリード王子が「パレスチナ問題」を巡る経緯にアメリカが憂慮すべきと発言したことに対して、ジュリアーに市長は「テロ被害者への配慮がない」と怒りもらったお金を返しました。こうした言動はジュリアーニ市長一人のものというよりアメリカの対応とも言える典型的さを持っていると思います。イスラムからみれば歴史認識の欠如でしょう。

それに「オリエンタリズム」の話が出てくる辺りから推測するに、西洋人による「オリエンタリズム」というものが表すような、(適切な言葉ではないかもしれませんが)歪みみたいなものが、今のアメリカのスタンスの一翼を担っている。それを理解するには歴史も理解しとく必要があるってことでしょうか。

2.学者さんは、テロというのはラベルであって、今回のテロ事件をテロというラベルを貼ったのはアメリカ側に過ぎない。テロリズムが恐怖手段ということを見過ごしてはいけないが、同時にテロリズムが名づけられているということも見過ごしてはならない。

ギモン それもわかる。だからといって、そのラベルを剥がしてしまえばいいのだろうか?わからない。

ラベリングについてはよくわかりませんが、すくなくとも、今貼られているのは「ただのラベル」にすぎないことは認識しておくべきではないですか?


3.イスラムの教えであるタウヒード(一化思想)を可能にする世界の形が、啓蒙主義時代とともに崩れ始め、一化思想の寛容的で多元的な思想がイスラム世界からなくなってしまった。オスシデントとオリエントという二項対立的な考え方が、対話のない世界を作り出している。

ギモン いったい対話のある世界というのがどういったものか知らないけれど、ここでいう対話のある世界とは何をさしているのだろう?わからない。

ここではないどこかへ。
幻かもしれなくても、ここよりはましだろうという希望。

けれど、少なくともここでは、昔のイスラムを望ましい状態と想定していますね。

4.質疑応答に入って、学者さんが返答で「テロリズムというのは、不合理から生まれた不合理なんです。」と言う。おそらく学者さんは、タリバンの考えに批判的なイスラム世界の世界の見方を言ったのだろう。

ギモン アメリカやヨーロッパからみた世界では、「テロリズムというのは、合理から生まれた不合理」となるのだろうが、テロリズムを欧米側根絶やしにすることは、前者の合理の正当性を強化するに過ぎない。ならば、この合理を不合理とするイスラム世界が前者の合理を認めることで、テロリズムはなくなるのだろうか?わからない。

不合理なのはアメリカの方でしょ?

「ここに国際政治学者の方がいらっしゃるので恐縮なのですが、国際政治なんかで問題を解決しようとすることは、そのままアメリカを中心とする非イスラム世界の論理の押し付けになってしまう。だから、私は国際政治の専門家ではないが、国際政治の正義やら正当性なんかは嫌いです。」

国際法学者は今回のことで表に出て主義主張を行わない。どうして表に出てこないのか?いや、これないのか?

最後に、この講演会で一番来てよかったと思ったのは、資料の中にこのような一説を学者さんが紹介してくれたことだ。それを、みんなに見てもらいたいので、長くなるが載せておこう。

ジャマーロッ・ディーン・アフガーニ(アサダーバーディー)
「そもそも根拠のない恐怖感(ワフム)というものは、恐怖を具体的な姿に作り上げ、固い決意を挫かせるものである。イギリスはアジア人にそのような恐怖感を抱かせ支配を行っている。しかし、彼らは自信は自分の弱さを意識しており、それを覆い隠す努力もしている。この覆いとなっているものこそがアジア人の恐怖である。もし、この覆いが取り除かれるようならば(自覚を持つならば)、アジアのわずかな動きでイギリスはたおれ、消滅するだろう。」(『固き結合』,1884年)

「アフガーニ」とついてるということは、イギリスがアフガンを攻めた頃の話でしょうか。これがどう門屋君のこころに響いたのかわからないけど、この言葉だけきりとってきたのでは色々類推を膨らませられるね。インドを威圧的に支配した大英帝国はもちろんのこと、アフガニスタンの不屈の歴史ということ、タリバンが混乱を収拾するために使用したもの、アメリカが今やっていること。


[1844] Re^2: 不合理から生まれた不合理 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/16(Fri) 15:40

実際はそんなに私達は知らないと思います。アフガニスタンの住民が抱える現実よりも、「スクープ」と呼ばれるようなものだけがピックアップされているばかりですから。報道からだけでは知ることは決して満たされていないことを、中村哲医師のすさまじいスケジュールの講演や、イスラム関連書物等への関心の高さが証明していると思います。知ることで満たそうとするある種の可笑しさはあるかもしれませんが。

ある事件において第三者としての立場で理解するとき、当事者が抱えている現実と第三者が抱えている現実の違いによって、理解するための情報や情報に対する認識の違いが、その事件への誤謬を生み出すことがあり、それにもかかわらず、僕が生きている現実ではその誤謬を判断する選択肢を持っていないのではないかという可笑しさ。そこから、この同時多発テロに関係する事件に対する僕の可笑しさが出てきているんだと思います。僕自身が彼らの現実を知ろうとする行為にはいつも誤謬が含まれているんだと思えば、僕は毎日毎日流れてくる情報に対してどう判断すればいいかわからず、さらにはこの情報さえ疑ってかかることができるんです。はあ、ならどうすりゃいいの。一番いいのは、そんなこと考えずに一応情報をしればいいのかな。

ここで疑問点をいくつか上げておこう。
1.今回の同時多発テロが起こった原因を、現在という断片的な切り口だけでかたるのではなく、イスラム世界がテロを起こすまでにいたった歴史的な要因をふまえながら語る必要がある、と学者さんが言う。
ギモン テロが起こった原因のさまざまな要因が、歴史をひも解けば分かることが、何になるのだろうか?わからない。

NYを訪れたサウジアラビアのアルワリード王子が「パレスチナ問題」を巡る経緯にアメリカが憂慮すべきと発言したことに対して、ジュリアーに市長は「テロ被害者への配慮がない」と怒りもらったお金を返しました。こうした言動はジュリアーニ市長一人のものというよりアメリカの対応とも言える典型的さを持っていると思います。イスラムからみれば歴史認識の欠如でしょう。

高校の歴史の教科書にジハードは聖戦と訳されていました。その聖戦というのは、イスラム教徒が迫害されたり、布教を妨害されたりした場合に、武力に訴えることでした。僕の中では、聖戦というのはどんなに宗教的な理念があろうとも、それは武力行使でした。その聖戦という名のもとに行われた行為もやはり武力です。聖戦を掲げたイスラム教徒、それに対抗するXの聖戦に対する歴史認識は同じだと思っていました。
しかし、イスラム法典にのってあるジハードを厳密に解釈するならば、「それらの事態が起こったことに対する努力」であるので、聖戦というのは努力した過程であり結果である、と先生は言います。
では、聖戦という名づけられた今回の同時多発テロを起こしたタリバンの歴史認識と、テロリズムと名づけたアメリカの歴史認識と、第三者と名づけた僕の歴史認識の違いを埋めることなく歴史を解釈することは、テロリズムを解決するという一つの理由においては、そんなに重要ではないように思いました。

それに「オリエンタリズム」の話が出てくる辺りから推測するに、西洋人による「オリエンタリズム」というものが表すような、(適切な言葉ではないかもしれませんが)歪みみたいなものが、今のアメリカのスタンスの一翼を担っている。それを理解するには歴史も理解しとく必要があるってことでしょうか。

僕はサイードの『オリエンタリズム』を読んだことないのですが、今回の公演の資料として、この本が引用されていました。オリエントと呼ばれている中東とアジアが、欧米によってどのような形で認識されていたかを、さまざまな人の言説や文学を引用しながら書いているようです。日本がサイードを始め欧米人が記したオリエンタリズムにのっかっていることを批判したのか、それとも日本のオリエントに対する認識が欧米と似通っていることを批判したのか真偽のほどは分かりません。それとも、先生はオクシデント(前のでお寿司デントと書いてしまっていました。すいません。)とオリエントという二項対立的な見方にメスを入れたかったのかなあ、と思いました。

3.イスラムの教えであるタウヒード(一化思想)を可能にする世界の形が、啓蒙主義時代とともに崩れ始め、一化思想の寛容で多元的な思想がイスラム世界からなくなってしまった。オスシデントとオリエントという二項対立的な考え方が、対話のない世界を作り出している。

ギモン いったい対話のある世界というのがどういったものか知らないけれど、ここでいう対話のある世界とは何をさしているのだろう?わからない。

ここではないどこかへ。
幻かもしれなくても、ここよりはましだろうという希望。
けれど、少なくともここでは、昔のイスラムを望ましい状態と想定していますね。

でしょうね。
ここで先生は、武力行使に出るのではなく対話によって解決することを説き、対話という形を取り得なくなったイスラム世界を含む今の情勢を批判したのだと思うのです。ただ、先生の対話が成立したとしても、今の国際政治においては、前提としてイスラム世界の方がアメリカを中心とする民主主義の世界に譲歩する必要があるように思うのです。そこから、イスラム社会の多元的で寛容な世界を取り戻すことはできるのでしょうか?
民主主義というのはイスラムの信仰と相反するそうです。僕はイスラム教がどういうものか知らなかったのですが、今回の先生が言うには、イスラム世界の人々はイスラム教に絶対服従という形を取る必要があるそうです。また、イスラム教は政教一致のため、政治もイスラム教にしたがって行われています。そのような土地に民主主義は根づかないのでしょうね。
たしかに、欧米が啓蒙主義に入る以前、イスラム世界はイスラム教の寛容で多元的な世界観により、今日の二項対立的な政治は行っていなかったそうですし、異教徒に対しても人頭税を払うという形によってイスラム世界に住む権利を認めていました。しかし、そんな状態は原則としてカリフ制が可能にしていた絶対的な指導者が必要です。
その絶対さというのは、世界のグローバリズムやアメリカ化に反している。そんな気がします。

4.質疑応答に入って、学者さんが返答で「テロリズムというのは、不合理から生まれた不合理なんです。」と言う。おそらく学者さんは、タリバンの考えに批判的なイスラム世界の世界の見方を言ったのだろう。

ギモン アメリカやヨーロッパからみた世界では、「テロリズムというのは、合理から生まれた不合理」となるのだろうが、テロリズムを欧米側根絶やしにすることは、前者の合理の正当性を強化するに過ぎない。ならば、この合理を不合理とするイスラム世界が前者の合理を認めることで、テロリズムはなくなるのだろうか?わからない。

不合理なのはアメリカの方でしょ?

いえ、アメリカやヨーロッパは現在ある社会を形成してきた思想の理念や理論を不合理だとはいいたくないでしょう。しかし、イスラム世界のイスラム経典を厳密に指示する人にとっては、今の社会は不合理によって生まれたものでしかない。ただ、今回のテロリズムは、イスラム法典にのっとった事とするムスリムもいるし、しないムスリムもいるでしょう。

国際法学者は今回のことで表に出て主義主張を行わない。どうして表に出てこないのか?いや、これないのか?

戦争かどうかって言うことが関係しているんですかね?

ジャマーロッ・ディーン・アフガーニ(アサダーバーディー)
「そもそも根拠のない恐怖感(ワフム)というものは、恐怖を具体的な姿に作り上げ、固い決意を挫かせるものである。イギリスはアジア人にそのような恐怖感を抱かせ支配を行っている。しかし、彼らは自信は自分の弱さを意識しており、それを覆い隠す努力もしている。この覆いとなっているものこそがアジア人の恐怖である。もし、この覆いが取り除かれるようならば(自覚を持つならば)、アジアのわずかな動きでイギリスはたおれ、消滅するだろう。」(『固き結合』,1884年)

「アフガーニ」とついてるということは、イギリスがアフガンを攻めた頃の話でしょうか。これがどう門屋君のこころに響いたのかわからないけど、この言葉だけきりとってきたのでは色々類推を膨らませられるね。インドを威圧的に支配した大英帝国はもちろんのこと、アフガニスタンの不屈の歴史ということ、タリバンが混乱を収拾するために使用したもの、アメリカが今やっていること。

よく知りません。ただ、この人はアフガニスタンという考え方があまり浸透していなかった時代に、あえて自分の名前にアフガーニとつけた、と言っていました。この人の言葉の意味が知りたいというよりも、なんとなくいっていることに共感を覚えただけです。


[1845] Re^3: 不合理から生まれた不合理 投稿者:あおいみほこ 投稿日:2001/11/17(Sat) 22:22

ある事件において第三者としての立場で理解するとき、当事者が抱えている現実と第三者が抱えている現実の違いによって、理解するための情報や情報に対する認識の違いが、その事件への誤謬を生み出すことがあり、それにもかかわらず、僕が生きている現実ではその誤謬を判断する選択肢を持っていないのではないかという可笑しさ。そこから、この同時多発テロに関係する事件に対する僕の可笑しさが出てきているんだと思います。僕自身が彼らの現実を知ろうとする行為にはいつも誤謬が含まれているんだと思えば、僕は毎日毎日流れてくる情報に対してどう判断すればいいかわからず、さらにはこの情報さえ疑ってかかることができるんです。はあ、ならどうすりゃいいの。一番いいのは、そんなこと考えずに一応情報をしればいいのかな。

それはこの話に限ったことじゃなくて、門屋君のスタンスそのものに関わってくる問題ですね。私にはどうも答えられないレベルです。

NYを訪れたサウジアラビアのアルワリード王子が「パレスチナ問題」を巡る経緯にアメリカが憂慮すべきと発言したことに対して、ジュリアーに市長は「テロ被害者への配慮がない」と怒りもらったお金を返しました。こうした言動はジュリアーニ市長一人のものというよりアメリカの対応とも言える典型的さを持っていると思います。イスラムからみれば歴史認識の欠如でしょう。

聖戦という名づけられた今回の同時多発テロを起こしたタリバンの歴史認識と、テロリズムと名づけたアメリカの歴史認識と、第三者と名づけた僕の歴史認識の違いを埋めることなく歴史を解釈することは、テロリズムを解決するという一つの理由においては、そんなに重要ではないように思いました。

「違いを埋めることなく歴史を解釈する」というのが何を想定してるのかわかりません。
解釈の違いこそが歴史認識の違いを生み出します(解釈の違いをすこしでもすりよせることしか現実にはできないでしょう)。歴史を知るべきだと言うのは、その解釈の違いを生み出した背景を知るべきだということです。
米国の政策によって被害が放置されてきたパレスティナという経緯(歴史)がもたらした結果(アメリカ敵視のテロ)を、断固として排除してみせたジュリアーニ市長の姿を見て、おかしいとは思いませんか?

また、「テロリズムを解決する」という言葉に違和感を覚える私には「テロリズムを解決する」と門屋君が言う時に想定しているものがよくわかりません。

ちなみに同時多発テロを起こしたのはタリバンではありません。タリバンは9月11日、アフガン・イスラム通信を通して、テロを非難する声明を出しています。誤解しないで下さい。


先生は、武力行使に出るのではなく対話によって解決することを説き、対話という形を取り得なくなったイスラム世界を含む今の情勢を批判したのだと思うのです。ただ、先生の対話が成立したとしても、今の国際政治においては、前提としてイスラム世界の方がアメリカを中心とする民主主義の世界に譲歩する必要があるように思うのです。そこから、イスラム社会の多元的で寛容な世界を取り戻すことはできるのでしょうか?

何故イスラム世界だけが譲歩しなければならないと思うのですか?

民主主義というのはイスラムの信仰と相反するそうです。僕はイスラム教がどういうものか知らなかったのですが、今回の先生が言うには、イスラム世界の人々はイスラム教に絶対服従という形を取る必要があるそうです。また、イスラム教は政教一致のため、政治もイスラム教にしたがって行われています。そのような土地に民主主義は根づかないのでしょうね。

「民主主義はムスリムには根づかない」なんて話を講演でその人は行ったのですか?

たしかに、欧米が啓蒙主義に入る以前、イスラム世界はイスラム教の寛容で多元的な世界観により、今日の二項対立的な政治は行っていなかったそうですし、異教徒に対しても人頭税を払うという形によってイスラム世界に住む権利を認めていました。しかし、そんな状態は原則としてカリフ制が可能にしていた絶対的な指導者が必要です。
その絶対さというのは、世界のグローバリズムやアメリカ化に反している。そんな気がします。

カリフ制じゃなくても可能でしょう。ここで門屋君が「グローバリズム」と「アメリカ化」を並列に書いているように、今はアメリカという「絶対的指導者」がいます。アメリカは「絶対さ」には抗議しないでしょうが、他の「指導者」を受け入れることはできないでしょうね。

ギモン アメリカやヨーロッパからみた世界では、「テロリズムというのは、合理から生まれた不合理」となるのだろうが、テロリズムを欧米側根絶やしにすることは、前者の合理の正当性を強化するに過ぎない。ならば、この合理を不合理とするイスラム世界が前者の合理を認めることで、テロリズムはなくなるのだろうか?わからない。

不合理なのはアメリカの方でしょ?

いえ、アメリカやヨーロッパは現在ある社会を形成してきた思想の理念や理論を不合理だとはいいたくないでしょう。しかし、イスラム世界のイスラム経典を厳密に指示する人にとっては、今の社会は不合理によって生まれたものでしかない。ただ、今回のテロリズムは、イスラム法典にのっとった事とするムスリムもいるし、しないムスリムもいるでしょう。

すみません、門屋君のイメージをよく理解できなかったのですが、私が茶化して言いたかったのは、あの事件が起きるまで米国のとっていた「ユニテラリズム」が象徴する、不合理というか、わがまま勝手さ。それがアルカイダを生み、アメリカ敵視をスローガンとしたテロを実行可能にしているのを知ってる?ということです。

国際法学者は今回のことで表に出て主義主張を行わない。どうして表に出てこないのか?いや、これないのか?

戦争かどうかって言うことが関係しているんですかね?

そうかもしれないし、国際法の成立からこれまでの歴史というのが関わってくるかもしれません。そこらへんは、せっかく、大学にいるのだから、直接聞いてみて欲しいなあ・・・なんて。

ジャマーロッ・ディーン・アフガーニ(アサダーバーディー)
「そもそも根拠のない恐怖感(ワフム)というものは、恐怖を具体的な姿に作り上げ、固い決意を挫かせるものである。イギリスはアジア人にそのような恐怖感を抱かせ支配を行っている。しかし、彼らは自信は自分の弱さを意識しており、それを覆い隠す努力もしている。この覆いとなっているものこそがアジア人の恐怖である。もし、この覆いが取り除かれるようならば(自覚を持つならば)、アジアのわずかな動きでイギリスはたおれ、消滅するだろう。」(『固き結合』,1884年)

この人の言葉の意味が知りたいというよりも、なんとなくいっていることに共感を覚えただけです。

じゃあ共感を覚えたのは恐怖ということ?いや、弱さのとこかな?

僕はサイードの『オリエンタリズム』を読んだことないのですが、今回の公演の資料として、この本が引用されていました。オリエントと呼ばれている中東とアジアが、欧米によってどのような形で認識されていたかを、さまざまな人の言説や文学を引用しながら書いているようです。日本がサイードを始め欧米人が記したオリエンタリズムにのっかっていることを批判したのか、それとも日本のオリエントに対する認識が欧米と似通っていることを批判したのか真偽のほどは分かりません。それとも、先生はオクシデント(前のでお寿司デントと書いてしまっていました。すいません。)とオリエントという二項対立的な見方にメスを入れたかったのかなあ、と思いました。

『オリエンタリズム』はあんまり安易な紹介をしたくない本ですが、凝り固まってる門屋君には読んで欲しい本だと思っています。


[1846] Re^4: 不合理から生まれた不合理 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/18(Sun) 14:39

それはこの話に限ったことゃなくて、門屋君のスタンスそのものに関わってくる問題ですね。私にはどうも答えられないレベルです。

どうでしょうか?たしかに、スタンスがあれば楽ですよね。けどまだ無いです。

聖戦という名づけられた今回の同時多発テロを起こしたタリバンの歴史認識と、テロリズムと名づけたアメリカの歴史認識と、第三者と名づけた僕の歴史認識の違いを埋めることなく歴史を解釈することは、テロリズムを解決するという一つの理由においては、そんなに重要ではないように思いました。

「違いを埋めることなく歴史を解釈する」というのが何を想定してるのかわかりません。
解釈の違いこそが歴史認識の違いを生み出します(解釈の違いをすこしでもすりよせることしか現実にはできないでしょう)。歴史を知るべきだと言うのは、その解釈の違いを生み出した背景を知るべきだということです。
米国の政策によって被害が放置されてきたパレスティナという経緯(歴史)がもたらした結果(アメリカ敵視のテロ)を、断固として排除してみせたジュリアーニ市長の姿を見て、おかしいとは思いませんか?

また、「テロリズムを解決する」という言葉に違和感を覚える私には「テロリズムを解決する」と門屋君が言う時に想定しているものがよくわかりません。

まず断っておかなければならないのは、僕は問題を検討する一つの方法とて、ずっと過去にさかのぼる必要性に重要さを認めていないわけではありません。今回の講演会で歴史を知らなければテロリズムが起こった原因を偏った見方で考えてしまう、というのはわかります。同時多発テロを起こした人物の心情がどういった歴史によって形成されてきたかを知ることも必要です。しかし、ただ現行での解決策として歴史をひも解いては、人間は策を見出せず遅ればせになってしまうように思うのです。憲法9条が解釈論ばかりになってしまうのもそのためではないかと思うのです。


ちなみに同時多発テロを起こしたのはタリバンではありません。タリバンは9月11日、アフガン・イスラム通信を通して、テロを非難する声明を出しています。誤解しないで下さい。

そうなんですか?アルカイダをかくまっているタリバンは、今回の同時多発テロを認めたとてっきり思っていました。


何故イスラム世界だけが譲歩しなければならないと思うのですか?

そういうご時世ではありませんか?だからどうしたっていうわけですけど。

「民主主義はムスリムには根づかない」なんて話を講演でその人は行ったのですか?

断定はしていませんでしたね。根付きにくいと。やはり、それも歴史的な経緯があるようです。
イスラム改革の先駆的なものの一つに、預言者ムハンマド時代をイスラムの原点とし、それ以降、イスラム教えにまぎれこんだすべてをビドア(逸脱)として排斥し、預言者時代の純粋なイスラムに帰ることを理念としたものがあります。18世紀の前半、ムハンマド・ブン・アブドルワッハーブがおこなったこの政治運動は、イスラムの教えを、西洋列強によって衰退するイスラム世界の現実にあわせようとするのではなく、イスラムの教えに現実をあわせようとしたものでした。このような、復興主義は時代や地域によって差こそあれ、今でもイスラム世界に息づいています。タリバンは原理主義ですが、アカデミックな場ではそのような主義はないそうです。ただ復興主義の一部として見て取ることは出来るのではないでしょうか(私見)。

近代よってそれまで可能にしていたような宗教的共同体(ミッラ)がくずれても、未だにイスラム世界の人々の中にイスラムを社会の規範としたいという思いは、国家という概念を明確に持つ民主主義の国々には届かないのでしょう。

カリフ制じゃなくても可能でしょう。ここで門屋君が「グローバリズム」と「アメリカ化」を並列に書いているように、今はアメリカという「絶対的指導者」がいます。アメリカは「絶対さ」には抗議しないでしょうが、他の「指導者」を受け入れることはできないでしょうね。
すみません、門屋君のイメージをよく理解できなかったのですが、私が茶化して言いたかったのは、あの事件が起きるまで米国のとっていた「ユニテラリズム」が象徴する、不合理というか、わがまま勝手さ。それがアルカイダを生み、アメリカ敵視をスローガンとしたテロを実行可能にしているのを知ってる?ということです。

それは十分承知ですけれど、それをもって、アメリカが行った制裁を批難することには、もうみんなが飽き飽きしているんでしょうね。


そうかもしれないし、国際法の成立からこれまでの歴史というのが関わってくるかもしれません。そこらへんは、せっかく、大学にいるのだから、直接聞いてみて欲しいなあ・・・なんて。

まあ、レポートだせば僕の興味一気に落ちるからどうかな?

ジャマーロッ・ディーン・アフガーニ(アサダーバーディー)
「そもそも根拠のない恐怖感(ワフム)というものは、恐怖を具体的な姿に作り上げ、固い決意を挫かせるものである。イギリスはアジア人にそのような恐怖感を抱かせ支配を行っている。しかし、彼らは自信は自分の弱さを意識しており、それを覆い隠す努力もしている。この覆いとなっているものこそがアジア人の恐怖である。もし、この覆いが取り除かれるようならば(自覚を持つならば)、アジアのわずかな動きでイギリスはたおれ、消滅するだろう。」(『固き結合』,1884年)

この人の言葉の意味が知りたいというよりも、なんとなくいっていることに共感を覚えただけです。

じゃあ共感を覚えたのは恐怖ということ?いや、弱さのとこかな?

どこというより、全体じゃないかな。


[1848] Re^5: 不合理から生まれた不合理 投稿者:あおいみほこ 投稿日:2001/11/19(Mon) 00:31

同時多発テロを起こした人物の心情がどういった歴史によって形成されてきたかを知ることも必要です。しかし、ただ現行での解決策として歴史をひも解いては、人間は策を見出せず遅ればせになってしまうように思うのです。憲法9条が解釈論ばかりになってしまうのもそのためではないかと思うのです。

自分がここ何十年かの間にやってきたこと(別に何百年前のことを振り返るわけではありません)に応じて、アメリカ敵視が現に起きているということを把握した上で戦略をたてる事は可能です。それによって味方を増やせるわけですから、アメリカにとって非常に重要な策の一つでしょう。

そういえば、「国家としてのパレスティナ」に言及するという譲歩をブッシュがアメリカ大統領として初めて行ったことで、イスラエル激怒という場面もありました。

歴史というか、経緯を把握することは、戦略上、重要なことだってあるでしょう。大国がその土地の歴史(民族対立の歴史とか)を巧妙に利用して戦争を進めるようにね。

歴史の把握は結構、戦争とかでは役にたってたりするわけです。と、まあ歴史把握の戦略的重要性を書いてみても、多分、門屋君が抱えてる「解決」への焦りは解消しないでしょうね。解決することが「遅ればせになってしまう」ことを、どうしてそんなに気にかけるのですか?

ちなみに同時多発テロを起こしたのはタリバンではありません。タリバンは9月11日、アフガン・イスラム通信を通して、テロを非難する声明を出しています。誤解しないで下さい。

そうなんですか?アルカイダをかくまっているタリバンは、今回の同時多発テロを認めたとてっきり思っていました。

ビンラーディンはタリバンの支配地域に客人として存在していただけです。
もしかして、タリバン=悪だと思ってます?

何故イスラム世界だけが譲歩しなければならないと思うのですか?

そういうご時世ではありませんか?だからどうしたっていうわけですけど。

そういう御時世ねえ。同意を求められても、よく分からないので説明してもらえませんか。

すみません、門屋君のイメージをよく理解できなかったのですが、私が茶化して言いたかったのは、あの事件が起きるまで米国のとっていた「ユニテラリズム」が象徴する、不合理というか、わがまま勝手さ。それがアルカイダを生み、アメリカ敵視をスローガンとしたテロを実行可能にしているのを知ってる?ということです。

それは十分承知ですけれど、それをもって、アメリカが行った制裁を批難することには、もうみんなが飽き飽きしているんでしょうね。

?みんなって誰?どうして飽き飽きしてるの(「解決」への焦りと繋がってきそうだけど)?

近代よってそれまで可能にしていたような宗教的共同体(ミッラ)がくずれても、未だにイスラム世界の人々の中にイスラムを社会の規範としたいという思いは、国家という概念を明確に持つ民主主義の国々には届かないのでしょう。

?イスラムを規範としたいけど、彼らを民主主義の国々は認めてくれないだろうってこと?

今、アメリカなどのメディアに、「帝国主義こそが解決策」、「テロリズム対策の決定打は植民地主義」なんて論調が出ています。民主主義には『』を付けといた方がいいかもね。


[1853] Re^6: 不合理から生まれた不合理 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/19(Mon) 17:16

あおいみほこ、このごろ切れ味鋭いね(昔から?)。
とっても興味深く読んでます。

議論を投げることなく、がんばれ門屋。
このままでは先へは進めないぞ。


[1856] Re^7: 不合理から生まれた不合理 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/20(Tue) 10:50

あおいみほこ、このごろ切れ味鋭いね(昔から?)。
とっても興味深く読んでます。

議論を投げることなく、がんばれ門屋。
このままでは先へは進めないぞ。

そうだなあ、絶対進めないなあ、このままでは。


[1858] Re^8: 不合理から生まれた不合理 投稿者:あおいみほこ 投稿日:2001/11/20(Tue) 12:29

あおいみほこ、このごろ切れ味鋭いね(昔から?)。
とっても興味深く読んでます。

議論を投げることなく、がんばれ門屋。
このままでは先へは進めないぞ。

そうだなあ、絶対進めないなあ、このままでは。

面白いと思ってもらえるのは嬉しいけど、他の人も、横からつっこんで欲しいと思っています。
ただ、昨日は一生懸命堀を埋めようとして、言葉を投げても、堂堂巡りに陥る様相を見せてきたので、そろそろ私の方が諦めようかと思っていました。でも、門屋君のレポートでちょっとクリアーになった部分があるので、そこらへんから続けようかと思っています。


[1863] Re^9: 不合理から生まれた不合理 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/20(Tue) 19:06

面白いと思ってもらえるのは嬉しいけど、他の人も、横からつっこんで欲しいと思っています。
ただ、昨日は一生懸命堀を埋めようとして、言葉を投げても、堂堂巡りに陥る様相を見せてきたので、そろそろ私の方が諦めようかと思っていました。でも、門屋君のレポートでちょっとクリアーになった部分があるので、そこらへんから続けようかと思っています。

そうしましょう。もう一度あのレポートわかりやすくできないか考えてみます。そのあと、また議論しましょう。


[1866] Re^10: 不合理から生まれた不合理 投稿者:あおいみほこ 投稿日:2001/11/20(Tue) 22:30

面白いと思ってもらえるのは嬉しいけど、他の人も、横からつっこんで欲しいと思っています。
ただ、昨日は一生懸命堀を埋めようとして、言葉を投げても、堂堂巡りに陥る様相を見せてきたので、そろそろ私の方が諦めようかと思っていました。でも、門屋君のレポートでちょっとクリアーになった部分があるので、そこらへんから続けようかと思っています。

そうしましょう。もう一度あのレポートわかりやすくできないか考えてみます。そのあと、また議論しましょう。

とりあえず、現時点のレポートから思ったことはちょっと書きました。それでもまだ、門屋君のスタンスがどこにあるのか、明確に掴めてないかもしれません。もっと、門屋君に近い言葉でレポートを書き直してもらえれば、それはそれで助かります。


[1868] Re^11: 不合理から生まれた不合理 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/22(Thu) 12:42

とりあえず、現時点のレポートから思ったことはちょっと書きました。それでもまだ、門屋君のスタンスがどこにあるのか、明確に掴めてないかもしれません。もっと、門屋君に近い言葉でレポートを書き直してもらえれば、それはそれで助かります。

このままでは、あおいさんの言うように、お互いが自分の主張をしあう事になりかねないでしょう。僕の興味とあおいさんの興味が全く違うのであれば、妥当なテーマを提示しましょう。また、テーマに沿って議論したとしても、結局は厳密に言葉の定義を厳密にして、双方の溝が出来ないように出来るかぎり気をつけましょう。それでは、僕の興味をかき出してみます。なお、その興味が歴史からはなれる事もありえるやも知れないので、ご了承くださいね。と、これはあくまで自分のために書いているから、妙に幼稚な説明に怒らないで下さい。

歴史への問い
「歴史」という言葉を聞いて思い出すのは、生態人類学会だ。学会の発表は面白くなかったが、飲み会は面白かった。その中で、学者さんたちが、歴史について話していた。その話の内容を覚えている訳ではないが、「歴史なんかしてんのか、お前!」と、ある学者が別の学者に罵倒を浴びせていた。

人類学と僕
いまだに人類学の入り口にも差し掛かっちゃいない僕。けれど、人類学が気になる僕。あの罵倒を浴びせた意味が分かっちゃいない僕。人類学ファンの立場から歴史を語りたい僕。

歴史と人類学
「歴史を語るというのは一体どういう事なのだろう?」そして、「人類学者とはどのように歴史をかたるのだろう?」。この疑問を解決するには、大前提として「歴史とは何か?」「人類学者とは何か?」という問いに答えなければなりません。この解決は遠い先のことでしょうから、一旦忘れておきます。

今の出来事と昔の出来事
歴史というのは、人間社会が時間とともに変わってきた過程であり、その中の出来事です。過程とは、物事が変化・発展していく道筋のことです。ある出来事は、その道筋のなかにすべて含まれているということです。また、時間というのを、今と昔と断続せずに連続してかんがえるならば、未来を除いて、今までの道筋のなかで起こった全ての出来事を「歴史」と名づけても良いことになります。ということで、毎日毎日送られてくる新聞の記事に書かれている出来事やテレビのアナウンサーがいう出来事にすべて「歴史」という言葉をつけることにします。
さて、今回の公演は、同時多発テロの出来事、つまり同時多発テロの歴史の原因を、昔の出来事から見つけ出すことを強調しました。それは、講演が、見つけ出した原因は、同時多発テロという結果の原因だということを言いたかったのかもしれません、そうではないかもしれません。ここでは、原因という言葉を出した以上、言いたかったとします。また、その他の原因を講演者は考えていたのかもしれませんし、そうではないかも知れません。この事については、知りようがありませんので触れる必要はないでしょう。
それでは、講演者の主張を、「今の歴史の結果を、昔の歴史から原因を探り、その原因と結果を説明することで、今の歴史は理解できることになる」とします。
今までの議論に沿うならば、講演者の主張に対する僕の意見を、具体的に講演者が上げた例を使いながら述べる必要があるのですが、少々難しいので、簡単な例をあげます。
例えば、僕がある人を殴ったとしてください。殴った後、僕は先生になぜ殴ったか説明するようにいわれました。そこで僕は、「今僕がこの人を殴ったのは、ちょっと前にこの人の話を聞いた。そのちょっと前にこの人に近づいた。そのまたちょっと前にこの人のいる教室に行ったからです。」と言ったとします。
僕は、「殴った」という歴史を、「聞いた」という歴史と、「近づいた」という歴史と、「入った」という歴史によって説明しました。つまり、僕が殴ったという結果の原因を、歴史の因果関係を使って説明したのです。たしかに、僕は先生が言われたように説明をしました。先生は、僕にもう一度説明するように言います。この説明には何かが欠けているようです。
それは僕が殴ったことを理解できるような言葉が欠けているのです。そこで、僕は、なぜ殴ったかを先生に理解してもらえるように言いました。
「今僕がこの人を殴ったのは、ちょっと前に「お前は馬鹿だ」という言葉を彼から聞いた、そのちょっと前に「ちょっとこい」と言う彼に近づいた、そのまたちょっと前に、電話で「今日教室に来い」と言う彼のいる教室に行ったからです。」といいます。さて、先生は「わかりました」と言うでしょうか?
やはり、もう一度説明するようにいわれます。これでもまだ理解するための何かが欠けているようです。それはなんでしょう?それは、僕の認識による解釈です。まだ、これらが抜けているために、理解するには言葉足らずなのです。ということで、僕は「殴った」結果の原因を理解してもらうために、僕の認識による解釈を言葉として発言の中に入れなければなりません。それを入れる前にちょっと、認識というのは、物事を見分け、本質を理解し、正しく判断することであり、解釈とというのは、認識によってえたことを説明することとします。
僕は三度目の挑戦をします。「今僕がこの人を殴ったのは、ちょっと前に「お前は馬鹿だと」という言葉を、僕に対する嘲笑とうけとめた。そのちょっと前に、「ちょっとこい」という彼の言葉を挑戦と受け止め、彼に近づいた。そのまたちょっと前に、電話で「今日教室に来い」という彼の言葉を、命令とうけてめ、彼のいる教室に行ったからです。」と先生に言いました。
これで何とか先生は理解してくれたでしょう。やはり、先生も理解したような顔です。そして、先生は次に僕が殴ったA君に、なぜ「お前は馬鹿だ」「ちょっとこい」「今日教室に来い」と言ったのかを聞くでしょう。
この例で僕が言いたかったのは、歴史を説明するには、必ず理解できるようにしておかないと、あんまり説明する価値が無いということです。理解するためには、認識による解釈が必要です。つまり、認識による解釈が抜けているような昔の歴史をならべても、今の歴史の原因と認められないということです。
さて、今の歴史の結果が昔の歴史の原因とするためには、昔の歴史の事実以外に、認識による解釈を入れるひつようがあるとしました。この結論が正しいのか、正しくないのかを議論することに、僕はあまり重きを置きません。なぜなら、認識による解釈のない歴史で、今の歴史を納得出来る人だっているでしょうから。
僕がいままで何度も言おうとしたのは、ある歴史に対する認識による解釈は、客観性・普遍性を追求しようとしていたとしても、絶対に恣意性は免れ得ない。つまり、彼の「お前は馬鹿だ」「ちょっとこい」「お前は馬鹿だ」の言動(現実の中では決して言葉だけではない)に対する、僕の認識による解釈には、あくまで客観的・普遍的に見ようとしていたとしても、恣意性は免れ得ないだろうと言うことです。

ひとまず、これで僕のレポートで言わんとすることはわかったでしょうか?最後に、「客観性」「普遍性」という言葉をレポートで書いていたのですが、おそらく定義もしていないので分かりにくかったであろうと思います。あれは、たんに定義出来なかったのです(なら使うな!)。抽象的すぎますが、あの二つの言葉は退けて考えても構いません。


[1850] Re^6: 不合理から生まれた不合理 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/19(Mon) 02:51

自分がここ何十年かの間にやってきたこと(別に何百年前のことを振り返るわけではありません)に応じて、アメリカ敵視が現に起きているということを把握した上で戦略をたてる事は可能です。それによって味方を増やせるわけですから、アメリカにとって非常に重要な策の一つでしょう。

前述したように、僕はある集団が策を講じる方法として歴史を探ることに対する重要性は認めます。ただ、必ず策というのはある特定の見方を提示しなければなりません。そこのところで、歴史認識や解釈の仕方を重要視しすぎてはいけないだろう、と言いたいのです。現行の問題解決にたいする特定の見方を提示しないといけない策に、歴史というあまりにも恣意的な見方ばかりを考えていては、有効な策は講じられないのではないでしょうか?

よし、それならばこの前もらった資料にちょうど、イスラム世界における歴史の年表があるので、書き出しましょう、と思ったらめちゃくちゃ長い。どうしよ。ま、レポート適当に考えてるからいいや。長いですよ。

90、8 イラク軍クウェート侵攻
91、1 湾岸戦争開始、米軍中心の多国籍軍による対イラク空爆開始
91、2 多国籍軍、クウェート解放、28日までに戦闘終了
91、10 マドリードで中東和平国際会議開催
91、12 アルジェリア総選挙で、イスラーム救国際戦線が圧勝、翌1月      に厳戒令が発令、選挙中止、イスラ−ム救国際戦線非合法化
92、12 アフガニスタン・ナジブッラー政権崩壊、ムジャーヘディーン      暫定評議会が全権掌握
92、6 イスラエルでラビン労働党主導連立内閣成立
93、2 NY世界貿易センタービル爆破事件発生(5名死亡、約600名     重軽傷)
93、9 ワシントンでパレスチナ暫定自治に関する原則宣言(オスロ合      意)
94、2 ヘブロンでパレスチナ人虐殺事件発生
94、5 ガザ・エリコ先行自治協定成立、18日にガザからイスラエル軍     撤退
94、10 ハマース、テルアビブでバス自爆事件
94、11 国連、今後12ヶ月間にアフガニスタンへの人道援助のために      1億640万ドルが必要と発表。国際赤十字の発表では、過去      1年間に7000名の民間人が死亡、約10万人が負傷、50      万人以上がホームレス状態
94、4 サウディアラビア政府、ビンラディンの国籍剥奪、スーダンへ逃     亡
94、10 タリバン、ペルシャーワルで結成
95、11 ラビン・イスラエル首相、ユダヤ原理主義者により暗殺、ペレ      ス、後任
96、4、 1000名のイスラム宗教学者、ムハンマド・ウマル氏を「ア      ミール・ムーミニーン」(信徒の長)に選出
96、5 ビンラディン、スーダンからアフガニスタンへ、タリバン合流
97、1 ヘブロンからのイスラエル軍撤退合意(ヘブロン合意)
97、5 パキスタン、タリバン政府を承認。サウディ、ア首連も相次いで     承認
97、11 エジプト・ルクソールで、「イスラム集団」による観光客襲撃      事件発生(日本人10名を含む62名が殺害)
97、11 オルブライト米国務長官、タリバンによる女性への虐待を批難
98、2 ビンラディン、対米無差別テロを呼びかけ
98、8 マザリシャリフのタリバン軍への陥落とともに、9名のイラン人     外交官含む4‐5000名が殺害
98、11 米国政府、自国内のビンラディン裁判実施を発表、月末に「無      罪」判決
98、12 米英軍、イラクに空爆実施
99、5 イスラエル首相選でバラク候補当選
99、6 ビンラディン、TVを通じて米国への抵抗呼びかけ
99、7 タリバン、マスウード軍への攻撃開始、バグラム空軍基地を占領99、8 ムハンマド・ウマルへの暗殺未遂事件発生
99、8 キルギスでイスラム武装勢力による日本人技師拉致(10月解      放)
99、10 ナワーズ・シャリフ・パキスタン首相、バルヴェーズ・ムシャ      ラフ軍事司令官を更迭、ズィアーウッディーン中将を後任に任      命。同日、ムシャラフ司令官を支持する軍がTV局を占拠、シャ      リーフ・パキスタン首相を逮捕
99、10 ムシャラフ将軍、自らが「行政長官」に就任した旨発表
99、11 国連、対アフガニスタン制裁を発動
00、7 米国務次官(南アジア担当)カール・インダーファース、上院外     交関係委員会でタリバンが11月までにカブールから駆逐される     旨発表
00、9 シャロン・イスラエル首相、アル・アクサー・モスク視察、第二     次インティファーダ発生、最初の1ヶ月間にパレスチナ人160     名死亡
00、10 イエメン寄港中の米駆逐官爆破事件発生(17名死亡)
00、11 国連、アフガニスタンの議席をラッバーニー政権に与えること      を承認
00、12 国連、制裁強化、武器禁輸の他、外国タリバン系事務所の閉鎖と      タリバン関係者のアフガニスタン国外への渡航禁止
01、1 ウサマ・ビンラディンの東アフリカの米国大使館爆破事件関与に     関する欠席裁判がマンハッタンで開始
01、2 シャロン・リクード党首、イスラエル首相選に当選
01、9 米国同時多発テロ発生(死者・行方不明者6000人以上)
01、10 米軍、対アフガニスタン軍事攻撃開始

これは、参考までに。

そういえば、「国家としてのパレスティナ」に言及するという譲歩をブッシュがアメリカ大統領として初めて行ったことで、イスラエル激怒という場面もありました。

そうなんだ。あおいさんはこういう情報をどっから仕入れているんですか?

歴史というか、経緯を把握することは、戦略上、重要なことだってあるでしょう。大国がその土地の歴史(民族対立の歴史とか)を巧妙に利用して戦争を進めるようにね。

そうですね。

歴史の把握は結構、戦争とかでは役にたってたりするわけです。と、まあ歴史把握の戦略的重要性を書いてみても、多分、門屋君が抱えてる「解決」への焦りは解消しないでしょうね。解決することが「遅ればせになってしまう」ことを、どうしてそんなに気にかけるのですか?

気にかけているわけではありません。どんなに遅れようとも、いつかは策を講じなければならないのだったら、早いほうがいいのかそれともじっくり待つのが良いのかを考えるのは当然の話ですよね。そのとき、歴史がああだこうだいう第三者的な立場である僕のような存在は、結構うざいのかもしれません。

ビンラーディンはタリバンの支配地域に客人として存在していただけです。
もしかして、タリバン=悪だと思ってます?

いや、別に僕は誰が善で悪だということ考えるために、考えているわけではありません。結果としてタリバンが悪だという考えに至ったとしても、そのことで解決策を講じるうえで役に立つわけでもありません。相手がこっちを善か悪かで考えているかどうかを考えることは、策を講じる上で役に立つのかもしれませんが。

何故イスラム世界だけが譲歩しなければならないと思うのですか?

そういうご時世ではありませんか?だからどうしたっていうわけですけど。

そういう御時世ねえ。同意を求められても、よく分からないので説明してもらえませんか。

んんん、それを説明してくれといっても、無理じゃないけれど、僕の説明聞くよりも本読んだほうがいいでしょうね。

それは十分承知ですけれど、それをもって、アメリカが行った制裁を批難することには、もうみんなが飽き飽きしているんでしょうね。

?みんなって誰?どうして飽き飽きしてるの(「解決」への焦りと繋がってきそうだけど)?

だって、歴史的背景を考えてアメリカは行動するべきだなんて新聞にいっぱい書いているから。

?イスラムを規範としたいけど、彼らを民主主義の国々は認めてくれないだろうってこと?

共同体のあるべき姿、理想の違いを認めてくれないかなって!?僕はクモの巣が好きなのに、彼らはアリの巣が好き。クモの巣はクモの巣全てを掌握できてるけど、糸が切れたら崩れちゃう。アリの巣の長である女王アリは、アリの巣全てを掌握できないようだけれど、しているんだなあ、これが。


[1900] Re^7: 不合理から生まれた不合理 投稿者:あおいみほこ 投稿日:2001/12/06(Thu) 12:51

忙しくてレスが遅くなりましたが、
元の話に戻ろうと思います。

そういえば、「国家としてのパレスティナ」に言及するという譲歩をブッシュがアメリカ大統領として初めて行ったことで、イスラエル激怒という場面もありました。

そうなんだ。あおいさんはこういう情報をどっから仕入れているんですか?

これはTVでも、ネットでも出てました。でも、大抵ネットです。
情報を相対化するために、ネットというのは非常に有効な手段です。
さて、じゃあ門屋君の情報は一体どこから来るのでしょうか?
どちらにしても、その情報に門屋君が加えている解釈の仕方は、
決して門屋君一人に限ったことではないような気がしますが、
どう思いますか?

前述したように、僕はある集団が策を講じる方法として歴史を探ることに対する重要性は認めます。ただ、必ず策というのはある特定の見方を提示しなければなりません。そこのところで、歴史認識や解釈の仕方を重要視しすぎてはいけないだろう、と言いたいのです。現行の問題解決にたいする特定の見方を提示しないといけない策に、歴史というあまりにも恣意的な見方ばかりを考えていては、有効な策は講じられないのではないでしょうか?

門屋君が歴史認識を利用した策は二の次だと言う理由は、
歴史を解釈することの恣意性、そして歴史を解釈するには時間がかかる
という2点だという理解でいいでしょうか?

まず、その「恣意性」についてですが、
門屋君がNo.1868 Re^11: 不合理から生まれた不合理
の中で説明してくれたように歴史認識が「恣意的」な解釈を通してして行えないのは当然だと思います。解釈の持つ恣意性は認識しています。ただ、そこから先の判断が私と門屋君では異なっているようです。門屋君が「恣意的」である故に、「策」として最善ではないと却下していますね。「恣意的」ならば、何故「策」として二の次になってしまうのでしょうか?そこらへんはまだ説明が欲しい所です。
「客観的」「普遍的」という言葉は除いても構わないということも書いてありましたが、そうでしょうか?「恣意性」ということよりも、むしろこちらの方が門屋君の立場を明らかにしているような気がするのですが。

それから時間がかかるということについて、
「策」を構じるにあたって、歴史を解釈していたのでは時間がかかるというわけですよね。それは一体何故なのか。
先月決まった自衛隊がアメリカを支援する法案は、早期の成立を目指す為に、解釈の論議は減らされていました。解釈を持ち出せばそこで解釈のすり合わせを行い妥協点を見出すのには時間がかかる。しかし、そこで言う「解釈」とは私達が歴史を認識しようとして学ぶ時の「解釈」とは異なります。議員達がそれぞれのスタンスをどこまで固持できるかという力学の上での「解釈」のぶつけ合いですから。議員達の政治的駆け引きが行われてやっと妥協点は出てきます。それは「歴史解釈」故に時間がかかるのではなく、政治が力学である故に時間がかかるのだと言えるでしょう。
じゃあ、あの法案を通すことを推進した力はなんだったのか。
歴史に価値を見出せないと言う人に認識して欲しいのはこのことです。「歴史解釈」の価値を低く見せかけ、政治力学の中で圧倒的優位な力を誇っているもの。

国会で発言したぺシャワールの会の中村哲医師に「発言を撤回しろ!」と迫った議員。彼らは一体じゃあ、何を根拠に策を立てるというのでしょうか。

さて、歴史解釈の話にもどると、じゃあ、歴史解釈が遅いなんて言えるのでしょうか?門屋君が歴史解釈に価値を見出せないのは、また別のレベルの話が絡んでいるのではないでしょうか?

何故イスラム世界だけが譲歩しなければならないと思うのですか?

そういうご時世ではありませんか?だからどうしたっていうわけですけど。

そういう御時世ねえ。同意を求められても、よく分からないので説明してもらえませんか。

んんん、それを説明してくれといっても、無理じゃないけれど、僕の説明聞くよりも本読んだほうがいいでしょうね。

見方の偏った本はいくらでもありますが、それより門屋君の説明の方がとても重要です。何故イスラム世界は譲歩しなければならないと思うのか。そして「そういう御時世なのだ」と、言いきれるのか。

それは十分承知ですけれど、それをもって、アメリカが行った制裁を批難することには、もうみんなが飽き飽きしているんでしょうね。

?みんなって誰?どうして飽き飽きしてるの(「解決」への焦りと繋がってきそうだけど)?

だって、歴史的背景を考えてアメリカは行動するべきだなんて新聞にいっぱい書いているから。

批難することに新鮮味が無くなったせいか減ってしまったメディアの情報量減少から門屋君は判断しているのでしょうか?アメリカ政府の行動には自分に都合のいい歴史以外はその歴史的背景を一切排除している行動が多すぎる。それは決して飽き飽きするようなことではないでしょう。ただ、あなたが忘れようとしているだけではないですか?

近代よってそれまで可能にしていたような宗教的共同体(ミッラ)が
くずれても、未だにイスラム世界の人々の中にイスラムを社会の規範
としたいという思いは、国家という概念を明確に持つ民主主義の国々
には届かないのでしょう。


?イスラムを規範としたいけど、彼らを民主主義の国々は認めてくれないだろうってこと?

共同体のあるべき姿、理想の違いを認めてくれないかなって!?僕はクモの巣が好きなのに、彼らはアリの巣が好き。クモの巣はクモの巣全てを掌握できてるけど、糸が切れたら崩れちゃう。アリの巣の長である女王アリは、アリの巣全てを掌握できないようだけれど、しているんだなあ、これが。

例えがよく理解できなかったので、振りだしから触れなおしたいと思います。
宗教的共同体(ミッラ)というのが、どの程度の規模のものを指すのかはわかりませんが、モスクを中心とした地域共同体は今でもあります。ただ、「民主主義」の国々とか出てくると、何が「民主主義」なのかという話から始めなければならなくなるのでちょっと難しいかと思います。ある種の民主主義的要素をイスラムは備えていると言う人もいますから。


[1901] Re^8: 不合理から生まれた不合理 投稿者:門屋 投稿日:2001/12/08(Sat) 17:05

これはTVでも、ネットでも出てました。でも、大抵ネットです。
情報を相対化するために、ネットというのは非常に有効な手段です。
さて、じゃあ門屋君の情報は一体どこから来るのでしょうか?
どちらにしても、その情報に門屋君が加えている解釈の仕方は、
決して門屋君一人に限ったことではないような気がしますが、
どう思いますか?

えええと。同時多発テロからはじまる、米国のアフガニスタン進攻に関する情報は、新聞とニュースです。そのほかには、イスラム世界の歴史をちょっと読みました。

前述したように、僕はある集団が策を講じる方法として歴史を探ることに対する重要性は認めます。ただ、必ず策というのはある特定の見方を提示しなければなりません。そこのところで、歴史認識や解釈の仕方を重要視しすぎてはいけないだろう、と言いたいのです。現行の問題解決にたいする特定の見方を提示しないといけない策に、歴史というあまりにも恣意的な見方ばかりを考えていては、有効な策は講じられないのではないでしょうか?

門屋君が歴史認識を利用した策は二の次だと言う理由は、
歴史を解釈することの恣意性、そして歴史を解釈するには時間がかかる
という2点だという理解でいいでしょうか?

まず、その「恣意性」についてですが、
門屋君がNo.1868 Re^11: 不合理から生まれた不合理
の中で説明してくれたように歴史認識が「恣意的」な解釈を通してして行えないのは当然だと思います。解釈の持つ恣意性は認識しています。ただ、そこから先の判断が私と門屋君では異なっているようです。門屋君が「恣意的」である故に、「策」として最善ではないと却下していますね。「恣意的」ならば、何故「策」として二の次になってしまうのでしょうか?そこらへんはまだ説明が欲しい所です。
「客観的」「普遍的」という言葉は除いても構わないということも書いてありましたが、そうでしょうか?「恣意性」ということよりも、むしろこちらの方が門屋君の立場を明らかにしているような気がするのですが。

策の中で今回の取り扱われているのは政策です。政策というのは、政治によって決められる策ですよね。その政策を決めるのは、一応政治家ですよね。法案が審議されるとき、通過するとき、個々の政治家である人の歴史的認識が判断の要素として加わっているのは否めません。だからこそ、情報に振り回されることのない、自分が正しいと思われる歴史的認識による解釈をもつことがひつようですよね。それが、本当に正しいかどうかはわからないよっていうところは、青井さんも同感でしょう。
しかし、僕は、政治が、事実(あるいは真実)を追求しなければならにものでもあるけれども、そればかりやってては政策決定ができなくなることもありますよね。

というのも、事実(真実)なんてみつかりっこないのだから。ただ単にそれだけです。政治が学問になってはならない。学問が政治になってはならないと思うのです。法案の審議の中で、学問的な歴史認識を持ち出す政治家もいるようです。あまりにも度が過ぎると、いったいこの人は知識をひけらかしにきたのか?とか、学会にと間違えているんじゃなかろうか?と思うのです。

歴史的認識による解釈を法案の審議に持ち込むことが、政策決定過程にどういった影響を与えるのかですよね。いいかえると、法案の審議が政党間の歴史認識の違いによって左右されることは、政府の政策過程にどういった影響を与えるのかです。こうなると、アフガニスタンから離れ、今話題の「新しい歴史教科書をつくる会」問題なんか扱ったならいいんでしょうけれど。まあ、知らんからいいや。

政府の政策が歴史的認識を決めることは十分にありえることです。だからこそ、平和な日本は今まで憲法9条や歴史の解釈を、国会で何度もおこなっていたんでしょうね。

政府の政策は、政治家の歴史認識にもつながる。政策を決定するのは、政治家ですから、ちゃんと自分が正しいと思う歴史認識を政府の政策に反映させようとしてがんばるでしょう。

その点は、ぜんぜん認めます。
 
ただ、法案の審議に関して歴史認識による解釈の重要性を訴えるならば、その法案を作った政策の歴史的認識の解釈の問題として捉えるのではなく、その法案が現行の社会(国際社会)をどのように変えていくか、その法案によって政策にたいする社会の歴史的認識がどのように変わっていくか、あるいはその法案によって作り出される歴史認識はどういったものかを考える必要があると思います。それでは、歴史認識による解釈の重要性がもっと増すはずではないかと思うでしょう。たしかに、そういったことでしたらそうです。けれど、その法案が作り出された政策の歴史認識の解釈を審議したらいかんと思うのです。

たとえば、また僕がA君を殴ったという例を出します。

僕がA君を殴った。それによって、先生は僕に謝るように言った。その誤るように言ったのは、僕とA君の間に起こった歴史的認識による解釈(それ以外の要素、生徒たちや周りの目とか、先生としての役割とか、ほかの先生からの助言などもあるでしょうが、ないものとして考えてください。)によるものです。しかし、僕の友達全員は誤る必要はないという。なぜなら、A君の方が悪いというのです。その判断は、友達全員のこの事件に怒った歴史的認識による解釈から出ました。A君の方が悪いのだから、誤らなくていいと言う。しかし、先生は謝りなさいという。

つまり、友達全員は、謝りなさいという法案を、歴史的認識のずれから生じた解釈によって反対しているということです。このような審議が永遠と行われると、一体この法案はいつ決定されるのでしょうか。そのうちに、かってに僕とA君は仲直りしてました、っていうことになっちゃいます。

そうではなくて、その謝りなさいという法案が、そのクラスをどう変えていくのか、その法案によって先生に対する認識がどのように変わっていくのか、その法案によって先生自体がどのように変わっていくのかを話し合う必要があるように思います。

それから時間がかかるということについて、
「策」を構じるにあたって、歴史を解釈していたのでは時間がかかるというわけですよね。それは一体何故なのか。
先月決まった自衛隊がアメリカを支援する法案は、早期の成立を目指す為に、解釈の論議は減らされていました。解釈を持ち出せばそこで解釈のすり合わせを行い妥協点を見出すのには時間がかかる。しかし、そこで言う「解釈」とは私達が歴史を認識しようとして学ぶ時の「解釈」とは異なります。議員達がそれぞれのスタンスをどこまで固持できるかという力学の上での「解釈」のぶつけ合いですから。議員達の政治的駆け引きが行われてやっと妥協点は出てきます。それは「歴史解釈」故に時間がかかるのではなく、政治が力学である故に時間がかかるのだと言えるでしょう。
じゃあ、あの法案を通すことを推進した力はなんだったのか。
歴史に価値を見出せないと言う人に認識して欲しいのはこのことです。「歴史解釈」の価値を低く見せかけ、政治力学の中で圧倒的優位な力を誇っているもの。

今回の日本国憲法の平和憲法という謳い文句を揺るがすような、さまざまな法案のスピード可決を考えると、まさに憲法第9条の歴史的認識による解釈はいったいなんだったんだと思います。あれだけ、憲法の解釈問題にされていた戦争に関する政策は、アメリカがテロリズムといわれる戦争かどうかもわからない事件によって、いきなり解釈をどうするかということはあいまいになったまま、法案が可決されています。僕は政策に歴史認識の価値を見出していないわけではありません。その点は何度も言っているように青井さんと同じではないでしょうか?そして、法案において政策の歴史認識の価値を見出してもいます。しかし、その歴史認識が政策決定過程において無駄なときは、やはり、法案の審議においても無駄のような気がします。現状の政策は、早く同時多発テロに対する対応策を決めることでした。それに伴って、法案を通過させたのです。その点を考慮したので、歴史認識による解釈ばかりに走っていた日本の政策の体質は変わらずを得なかったのでしょう。

憲法の第9条の解釈をどうするかとか、近代日本になって行ってきた戦争に関する歴史的認識をどうするかといったことばかりやってきた意味は一体なんだったんでしょう?あれだけ、思案されつづけたものは、今回の政策決定過程に影響を与えているのでしょうか?

歴史的認識による解釈が無視される時だってある。そして、それは無視しなければならないときでもあると政府が決めたときでもある。

何故イスラム世界だけが譲歩しなければならないと思うのですか?

せざるを得ないようなご時世かなって。

そういう御時世ねえ。同意を求められても、よく分からないので説明してもらえませんか。

んんん、それを説明してくれといっても、無理じゃないけれど、僕の説明聞くよりも本読んだほうがいいでしょうね。

見方の偏った本はいくらでもありますが、それより門屋君の説明の方がとても重要です。何故イスラム世界は譲歩しなければならないと思うのか。そして「そういう御時世なのだ」と、言いきれるのか。

だって難しいんです。いずれ書きたいけど。

批難することに新鮮味が無くなったせいか減ってしまったメディアの情報量減少から門屋君は判断しているのでしょうか?アメリカ政府の行動には自分に都合のいい歴史以外はその歴史的背景を一切排除している行動が多すぎる。それは決して飽き飽きするようなことではないでしょう。ただ、あなたが忘れようとしているだけではないですか?

そうかもしれないですね。

例えがよく理解できなかったので、振りだしから触れなおしたいと思います。
宗教的共同体(ミッラ)というのが、どの程度の規模のものを指すのかはわかりませんが、モスクを中心とした地域共同体は今でもあります。ただ、「民主主義」の国々とか出てくると、何が「民主主義」なのかという話から始めなければならなくなるのでちょっと難しいかと思います。ある種の民主主義的要素をイスラムは備えていると言う人もいますから。

僕はイスラムの世界のことをよく知らないんで、わからないんですけれど、国家という枠がない世界をイスラム世界は保ちつづけていたんでしょう。それはひとつ、宗教的共同体(ミッラ)という考え方がそういったものを作り出したんだろうとおもうのです。なんでも、アラブ人には5つの共同体の考え方があるといいます。なんだったっけ。忘れた。


[1902] Re^9: 不合理から生まれた不合理 投稿者:あおいみほこ 投稿日:2001/12/10(Mon) 14:57

前述したように、僕はある集団が策を講じる方法として歴史を探ることに対する重要性は認めます。ただ、必ず策というのはある特定の見方を提示しなければなりません。そこのところで、歴史認識や解釈の仕方を重要視しすぎてはいけないだろう、と言いたいのです。現行の問題解決にたいする特定の見方を提示しないといけない策に、歴史というあまりにも恣意的な見方ばかりを考えていては、有効な策は講じられないのではないでしょうか?

恣意性について答えてもらってない気がしたので、この部分は前々回にさかのぼるものですが、もう一度、聞きたいと思います。どうして「恣意的」にこだわるのですか?「現行の問題解決にたいする特定の見方」を提示する時の恣意性よりも、歴史認識の方が「恣意的」だという比較をどうして行う必要があるのですか?どちらも「恣意的」ではありませんか。


門屋君が歴史認識を利用した策は二の次だと言う理由は、
歴史を解釈することの恣意性、そして歴史を解釈するには時間がかかる
という2点だという理解でいいでしょうか?

まず、その「恣意性」についてですが、
門屋君がNo.1868 Re^11: 不合理から生まれた不合理
の中で説明してくれたように歴史認識が「恣意的」な解釈を通してして行えないのは当然だと思います。解釈の持つ恣意性は認識しています。ただ、そこから先の判断が私と門屋君では異なっているようです。門屋君が「恣意的」である故に、「策」として最善ではないと却下していますね。「恣意的」ならば、何故「策」として二の次になってしまうのでしょうか?そこらへんはまだ説明が欲しい所です。

策の中で今回の取り扱われているのは政策です。政策というのは、政治によって決められる策ですよね。その政策を決めるのは、一応政治家ですよね。法案が審議されるとき、通過するとき、個々の政治家である人の歴史的認識が判断の要素として加わっているのは否めません。だからこそ、情報に振り回されることのない、自分が正しいと思われる歴史的認識による解釈をもつことがひつようですよね。それが、本当に正しいかどうかはわからないよっていうところは、青井さんも同感でしょう。
しかし、僕は、政治が、事実(あるいは真実)を追求しなければならにものでもあるけれども、そればかりやってては政策決定ができなくなることもありますよね。

というのも、事実(真実)なんてみつかりっこないのだから。ただ単にそれだけです。政治が学問になってはならない。学問が政治になってはならないと思うのです。法案の審議の中で、学問的な歴史認識を持ち出す政治家もいるようです。あまりにも度が過ぎると、いったいこの人は知識をひけらかしにきたのか?とか、学会にと間違えているんじゃなかろうか?と思うのです。

それは中村医師に対する「発言を訂正しろ!」という議員と同質に思えます。お前の発言は今議員同士が行っている駆け引きに全く馴染まないものであるから、排除するのだ!と言うのと同じです。つまり、政治に現場はいらないと。政治に理論はいらないと。じゃあ、何は政治に使えるのですか?

先の記述、発言、では「排除」ということしか明確ではありません。「学問」の「排除」、「事実」の排除、「恣意性」の排除。どうして排除するのですか?排除して、残っているものは一体なんなんですか?

排除する対象については今まで触れてきていますが、じゃ、何の為に排除しているのか、どんなものならば策を講じるのに必要なのかという点について説明が必要です。

「真実なんて見つかりっこない。」それは私も同意する所です。でも、政治は事実(真実)を追求しなければならないのでしょうか?
政治とは駆け引きと力が物を言う世界(認識が足りないようでしたら指摘して下さい)。事実を追求するふりを如何に上手くやるかという追求は存在すると思いますが、結局は如何に自分の利害を通すかだけでしょう。自分の知識をひけらかすのも一つの戦法かもしれません。

歴史的認識による解釈を法案の審議に持ち込むことが、政策決定過程にどういった影響を与えるのかですよね。いいかえると、法案の審議が政党間の歴史認識の違いによって左右されることは、政府の政策過程にどういった影響を与えるのかです。こうなると、アフガニスタンから離れ、今話題の「新しい歴史教科書をつくる会」問題なんか扱ったならいいんでしょうけれど。まあ、知らんからいいや。

政府の政策が歴史的認識を決めることは十分にありえることです。だからこそ、平和な日本は今まで憲法9条や歴史の解釈を、国会で何度もおこなっていたんでしょうね。

政府の政策は、政治家の歴史認識にもつながる。政策を決定するのは、政治家ですから、ちゃんと自分が正しいと思う歴史認識を政府の政策に反映させようとしてがんばるでしょう。

その点は、ぜんぜん認めます。

誤解されているようですが、私は政党みたいな組織の歴史認識や、政府の政策が政治家の歴史認識に影響するとかいう問題を今の話の流れに持ちこむつもりはありません。私が法案の審議についての話をもちこんだのは、「政策決定ができなくなるから」という遅延についてのイメージがどこからくるのかの例として挙げただけです。でも、門屋君の「遅くなるから政策として使えない」と繰り返される「遅い」はどうやらこの例ではうまく引き出せず、別のものが出てきそうなので却下します。門屋君の「遅い」一体どこからくるのか?

ただ、法案の審議に関して歴史認識による解釈の重要性を訴えるならば、その法案を作った政策の歴史的認識の解釈の問題として捉えるのではなく、その法案が現行の社会(国際社会)をどのように変えていくか、その法案によって政策にたいする社会の歴史的認識がどのように変わっていくか、あるいはその法案によって作り出される歴史認識はどういったものかを考える必要があると思います。それでは、歴史認識による解釈の重要性がもっと増すはずではないかと思うでしょう。たしかに、そういったことでしたらそうです。けれど、その法案が作り出された政策の歴史認識の解釈を審議したらいかんと思うのです。

言葉がよくわかりませんでした。「その法案を作った政策の歴史的認識の解釈の問題として捉えるのではなく」とはどういうこと?「その法案が作り出された政策の歴史認識の解釈を審議したらいかん」とイクオール?イクオールだとしても、どうやら法案成立後に、解釈を訂正してしまうことを指してるようですが、違いますか?あーでもよくわからない。

たとえば、また僕がA君を殴ったという例を出します。

僕がA君を殴った。それによって、先生は僕に謝るように言った。その誤るように言ったのは、僕とA君の間に起こった歴史的認識による解釈(それ以外の要素、生徒たちや周りの目とか、先生としての役割とか、ほかの先生からの助言などもあるでしょうが、ないものとして考えてください。)によるものです。しかし、僕の友達全員は誤る必要はないという。なぜなら、A君の方が悪いというのです。その判断は、友達全員のこの事件に怒った歴史的認識による解釈から出ました。A君の方が悪いのだから、誤らなくていいと言う。しかし、先生は謝りなさいという。

つまり、友達全員は、謝りなさいという法案を、歴史的認識のずれから生じた解釈によって反対しているということです。このような審議が永遠と行われると、一体この法案はいつ決定されるのでしょうか。そのうちに、かってに僕とA君は仲直りしてました、っていうことになっちゃいます。

そうではなくて、その謝りなさいという法案が、そのクラスをどう変えていくのか、その法案によって先生に対する認識がどのように変わっていくのか、その法案によって先生自体がどのように変わっていくのかを話し合う必要があるように思います。

それは、わけがわからないにしろ、押し付けられた「誤りなさい」法案をとりあえず、可決させてから、後で考えようということでしょうか?

それから時間がかかるということについて、
「策」を構じるにあたって、歴史を解釈していたのでは時間がかかるというわけですよね。それは一体何故なのか。
先月決まった自衛隊がアメリカを支援する法案は、早期の成立を目指す為に、解釈の論議は減らされていました。解釈を持ち出せばそこで解釈のすり合わせを行い妥協点を見出すのには時間がかかる。しかし、そこで言う「解釈」とは私達が歴史を認識しようとして学ぶ時の「解釈」とは異なります。議員達がそれぞれのスタンスをどこまで固持できるかという力学の上での「解釈」のぶつけ合いですから。議員達の政治的駆け引きが行われてやっと妥協点は出てきます。それは「歴史解釈」故に時間がかかるのではなく、政治が力学である故に時間がかかるのだと言えるでしょう。
じゃあ、あの法案を通すことを推進した力はなんだったのか。
歴史に価値を見出せないと言う人に認識して欲しいのはこのことです。「歴史解釈」の価値を低く見せかけ、政治力学の中で圧倒的優位な力を誇っているもの。

今回の日本国憲法の平和憲法という謳い文句を揺るがすような、さまざまな法案のスピード可決を考えると、まさに憲法第9条の歴史的認識による解釈はいったいなんだったんだと思います。あれだけ、憲法の解釈問題にされていた戦争に関する政策は、アメリカがテロリズムといわれる戦争かどうかもわからない事件によって、いきなり解釈をどうするかということはあいまいになったまま、法案が可決されています。僕は政策に歴史認識の価値を見出していないわけではありません。その点は何度も言っているように青井さんと同じではないでしょうか?そして、法案において政策の歴史認識の価値を見出してもいます。しかし、その歴史認識が政策決定過程において無駄なときは、やはり、法案の審議においても無駄のような気がします。現状の政策は、早く同時多発テロに対する対応策を決めることでした。それに伴って、法案を通過させたのです。その点を考慮したので、歴史認識による解釈ばかりに走っていた日本の政策の体質は変わらずを得なかったのでしょう。

憲法の第9条の解釈をどうするかとか、近代日本になって行ってきた戦争に関する歴史的認識をどうするかといったことばかりやってきた意味は一体なんだったんでしょう?あれだけ、思案されつづけたものは、今回の政策決定過程に影響を与えているのでしょうか?

歴史的認識による解釈が無視される時だってある。そして、それは無視しなければならないときでもあると政府が決めたときでもある。

歴史認識に対する考え方に同じ部分なんてありましたっけ?
上の話だと歴史認識とは憲法9条に関して繰り返し報道される際の「歴史認識」という言葉が与えてしまう、無力感みたいなのが現れてきていますね。今回の話もそういった報道で使われてきた「役立たずの歴史認識」への不信から、否定しようとしているのでしょうか?

この話の発端、門屋君が「不合理から生まれた不合理」をイスラムの「不合理から生まれた不合理」としたけれど、それは違うという所から始まりました。イスラムへの歴史を認識しておくことは、策を決定するために価値あるものだと視点でこれまで書いてきていますが、まずあったのはイスラムこそが「不合理」なのだという視点への驚きでした。
残念ながら、今や話は肝心の「不合理から生まれた不合理」からは随分遠ざかって、日本の政治話になっていますが、本当に話したい所は、門屋君みたいな一人の個人が、この「不合理から生まれた不合理」をどう思い、どれだけ認識し、考えてるのかということです。政治がどうのとかいうんじゃなくてね。どうですか?


[1904] Re^10: 不合理から生まれた不合理 投稿者:門屋 投稿日:2001/12/13(Thu) 21:13

恣意性について答えてもらってない気がしたので、この部分は前々回にさかのぼるものですが、もう一度、聞きたいと思います。どうして「恣意的」にこだわるのですか?「現行の問題解決にたいする特定の見方」を提示する時の恣意性よりも、歴史認識の方が「恣意的」だという比較をどうして行う必要があるのですか?どちらも「恣意的」ではありませんか。

それは当然の話です。何度も言っているように、僕は歴史的認識の重要性を認めないとか、認めるとかのことを言っているのではありません。話の流れが複雑になり、どの点について僕の意見を書けばいいのか分かりませんが、おそらく、僕は政策においての歴史認識の重要性を答えないといけないのでしょう。なお、これも何度も言っていることなのですが、僕は今回のアメリカとアフガニスタンの争いについて、自分の歴史認識を語るつもりはありません。その点を考慮してください。なぜ僕がそれをしないのかと言う理由は二つ有ります。まず一つには、それを語りうる知識を持ち合わせていない。もう一つは、そのことについて語りたくないと言う感情です。これを卑怯だと言うならば、それはそれでかまいません。

門屋君が歴史認識を利用した策は二の次だと言う理由は、
歴史を解釈することの恣意性、そして歴史を解釈するには時間がかかる
という2点だという理解でいいでしょうか?

そうですね。
僕の記述が分かりにくくて青井さんも苦労されたことと思います。議論が様々な方向に飛んだのは僕の返答の性だと思っています。
このまえ、大ちゃんに教えてもらってやっと分かりました。ここでそのことをお詫びしておきます。

さて、いいかげんちゃんとした議論のやり方を学ばないといけないので、できる限り僕の浅はかな文章力で、僕の考えていることを説明したいと思います。これで、僕と青いさんのスタンスの違いがはっきりと分かるでしょう。それが分かった後に、僕のスタンスがなぜおかしいのかを言ってください。い。

僕が今回の法案可決(または、改正)においてどういったスタンスを取っているか。
実のところ、僕は今回の同時多発テロに端を発した法案可決(改正)に対して、それは仕方が無いことだと言う立場です。おそらく、青井さんは、法案可決がこんなにも早くなされることに対する疑念を抱いておられるのでしょう。こんなに早く可決されることこそ、ある特定の政治家の「恣意性」が入っているのだから、「今回の政策決定に歴史認識の重要性を認めない」といった僕の発言はおかしい。おそらく、青井さんはそういっているのでしょう。
まず、誤解を解かないといけないのは、僕は政策決定において歴史認識の重要性を認めています。それは、前回のレスで書いたと思います。

ただ、青井さんと根本的なズレがある。
それは、僕が今回の法案に対する認識と青井さんの認識のズレでしょう。僕は、同時多発テロに対する法案可決(改正)は早急にするべきだったということです。

それは中村医師に対する「発言を訂正しろ!」という議員と同質に思えます。お前の発言は今議員同士が行っている駆け引きに全く馴染まないものであるから、排除するのだ!と言うのと同じです。つまり、政治に現場はいらないと。政治に理論はいらないと。じゃあ、何は政治に使えるのですか?

いらないと入ってませんよね。しかし、理論ばかりで政治は動きません。

先の記述、発言、では「排除」ということしか明確ではありません。「学問」の「排除」、「事実」の排除、「恣意性」の排除。どうして排除するのですか?排除して、残っているものは一体なんなんですか?

「排除」といったことはありません。もし、僕のレスでそういったニュアンスをかんじたのならば、しょうがないことでしょう。それは先ほど誤りました。僕は政策において「学問」「事実」「恣意性」を排除するつもりはありません。
ぼく、その中村さんと議員のかわした発言をしりません。教えてください。


誤解されているようですが、私は政党みたいな組織の歴史認識や、政府の政策が政治家の歴史認識に影響するとかいう問題を今の話の流れに持ちこむつもりはありません。私が法案の審議についての話をもちこんだのは、「政策決定ができなくなるから」という遅延についてのイメージがどこからくるのかの例として挙げただけです。でも、門屋君の「遅くなるから政策として使えない」と繰り返される「遅い」はどうやらこの例ではうまく引き出せず、別のものが出てきそうなので却下します。門屋君の「遅い」一体どこからくるのか?

そうですね。この点を早く説明しなければならなかった。しかし、その点を説明していなかった。そもそもの問題はそこでしょう。その点は僕が情報の正しい認識による解釈をしていないのかもしれない。その点は認めます。さて、青井さん!僕のこのスタンスが間違った歴史認識による解釈だといってください。僕は僕のことが分かっていません。


[1906] Re^11: 不合理から生まれた不合理 投稿者:あおいみほこ 投稿日:2001/12/14(Fri) 15:12

恣意性について答えてもらってない気がしたので、この部分は前々回にさかのぼるものですが、もう一度、聞きたいと思います。どうして「恣意的」にこだわるのですか?「現行の問題解決にたいする特定の見方」を提示する時の恣意性よりも、歴史認識の方が「恣意的」だという比較をどうして行う必要があるのですか?どちらも「恣意的」ではありませんか。

それは当然の話です。何度も言っているように、僕は歴史的認識の重要性を認めないとか、認めるとかのことを言っているのではありません。話の流れが複雑になり、どの点について僕の意見を書けばいいのか分かりませんが、おそらく、僕は政策においての歴史認識の重要性を答えないといけないのでしょう。なお、これも何度も言っていることなのですが、僕は今回のアメリカとアフガニスタンの争いについて、自分の歴史認識を語るつもりはありません。その点を考慮してください。なぜ僕がそれをしないのかと言う理由は二つ有ります。まず一つには、それを語りうる知識を持ち合わせていない。もう一つは、そのことについて語りたくないと言う感情です。これを卑怯だと言うならば、それはそれでかまいません。

私は例としてあげた歴史認識が策として利用できることに同意したことを覚えています。また、門屋君自身が語りたくなるような歴史知識を持たないことも認識しています。ですから、門屋君の上記の記述は私の質問の意図とは全く異なります。
重要なのは、門屋君が「不合理から生まれた不合理」を考えるときに、一方を「客観的」「普遍的」とし、一方を「恣意的」としたこと、つまり選んだもの、と選ばれなかったもののが二者択一の様に(門屋君の中には)存在しているということです。
門屋君がその選択を行った時に歴史知識がいっぱいあったかどうかは問題ではありません。問題に対処する際、自分ができる範囲で考えても構わないかもしれませんが、少なくとも、その二者択一はおかしくないか?という疑問です。門屋君の主張が拠って立つ「客観性」や「普遍性」は、ほんとに正しいのでしょうか?

門屋君が歴史認識を利用した策は二の次だと言う理由は、
歴史を解釈することの恣意性、そして歴史を解釈するには時間がかかる
という2点だという理解でいいでしょうか?

そうですね。
僕の記述が分かりにくくて青井さんも苦労されたことと思います。議論が様々な方向に飛んだのは僕の返答の性だと思っています。
このまえ、大ちゃんに教えてもらってやっと分かりました。ここでそのことをお詫びしておきます。

何をどこまで教えてもらったのかわからないけど、いっそこのズレ全部説明してくれといたらよかったのに。ここで書きながら、何度、直接会って話した方がわかるだろうと思ったことか。文章で議論の会話を続けるのは何度も諦めかけたよ。


さて、いいかげんちゃんとした議論のやり方を学ばないといけないので、できる限り僕の浅はかな文章力で、僕の考えていることを説明したいと思います。これで、僕と青いさんのスタンスの違いがはっきりと分かるでしょう。それが分かった後に、僕のスタンスがなぜおかしいのかを言ってください。い。

僕が今回の法案可決(または、改正)においてどういったスタンスを取っているか。
実のところ、僕は今回の同時多発テロに端を発した法案可決(改正)に対して、それは仕方が無いことだと言う立場です。おそらく、青井さんは、法案可決がこんなにも早くなされることに対する疑念を抱いておられるのでしょう。こんなに早く可決されることこそ、ある特定の政治家の「恣意性」が入っているのだから、「今回の政策決定に歴史認識の重要性を認めない」といった僕の発言はおかしい。おそらく、青井さんはそういっているのでしょう。

そっか。私のスタンスがよく伝わってなくて門屋君も説明しにくいのかな。
まず、上の記述について返答すると、私は早すぎたなとは思っていますが、早いことが問題とは思っていません。早い遅いよりも、重要なのは、そこに含まれる視点です。「日米関係」における歴史認識(アメリカとの協調がある過去・現在・未来の日本)とは異なった「日本とイスラム世界」という歴史認識や、現場での経験に裏打ちされた視点が、策の中に入っていないことが問題だと思っています。
だから、早い遅いを理由としたその他の視点の排除(歴史認識は優先されるべきものではないとする意見)や、排除の上で成立した策を「客観的に考えれば正しい」とするような「正統」を強調する立場に反発しているのです。


まず、誤解を解かないといけないのは、僕は政策決定において歴史認識の重要性を認めています。それは、前回のレスで書いたと思います。

ただ、青井さんと根本的なズレがある。
それは、僕が今回の法案に対する認識と青井さんの認識のズレでしょう。僕は、同時多発テロに対する法案可決(改正)は早急にするべきだったということです。

残念でした。上にも書いたけど、根本的なズレはそこではないのです。

それは中村医師に対する「発言を訂正しろ!」という議員と同質に思えます。お前の発言は今議員同士が行っている駆け引きに全く馴染まないものであるから、排除するのだ!と言うのと同じです。つまり、政治に現場はいらないと。政治に理論はいらないと。じゃあ、何は政治に使えるのですか?

いらないと入ってませんよね。しかし、理論ばかりで政治は動きません。

理論ばかりで動かそうなんて私は思ったりしません(政治は力の場ですから)が、じゃあ、「理論ばかりで政治は動きません」と言う時、門屋君は何が政治を動かしていると想定しているのでしょうか?

先の記述、発言、では「排除」ということしか明確ではありません。「学問」の「排除」、「事実」の排除、「恣意性」の排除。どうして排除するのですか?排除して、残っているものは一体なんなんですか?

「排除」といったことはありません。もし、僕のレスでそういったニュアンスをかんじたのならば、しょうがないことでしょう。それは先ほど誤りました。僕は政策において「学問」「事実」「恣意性」を排除するつもりはありません。

「排除」って言葉がちょっと強すぎたかな。でも、「学問」「事実」「恣意性」よりも門屋君が優先順位を与えている物があるのは、はっきりしています。それはこのレスの最初に指摘したことなので、ここでは繰り返しません。

ぼく、その中村さんと議員のかわした発言をしりません。教えてください。

http://homepage1.nifty.com/ibuki-ikejiri/Menu/peace/afgan/nakamura-kokkai.htm

正規の議事録に近いものはこちらにのっていましたが、問題の「取り消せ!」発言の言い方のひどさは、きちんと削がれてしまっています。
奥野さんに聞いたらわかるかもしれません。

誤解されているようですが、私は政党みたいな組織の歴史認識や、政府の政策が政治家の歴史認識に影響するとかいう問題を今の話の流れに持ちこむつもりはありません。私が法案の審議についての話をもちこんだのは、「政策決定ができなくなるから」という遅延についてのイメージがどこからくるのかの例として挙げただけです。でも、門屋君の「遅くなるから政策として使えない」と繰り返される「遅い」はどうやらこの例ではうまく引き出せず、別のものが出てきそうなので却下します。門屋君の「遅い」一体どこからくるのか?

そうですね。この点を早く説明しなければならなかった。しかし、その点を説明していなかった。そもそもの問題はそこでしょう。その点は僕が情報の正しい認識による解釈をしていないのかもしれない。その点は認めます。さて、青井さん!僕のこのスタンスが間違った歴史認識による解釈だといってください。僕は僕のことが分かっていません。

イヤだなあ。
自分を間違っていると言って下さいって頼まれるのも変な感じ。
どうしようかな。
でも、随分話は続いているから、前の文章を遡って読み直してみてもいいと思うし、自分の考えを説明する時に、その考えを分析しつつ、わかりやすく書こうとすれば、少しは自分でもわかるんじゃない?

じゃまず、「不合理から生まれた不合理」が一体どういうことなのかについて、門屋君の意見を説明してみてください。


[1907] Re^12: 不合理から生まれた不合理 投稿者:門屋 投稿日:2001/12/17(Mon) 03:14

重要なのは、門屋君が「不合理から生まれた不合理」を考えるときに、一方を「客観的」「普遍的」とし、一方を「恣意的」としたこと、つまり選んだもの、と選ばれなかったもののが二者択一の様に(門屋君の中には)存在しているということです。
門屋君がその選択を行った時に歴史知識がいっぱいあったかどうかは問題ではありません。問題に対処する際、自分ができる範囲で考えても構わないかもしれませんが、少なくとも、その二者択一はおかしくないか?という疑問です。門屋君の主張が拠って立つ「客観性」や「普遍性」は、ほんとに正しいのでしょうか?

 ここは恐らく僕の文がわかりにくかったから、勘違いされているのだと思います。アメリカの歴史認識は「客観性」「普遍性」があり、イスラム世界の歴史認識は「恣意性」がはいっている。そのため、イスラム世界の歴史認識はおかしいなどということを書いたつもりはありません。
 簡単なことです。歴史認識など様々な人の価値観によってどのようにも変わるということです。けれども、ある歴史認識があたかも「客観性」や「普遍性」がでは、事実への正しい理解がゆがめられる。
 ほんとに最初のほうでは、僕はただこのような当然なことを言いたかった。それ以上のことを言うつもりはなかった。つまり、僕の価値観から歴史認識による解釈をするつもりはなかった。しかし、話が流れていくうちにどうも、僕の歴史認識による解釈をする事を迫られている。しかし、僕はそれをしない。いつのまにか、日本の法案の遅れが議論の対象になってしまった。なぜ遅れてはならないのかを青いさんは問う。しかし、僕は答えない。理由として、それには歴史認識だけではなく、他の認識が必要だからだ、ということを挙げた。

 今回のレスで青いさんは、「遅れてはならない」という根拠の僕と青いさんのズレについて考えたくなってきたようですね。

そっか。私のスタンスがよく伝わってなくて門屋君も説明しにくいのかな。
まず、上の記述について返答すると、私は早すぎたなとは思っていますが、早いことが問題とは思っていません。早い遅いよりも、重要なのは、そこに含まれる視点です。「日米関係」における歴史認識(アメリカとの協調がある過去・現在・未来の日本)とは異なった「日本とイスラム世界」という歴史認識や、現場での経験に裏打ちされた視点が、策の中に入っていないことが問題だと思っています。
だから、早い遅いを理由としたその他の視点の排除(歴史認識は優先されるべきものではないとする意見)や、排除の上で成立した策を「客観的に考えれば正しい」とするような「正統」を強調する立場に反発しているのです。


「排除」って言葉がちょっと強すぎたかな。でも、「学問」「事実」「恣意性」よりも門屋君が優先順位を与えている物があるのは、はっきりしています。それはこのレスの最初に指摘したことなので、ここでは繰り返しません。

「不合理から生まれた不合理」と言ったのは僕ではなく、講演会の教授です。僕はそれに対してどのように思ったかというと、イスラム世界にとっての不合理は、アメリカにとっては不合理ではない。
やっとわかったんですけれど、あおいさんは僕の「不合理から生まれた不合理」という言葉を違った意味で解釈していたんですね。
 
 もう一度「不合理から生まれた不合理」についてお答えします。
 最初の不合理は、西洋の合理に反するイスラム世界。
 後の不合理は、イスラム世界の教義に反するテロリズムです。
 僕は一度もイスラム世界とアメリカのどっちが合理で不合理なのかといったことを書いたことはありませんよ。イスラム世界とアメリカが二項対立しているような情勢とは書きました。しかし、どっち(イスラム世界とアメリカ)が正しいか(
二者択一しているように取られる主張をした覚えもありません。

誤解されているようですが、私は政党みたいな組織の歴史認識や、政府の政策が政治家の歴史認識に影響するとかいう問題を今の話の流れに持ちこむつもりはありません。私が法案の審議についての話をもちこんだのは、「政策決定ができなくなるから」という遅延についてのイメージがどこからくるのかの例として挙げただけです。でも、門屋君の「遅くなるから政策として使えない」と繰り返される「遅い」はどうやらこの例ではうまく引き出せず、別のものが出てきそうなので却下します。門屋君の「遅い」一体どこからくるのか?

イヤだなあ。
自分を間違っていると言って下さいって頼まれるのも変な感じ。
どうしようかな。
でも、随分話は続いているから、前の文章を遡って読み直してみてもいいと思うし、自分の考えを説明する時に、その考えを分析しつつ、わかりやすく書こうとすれば、少しは自分でもわかるんじゃない?

 最初に「遅くなる」というのがいったいどこからくるのかと問うたのはあおいさんですよね。それに対して僕は、歴史認識によって法案可決が「遅くなる」必要はないと主張した。また、ここで、どこからくるのかという問いに答えることは、歴史認識以外の認識を議論に持ち込むことになる。だから、僕自身は歴史認識から離れた認識を書くことはしないつもりだった。その点は了承してください、と。

 今回のレスでは、青いさんが僕に出した問いが、いつのまにか「不合理から生まれた不合理という考え方を何故するか?」という問いに変わってますね。

 前回のレスで書いたように、僕のスタンスは今回の法案を提出し、出来る限り今の世界情勢にあわせて可決するべきだ、というものです。そして、このスタンスをとる根拠を説明する必要があるが、それはしないつもりだといった逃げ口上です。

 そもそも、青井さんが僕のスタンスに批判している根拠を書いてくれないから、ぼくも説明しようがなかったということもあるんです。

 だからこそ、青いさんは、なぜ今回の法案、あるいは政策決定過程を「遅らせる」必要があるのか?そして、その「遅らせる」ことが歴史認識の正さに繋がるのかどうか?ということに答えてもらいたい、と前回のレスで書いたのです。

前回のレスで、僕が外交のためと書けば「何故外交の為には早く法案を可決する必要があるのですか?」という問いが返ってくるかもしれません。
 また、識を明確にするためと書けば、「何故、政策の歴史認識を明確にする為には―――――。」という問いが返ってくるかもしれません。
 さらには、力のためという返答に、「そのために間違った歴史認識をしてもいいのですか?」という反論がくる。
  
 これでは、青いさんが、今回の同時多発テロに関する法案のスピード可決をどのように考えているのかがわからないままです。

 それとも、現場の視点を撤回するような政策はおかしいのだから、やはり、歴史認識もある特定の力をもった人間に左右されているのではないか?というようなことを主張していると見ていいのですか?


[1911] Re^13: 不合理から生まれた不合理 投稿者:あおいみほこ 投稿日:2001/12/18(Tue) 15:55

あおい:重要なのは、門屋君が「不合理から生まれた不合理」を考えるときに、一方を「客観的」「普遍的」とし、一方を「恣意的」としたこと、つまり選んだもの、と選ばれなかったもののが二者択一の様に(門屋君の中には)存在しているということです。
門屋君がその選択を行った時に歴史知識がいっぱいあったかどうかは問題ではありません。問題に対処する際、自分ができる範囲で考えても構わないかもしれませんが、少なくとも、その二者択一はおかしくないか?という疑問です。門屋君の主張が拠って立つ「客観性」や「普遍性」は、ほんとに正しいのでしょうか?

門屋: ここは恐らく僕の文がわかりにくかったから、勘違いされているのだと思います。アメリカの歴史認識は「客観性」「普遍性」があり、イスラム世界の歴史認識は「恣意性」がはいっている。そのため、イスラム世界の歴史認識はおかしいなどということを書いたつもりはありません。

それはイスラム世界の認識に対しても門屋君の「普遍性」とかを適用する余地があるということでしょうか?
ただ、ここで私が疑問として挙げた「客観性」とかは「アメリカ」の歴史認識の問題、というより門屋君自身が主張する「客観性」とかの問題です。つまり、門屋君が何を「客観的」「普遍的」とするかという価値判断に対してということです。

門屋: 簡単なことです。歴史認識など様々な人の価値観によってどのようにも変わるということです。けれども、ある歴史認識があたかも「客観性」や「普遍性」がでは、事実への正しい理解がゆがめられる。

そう、「正しい理解」が歪められるって考えるわけですよね。私にはそれが納得できない。
門屋君はあの決め方を肯定し、更に、それは「正しい」やり方であり、もしそこに歴史認識の話が入れば「正しい」ものが歪められる。としている。私にはそれが納得できない。

門屋: ほんとに最初のほうでは、僕はただこのような当然なことを言いたかった。それ以上のことを言うつもりはなかった。つまり、僕の価値観から歴史認識による解釈をするつもりはなかった。しかし、話が流れていくうちにどうも、僕の歴史認識による解釈をする事を迫られている。しかし、僕はそれをしない。いつのまにか、日本の法案の遅れが議論の対象になってしまった。なぜ遅れてはならないのかを青いさんは問う。しかし、僕は答えない。理由として、それには歴史認識だけではなく、他の認識が必要だからだ、ということを挙げた。

他の認識って?

門屋:「不合理から生まれた不合理」と言ったのは僕ではなく、講演会の教授です。僕はそれに対してどのように思ったかというと、イスラム世界にとっての不合理は、アメリカにとっては不合理ではない。
やっとわかったんですけれど、あおいさんは僕の「不合理から生まれた不合理」という言葉を違った意味で解釈していたんですね。
 もう一度「不合理から生まれた不合理」についてお答えします。
 最初の不合理は、西洋の合理に反するイスラム世界。
 後の不合理は、イスラム世界の教義に反するテロリズムです。
 僕は一度もイスラム世界とアメリカのどっちが合理で不合理なのかといったことを書いたことはありませんよ。イスラム世界とアメリカが二項対立しているような情勢とは書きました。しかし、どっち(イスラム世界とアメリカ)が正しいか(
二者択一しているように取られる主張をした覚えもありません。

そうでしたか。誤解していました。てっきりアメリカを合理的と思ってると考えてました。ごめんなさい。でも、やっぱり「不合理から生まれた不合理」というのがしっくりきません。

門屋君の説明にある「不合理から生まれた不合理」には、まず最初に、「西洋の合理」に反するという前提条件がついています。これは「西洋の」という括弧書きを必要とする「合理」です。それから「イスラム世界の教義に反するテロリズム」とありますが、これは前者の対応構造(西洋の合理に対するイスラム世界)で考えると、「イスラム世界の教義」という「合理」に反する「不合理」(テロリズム)ということになります。
ここで「教義」という言葉を除いてみれば、「イスラム世界」の「合理」に反する「不合理」となってしまいます。ここで、前者(西洋の合理に対する不合理)では「不合理」であったものが、後者では「合理」となっています。
もし、講演者が、このアンバランスを意図した上で「不合理から生まれた不合理」と述べたのならば仕方ありませんが、「不合理から生まれた不合理」という言葉だけでは、文脈によって全く意味が異なってしまいます。例えば、「西洋の合理」から見ればどちらも(イスラム世界もテロリズムも)不合理ですし、「西洋の合理」を括弧書きする立場から見れば(「西洋の合理に反するイスラム世界」と認識すること、もテロリズムも)不合理です。

(メモ)---------------
合理 :(1)論理にかなっていて理性でとらえることができること
    (2)道理に合っていて無理のないこと。

非合理:知性・理性によってはとらえられないこと。論理に合わないこと。また、そのさま。
不合理:道理や理屈にかなっていないこと。
-----------------------

こうしてみると、「合理」というのも主観的なものだと思います。アメリカ政府の「論理」ではイスラム回帰主義の人達は「理性」でとらえられるものではないと認識されてるわけですから。しかも「不合理」というより「非合理」として全くの否定を受ける。

門屋: 最初に「遅くなる」というのがいったいどこからくるのかと問うたのはあおいさんですよね。それに対して僕は、歴史認識によって法案可決が「遅くなる」必要はないと主張した。また、ここで、どこからくるのかという問いに答えることは、歴史認識以外の認識を議論に持ち込むことになる。だから、僕自身は歴史認識から離れた認識を書くことはしないつもりだった。その点は了承してください、と。

歴史認識から離れた話になってしまうから、「遅くなる」と思っている理由は書かないつもりだというわけですね。ずっとそのスタンスだったのでしょうか。だとしたら、そりゃ堂堂巡りせざるをえないわけですよ。。

門屋君の持つ「歴史認識」の中身が提示されたらそれはそれで面白いかもしれないと思うけど、それは私が求めてきたこととは違います。私は門屋君がどんな「歴史認識」を持っているのかではなく、門屋君が「歴史認識」という言葉に対して与えている評価を問題としてきたつもりです。
つまり、「歴史認識」という言葉を、どういう意識の上で扱っているかという問題、かつその扱い方を規定している門屋君自身のスタンスの問題です。

門屋: 今回のレスでは、青いさんが僕に出した問いが、いつのまにか「不合理から生まれた不合理という考え方を何故するか?」という問いに変わってますね。

最初から門屋君の考えている「不合理から生まれた不合理」に突っ込むつもりで書いてたんですけどね。

門屋: 前回のレスで書いたように、僕のスタンスは今回の法案を提出し、出来る限り今の世界情勢にあわせて可決するべきだ、というものです。そして、このスタンスをとる根拠を説明する必要があるが、それはしないつもりだといった逃げ口上です。

「今の世界情勢にあわせて」か。なんなんだろうね「今の世界情勢」って。「世界情勢」にもいろんな見方はあるのに、そこで「今の世界情勢」って言う時、何が想定されてる?それを想定したままでもいいけどさ(ほんとはよくないけど)、どうして門屋君がその想定を受け入れて「可決すべきだ」なんて言ってしまうのかがわからない。でも、それに門屋君は答えてくれないってわけか。

門屋:青いさんは、なぜ今回の法案、あるいは政策決定過程を「遅らせる」必要があるのか?そして、その「遅らせる」ことが歴史認識の正さに繋がるのかどうか?ということに答えてもらいたい、と前回のレスで書いたのです。

はい、それに対して私は「遅らせる」必要があるという立場には立っていないことを以下のようにして答えました
私は早すぎたなとは思っていますが、早いことが問題とは思っていません。早い遅いよりも、重要なのは、そこに含まれる視点です。「日米関係」における歴史認識(アメリカとの協調がある過去・現在・未来の日本)とは異なった「日本とイスラム世界」という歴史認識や、現場での経験に裏打ちされた視点が、策の中に入っていないことが問題だと思っています。
だから、早い遅いを理由としたその他の視点の排除(歴史認識は優先されるべきものではないとする意見)や、排除の上で成立した策を「客観的に考えれば正しい」とするような「正統」を強調する立場に反発しているのです。

門屋:僕が外交のためと書けば「何故外交の為には早く法案を可決する必要があるのですか?」という問いが返ってくるかもしれません。
 また、識を明確にするためと書けば、「何故、政策の歴史認識を明確にする為には―――――。」という問いが返ってくるかもしれません。
 さらには、力のためという返答に、「そのために間違った歴史認識をしてもいいのですか?」という反論がくる。
 これでは、青いさんが、今回の同時多発テロに関する法案のスピード可決をどのように考えているのかがわからないままです。

私のスタンスを言明するより、門屋君の言葉を分解して行った方が、面白いのが出てくるだろうと思って続けていました。でも、結局は門屋君の認識を深く掘っていくことはできず、行き詰まってしまいました。堂堂巡り。

で、何度か私のスタンスをちょっとづつ出してみました。でも、出しすぎて、私のスタンスを理解することに時間が割かれれば、門屋君の出した言葉への分析がおろそかになり、問題の焦点がぼやけてくると思ったので、あんまり出しすぎないように気をつけてきたつもりです(うまくできず感情的な部分もあったかとは思いますが)。ただ、伝えた方が良さそうな感じなので、簡単にですが、下に書きたいと思います。

門屋: それとも、現場の視点を撤回するような政策はおかしいのだから、やはり、歴史認識もある特定の力をもった人間に左右されているのではないか?というようなことを主張していると見ていいのですか?

「歴史認識もある特定の力をもった人間に左右されているのではないか?」っていうのがよくわからないのですが、私の見解を書かせてもらうと、まず、政策にしても法案にしても、さまざまな偶然要素、恣意的要素やらで構成されたダイナミックな力の動きがあって、「決議案」や「決定」が出ると認識しています。それは、なんとか自分に有利な決定に持ちこもうとする駆け引きの中からやっと出てきた「合意」でしかありません。そこでは、多種多様な情報や手段が使われるでしょう。歴史認識もその一手段に過ぎません。(歴史認識に対するスタンスが門屋君とは全く異なるかと思います。)
じゃどうして歴史認識を策に入れる必要があるかと考えるのかといえば、その駆け引きにおいて、狭い視野角の情報で戦ったのでは、最終的には利益を損なうことになりはしないかと思うのです。様様な情報を自分の認識に採りこんだ上で、策を立てるべきではないかと思うのです。
また、策をどうのこうのとはまた別に個々人としても、様々な情報によってたつ歴史認識を持つことは非常に重要だと思っています。

「策」がどうのっていうのは、前置きみたいなもんです。問題はその「策」の上っ面に乗っかってしまってる門屋君です。


[1903] Re^10: 不合理から生まれた不合理 投稿者:多くのまさまさ 投稿日:2001/12/11(Tue) 22:30


この話の発端、門屋君が「不合理から生まれた不合理」をイスラムの「不合理から生まれた不合理」としたけれど、それは違うという所から始まりました。イスラムへの歴史を認識しておくことは、策を決定するために価値あるものだと視点でこれまで書いてきていますが、まずあったのはイスラムこそが「不合理」なのだという視点への驚きでした。
残念ながら、今や話は肝心の「不合理から生まれた不合理」からは随分遠ざかって、日本の政治話になっていますが、本当に話したい所は、門屋君みたいな一人の個人が、この「不合理から生まれた不合理」をどう思い、どれだけ認識し、考えてるのかということです。政治がどうのとかいうんじゃなくてね。どうですか?

 この点は、僕も知りたいところですね。

 端的な質問としては、9月11日の事件がどうして起こったのか、と言う点について、モンチの考えを聞いてみたいな。

 この質問に答えるには、頭の狂ったテロリストが歴史とは何の脈絡もなくやったんだとの答えでもしない限り、イスラムの歴史に触れることは避けられないと思う。

 それとも、歴史なんか考える必要はない。テロリズムを根絶すると言うアメリカの主張は、今日のご時世に照らして、逆らいようのない流れだと思っているのだろうか。

 どうですか?


[1839] マック 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/11/14(Wed) 17:21


 堤さん (文ちゃん、伝えといてもらえますか?)

うちの使わないマッキントッシュは実は5320でした・・・。

 ケーブルが行方不明のプリンターともどもゼミ室に置いときました。あとは好きにかわいがってあげてください。できれば初期化、お願いします!



[1829] 西成公園シェルター建設について。 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/11/10(Sat) 00:01

とうとう西成公園にもシェルター建設計画がスタートしたようです。

年内にシェルターの始動を目指しているみたいです。どうなるんでしょう。僕のフィールドは無くなってしまうのでしょうか。みんなどこか行ってしまうのか。

大阪市、西成公園のホームレスの生活実態調査(11月7日)
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/3478-frame.html


[1830] Re: 西成公園シェルター建設について。 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/10(Sat) 00:22

とうとう西成公園にもシェルター建設計画がスタートしたようです。

年内にシェルターの始動を目指しているみたいです。どうなるんでしょう。僕のフィールドは無くなってしまうのでしょうか。みんなどこか行ってしまうのか。

それもだけど、「ホームレス自立支援法案」についてフォローしてますか?

その内容もさることながら、「自立支援」という名前からくる胡散臭さがまさしくワタナベ君の問題意識と重なるような気がします。

法案は来期に見送りになりそうですが・・・・。

自立って・・なによ?


[1824] 猫。。。 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/11/05(Mon) 19:33


 お久しぶりです。大祭の写真展も無事に成功し、写真部の役員も引退しました。なんか身軽になった気がしてます。とはいっても、あんまり仕事してなかったけど・・・。

 大祭3日目の昼、我が家に生後一ヶ月にも満たない子猫が運ばれてきました。写真部の買出し班の車がパチンコラスベガスの交差点で轢きかけたらしいのです。
 幸い無傷だったんですが、その日は雨が降っていてびしょぬれだし、ほうっておいたら確実に後続車に轢かれるだろうということで連れてきてしまったそうです。(そしてなぜか我が家に置いてかれた・・・。)

 鳴きすぎて声も出ないし、かなりおびえていていました。多少目やにが出るので次の日動物病院に連れて行き、診てもらいました。

 人間の赤ちゃんと同様、3,4時間おきにはミルク、排尿・排便の世話を焼かなくてはならないので大変です。夜鳴き(夜泣き?)もするので気分はすっかりお母さんです。もう3日目なので恐怖心もなくなったのか鳴けるようになりました。さて、これからこの子をどうするか・・・。

 特徴は模様のはっきりしたキジ猫(茶トラのモノクロバージョンです。)のオス。首をつまんで持ち上げるとおとなしく丸まります。一般的にこういう子猫はお利口さんに育ちます。耳がでっかく、離れているのでスターウォーズのヨーダそっくりです。母親のひいき目がありますが、表情・しぐさはなかなか愛嬌があります。

 とりあえず猫経験は豊富なので、トイレのしつけができるまではがんばろうと思います。いい貰い手が見つからない場合、最終的には私かヒロノが飼うことになると思います。いい話があったら教えてください。

 さっき野研のページを覗いたら、どうやら文ちゃんも子猫を保護してるようですね。いま子猫シーズンなんですかね?


[1828] Re: 猫。。。 投稿者:平安 投稿日:2001/11/08(Thu) 23:38

私も今日から友達のネコを預かっています。
さすが雄ネコ、暴れまくり、散らかしまくりで、
前に飼っていたネコにそっくりで困っています。
ロシアンブルーの血統賞付きでキレイなネコだけど、気品ゼロ。
雄ネコっていうのは皆こんなにやんちゃなんだろうか…。

野良猫や野生の動物って生きるのに大変そうだけど、
家で飼われている動物って、安全で暇な時間がたくさんあって、
実はいろいろ哲学していたりして…、とか時々考える。
「まったくヒロノはだらしねーなぁ〜」とか、
「男を見る目がなくてバカやね〜」とか。
かわいい〜!って思ってる側でそんなこと思われてたりして。
そして一番迷うのが去勢。
一生部屋の中で長生きをして、こいつは幸せなんだろうか、
女の子と遊びたいんじゃなかろうか、と。
でも、飼い主としてのいい訳はたくさんある。
外には車も病気もある。去勢をすれば長生きできる。
私がこいつなら・・・と考えてもきりがないし、わからない。
そこで去勢手術を決意した矢先、私のネコは逃げた。
今頃外の世界を満喫して、誰のものにもならず冒険しているのかも。

言葉が通じない以上、私もネコも自己中心的に振舞う。
でも、人間同士でも対して変わらないと最近思う。
他人中心的な振る舞いっていうのはありえない。
尽くすのだって自己中心だ。
他人中心は自己中心になるし、逆もあると思う今日この頃。
ネコに対しては、言葉が通じないからといって、わかっていて自分を優先する「自己ちゅー」にならないように気をつけたい。




[1832] Re^2: 猫。。。 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/10(Sat) 00:27

言葉が通じない以上、私もネコも自己中心的に振舞う。
でも、人間同士でも対して変わらないと最近思う。
他人中心的な振る舞いっていうのはありえない。
尽くすのだって自己中心だ。
他人中心は自己中心になるし、逆もあると思う今日この頃。

いいねぇ。

ところでゼミは月曜日だっけ?みんなくるのかな。

ヘナがあるぞぉ。




[1838] Re^3: 猫。。。 投稿者:SE☆ゆうき 投稿日:2001/11/12(Mon) 09:15


ところでゼミは月曜日だっけ?みんなくるのかな。

ヘナがあるぞぉ。


空港でばれなかったんだ。いいなぁ、私もやってみたい。


[1837] Re^3: 猫。。。 投稿者:ヒラヤス 投稿日:2001/11/11(Sun) 00:31

ヘナがあるぞぉ。

へナって何??
わからないけど、なんだか楽しみだ〜♪


[1833] Re^3: 猫。。。 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/11/10(Sat) 02:03

ところでゼミは月曜日だっけ?みんなくるのかな。

月曜の6限からです、けど、来週にはもう日本に着てるんですか?

ヘナがあるぞぉ。

アソコが赤くなるやつですか?


[1836] Re^4: 猫。。。 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/10(Sat) 18:55

ヘナがあるぞぉ。

アソコが赤くなるやつですか?

赤というよりは黒といったかんじですね


[1842] Re^5: 猫。。。 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/16(Fri) 02:49

ヘナがあるぞぉ。

アソコが赤くなるやつですか?

赤というよりは黒といったかんじですね

もしかしてSEゆうきがもってきたクラクラになる木の実(ビンロウ)とまちがえてないかな?

あれじゃないです。ビンロウの効き目は数十分ですが、ヘナは一週間はもつそうです。

では、帰ります。


[1843] Re^6: 猫。。。 投稿者:SE☆ゆうき 投稿日:2001/11/16(Fri) 09:24

ヘナがあるぞぉ。

アソコが赤くなるやつですか?

赤というよりは黒といったかんじですね

もしかしてSEゆうきがもってきたクラクラになる木の実(ビンロウ)とまちがえてないかな?

あれじゃないです。ビンロウの効き目は数十分ですが、ヘナは一週間はもつそうです。

では、帰ります。


 一週間・・・効いた状態で会社に行ってみたい・・・。
もう試してみたの?どうだった?


[1826] Re: 猫。。。 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/08(Thu) 15:38

 お久しぶりです。大祭の写真展も無事に成功し、写真部の役員も引退しました。なんか身軽になった気がしてます。とはいっても、あんまり仕事してなかったけど・・・。

せっかく書いたのに全部消しちゃったよ。まあ、もう一回書くか。

僕の家には猫が二匹。一匹は、僕が高校1年生の時、若松体育館の前のセブンイレブンでかっぱらってきた首輪の付いた毛並みがいい猫。バスの中で泣き止まず、バスの運転手に怒られたことは結構な思い出だ。今では、去勢されてぶくぶく太っちゃって、この前ニュースで見た肥満猫大会に、このまま行けば出れるかもしれない。もう一匹の猫は僕以外の家族が拾ってきた。こっちは、野良だから太らないのか、年々経っても大きくなりそうにない。やはり、野生の血が騒ぐのか、よく内の庭にいるとかげとか、木にとまっているすずめをとって、ご主人に見せている。よく、僕が拾ってきた猫にちょっかいだしては、嫌がられる。

家族でペットを飼いたいというのはいつも僕だった。犬、鳥、カメ、トカゲ、ハムスター、熱帯魚といつのまにか僕が増やしていた。そのくせ、世話は他の家族がやって、僕はそいつらを眺めてるだけだった。そんなこんなで、大学生まで来て、ペット飼うのはやめにしようと思った。単純にどうせ飽きるんだからというのと、本多勝一の『アラスカ:エスキモー』を読んだ影響だ。エスキモーはソリ犬を言うこと聞かない時は半殺しにすることをしって、自分はそんなことできないからやめた。

ちょっと前に、久しぶりに家に帰った。僕が拾ってきたカワイイ猫は、僕を見てビビってもう近づこうとしない。それでも、近づいて手を口にやると、昔のように噛んでくれる。だけど、今では昔のように血も出ないし、歯形さえつかない。情けないと思いながらも、去勢したんだから仕方がないかなと思っている。

その日、風呂から上がって、居間で姉ちゃんと喋っていると、電話が鳴った。僕が久々に家の受話器をとると、「もしもし、サトウですけれど、裕和君いらっしゃいますか?」と電話越しのカワイイ声のお姉さんが話し掛けてきた。裕和君は僕であることを告げ、また友達の声を忘れてしまったのかと閉口しながら、延々と喋るお姉さんの声に聞き入っていった。3分ぐらいして、セールスであることが間違えなかったから、切ろうと思ったけれど、口調を止めるタイミングがはかれない。しょうがないから、セールスに入るぎりぎりまで待とうと思い、かわりに僕が何か質問しようと思った。お姉さんがちょっと一息いれたところで、「僕の住所どうやって知ったんですか?」と聞いた。どうして電話番号と言えなかったのかを考えながら、お姉さんが返答するのを聞いていた。「あのね、国民データって言うのがあってね。それで調べたの。だって、尻も知らない人から突然かかってきたら、ストーカーだとおもうでしょ」。僕はストーカーとは思わないなと思いながら、「どっちみちバイトの人が、住民票かなんかから引っ張り出してきたデータなんだろう」と言おうと思ったが辞めた。そのあと、今何してたのとか、ファッションはこだわる方とか何とか聞かれたぐらいのところで、「それでは」といって無理矢理受話器を置いた。「待って、まって、裕和君」というお姉さんの声になぜか哀愁を感じた。

最近、猫の首の近くに埋め込むことができるマイクロチィップが開発されたというニュースを爆笑問題が言っていた。これによって、たとえ猫が逃げ出しても、首筋にピピッと機械を当てると、飼い猫か野良猫かわかるそうだ。猫好きにはたまらないのか、どうか知らないこのマイクロチィップだけれど、人間も埋め込んじゃえばセールスのやり方も変わるんだろうな。


[1827] Re^2: 猫。。。 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/08(Thu) 15:41


家族でペットを飼いたいというのはいつも僕だった。犬、鳥、カメ、トカゲ、ハムスター、熱帯魚といつのまにか僕が増やしていた。そのくせ、世話は他の家族がやって、僕はそいつらを眺めてるだけだった。そんなこんなで、大学生まで来て、ペット飼うのはやめにしようと思った。単純にどうせ飽きるんだからというのと、本多勝一の『アラスカ:エスキモー』を読んだ影響だ。エスキモーはソリ犬を言うこと聞かない時は半殺しにすることをしって、自分はそんなことできないからやめた。

すいません。『カナダ・エスキモー』です。


[1825] Re: 猫。。。 投稿者: 投稿日:2001/11/05(Mon) 21:13

家にいる猫は、生後2ヶ月くらい。1週間くらい前に僕のアパートの外で泣きわめいているところを捕獲しました。

 最初は小さくてころころしていたのに、1週間でずいぶんおおきくなってしまった・・・。

 昨日はKOBOのテントで暴れまくり、寝まくり、食べまくり。今日は昼間に青い3cmくらいのモール?(針金製のラッピングに使うやつ)を吐き出してた。なんでもかんでも食うのでこまる。

http://www.kitakyudai.net/~ceo/newcat/


[1811] 質問etc. 投稿者:まさ 投稿日:2001/11/02(Fri) 21:07

最近、投稿していなくてすいません。

文献を読んだりしていると、考察をどうしようか、などと考えてしまって、書き出せないでいました。

でも、もうどっちにしろ書かなくてはいけない、姫島の概要や盆踊りの歴史等々の考察以外の部分をとにかく書き出して、平行して考察を考え推敲をしていく、という風にしようと思います。

中間発表で出した章立てには、気になることをとにかく全部詰め込んでみたのですが、大ちゃんや重信先生や他の方の意見を聞いて考え、あまり「創られた伝統」などには深入りしすぎずに、「踊る主体(わたしも含めて)にとっての『意外性』の探求」を焦点にしていきたいと思います。

いくつか質問を。

1、姫島の文献がどれも古いので、人口や産業はどんな文献で調べるのがいいのかなと。国勢調査の本とかがあるのかな?
それとも役場に問い合わせたほうが正確かな、などと思ったので。

2、人に聞いた話を書くときは、名前を書く人と書かない人をまちまちにしてもいいのか、について。
名前を書く人には事前に確認を取ったほうがいいですよね、きっと。
その辺で配慮したほうがいいこととかあったら知りたいです。

あとは・・忘れちゃったのでまた今度書きます。
アドバイスがあればお願いします。

大ちゃんが紹介してくれた佐々木重洋さんのアフリカの仮面についての本、とてもおもしろいです。
異文化をどんどん取り込んでる、とかいう話が、「おおいいぞー」という感じで。
ホブズボウムも面白いです。

借りた本早く読まないと。
そしてもっと文献集めないと。

本腰入れていきます。


[1818] Re: 質問etc. 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/03(Sat) 01:35

1、姫島の文献がどれも古いので、人口や産業はどんな文献で調べるのがいいのかなと。国勢調査の本とかがあるのかな?
それとも役場に問い合わせたほうが正確かな、などと思ったので。

門屋君のいうとおり。役所で資料はもらえるし、一般的な統計は図書館にもあるはず。

2、人に聞いた話を書くときは、名前を書く人と書かない人をまちまちにしてもいいのか、について。
名前を書く人には事前に確認を取ったほうがいいですよね、きっと。その辺で配慮したほうがいいこととかあったら知りたいです。

論文の初稿を書いた段階くらいに、見てもらうのがよいだろうと思います。なにも書いてなければ相手も判断できないだろうから。事実関係の確認と追加調査もかねてね。ぼくが今度沖縄に行くのもその目的です。

大ちゃんが紹介してくれた佐々木重洋さんのアフリカの仮面についての本、とてもおもしろいです。
異文化をどんどん取り込んでる、とかいう話が、「おおいいぞー」という感じで。
ホブズボウムも面白いです。

借りた本早く読まないと。

まあ、必要な所だけ読めばいいと思うよ。その本が面白いなら別だけど。

本腰入れていきます。

書きつつ戻りつつ高見に向かって進みましょう。本腰入れるある種の運動と基本です。



[1814] Re: 質問etc. 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/02(Fri) 23:01

中間発表で出した章立てには、気になることをとにかく全部詰め込んでみたのですが、大ちゃんや重信先生や他の方の意見を聞いて考え、あまり「創られた伝統」などには深入りしすぎずに、「踊る主体(わたしも含めて)にとっての『意外性』の探求」を焦点にしていきたいと思います。

この前のレポートでどういった方向で論文を書くのかを決めないと、どうしようもなくなるのがやっとわかった。けれど、やっぱり一回バーッと書いてみないと、頭悪い人は書けないんだということもわかった。そうやって、容量良くなってくることもわかった。けれど、それじゃあだんだん決まりきった仕事をしているように思えてくるんだろうな、ということを思った。まさやんも色々考えちゃって、なかなか文にならないんでしょう。藍島の方は、たわいも無い中途半端な日記はあるが、そこに何が隠されているのかをまだ試みていない。一方で、どうせ何も隠されていないんだろう。そんなことに時間を費やすのではなく、何か出来上がった物に時間を費やしたほうが良いのではないかと思う。その出来上がった物というのは、当然他人のなんだけれどね。


いくつか質問を。

大ちゃんに聞いてんだろうけれど、これなら僕にも返答できそうなもんだ。

1、姫島の文献がどれも古いので、人口や産業はどんな文献で調べるのがいいのかなと。国勢調査の本とかがあるのかな?
それとも役場に問い合わせたほうが正確かな、などと思ったので。

どういう方法でも探せばあるんじゃない。姫島のことだけに関するものなら、役場に問い合わせて資料を請求するのが一番早いんじゃない。

2、人に聞いた話を書くときは、名前を書く人と書かない人をまちまちにしてもいいのか、について。
名前を書く人には事前に確認を取ったほうがいいですよね、きっと。
その辺で配慮したほうがいいこととかあったら知りたいです。

それは自分で決めれば良いんじゃない。そのあとの責任を負える範囲のことかどうかを自分なりに考えて対処すれば良いんじゃない。


[1807] アメリー 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/01(Thu) 03:01

■アメリー(amelie)を見た。ことしフランスで大ヒットした映画である。ロードショーはおわっていたが、幸いなことにミニシアター系の名画館で興行予定を延長して上映していた。

■ひとりの若い女性が、日常の小さな楽しみを人々に与えながら幸せを振りまくユーモアあふれる映画。簡単にいってしまえばそんなありがちな設定の物語なのだが、それだけでは語りつくせない面白さに満ちていた。

■不思議な映画だった。たしかに主人公であるアメリーは活発で明るく魅力あふれる女性としてえがかれているが、彼女の行動にはどこか言いようのない不自然さがいつもつきまとう。そして彼女のまわりに登場する人々もまた、それぞれ独自の不自然さのなかで生活している。

■デリカテッセンのジャンピエール=ジュネらしい不安定な映像が、平凡な日常の中のわずかなゆらぎを見事に切り出してくる。その美しさに魅了されながら、なぜぼくはこの映像にこれほどの不自然さを感じるのか、漠然とそんなことを考えていた。

■すでにどこかの映画評論家が指摘しているかもしれないが、この映画では、さまざまなメディアが随所に登場する。メディアすなわち媒体。人と人のコミュニケーションをつなぐ道具。メディアはメッセージ伝えながらそれ自体も一つのメッセージとなる。そしてアメリーはさながらメディアとたわむれる妖精だ。

■思い出せる限り列挙してみよう。聴診器、写真機、アンテナ、テレビ放送、タイムカプセル、ベルが鳴る公衆電話、鏡を使った光の交信、捨てられたインスタント写真、何度も模写される名画、時計を写すビデオカメラ、ボイスレコーダー、うわさばなし、おくれて届く手紙、世界各地から送られるポラロイド写真、路上に書かれた矢印、望遠鏡、ガラス越しの文字、ポケットに落とされるメモ、ビデオの映像、ドアの隙間から差し込まれるメモ、突然なりだす電話、壁の落書き。

■時に彼女は、映画のスクリーンというメディアを介して観客席にまで現れ、唐突に僕に話しかける。「映画館で後ろを振り向いて観客席の人を眺めるのってステキじゃない?」ぎょっとして思わず後ろを振り向く観客、あなたは誰?

■切り取られ、つなぎ合わされる電話の声や写真画像。そこから解釈される新しい意味。メディアを介すときアメリーは自由である、メディアを操りながらアメリーは生き生きとしている。

■しかし、ひとたびメディアを失うとアメリーは自分の空想の世界に閉じこもってしまう。おおくの人々に取り囲まれながらアメリーは孤独である。誰かと接触するためのその一歩を踏み出すことができずに、アメリーはおびえている。

■たぶんこの映画を見ながら感じた不自然さは、すべてここから来るのだろう。アメリーだけでなく映画の登場人物の誰もがその一歩におびえている。心を病みながら、体を閉じながら、だれもが不自然に日常の役割をこなしている。

■でも、そのことを決して否定的に考えないで欲しい。不自然だからこそ人間というのは愛すべき存在なのだ。アメリーのまわりに引き起こされるちいさなミステリーとイタズラの隙間に、ふとかいま見えるひとりひとりの登場人物の人生の重み。その重みが、映像をとおしてまるで我が事のようにいとおしく感じられる。

■映画が終わって外に出た。夕闇せまるウォルトン通りは、オレンジ色の街頭の光にぼんやりと浮かび上がっていた。その瞬間、ぼくはまだ映画が続いているような錯覚に落ちいった。すれ違う人々の顔が、他人には思えない。みなそれぞれに苦しみ楽しみながら、かけがえのない時間を生きているのがわかる。たとえそれが幻と言われようと、僕と彼らとのあいだをつなぐ一歩は、きっとどこかにあるはずだ。

■サマータイムが終わったばかりのショーウィンドウの中の時計は、どれもみなまちまちで、今何時なのかすらわからない。緋色と紺色の影が、歩道の上にきれいな幾何学模様を織りなしている。冷たく光る月の下、黄昏時の浮遊感のなかで、好きな人のことを考えながら歩いてみる。


[1808] Re: アメリー 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/11/02(Fri) 01:58

■しかし、ひとたびメディアを失うとアメリーは自分の空想の世界に閉じこもってしまう。おおくの人々に取り囲まれながらアメリーは孤独である。誰かと接触するためのその一歩を踏み出すことができずに、アメリーはおびえている。

■たぶんこの映画を見ながら感じた不自然さは、すべてここから来るのだろう。アメリーだけでなく映画の登場人物の誰もがその一歩におびえている。心を病みながら、体を閉じながら、だれもが不自然に日常の役割をこなしている。

面白そうですね。だいちゃんの気付きを頭に置いた上で見る、というのは違うのだろうけど、見てみたいです。子どものころから知らず知らずにたくさんのものに囲まれて、それを当たり前のこととして暮らしている。持つものがたくさんあればあるほど安心だけど、不自由にもなる。

今日の昼前、公園のおやじさんから電話がありました。携帯電話の掛け間違え。こういうことは何度かあった(おやじさんは多分、携帯電話の住所録を使いこなせないのでしょう)。「大晦日に来るんやろ?」「正月はこっちで過ごしや」「彼女も連れて来」……って、出し抜けの掛け間違えの電話でポンポン言わないで〜。

僕の弟は携帯電話を持ってません。友人だか先輩に「携帯電話を持ってないと勝手な人だと思われるぞ」と親切ごかしに言われたそうです。ふざけた話。

■映画が終わって外に出た。夕闇せまるウォルトン通りは、オレンジ色の街頭の光にぼんやりと浮かび上がっていた。その瞬間、ぼくはまだ映画が続いているような錯覚に落ちいった。すれ違う人々の顔が、他人には思えない。みなそれぞれに苦しみ楽しみながら、かけがえのない時間を生きているのがわかる。たとえそれが幻と言われようと、僕と彼らとのあいだをつなぐ一歩は、きっとどこかにあるはずだ。

どれだけ踏み出せばうまく届くのだろう。考えると踏み出せなくなるから別の何かをしながら出会える人に出会おう。


[1806] 今日はちょっと機嫌が悪いかも 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/01(Thu) 02:57

帰国後の予定を書いておきます。

11月中旬に帰国できるようにいまこちらで準備を進めています。

帰国したら、すぐに卒論の初稿が見られるように原稿を用意しておいて下さい。今年の卒論提出予定者は、ワタナベ・まさやん・三宅の三名ということで心づもりをしています。

12月いっぱいかけてそれを直します。といっても冬休みがあるので、25日までには出しましょう。日程的にいって今年は年越しの校正は無理そうです。

ぼくは12月末に2週間ほど沖縄に調査に行きます。ばたばたしてしまいますが、うまく調整すれば3名くらいの卒論なら見れそうです。もちろん原稿があっての話ですが。

そして来年の1月からまたバヌアツかソロモンに調査に出ます。その前の成人式の日のあたりに、京都にゼミ旅行に出かけましょう。調査から帰るのは3月です。生態人類学会に出られるかどうかが微妙です。


[1809] Re: 今日はちょっと機嫌が悪いかも 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/02(Fri) 20:56

11月中旬に帰国できるようにいまこちらで準備を進めています。

今ごろバタバタして忙しいんでしょうね。

ワタナベ・まさやん・三宅の三名ということで心づもりをしています。

これって、やっぱりネット人類学ゼミに出席していないから、森安さんとか、長尾さんとか、黒田さんとかが入っていないんですよね?どうするんだろうな、ゼミにはみんな出席していましたけれど、三人の方々はようやく章立てができそうかなって所まで行っていましたよ。けれど、的確な助言を与えられる人がいないから、みんな話するんでけれど、四方八方に話が展開して、逆に混乱した状態だったな。

そして来年の1月からまたバヌアツかソロモンに調査に出ます。その前の成人式の日のあたりに、京都にゼミ旅行に出かけましょう。調査から帰るのは3月です。生態人類学会に出られるかどうかが微妙です。

わあ、兎に角忙しそうだなあ。


[1815] Re^2: 今日はちょっと機嫌が悪いかも 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/03(Sat) 01:10

これって、やっぱりネット人類学ゼミに出席していないから、森安さんとか、長尾さんとか、黒田さんとかが入っていないんですよね?どうするんだろうな、ゼミにはみんな出席していましたけれど、三人の方々はようやく章立てができそうかなって所まで行っていましたよ。けれど、的確な助言を与えられる人がいないから、みんな話するんでけれど、四方八方に話が展開して、逆に混乱した状態だったな。

もうしわけないけど、本人がなにも書いてこない以上、ぼくとしては手の施しようがないという感じです(もちろん実は、隠れて自分でこつこつ書き進めていたのだ・・というのはありですし。ひそかに、そう願ってますが、悲観的です)。

中途半端な状態でばたばたするのはいやですから、来年にじっくり時間をかけて書くことにしましょう。三人にはそうお伝えください。

過去の卒論の進行具合と比較しても、今の感じでは日程的にかなり無理があると思います。まさやん、ワタナベ、三宅ちゃんでもぎりぎりという印象です。


[1798] 章立ての前に 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/31(Wed) 12:47

「いつも門屋君は抽象的なことや、方法論ばかりだから、コメントのしようがない。はやく、具体的な事例を出さなきゃ。そうしないと、いっこうに始まらないでしょ。」と三宅先生に言われてしまいました。

「たしかに、せっかくのフィールドワークの報告書ができていないのは承知しています。ただ、僕たちにとって一番の疑問となっていることだからこそ書いたことなんです。」と言うが。結局、環境とは何かという問いにたいするコメントを聞けなかった。僕たちは、ただ偏屈なだけではないかと思った。他の三宅ゼミのグループは、いろいろ文献調べてレジュメ5枚にもなる報告書を作っているグループもある。

僕たちが思うのはそんなデータよりもさきに、自分の疑問であることを先にして、それからデータを探せばいいと思った。すべてのデータを鵜呑みにしたような報告書はあまりいい報告書とは思えない。けれど、自分の経験した事例を早く出していないので、一番痛い点を突かれたと思った。

今から載せるのは、三宅ゼミにおいて書いたレジュメです。何かご意見あったら、お願いします。資料とか何もなくて、ただ僕たち(僕をふくむグループの人)の論文を書く前の心構えのようなものですので、コメントしにくいでしょうけれど。

***************************
僕たちの疑問

「いったい、環境問題って何だろう?」僕たちの疑問はここから始まりました。何気なく生活している中で「環境問題」という言葉を耳にすることが多い今日、この言葉から連想されてくるものとは人それぞれでしょうが、共通した見方として上げられるのが、私達の住んでいるところに対する「危機感」です。それは、自然環境における森林伐採や海洋汚染や生物種の絶滅などからからくる危機感であり、社会環境における衣食住の機能性や安全性、または生活環境の悪化などからくる危機感であり、文化環境における画一化による伝統や慣習の希薄化やコミュニティーの崩壊による人間関係の希薄化や孤立化などからくる危機感であります。しかし、僕たちが本当にこの危機感を抱いているのでしょうか?そして、抱いているならば、その危機感というのを何から感じとっているのでしょうか?
僕たちのこの様な疑問のなかには大きな意味が隠されているように思うのです。「環境問題」とは環境の問題に他なりません。そして、その問題からうまれでる危機感とは、環境に対する危機感に他ならないとも言えるでしょう。それでは、僕たちの中で「環境」というこの言葉に対する自分なりの明確な概念を持つ人間がどのくらいいるのでしょうか?「環境」というのを「自然」と同義でつかっている人もいるでしょうし、個人を取り巻く事象や、前述した環境の意味を知っている人もいるでしょう。しかし、現代人にとって、「人間や生物の周囲にあって、意識や行動の面でそれらと何らかの相互作用を及ぼしあうもの」という概念において環境を捉えることが、果たして容易なことでしょうか。そしてなによりも、そのような一般的な概念の中で、私達の危機感を考えることは環境問題を解決する糸口を見つけ得る事ができるのでしょうか?
さて、僕たちは今回のフィールドとして藍島を選びました。実質、藍島をフィールドの対象としたのは門屋のみです。そのため、今回の論文は、門屋がフィールドワークをとおして得た見地から何らかの論点を見出し展開していきたいと思います。なお、高村と田中は、門屋の出した見地を理解した上で、論点を見出し展開していく形をとります。校正にあたって、門屋の見地と他二人の観点に違いが生じた場合をどうするかはまだ考えておりません。
門屋は、9月2日から9月30日の約一ヶ月のあいだ、藍島の大泊港の南東に位置する自然に形成された湾で素潜りを実体験しました。当初の目的であった藍島における素潜り漁を調査するというよりも、藍島の生態系をすこしでも理解するべく、実際に海に潜って魚を突くことに主眼をおきました。詳細はまた後に述べることにします。そこで得た見地は、環境問題をどう見れば良いか、そして環境に対してどういった観念をもったらよいのかを考えさせてくれました。なお、今のところは、その観念をある理論や倫理に基づいて展開していくつもりです。そこで、参考になりそうな環境のとらえかたとして環境世界をあげ、環境倫理としてディープエコロジーをあげておきます。ただし、環境世界の理論を展開するつもりはありませんし、ディープエコロジーの思想を自分の観点とするつもりもありません。つまりは、まだ何もできていないのです。

*語句説明
環境問題
全ての生命活動と産業活動は、それが生産活動をおこなうことにより必然的に廃棄物や廃熱を発生する。近代以前までは、それらの廃棄物は土壌生物による分解の結果、生態系における循環のなかに組み込まれており、また廃熱は水循環の結果、大気の対流圏上部から長波長放射により宇宙に廃棄されていたため、環境問題に発展することはむしろまれであった。
しかし、1960年代以降、石油時代に入るや、土壌分解のできない化学物質や放射性物質が大量に廃棄されるようになってきた。当初は、工場廃液や煙突んどから垂れ流されたこれらの物質は公害問題として扱われ、因果関係も立証される場合も多かったが、70年代以降環境の悪化は構造的になってきた。フロンガスのオゾン層破壊から合成洗剤による水質汚染、石油の大量消費にともなう炭酸ガス濃度の増加による温暖化現象、広域的に広がる酸性雨被害など、現象が巨視的になると同時に、原因が多様化・複合化し、加害者と被害者の判別すら出来なくなってきた。
これらの原因は、土から収奪した資源を浪費し、廃棄物の段階で再び土を殺すという現代文明の構造そのものに起因すると考えて良いだろう。さらに、長距離輸送が環境破壊をいっそう助長している。生産地点と消費地点との距離が地球規模の長さまでに伸びた結果、個々の物質と環境との関係が誰の目にもみとおすことが出来なくなり、また責任も消失してしまった。環境問題解決のためには、国際的な視野での対策も必要であるが、同時にそれぞれの生活の様式を見直した通した活動が不可欠である。

環境
人間や生物の周囲にあって、意識や行動の面でそれらと何らかの相互作用を及ぼしあうもの。また、その外界の状態。自然環境の他に、社会的、文化的な環境もある。

概念
ある事物の概括的な意味内容。
(哲)事物が思考によって捉えられたり表現される時の思考内容や表象、またその言語表現の意味内容

環境世界
動物は自分の身のまわり、すなわち環境(environment)のなかから、自分にとって意味のあるものだけを選び出し、それを知覚するとともに、それに働きかけつつ生きることによって、自分の取り巻く世界を構築している。このことを、環境世界(umwelt)という。一つの客観的な環境というものはありえないという点で、環境世界論は近代的認識に大きな疑問を投げかけるものである。

ディープエコロジー
ディープエコロジーとは、1920年代の初めにノルウェーの哲学者アルネ・ネスが提唱していらい、エコロジストや、エコロジーの理論的探求に関わる人たちの間で徐々に広がっている、新しい自然観とその哲学に基づくライフスタイルや市民の運動を指す、「ディープ(深い)」という言葉からわかるとおり、自然と人間の関係について、より深い問いかけをすることにより、従来の人間中心的な環境問題へのアプローチ、エコロジーの考え方を超えようとするものだ。





[1799] Re: 章立ての前に 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/01(Thu) 01:54

環境とは何かなんてだいそうれた問いを立てる前に、門屋が何を見てきたのかを語るべきでしょう。それすら語れないようでは、話になりません。語れるものがなにもないのなら、もういちど島に行きましょう。


ディープエコロジー

だからどうしたの?


[1810] Re^2: 章立ての前に 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/02(Fri) 20:58

環境とは何かなんてだいそうれた問いを立てる前に、門屋が何を見てきたのかを語るべきでしょう。それすら語れないようでは、話になりません。語れるものがなにもないのなら、もういちど島に行きましょう。

はい。語れるものが無いです。

ディープエコロジー

だからどうしたの?

だからやめたの、そんな理想論かたるの。


[1821] Re^3: 章立ての前に 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/11/03(Sat) 02:51

環境とは何かなんてだいそうれた問いを立てる前に、門屋が何を見てきたのかを語るべきでしょう。それすら語れないようでは、話になりません。語れるものがなにもないのなら、もういちど島に行きましょう。

はい。語れるものが無いです。

ディープエコロジー

だからどうしたの?

だからやめたの、そんな理想論かたるの。

だから潜って得た観点ってなんなの。


[1822] Re^4: 章立ての前に 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/03(Sat) 03:57

ディープエコロジー

だからどうしたの?

だからやめたの、そんな理想論かたるの。

だから潜って得た観点ってなんなの。

所変われば環境も変わって、自分の考えも変わってくるんだなあ。そっか、環境ってひとくくりにしているけれど、人それぞれ違うんだね。そうなると、ひとくくりに問題解決するというのはちょっと難しいんだな。ある環境を考える時、実際に自分の足で行く必要があるのはそれでなんだ、ってな事は前から考えていたことだし、当たり前のことなんだけれど。
ただ今回の藍島、その自分なりの環境に対する見方を突き詰めていくとどうなるのだろうという気持になった。そしたら、いつのまにか僕ってどういう風に考えているんだろう、ていうとこまでいっちゃって。それと合い重なるように、精神病院でバイトしていたもんだから、個人としての環境の見方が、実際の行動に及ぼす影響はどういったものなんだろう、って言う考えが出てきて、そしたら、心と身体のつながりって何ってなって。精神って何、身体って何、脳って何?意味わかんない、ってなって。

精神的に疲れましたので、この辺でやめにしておこう、やっぱり、考えずに何かしておけばいいや、ということになりました。終わり。

そして、今回のレジュメは、僕の環境にたいする観点なんてかけないから、どっかの本から仕入れてこようとしていたわけです。けれど、そもそも材料がちゃんと煮立ってないということが当たってるんです。だからこそ、理論武装しようするともいえますね。ということで、藍島の論文はその辺でって考えていたわけですな。二股ですんで、こうなっちゃうんですね。

はい、結果として、僕の観点は、環境を考える上で重要なことは、環境に対する自分なりの観点を養う必要がある、です。その観点がまだ養われてないということが補足です。

もう一度潜り行きたいな。けど、ちょっと寒すぎるからな。どうしたら、寒くないようにもぐれるのかなあ。


[1816] Re^3: 章立ての前に 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/03(Sat) 01:16

環境とは何かなんてだいそうれた問いを立てる前に、門屋が何を見てきたのかを語るべきでしょう。それすら語れないようでは、話になりません。語れるものがなにもないのなら、もういちど島に行きましょう。

はい。語れるものが無いです。

たとえば高校までの勉強法を自分の中で再批判してみてはどうだろうか?

だれかに、なにかを教えてもらうとか、理屈を覚えるとか、そういうことを後回しにして。

自分で、なにかを発見するとか、考えつくとか、そっちのほうから求めていく。

食材もないのに調理法を覚えるというアプローチをとりあえずやめて。

調理したくなるような食材を見つけて、それにあった調理法を考える、こういうアプローチにしませんか?


[1789] 藍島の章立て 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/24(Wed) 13:56

これまさしく操状態。

昨日は三宅ゼミの二人で章立てを考えました。って、結局章立てまではいけんかったんやけど。まず、僕の9月中にいった藍島の体験をもとにどうにか書くことが決まりました。アワビの生態系を考えるのは没落。僕にとってもそれほどの興味だったと。異端者なんですが、このレポートは3人で書くことになります。まあ、おそらく10000字から16000字だと思います。期限は来年の何月か。さてはてどうなることやら。

まず、自分の体験をみんなに話した。そして、書きなぐっていた日記を見せた。すると「遊んだのね」という類のお返事が。僕はどうにか「どうするどうする。このままでいいのか」と悩みながら遊んだのです、と言う。その言い訳をどんどんしていくうちに、僕はいつのまにか環境に対する考え方についてしゃべっていました。

「いったい、環境って何?」
まず、何を書くかのまえに3人の環境にたいする考え方をよく理解する必要がありますよね、っていうことになった。余談になるけれど、「環境って何?」って人に聞くと言葉に窮するのに、「環境問題って何?」って聞くとみんな結構しゃべる。これってとても不思議。それだけ環境問題ということが一般常識になったのでしょうが、「環境」ということが自分にとって、あるいは他のものにとって何なのかが分からないのでは、ちゃんと環境問題を考えているのかどうかを疑いたくなっちゃう。それはいいとして、みんなはどう答えたかというと、男性は「地球そのもの」。女性は「守って守られるもの」。で僕はというと「分かりません」。「はああ」って言われたけれど、ほんとにわかんないんだもん。

で、僕はどうしていいか分からず、またしゃべる。とにかく自分の思うことをしゃべる。

「潜ってて思うわけ。ああ、こんな生活みんながしたら、そりゃあ環境問題といわれるもんなんてなかったんだろうな。けど、大学戻ったら、いまさらみんなが原始生活みたいに戻れるわけもないなっていうことも思うわけ。俺は、現代社会の人々の生活自体が環境を破壊していると思うから、それを食い止めるには生活を根本から変える必要性がある、と思う。だけど、それを僕一人が実行することでみんなの生活が変わるなんてさらさら思っていない。なら、ひとまず環境を知る必要があるんじゃないか。環境を知った上で問題に取り組まないといけないんじゃないかな、って。そういうつもりで、潜ったり、散歩したり、人の話聞いたり、本読んだりしているけれど、一向に環境に対する基本的な考え方が見えてこない。それなのに、世界はどんどん環境問題という問題を僕の目の前に出してくる。このゼミの大きなテーマは環境。そして、僕らに与えられたテーマは生態系。それから、僕らが選んだフィールドは藍島。で、そこで得たものは、魚の名前と森本商店のおばちゃんとの会話と自問自答の数々。いったい、どうすれ。」

結局、3人で「環境って何?」をもう一度考える意味で、環境倫理の考え方の一つであるディープエコロジーについて調べてこようということになった。


[1786] 経過報告のようなもの。 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/10/24(Wed) 07:37

ここのところ出家・遁世を調べていました。

出家・遁世というと西行、鴨長明、吉田兼好、芭蕉なんかがよく出てきます。まずその辺の人たちの本を読みましたが、行き詰まります。

仏教の「立派な求道者」の思想史といった取り上げ方が多くて、一向に放浪者が見えてきません。乞食聖みたいなものに焦点を当てた文献を探そうと思います。

考えてみれば有名な遁世者が美化して語られるのは当然といえば当然でした。もうちょっと距離を置いて語った書物がないか探してみます。

『世捨て志願 放浪者の処世術』(高橋義夫・櫂書房・1976)という本が結構参考になりました。この人が本文で言っている「一流の放浪者は三流の放浪者によって発見されるのかもしれない」というのはなるほどと思いました。もっと有名人の周縁をさらっていかないと。

鴨長明に「世にしたがへば、身くるし、したがはねば、狂せるに似たり」という言葉があります。どうしようもない生きづらさを感じながら生きている人はいつの世にもいるのだなあとしみじみと思いました。この言葉をずっと昔の言葉として聞くから感慨にふけってしまったりしますが、現在のこととして考えると感慨にふけってる場合かという気がします。

自主的な選択であるか否かはともかく、実際に世に従えずに生きている人が身近なところにいるわけですよね。先述の有名人は当時の人たちにどんなふうに受け取られていたのでしょう?彼らの日常とどのくらいコミットしていたのでしょう?

いつの時代の話でも時代背景というものがありますよね。

それぞれの時代とそれぞれの時代背景を近代まで一つ一つ追っていく。近代という時代における「彼ら」と「我々」がどのような配置になっているかを考える。そこから「近代」において登場した「自由」「自立」「平等」がどのように作用しているかを考えていく。

それと似た感じでジプシー、ディアスポラ、ヒッピーなんかにも触れていけばいいかな。うーん、こっちの方面にはもう少し違ったアプローチが必要かな。確固とした放浪者(ジプシーかな?)の立場、それよりは少しソフトな感じの放浪者(ディアスポラ)の立場、時代状況によって登場した思想な意味合いを持つ放浪者(ヒッピー?)の立場という風にして放浪者の意味を別の次元から探ってみようかな?

「近代における自由」「放浪者の類別・構造」のレビュー、メインディッシュであるフィールドワークで得た経験によるデータの提示、以上を通して「ホームレスとは何か」「自由とは何か」という考察を行う。

あー、何だか一人で悩んで一人で納得した感じで、意見をもらえるほどの新しいことは何も書けていない気がします。でも、ほっとくと不安が募るばかりなので投稿してしまいます。






[1791] 投稿者:あおいみほこ 投稿日:2001/10/25(Thu) 12:41

ここのところ出家・遁世を調べていました。

出家・遁世というと西行、鴨長明、吉田兼好、芭蕉なんかがよく出てきます。まずその辺の人たちの本を読みましたが、行き詰まります。

仏教の「立派な求道者」の思想史といった取り上げ方が多くて、一向に放浪者が見えてきません。乞食聖みたいなものに焦点を当てた文献を探そうと思います。

考えてみれば有名な遁世者が美化して語られるのは当然といえば当然でした。もうちょっと距離を置いて語った書物がないか探してみます。


「サンカとマタギ」(谷川健一責任編集、日本民俗文化資料集成、三一書房)の中に「大地に生きる」(清水清一、1934年)というのがあるのですが、出家・遁世・乞食といったことが本人の経験としてちょっと書かれてるので、参考になるかもしれません。


[1793] Re: 本 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/10/26(Fri) 05:57

「サンカとマタギ」(谷川健一責任編集、日本民俗文化資料集成、三一書房)の中に「大地に生きる」(清水清一、1934年)というのがあるのですが、出家・遁世・乞食といったことが本人の経験としてちょっと書かれてるので、参考になるかもしれません。

面白そうですね。今日は『旅芸人のフォークロア』という本を読んでいます。昨日は『ロマ・旅する民族』という本を読みました。「放浪者」というものの輪郭が徐々に見えてくる感じがします。

「日本にジプシーはいないのか?」と著者が聞かれて、日本にジプシーはいないが、サンカというのがあると答えると、「きっとそれはジプシーだ。ジプシーにゾンカという部族がある」という笑い話がありました。

いろんな社会にいろんな形でスキマをぬうように存在した(している)人たちがたくさんいる。かれらのエピソードを読んでいるとわくわくしてきます。

近代化の中にある「平等」とはいったいどんなものなのだろう?旅芸人や放浪者は日本の社会の最下層として差別されていました。日本が近代に入って四民平等になった。これが当時としても建前的なもので実質を伴っていなかったことはおいておくとしても、思い描いていた「平等」はなんだったのだろう。

「下層民」「賤民」という差別を無くしていくつもりが、かれらの「職業」を成り立ちにくくしてしまった気がします。それぞれの立場(職業)を認めていくのではなく、ある種類のものを「平等」という範疇にして、その種類にはずれるものを平等の範疇に抱き込もうとした。うすうすそんな感じがします。

幸せの形のスタンダードが一つあって、それから外れている人たちは「かわいそうだから手助けしなければならない」と思ってる(「かわいそうだから」とは言わずに「基本的人権を保障するため」と言うのかもしれない)。その善意がなんだかうっとうしい。「健康で文化的な最低限の生活」ってなんだろう?

放浪生活と定住生活、どちらがいいかなんて分からない。

僕はホームレスと暮らしたけれど、やっぱりホームレスにはなりたくないと思う。明日の見えない暮らしはしんどい。生きていくことはできるけど、明日もご飯を食べられるかどうか分からない。お金を得るための手段が限られているうえに手取りが少ない。普通の会社と比べて絶対的な不利がある。それでもおやじさんは持ち前の行動力とまなざしの鋭さで現実を切り開いている。だから僕は彼に惹かれたのかもしれない。

昔は放浪者が収入を得るための手段がもっとあったような気がする。もっと社会にスキマというか、ゆるみがあったんじゃないかと思える。何か不自由だ。

サンカの本も調べてみようと思います。ありがとうございます、あおいさん。


[1801] Re^2: 本 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/01(Thu) 02:02


近代化の中にある「平等」とはいったいどんなものなのだろう?旅芸人や放浪者は日本の社会の最下層として差別されていました。日本が近代に入って四民平等になった。これが当時としても建前的なもので実質を伴っていなかったことはおいておくとしても、思い描いていた「平等」はなんだったのだろう。

「日本の社会の最下層として差別されていました」こんなふうに言葉を安易に使ってはいけないよ。ワタナベ君のいう「差別」なんて近代の産物かもよ。

幸せの形のスタンダードが一つあって、それから外れている人たちは「かわいそうだから手助けしなければならない」と思ってる(「かわいそうだから」とは言わずに「基本的人権を保障するため」と言うのかもしれない)。その善意がなんだかうっとうしい。「健康で文化的な最低限の生活」ってなんだろう?

放浪生活と定住生活、どちらがいいかなんて分からない。

どっちがいいかなんて考えないで。そうじゃなくて、われわれの生活の限界から語ろう。現状に満足しているのであれば、語ることもなかろうけど。


[1820] Re^3: 本 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/11/03(Sat) 02:20

「日本の社会の最下層として差別されていました」こんなふうに言葉を安易に使ってはいけないよ。ワタナベ君のいう「差別」なんて近代の産物かもよ。

近代の産物か。その辺りがピンと来ないんですよね。もっと割り切ってとにかく文献を読み漁らないといけないか。

つい一箇所で目を止めてしまいます。「これを考え始めるとこれだけで別の論文を一つ書かないといけなくなる」そう思いつつもそこで文献に読み入ってしまいます。やっぱり自分がこれまで拠って来た文脈に捕まりがちなのでしょうね。お手軽なところで解析しようとしてしまう。

どっちがいいかなんて考えないで。そうじゃなくて、われわれの生活の限界から語ろう。現状に満足しているのであれば、語ることもなかろうけど。

判断は保留にして気づいたこと気づいたことへとにかく視点を広げていきます。


[1831] Re^4: 本 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/10(Sat) 00:25

「日本の社会の最下層として差別されていました」こんなふうに言葉を安易に使ってはいけないよ。ワタナベ君のいう「差別」なんて近代の産物かもよ。

近代の産物か。その辺りがピンと来ないんですよね。もっと割り切ってとにかく文献を読み漁らないといけないか。

ごめんなさい近代の産物という表現はわかりにくかったと思います。

正確には、今のわれわれが使う差別という言葉と、その当時の人々の考えていたことは必ずしも重ならないのではないかということです。

昔の人はわれわれが使っている意味での差別をしていたのだろうか。


[1823] Re^4: 本 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/03(Sat) 04:24

近代の産物か。その辺りがピンと来ないんですよね。もっと割り切ってとにかく文献を読み漁らないといけないか。

近代という言葉は近代ではないという人がいて初めて出来るのかなあ?近代ではない人にとっての近代とはどういうものなのかなあ?近代人にとって、近代ではないとはどいうことなのかなあ?近代人っていうのも近代なのかなあ?レトロのまちも近代なのかなあ?近代って、近代ではない近代が作り出すのかなあ。近代がおわると近代ではなくなるのかなあ?近代が始まると近代ではないものはおわるのかなあ?ホームレスは近代人?精神障害者は?知的障害者は?僕は?渡辺さんは?僕らは近代から逃れることは出来るの?逃れたら近代人じゃなくなるの?

つい一箇所で目を止めてしまいます。「これを考え始めるとこれだけで別の論文を一つ書かないといけなくなる」そう思いつつもそこで文献に読み入ってしまいます。やっぱり自分がこれまで拠って来た文脈に捕まりがちなのでしょうね。お手軽なところで解析しようとしてしまう。

ぜひ、その解析したものをここに書いてください。

判断は保留にして気づいたこと気づいたことへとにかく視点を広げていきます。

何の判断を保留にするんですか?保留するという判断も判断ですね。判断力を保留にしてはいけないと思うんです。調査したホームレスにたいする渡辺さんの判断をききたいな。


[1795] Re^2: 本 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/26(Fri) 15:28

近代化の中にある「平等」とはいったいどんなものなのだろう?旅芸人や放浪者は日本の社会の最下層として差別されていました。日本が近代に入って四民平等になった。これが当時としても建前的なもので実質を伴っていなかったことはおいておくとしても、思い描いていた「平等」はなんだったのだろう。

昔、歌舞伎って河原でしていてたから、「河原乞食」って言われていたということを聞いたことがあります。今ではステータスがあるよな。

明治になって士農工商、えた・ひにんも入れてから四民平等に突然変わって、いきなり差別が崩れるだろうか?差別は、再構成されて保たれつづけたんだろうな。

今日のホームレスにたいする差別はどこから生まれてくるのだろうか。どうして、東南アジアや南アジアには普通にスラムがあるのだろうか?いったい、日本のホームレス問題とは何なのだろう。そんな道徳的なことでは片づけられないことがいっぱいありそうだ。

「下層民」「賤民」という差別を無くしていくつもりが、かれらの「職業」を成り立ちにくくしてしまった気がします。それぞれの立場(職業)を認めていくのではなく、ある種類のものを「平等」という範疇にして、その種類にはずれるものを平等の範疇に抱き込もうとした。うすうすそんな感じがします。

ある種類のものを「平等」という範疇にしてという、ある種類とは四民のことですか?外れるものとは「下層民」「賤民」のことですか?まず、平等とは平等の権利を得たということですか?

放浪生活と定住生活、どちらがいいかなんて分からない。

どちらが良いとか悪いとかの問題じゃなくて、どうして今日の日本においては放浪者はルンペンや落伍者などのスティグマをはられて、定住してさえいれば中でどういう生活していようが何もレッテルを貼られないのが気になる。

昔は放浪者が収入を得るための手段がもっとあったような気がする。もっと社会にスキマというか、ゆるみがあったんじゃないかと思える。何か不自由だ。


[1788] Re: 経過報告のようなもの。 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/24(Wed) 12:15

ここのところ出家・遁世を調べていました。

悩んでそうですね。渡辺さん!難しいですね文を書くとは。
今回のレポートで一番僕が失敗したのは、「いったい彼らとはどういう人間なのか?そして、僕と何が違っているのか?」という興味を、そのままレポートの行政の政策の問題点につなげようとしたところでした。僕の興味を満たしてくれそうな文献であろう本をフーコーに求めたのも間違いでした。「狂気の歴史のなかで、近代社会によって狂気の者は人間性を回復したことと。回復したかわりに自由の能力をもたない人間となったこと。それは彼らを社会から追い出す結果となったこと。」僕の興味にはフーコーの「疎外」という言葉がすぐに目に付きました。けれど、実際はまったくわかっちゃいないかったんです。漠然とした理解の中で、さらにそれを今日の福祉行政の地域化の遅れと結びつけようとしました。僕はこれはとっても得策だとおもいました。自分の興味からでてきた答えを思慮もせず「精神病者は社会から疎外された人間であり、僕とはその点で違うのだ」ということで決着をつけ、その考えから、精神保健福祉行政の根拠を導こうとしていました。まあそこまではいいとしても、その根拠をただフーコーの言葉を引用するだけに終わっていたのがいけなかった。それも、自分の書いていることがちんぷんかんぷんで、引用とすらつながらないときた。(*。*)

おそらく、渡辺さんはフィールドワークで実際に見てきた、社会におけるホームレスの現状と、自身の関心である「自由」や「近代」や「個人主義」というキーワードと結びつけようとしているですよね。何かを書きたいという衝動は自分の言いたいことがあるからでてくる。けれど、その自分の主義主張を社会と照らし合わせながら書いていくのは、非常に難しいことなんだと思います。とっくの昔にそんなこと渡辺さんはわかっているんでしょうけれど。

出家・遁世というと西行、鴨長明、吉田兼好、芭蕉なんかがよく出てきます。まずその辺の人たちの本を読みましたが、行き詰まります。

この人たちただ単に放浪したかったからじゃないんですか。

仏教の「立派な求道者」の思想史といった取り上げ方が多くて、一向に放浪者が見えてきません。乞食聖みたいなものに焦点を当てた文献を探そうと思います。

放浪者を見ようとするんじゃなくて、フィールドワークで知り合ったおっさんを見ようとしないといけないんじゃないかな。そっからこのおっさんがこんなとこでこんなことしているのは、実はおっさん自身の理由以外に何かあるんじゃないかという問いも生まれてくるんじゃないかな。まあ、そのおっさん自身の理由じたいにも疑いをもてることもできるだろうけれど、それってほんと難しそう。それこそ、その人の思想を探って、その人の思想はどういう風に生まれてきて、どういうことに影響をうけて・・・・。切りなさそう。

「近代における自由」「放浪者の類別・構造」のレビュー、メインディッシュであるフィールドワークで得た経験によるデータの提示、以上を通して「ホームレスとは何か」「自由とは何か」という考察を行う。

なんか定まってないから、すべてポーっと忘れて、フィールドワークで出会った人たちのことを、自分の感情をいれずに(無理だろうけれど)追ってみる。それか逆に、ホームレスに抱いた感情をお構いなしに文字でぶつけてみるのは?





[1783] くそったれ 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/23(Tue) 11:15

奥のさんじゃないけれど糞ったれてます。ああ、疎外っていうのを考えれば、考えるほど、何が疎外するわけ?という疑問が出てきます。それを整理しきれない限り、疎外疎外と軽々しく言葉にできないんですね。マルクスは、疎外を4つに分けていました。そのなかで、僕の当てはまるであろう疎外は「人間からの疎外」だったと思います。自然からの疎外や、自己疎外、そして労働生産物からの疎外と、やたら意味が分からない。ただ、「疎外」の根本に有るものがすべて共通しているのならば、それは社会かなって?違うかな。

ひとつ、ちょっと考えたんですけれど、僕は9月中もぐって魚ついていました。あの時、どうしてこんなに幸せなのっておもいました。西表の時と同じように僕の狩猟の血が騒いだからだと思っていました。だけど、疎外疎外と考えているうちに、ちょっとこれとも関係あるかなって思いました。

実は、今日中に藍島の章立てを考えます。3年までに仕上げなければならないので、もう書きはじめるように言われました。結局、僕の中で、ゼミってどっちが解決しないまま来ています。考えてもかかんとあかんのですが。章立てできたら、皆さん批判しまくってください。


[1787] Re: くそったれ 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/24(Wed) 10:48

ああ、くそったれ2。今日中にほとんど完成しよう。そうしないと、次に進めないよう。

「疎外」という言葉をまず自分の中から抜いてみよう。まず、この前のように漠然と書き出すのではなくて、大体の方向性を考えて書く方がやっぱりいいのがわかったぞ。テーマは最後でもいいだろう、こじつける。よし、大ちゃんの章立てをドン

精神病行政の現状   >序論      起
一番知りたかったこと >本論      承
書きたかったこと   >考察      転
精神病行政のあり方提言>結論      結

もう一度、フーコーなんて今は忘れちゃえ。よし、精神福祉行政のあり方の提言からはじめよう。文体はあとでまとめればいい。今は素直に自分の考えを書くこと。データもあと。主観的なことを書きなぐる。だいたい3000字ほどと決めておこう。

日本の精神保健福祉の地域化が進まないのは?

行政か?法律か?社会か?それとも、精神病の危険性を認める?

1.行政は地域化へ向けた取り組みをしているようだ。ここを、序論で書けばいいんだ。しかし、それがうまく機能してないのではないか。ここを「一番知りたかったこと」で書けばいいんだ。で、書きたかったことでなにを書くかなあ。「行政の政策が、精神病者に対する社会のスティグマを考慮しないまま、地域化に取り組もうとしている。」さあ、この政策と社会とのずれをどうあらわすのかが問題だぞ。へたすると、またどつぼにはまりそうだ。

2.法律も改正されて地域化を含んだ内容となっているのは確かだ。けれど、どこかかならず地域化を考えたときに不足なところがあったり、抜け落ちているところがあるはずだ?そこはどこだろう。それを調べて結論に書く程度でいいや。

3.社会は?しかし、ここは自分では手におえそうにないぞ。社会のどういうところが、精神病者の地域化を遅らせているか?あまり、深く突っ込まなくて、ちょろっと触れる。ここで、少しだけフーコーを引用すれば、悩んだことがちょっと役に立つかも。んん、精神病者の地域化がすすまないのは社会構造の問題である。あ、だめだこういっちゃうと社会構造はこうで、ここが問題のところですと言わんといけんくなるな。ただ、日本の社会自体に異質性や異常性を認めないような風潮があるから地域化が遅れるのである。んや、精神病者にたいする社会のスティグマが存在している限り、日本の精神保健福祉が地域化の方へ進むのは難しい。だけでいいか。

4.しかし、地域化が進むことは僕も賛成だが、実際に自害他害の恐れがある精神病者を行政がどう対応していくかを考えずにいては大変だぞ。それも、ちょっと考えておかんとな。

よし、結論は「精神保健福祉行政のあり方の提言」だな。

まず、順調に言っていれば僕は考察で、「地域化の遅れは政策と社会の根本的なずれがあるからだ」と書いているはずだ。さて、このずれを修正するためには?いくつかの方法があるはずだ。社会自体がかわる。これは根治療法だ。けど、それって難しすぎない。それに、僕は社会はこのレポートで扱ってないから、今までのが意味なーいジャンじゃん。なら、なら、なら、何があるんだ。んんんんんんんんん。読んだ人1!何があると思いますか。


[1785] Re: くそったれ 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/23(Tue) 17:42

奥のさんじゃないけれど糞ったれてます。ああ、疎外っていうのを考えれば、考えるほど、何が疎外するわけ?という疑問が出てきます。それを整理しきれない限り、疎外疎外と軽々しく言葉にできないんですね。マルクスは、疎外を4つに分けていました。そのなかで、僕の当てはまるであろう疎外は「人間からの疎外」だったと思います。自然からの疎外や、自己疎外、そして労働生産物からの疎外と、やたら意味が分からない。ただ、「疎外」の根本に有るものがすべて共通しているのならば、それは社会かなって?違うかな。

ある先生にレポート見せました。まったくの不出来という太鼓判を押されました。しかし、今の僕はここで落ち込む僕じゃないので、忘れないうちに書いておこう。

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君の頭の中がぐちゃぐちゃなのがよくわかる。

テーマを書いていない。

序文と本論がまったくつながっていない。

本読んだの自慢しているだけ。

疎外という言葉の意味も、説明しているようでまったくしていない。

論理的な説明がない。

根拠がすくない。

回りくどいくせに、何もいっていない。

文章の中の引用が意味をなしていない。

ある本に書いてある歴史をそのまま引用するなどもってのほか。

気持ちがわかるが、「疎外」というテーマが大きすぎる。

行政の地域化の遅れと、フーコーの言う「疎外」をつなごうとしている時点であなたは難しいことをしている。

まず、哲学的な「疎外」を忘れて、レポートを書きなさい。「疎外」のことはあとでじっくり考えなさい。自分の頭でね。

客観的な論文と主観的な論文の見分けなど、人の見方によって変わる。ただ、日本の政策などのことについて論じるのであれば、客観的といわれるデータが必要。

精神病理と近代を考えるのはすっ飛ばしすぎ、あなたの中でちゃんと近代とはどういうことかわかっているのならいいが、わかってもいないのに近代という言葉を書くな。まず、日本なら日本の社会構造について考えてみるほうが手を出しやすい。

日本には異質なものを排除する傾向が強いんじゃない?

まあ、論文の書き方を覚えたいのならこうやってがんばるのいいけど、レポートもうすぐなんでしょ。今回のレポートは軽く考えて、ちゃんと論理的な文書かなきゃね。

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ああ、みんなに見てもらってよかった。いままで、俺はこれで普通に過ごしてきたのが怖かった。精神福祉行政の再考ができたら載せよっと。また、そのときコメントください。






[1780] いま家具以外で興味あること。 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/10/22(Mon) 20:33


 世界情勢は悪化する一方で、親から国外フィールドワークの猛反対をくらいそうでひやひやしてます。


 家具以外で興味あることを軽ーい気持ちで書き込みます。


 * オークション・逆オークションについて。逆オークションとは値が下がっていくフリーマーケットなどです。

 * お土産について。大英博物館で見かけた「日本のお土産考」です。日本人ってお土産好きですよね。

 * 映画。フランス映画と邦画の共通点とか・・・。ただ映画好きなんで。ハリウッドは避けたいところです。

 * CM。世界CMフェスティバルとか。面白いCM好きなんで。



 映画とCMは映像という点で共通してるかも。


 * 地方紙について。地方向け雑誌。

 * 虎屋のパンはなぜ売れるのか(笑)。


 思いつきで考えてることだけど、いっこいっこよく考えると面白いと思うのでなんかコメントください。


[1794] Re: いま家具以外で興味あること。 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/10/26(Fri) 06:20

 * オークション・逆オークションについて。逆オークションとは値が下がっていくフリーマーケットなどです。

逆オークションって、「○○を探しています」ってやつじゃないの?

 * お土産について。大英博物館で見かけた「日本のお土産考」です。日本人ってお土産好きですよね。

お土産で卒論書いた人がいたようなー。社会調査実習のレポートだったっけ?須藤先生がよくネタにしてるから、須藤ゼミかな?

 * 地方紙について。地方向け雑誌。

フリーペーパーとかどう?こことか↓
『identity market on WEB』
http://im.mmm.gr.jp/

 * 虎屋のパンはなぜ売れるのか(笑)。

あんくるはなぜ安いのか。


[1779] ひとりごと日記・G 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/10/22(Mon) 20:14


 そういえばBRIGHTONで「YMCA」と大きく書かれた建物を見た。ほかの土地でも見たことがある。学のない私は「YMCA]の意味をよく知らない。なんだろう・・・?

 「YMCA]といえば、もちろん西城(西条?)秀樹だろう。Hastingsのパブでも「ヤングマン」はガンガンにかかっていた。ということは世界規模の言葉のはず・・・。えーっと、ヒデキは確か、「若いうちはー、やりたいことー、なんでもできるのーさー。」って歌ってた。それなら、young(Y) man(M) can(C) anything(A) か???なんとなく当たっているような気がする。文法的にはなんかおかしいが、まあこんなもんだろう。しかしそれと建物とどう関係があるんだー!!(異国での一人つっこみ)

 それにしてもこっちの人は肥満率が高い。とくに中年層の太りっぷりは見事である。二の腕の肉が垂れ下がり、ひじが見えない。昔テレビで相撲を見ていて、「小錦の尻はどこまでが尻でどこからが太ももなんだろうか・・・?」と悩んだことを思い出した。なぜこんなに太るのか。答えは単純だ。よく食べるからである。どんな場所でも、なにをしてても常に食べている。信号待ちでチップス、歩きながらアイスキャンディ(すごい着色の!)、そして地下鉄の車内で紙袋いっぱいのいちじく・・・。私はこっちで主流で売られているポテトチップスの商品名が「WALKERS」になっている理由がわかった。みんな歩きながら食べるからである。そういえばチョコバーなど、こっちのお菓子はどれも歩きながら食べられるつくりになっている気がする。

 ロンドンでは移動は地下鉄が便利だ。渋滞がない。本数も多い。ほんの3,4分待てば、次々に来る。ただプラットフォームにたどり着くまでが大変だ。駅によると思うが、エスカレーター式、エレベーター式、階段(長ーい螺旋階段のところもある!)などさまざまだ。迷路のように複雑な経路を経て、たどり着いたのが行きたい方向とは逆のプラットフォームだったってことも初日はしばしば。2日目にしてようやく慣れる。何lineかは、色分けしてあるので簡単だ。方向はほとんどの路線が東西南北で分けてあるようだ。ひとつだけ、東京の山手線のように円になっている路線があるが仕方ないので行きたい駅名がどちらの方向に近いかで判断すればいい。間違っても円なのでいつかたどり着くだろう。
 プラットフォームまでの道は、ほとんど整備されてない。いや、これでも整備されているのか?どこの駅か忘れたが、螺旋階段をぐるぐる下りたときは「私はどこに向かっているんだろう?なんかの採掘場かな・・・。」と不安になった。そして地下道(?)は丸い。もちろん地下鉄の車両も丸く、筒状である。断面図は丸いためむろんドアの上のほうも丸く反っている。(意味わかるかな?)ラッシュのとき、無理やりドア付近に飛び乗ったら頭だけ車両からはみ出す形になってしまい、ドアが閉まるときに頭をはさまれてしまった。私より背の高いイギリスの人々はどうしているのかと思ったら、ちゃんと体を車両の形どおりに反らせていた(笑)。あと、つり革がおもしろい。ばねみたいなものの先っちょに球状のボールがくっついている。いかにもつかまったら「びょーーん」って伸びそうで、つり革としては頼りない。だからあまり誰も使わないらしい。若者集団がふざけて引っ張ったらばねごと「すぽっ」と抜けたのを目撃した。やっぱりだめなつり革だったか・・・。

 


[1797] Re: ひとりごと日記・G 投稿者:平安 投稿日:2001/10/30(Tue) 00:09

 そういえばBRIGHTONで「YMCA」と大きく書かれた建物を見た。ほかの土地でも見たことがある。学のない私は「YMCA]の意味をよく知らない。なんだろう・・・?
キリスト教青年会のことらしいよ。(辞典)


[1766] 「疎外」の意味って 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/22(Mon) 01:29

 僕は弱い奴んなんて嫌いだ。だから、強い奴になりたい。でも・・・。
 僕は小さい頃、これでもかと言うほど背が小さかった。幼稚園から高校2年まで、整列の時に一番前以外を経験したことが無い。号令の時、みんなが前の人に両手を突き出している中で、僕は片手を腰に当てる姿勢をとるのだ。僕の学級に18人の男子生徒がいるとしたら、一つの合図とともに17人の生徒がみんな同じことをして、僕一人が違うことをするのだ。それを、幼稚園から高校2年までやっていたことになる。僕にとって整列の号令は、「片手を腰に当てろ」ということだ。
 中学校の頃、バスケットボール部に入った。僕は万年補欠だった。いや、万年補欠外だった。僕は決して、練習をサボっていたわけでも、運動神経が全く無かったわけでもない。僕は自分がバスケットが下手だと思ったことは一度もないし、他の部員と同じぐらいだと思っていた。ただ、気が弱いために、勝負強さがまるでなかったし、なんでもかんでも緊張しまくった。しかし、それが僕が補欠になった要因だったとしても、僕はレギュラーになれるぐらいの技術はもっていると信じていた。けれど、決定的にみんなに劣っていたことがあった。そらは、あまりにも背が低かったことだ。僕はバスケ部に入った当初、恐らく140ぐらいだっただろう。卒業する頃には、150センチぐらいになっていた。やっと、部員のなかで僕の2番目に低い奴の入学した時ぐらいの背になったと思ってくれればいい。
 まず、一生懸命投げないとボールがリングにとどかない。女投げをすればいいのだが、それができなかった。そもそも、ボールが僕の顔より大きい。みんなが片手でボールをもてるかどうかを競い合っている中、僕はボールと競い合っていた。キャッチするにも、ドリブルするにも、ディフェンスするにも全てが大変だった。どうしても、技術では埋め合わせができないものがおおかった。
 1年のときや2年の時は希望があった。もしかしたら、頑張りさえすれば僕はもっと顧問にそして、みんなに認められるかもしれない。そう思って、端でみんなの練習試合を見ながらドリブルの練習をしていた。未だに、シュートを打つのには苦労していた。
 3年になって、世代交代になり僕らの学年が引っ張っていくことになった。レギュラーだった同級生はスタメンとなり、補欠だった同級生はレギュラーとなった。僕もまちに待ったレギュラーが目の前だった。しかし、僕はダメだった。僕だけは逆行して補欠以外になった。レギュラーの残りの席は、上手な後輩や異様に背が高い後輩のものとなった。
 どうしても我慢がならなかったのは、試合の時だった。僕は、1・2年と一緒に体育館の上で応援した。試合の最後らへんになると、2年の補欠はレギュラーのユニホームを借りて試合に出た。僕がフロアに入ることができたのは、スコア付け係になる時だけだった。試合が組まれるたびに、僕は絶望を味あわされたのだと思う。
 一度だけ部活から帰って食事をしているときに、自然と涙が出てきた。突然の涙に家族はビックリした。「あんたいじめられたんね。そうやろ。学校でいじめられたんね。」と、僕をかわいがる母は必死になって泣いた原因を聞こうとした。僕は黙っておくことができず、「んや。部活でちょっとあって。」とだけ言った。翌日、僕は練習中に顧問の先生に呼ばれた。母が僕が部活の友達にいじめられていると勘違いして、先生に電話をしていたのだ。顧問は僕が泣いた理由を聞いてくる。僕はずっと黙り込んだ。僕は「試合に出してくれ」ととうとう言えず、顧問は押し黙る僕に「まあ、何があったのかしらんが、頑張れ」という風なことを言った。

 
 さて、ビックリした方もいらっしゃるでしょう。『「疎外」の意味って』でなんであんたの悲しいのかどうかしらん過去を聞かされなければならないの、って思うでしょう。これは、僕は「疎外」されたんだという過去に同情を持ってらいたいわけでは全くありません。これは僕にとって(あくまで僕にとって)の暗い過去ですので、一番書きたいことであって書きたくないことでした。しかし、「疎外」という事について内省をこころみると、決まってこの時の経験がでてくるのです。僕の全ての問いは内省からはじまります。そして、ここに突き当たったのです。ちなみに、「自立」や「自由」ということを考えると、決まって高校3年の父親との大学受験における意思疎通の断絶を味わった時にあたります。

 僕は自分を偽善者と思いたくありません。弱者へのまなざしを僕なりにとらえるのならば、それは、僕というこの弱い存在をゆるしうる何かを導き出してくれるやもしれないまなざしです。

 けっきょく、「疎外」が社会にとって何を意味するかをかけませんでした。ただいえることは、「疎外」というのは事実というより現実です。。疎外という事実がなりたたないように、現実がどう社会を作り出しているのかを僕は考えなければならないのでしょう。大ちゃんの「うそっこのほんとう」を読んでそう感じました。

 


[1803] Re: 「疎外」の意味って 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/01(Thu) 02:36

 僕は弱い奴んなんて嫌いだ。だから、強い奴になりたい。でも・・・。

 一度だけ部活から帰って食事をしているときに、自然と涙が出てきた。突然の涙に家族はビックリした。「あんたいじめられたんね。そうやろ。学校でいじめられたんね。」と、僕をかわいがる母は必死になって泣いた原因を聞こうとした。僕は黙っておくことができず、「んや。部活でちょっとあって。」とだけ言った。翌日、僕は練習中に顧問の先生に呼ばれた。母が僕が部活の友達にいじめられていると勘違いして、先生に電話をしていたのだ。顧問は僕が泣いた理由を聞いてくる。僕はずっと黙り込んだ。僕は「試合に出してくれ」ととうとう言えず、顧問は押し黙る僕に「まあ、何があったのかしらんが、頑張れ」という風なことを言った。

最初に言っておくと、この手の告白をぼくはあまり好きではありません。「ぼくは背が低いから」「私はオッパイが小さいから」「ぼくは性格が暗いから」「私は兄弟にいじめられていたから」たとえばこんな告白合戦をここでしてなんの意味があるのでしょう?

たしかに個人的なコンプレックスや悩みは、なにかものを考えるときの契機にはなるでしょう。でもそれ以上のものはありません。考えなければそれまでです。

カミングアウトするために告白したり、たんに同情して欲しいのなら話は別ですが(告白を聞いてあげてもいいですが)、個人の重たい問題を武器に、貧困な考察を補おうとするなんて最低だとおもいますよ。

 僕は自分を偽善者と思いたくありません。弱者へのまなざしを僕なりにとらえるのならば、それは、僕というこの弱い存在をゆるしうる何かを導き出してくれるやもしれないまなざしです。

せめて偽善者くらいになれたらいいのにね。「僕というこの弱い存在」なんて言葉はよほどの悪人でなければ吐けません。


[1812] Re^2: 「疎外」の意味って 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/02(Fri) 21:34

 僕は弱い奴んなんて嫌いだ。だから、強い奴になりたい。でも・・・。

最初に言っておくと、この手の告白をぼくはあまり好きではありません。「ぼくは背が低いから」「私はオッパイが小さいから」「ぼくは性格が暗いから」「私は兄弟にいじめられていたから」たとえばこんな告白合戦をここでしてなんの意味があるのでしょう?

何の意味も無いから語りたくなるんでしょうね。人に告白することに何の意味があるのか僕にはわかりません。それによって、僕の世界が何か変わっていくのか、それとも、変わらずにその思いはずっと同じ形として心の中に留まっているのか。そんな曖昧な中で、ふとした拍子に伝えたくなるのが、いたいけな自分です。誰かにこのいたいけな僕を守って欲しい、何処かへ導いてほしい。そういう気持を無くすことは僕にはできないのでしょう。たしかに、時にはそんな弱い自分を考えて意気消沈するときがあります。そして、時には、その弱さというものの根本を知ってしまえば、この弱い自分が強くなる対処方法が見つかるのかもしれないと思うわけです。しかし、それは儚い空想に過ぎないのでしょう。そして、それがわかっているからこそ時には、誰にも言わずに黙り込む。

たしかに個人的なコンプレックスや悩みは、なにかものを考えるときの契機にはなるでしょう。でもそれ以上のものはありません。考えなければそれまでです。

大ちゃんはどういったものをそれ以上と考えているのか、僕にはわかりません。大ちゃんが高校時代の行進のエピソードを良く話してくれることを知っています。大ちゃんにとって、何かものを考える契機となったのかなあ、といつも思っています。しかし、真偽の程を僕が知る必要はないでしょう。自分自身に立ち返ると、疎外を考える上で契機となる記憶の糸を手繰り寄せようとして、でてきたのが自分が背が低かったがために起こったのだという悲劇でした。書いていくうちに、だんだん書きたいという渇望が生まれてきたのでしょう。そうこうするうちに、今まで親しい友達にしか言わなかった恥かしかったエピソードを投稿していました。自分の中で、あの頃の思い出はたしかに悲しいものとして僕の心に残っています。もしかすると、疎外が気になることになった契機ではないかもしれません。しかし、あの投稿した時はそう思ったのです。そして、今となってはまた別の契機を捜し求めているのでしょう。

同情して欲しくないというのも、あのエピソードが今となっては違う見方も出来るようになった自分がいたからではないかと思うのです。だからこそ、みんなに知られてもなんとも無いと思い、書いたのでしょう。まだまだいくらでも人には言えないコンプレックスや悩みの中から一つ、このエピソードは地位をうしないました。そもそも、背が低くても上手な選手はいくらでもいます。ずっと悲しかったのは、認められなかった理由を自分がどうしても背が低かったことにしたかった自分がいたのでしょう。

カミングアウトするために告白したり、たんに同情して欲しいのなら話は別ですが(告白を聞いてあげてもいいですが)、個人の重たい問題を武器に、貧困な考察を補おうとするなんて最低だとおもいますよ。

でしょうね。

せめて偽善者くらいになれたらいいのにね。「僕というこの弱い存在」なんて言葉はよほどの悪人でなければ吐けません。

このように言われたばかりに、過去の自分の思い出を語るのはどうかと思うのですが、自分が偽善者ではないのかと思い悩んだ時期がありました。あ、やっぱりやめておこう。

みんなは全ての価値は無価値だと思いますか?それなのに、人は何故価値を生み出すのかなあ?どうも最近こういうことが気になってしまい。考えても仕方が無い、経験いっぱいしたほうがいい、とわかっているのですが。


[1817] Re^3: 「疎外」の意味って 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/03(Sat) 01:27

大ちゃんはどういったものをそれ以上と考えているのか、僕にはわかりません。大ちゃんが高校時代の行進のエピソードを良く話してくれることを知っています。大ちゃんにとって、何かものを考える契機となったのかなあ、といつも思っています。

むつかしいのです。ぼくがどうして今の僕になったのか。ほんとうに重たい出来事は、いまでも誰にも話せないことかもしれません。あるいはこっそり特定の誰かだけにはなすことかもしれません。あるいは、ぼくのことを知らない人ばかりのところで匿名でかたることかもしれません。

自分の経験を安易に語るとたいていの場合ひどく傷つきます。語ったことによって自分が生きてきた事実を売り物にしているように感じます。

事実として語れることはほんの一部です。ただ、その事実をもとに悩んだり苦しんだりした結果は、もしかしたら語る価値があるものかもしれないと思います。

告白したい気持ちはわかるけけど、自分以外の人間にとって、やはり告白には、手も足も出ないように感じます。それをいっちゃあおしまいよてなかんじです。

せめて偽善者くらいになれたらいいのにね。「僕というこの弱い存在」なんて言葉はよほどの悪人でなければ吐けません。

門屋が弱い人間なことくらい、大声で主張しなくてもだれだって解ります。でも、弱さを売りにする人間はみな残酷です。


[1772] Re: 「疎外」の意味って 投稿者:多くのまさまさ 投稿日:2001/10/22(Mon) 15:13


 旅行に出発する前で、ばたばたしてるけど、ちょっとひとこと。

 疎外と言う概念を、日常生活の人間関係の雑事のなかに引っ張り込んでしょうゆかけごはんみたいにするなよな。まったく、こっちが泣きたくなるぜ。

          「疎外とはうんこなり」

 ヘーゲルからマルクスに至る疎外論の中心テーマはこれだ。


 えっと、それからもひとつ。フーコーを引用して、あげくが風光明媚が売りの不動産屋ネタですか?

 精神病とは、作られた病にほかならない。とすれば、作ったのはだれか?

 そして、重要な問い。いま、病は新たに作られつつあるか?

 新たな病が作られつつある現場からの、渡辺君の報告が聞きたいね。


[1781] Re^2: 「疎外」の意味って 投稿者:平安 投稿日:2001/10/22(Mon) 23:43

          「疎外とはうんこなり」

いつか、シゲさんが「愛ってなんですか?」という問いかけをした時も、
答えがウンコだったような・・・。
ウンコって何ですか??


[1805] Re^3: 「疎外」の意味って 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/01(Thu) 02:42

          「疎外とはうんこなり」

いつか、シゲさんが「愛ってなんですか?」という問いかけをした時も、
答えがウンコだったような・・・。
ウンコって何ですか??

肛門期から成長が止まったままの人にとっては、たぶんどうしても気になる大事なものなんでしょう。しらんけど。


ところで、パキスタン人街で、ヘナを手に入れたぞ!緑色の粉だ。帰国したらみんなでヘナパーティーをしよう。空港で捕まらなければの話だが。


[1813] Re^4: 「疎外」の意味って 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/02(Fri) 21:47

ところで、パキスタン人街で、ヘナを手に入れたぞ!緑色の粉だ。帰国したらみんなでヘナパーティーをしよう。空港で捕まらなければの話だが。

ヘナってヘナヘナになっちゃうわけ?やってみたいな。つかまらないように、口の中に入れていくのはどうですか?


[1819] Re^5: 「疎外」の意味って 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/03(Sat) 01:36

ヘナってヘナヘナになっちゃうわけ?やってみたいな。つかまらないように、口の中に入れていくのはどうですか?

! 

そんなことしたら大変だよ!万が一袋が破れたら・・・・。


[1773] Re^2: 「疎外」の意味って 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/22(Mon) 15:52

 旅行に出発する前で、ばたばたしてるけど、ちょっとひとこと。

 疎外と言う概念を、日常生活の人間関係の雑事のなかに引っ張り込んでしょうゆかけごはんみたいにするなよな。まったく、こっちが泣きたくなるぜ。

          「疎外とはうんこなり」

 ヘーゲルからマルクスに至る疎外論の中心テーマはこれだ。

ご飯にしょうゆどっぷりかけて、ご飯かなにかもわからなくなっちゃう予想がついていたから、やめた。自分からでたうんこは他者である。だから、そういう自己疎外とかを突き詰めたいと思うのだけれど、そのテーマはひとまず置いといた。そこで、社会というカテゴリーの中で、疎んじて避けられている人間に「疎外」という言葉を使った。そういうこと書いたつもりだったんですけれど。

 えっと、それからもひとつ。フーコーを引用して、あげくが風光明媚が売りの不動産屋ネタですか?

精神疾患は個のパーソナリティーに他ならないと考えているフーコーにとって、精神病というのは地域社会の「疎外」に依存している。そういうことから、引用しました。たしかに、「疎外」の根拠となるデータがひとつしかないのは心もとなかったのですが、かといって日本における社会構造を見ていくことなどできませんでした。


[1769] Re: 「疎外」の意味って 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/10/22(Mon) 02:58

僕は体育の時間は嫌いでした。他の嫌いな科目を2倍受ければ体育受けなくていいならそっちをとると思っていました。

そういう僕が唯一自信を持ってやれるのは長距離走くらいなもの。これも高校の頃ワンゲルで走ってたからです。体質的に走るのに向いているし、完全に個人的なスポーツだからやりやすいのかな?走るだけだし。

運動音痴というわけではないのだろうけど、身体より頭が先に動くんだもん。一度苦手だと思うとなかなかねー。

長距離走なんてただ走るだけだし、きついだけだ。ちなみに短距離走は好きじゃない。単に自分が得意だから好きなだけかもしれな。でも、走ってる時の長距離走者のモノローグみたいなものが僕は好きだ。走る前は「あー、やだなー」と思う。走り出したら「ああ、始まっちゃった」と思う。「休もうかな」と思うけど、「休んで何になる」と思う。「でも、全力で走ったからって何になるのかなあ」と思いながらも走り、「ラストスパートって何でするんだろう」と思いながらラストスパートかけたりする。「走ることは自分との戦いだ」とよく言うけど、自分で納得いくまで走りきれたら「もう何でもいいや、あー何か分からんけど楽しかった」と思う。

高校の頃はクラスでは孤立してたと思う。高校には部活しに行っているようなものだった。でも、疎外されてるとは思わなかった。思わなかっただけだかな。部活入ってなかったらどうなってたかなあとちょっと不安に思う。


[1777] Re^2: 「疎外」の意味って 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/10/22(Mon) 19:14

僕は体育の時間は嫌いでした。他の嫌いな科目を2倍受ければ体育受けなくていいならそっちをとると思っていました。

 私は体動かすの大好きやから体育好きやったなあ。でも「なんでも好きなことやっていいよー」体制やったらもっといいのにって思ってた。


高校の頃はクラスでは孤立してたと思う。高校には部活しに行っているようなものだった。でも、疎外されてるとは思わなかった。思わなかっただけだかな。部活入ってなかったらどうなってたかなあとちょっと不安に思う。

 ここでの疎外とはあんまり関係ないと思うけどいじめとかって絶対無くならないと思う。今まで一度もいじめられたり逆にいじめたりしたことのない人っていないんじゃないかな?まあ、程度の差は大有りやけどね。そのことに飲み込まれる人と飲み込んで自分の栄養にしちゃえる人といるわけで・・・。傷自慢できるようになったらいいけど、傷がひらくの怖くて「私実はこんな古傷持ってんだけど・・・」って言えない人もいる。


[1760] うそっこのほんとう 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/20(Sat) 20:19

こめんとください

■現実を「知る」ためのノート。

■「うそっこのほんとう」。これはごっこ遊びに興じるときの子どもたちの造語である。

■「これは、うそっこのほんとうだからね」といったとたんにぬいぐるみのカンガルーは話し始め、ミニカーは本物のバスになり、ふたりは、玩具の国の住人になる。

■人間は、3才にも満たないうちから現実と虚構をいきかう能力を身につけている。

■「あらゆる現実は虚構である」という言説について考えてみた。これは、正しくは「ある虚構は現実になりうる」ではないだろうか。

■儀礼や呪術はたとえ虚構であるとしても、同時に極めて強固な現実である。

■仮に「現実」は「虚構」なのだとしても、だからといって「現実」の特殊な地位をないがしろにできない。ある人にとって「特定の現実」とは、ほかの虚構とは違う「特別な虚構」と考えた方が良くないか。

■そしてそもそも、虚構から現実がつくられるのではなく。現実から虚構が気づかされるというべきではないだろうか。

■動物には虚構があるだろうか。擬態やディスプレーは、彼らにとって虚構だろうか。いいや、たぶん現実だ。

■ディスプレーによっておのれの優位を表現するとき、見た目の美しさや大きさは、実際の力の差(環境に対する適応能力)を反映して「いない」かもしれない、しかしそれはそれでも全く構わないのである。それを虚構などとは動物たちは決して思わない。(そしてそれをもとに選択がおこなわれれば、サーベルタイガーやオオツノジカのようなことが起きるかもしれない)

■彼らにとっての現実とはディスプレーの中にしかない。もしそのディスプレーが通じないのなら、それは虚構ではなくて非現実(無意味)なだけである。

■チンパンジーには虚構が解るのだろうか。政治好きなチンパンジーなら解るような気もする。

■虚構と嘘はちがう。

■つまり「うそっこのほんとう」は、「うそ」ではなくて「ほんとう」なのだ。(「ほんとう」とは、ここでは「真実」の意味ではなくて「現実」の意味でつかわれている。要するにそれは「まぎれもなくほんとう」な「ほんとうらしさ」である。)

■ここで事実(fact)と現実(reality)と真実(truth)の関係を整理する。

■事実。起きたことそのもの。しかし観察者としての文化的あるいは生物学的バイアスが、排除できないために、しばしば事実と現実の境界は曖昧である。(ハイジャックされた旅客機ビルにぶつかった)

■現実。事実に対するひとつの合理的な解釈。(これは自由と民主主義に対する挑戦である)。

■真実。事実を引き起こした究極の理由(テロリストがやったに違いない。あるいは、もしかすると、第三諸国の悲惨な生活という真実を唱える人もいるかもしれない)

■事実は無限にある(煙が出た。天気は晴れ。鳥が飛んでいた。月齢は・・・)。しかし人々は意味のある事実のみを現実として選択し、真実をさぐろうとする。

■いや特定の事実に意味があるかどうかは、あらかじめ決まっているものではない。そもそも解釈のない事実には意味(現実性)がない。(解釈とは意味づけであり、)現実とは意味のある(あるいは意味を持った)事実のことである。

■数多くの事実をもとに、現実という解釈の束がつくられ、隠された真実が発見される(経験論的帰納)。そして、発見された真実からふたたび現実が再構築される(合理論的演繹)。しかしいずれの場合も事実は変わらない(変わるべきではない、もし事実が捏造された場合、それは「嘘」となる)。(わかりやすく対応させればこうなる。事実−嘘。真実−誤謬。現実−虚構。)

■ところで、真実の(わから)ない現実は(いくらでも)ある。(人が見る世界は現実にあふれている。)

■(妄想や幻覚や夢のように)事実のない現実もある。

■真実はいわば法則のようなものであるが、真実と現実の切り離すのはむつかしい。(客観性?再現性?検証性?)

■ときに現実は事実よりも強固である。あまりに見慣れない事実は、現実だとは思われない。(非現実的な光景)。よくできた現実は事実よりも支持される(リアルな映画)。

■そしてここで、再び、現実と虚構の関係について考えてみる。

■「あらゆる現実は虚構である」という言説は、すぐれた知恵でも発見でもなく、まったく無力な「政治的」主張であり、したがってあるいみ危険ですらある。(ついでにいえば「ウヨク・サヨク・オウム・キチガイ・主義者」などあるリアリティ=現実を永遠に固定化するようなレッテル張りは、それ以上に無意味であり危険である。・・・どうしてもそういうのが好きな人には「レッテル君」というレッテルを張ってあげよう!)

■いかにもっともらしく美しい言葉で飾られていても「すべての現実」は「虚構」にすぎない。でも、それだけではまだ不十分。さらに踏み込んで「虚構」にすぎないものが「時として現実」である、とすべきである。

■人間の認識は、つかみ所のない虚構の世界を恣意的に切り分けながら現実化しているのではなくて、認識世界はもともとすべて現実(=世界そのもの)であって、人間もふくめすべての生物はその現実なしには世界を生きられない。

■現実は便利である。(視覚における錯覚が、日常の空間認識において非常に役に立っているのと同じ意味で)現実は役に立つのだ。

■「時速100キロで走っている車にぶつかると死ぬ」という言説を、とりあえず虚構とよんでもいい。しかし実際にはこれを現実としておいた方が、生きる上では(たぶん)安全である。現実とはその程度に有用なのである。

■事実から現実が生まれる背景。フロイトのいう、投影、置き換え、昇華、圧縮、抑圧、理想化、代用、合理化、否認とは、人が無意識のうちに現実を造り出すメカニズムをさす。夢や空想やイデオロギーもまたこうした現実のあらわれの一つである。

■ポジティブシンキング=すばらしき現実。なぜか人間は現実を疑うことができる、そして別の現実をあらたに造り出すこともできる。現実逃避もまた一つの現実である。

■もし必要であれば「時速100キロで走っている車にぶつかっても私は死なない」そう考えることだってできる。たとえば来世を信じる人にとって、この言説は確かな現実になりうるだろう。

■そうして、実際に車に体当たりしていく人もいてもおかしくない。その人は(その人「的」には)決して死なない。(死んだ先の自我のゆくさきなんて、どうせ検証しようがない・・・そもそも自我の存在自体、検証しようがないけど)。

■ひとは現実にしがみつく。現実離れした風景(事実)を受け入れるくらいなら、風景(事実)の記憶を消してしまう方がてっとり早い。石に見事に擬態をしたタコは、それを見るものにとってはタコではなく石なのだ。

■現実は虚構であるかもしれないと疑うのことができるのは、たしかに人間の優れた能力だ。「うそっこのほんとう」つまり虚構を現実に変えられるのは、実はその能力のおかげでもある。しかし、疑ったところで人間はなにかの現実から逃れられるわけではない。現実以外に人が生きる場所はないからだ(たとえそれが妄想という現実であっても)。

===

■ここでいったん、筆を変えよう。

■あるサイトをみていたら、今回のアメリカでの事件を評して「みんなで楽しくダンスをしていると思っていたら、実は足下で裸の赤ん坊たちを踏みつけていたのだ」という表現があった。

■さらにこの物語を続けてみる。中でもひときわ派手に踊っている男の靴に、瀕死のひとりの赤ちゃんがかろうじて噛みついた。ダンスを邪魔されたその男は怒り狂い、赤ん坊を見つけだし殺すという。

■クラブの中は一時期騒然としたが、といって、みなダンスをやめるわけではない。それどころか、かえって前より強く赤ちゃんたちを踏みつける。クラブに赤ん坊を連れてきたのは誰だ?いや違う、このクラブは赤ん坊でも子供でも入れるのだ。はいった以上みな踊るのだ。「あの赤ん坊はおれ達のクラブハウスを台無しようとした」男は(踊りながら・・・)こわだかに主張する。

■さて、この物語を現実だと感じる人もいれば、そうは思わない人もいるだろう。そう、すでに述べたように現実は一つのフィクションだ。(このごろのはやりは、封筒からこぼれた白い粉の物語かな)

■現実は日常の経験(事実)から生成される。われわれは本来、自分と自分の身の回りのことしか興味がないようにできている。それがまあいってみれば自然だ。

■だからたとえば自分自身や自分の親しい人の死はわれわれにとって特別な事である。それがどんな死に方にせよ、その死はわれわれに「現実的」なショックをあたえるだろう。

■しかし、この「現実」はいつの間にか実際に自分が経験するはずのない広い対象に拡大されていく。テレビの映像で見たにすぎないない衝撃的な風景の中の人々。そしてテレビですら見ることのできない病人や幼子をかかえる難民達。こうした彼らの死まで、あたかも「身近な現実」のように「共感」をおぼえてしまう人がいる。

■愛国心を訴える人々も、戦争反対を唱える人々も、どちらも「現実をつくることができる」という人間の特殊な能力に依存している。こうした虚構は、さまざまな物語を伴いながら人々に現実性をあたえていく。

(いうまでもなくこれらの現実は、意識的につくられることよりも無意識的につくられることの方が多い。だから本人は「つくられた」などとは思っていない。本人にとっては現実は現実以外のなにものでもない)。

■誤解を与えそうなので念のために申し添えておくと、ニューヨークのビルの崩壊や今日も死に直面している難民の存在が、「事実ではない」といっているわけではない。事実であろう。事実ではあるが、もしかするとある人にとっては現実ではないかもしれない。自分と自分の身の回りのことしか興味がない人を責めてはいけない。むしろ、そこから始めないと物語にふりまわされて混乱することだってある。しかしもちろん、それだけではなんとも動物的な反応ではあるが。

■人間は3才にも満たないうちから「うそっこのほんとう」遊びができるのだ。

追記
http://www.web-sink.com/
このごろの人にとっては「ぼのぼの」だが、ぼくにとっては「ネ暗トピア」のいがらしみきおの新作「Sink」 の第8話がアップロードされた。面白い。

http://neo.human.ne.jp/~daisuke/britain/index.htm
ブリテン島萬報、一年ぶりに更新しました。これをもって、マーケットの項目以外はほぼ完成です。ここでなぞなぞ。世界でもっとも破壊的な動物・・ってなーんだ?答えはどこかのページにあります。


[1784] Re: うそっこのほんとう 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/23(Tue) 11:46

■「あらゆる現実は虚構である」という言説について考えてみた。これは、正しくは「ある虚構は現実になりうる」ではないだろうか。

これって、岸田秀の「ものぐさ精神分析」を読んだ時の、共同幻想論って言うやつで感じました。けど、あんまり分かってない。
「ある虚構が現実になりうる」というよりも「すべての虚構は現実になるあがきをしている」はどうですか?

■仮に「現実」は「虚構」なのだとしても、だからといって「現実」の特殊な地位をないがしろにできない。ある人にとって「特定の現実」とは、ほかの虚構とは違う「特別な虚構」と考えた方が良くないか。

『錯乱と文化』という本をレポートのためにちょっと読みました。これは精神科の医者と人類学の学者が共同で行ったシンポジウムをまとめたものです。精神科の患者の症例をあげて、その症例にたいして人類学者や民俗学者の人がコメントをするという形でした。そのなかの一つの事例がとても面白かった。発病して「私は神の子である」と言い出して30年間たった患者を治療するために、医者はその患者の作り出した世界を否定せずに、患者と共有する形をとった。今まで村人否定されつづけた世界が突然、現実味を帯びてきたことに患者は戸惑い、最後にはその虚構にたいしてあまり感心を示さなくなっていった。しかし、それは彼の妄想が消えたわけではなく、今も患者の中に息いているそうだ。


■ここで事実(fact)と現実(reality)と真実(truth)の関係を整理する。


■いや特定の事実に意味があるかどうかは、あらかじめ決まっているものではない。そもそも解釈のない事実には意味(現実性)がない。(解釈とは意味づけであり、)現実とは意味のある(あるいは意味を持った)事実のことである。

関係あるような気がするんで、質問。客観的事実っていうのはなんとなくわかる。けど、間主観的事実ってなに?


■そしてここで、再び、現実と虚構の関係について考えてみる。


■ひとは現実にしがみつく。現実離れした風景(事実)を受け入れるくらいなら、風景(事実)の記憶を消してしまう方がてっとり早い。石に見事に擬態をしたタコは、それを見るものにとってはタコではなく石なのだ。

石頭にはなりたくないけれど、タコ頭もちょっとな。最近に、日本では寅さんのシリーズが民放でずっとながれてるんですよ。関係ないけれど。


[1802] Re^2: うそっこのほんとう 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/01(Thu) 02:16

■「あらゆる現実は虚構である」という言説について考えてみた。これは、正しくは「ある虚構は現実になりうる」ではないだろうか。

これって、岸田秀の「ものぐさ精神分析」を読んだ時の、共同幻想論って言うやつで感じました。けど、あんまり分かってない。

「ある虚構が現実になりうる」というよりも「すべての虚構は現実になるあがきをしている」はどうですか?

違うのです。「共同幻想」吉本隆明も「想像の共同体」のベネディクト・アンダーソンも、論理の順序が逆なのです。彼らが言っていることは前者の「あらゆる現実は虚構である」という問題なのです。

『錯乱と文化』という本をレポートのためにちょっと読みました。これは精神科の医者と人類学の学者が共同で行ったシンポジウムをまとめたものです。精神科の患者の症例をあげて、その症例にたいして人類学者や民俗学者の人がコメントをするという形でした。そのなかの一つの事例がとても面白かった。発病して「私は神の子である」と言い出して30年間たった患者を治療するために、医者はその患者の作り出した世界を否定せずに、患者と共有する形をとった。今まで村人否定されつづけた世界が突然、現実味を帯びてきたことに患者は戸惑い、最後にはその虚構にたいしてあまり感心を示さなくなっていった。しかし、それは彼の妄想が消えたわけではなく、今も患者の中に息いているそうだ。



■いや特定の事実に意味があるかどうかは、あらかじめ決まっているものではない。そもそも解釈のない事実には意味(現実性)がない。(解釈とは意味づけであり、)現実とは意味のある(あるいは意味を持った)事実のことである。

関係あるような気がするんで、質問。客観的事実っていうのはなんとなくわかる。けど、間主観的事実ってなに?

フッサールがつくった概念。複数の主観によって認められている事実。客観という言葉が使えないかわりにこういっておきましょうという感じかな。

客観って簡単言うけど実はとっても難しいのね。たとえばだれがどうやって客観性を保証するの?


[1782] Re: うそっこのほんとう 投稿者:平安 投稿日:2001/10/23(Tue) 00:17

こめんとください
いろいろ考えながら、SINKを読んで、
カフカの本を思い出しました。(題名忘れた〜)
だいちゃんが言ってたナショナリズムについても少し。
でも、まだまだわからない・・・。


[1775] Re: うそっこのほんとう 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/10/22(Mon) 18:51


■「うそっこのほんとう」。これはごっこ遊びに興じるときの子どもたちの造語である。

■「これは、うそっこのほんとうだからね」といったとたんにぬいぐるみのカンガルーは話し始め、ミニカーは本物のバスになり、ふたりは、玩具の国の住人になる。


 私は「うそっこのほんとう」がうまくできなくてよく「ゆうきちゃんはもういれてあげなーい」っていわれたなあ・・・。特に「おかあさんごっこ」系。


■虚構と嘘はちがう。

■つまり「うそっこのほんとう」は、「うそ」ではなくて「ほんとう」なのだ。(「ほんとう」とは、ここでは「真実」の意味ではなくて「現実」の意味でつかわれている。要するにそれは「まぎれもなくほんとう」な「ほんとうらしさ」である。)

 子供の遊びの中でもいかに「ほんとうらしく」演じきれるかをもとめられる。演じることができなかった私は輪から追い出され、とたんに攻撃の対象となる。しかたないので私はひとりでずっと本ばかり読んでいた。



■ときに現実は事実よりも強固である。あまりに見慣れない事実は、現実だとは思われない。(非現実的な光景)。よくできた現実は事実よりも支持される(リアルな映画)。

 ここまで読んで『マトリックス』を思い出した。


■そうして、実際に車に体当たりしていく人もいてもおかしくない。その人は(その人「的」には)決して死なない。(死んだ先の自我のゆくさきなんて、どうせ検証しようがない・・・そもそも自我の存在自体、検証しようがないけど)。

 ある宗教を信仰する人が死体を「生きている」と主張したりして罰せられる・・・。これから物事を説明するのに「生物学的には・・・」とか「法的には・・・」いう言葉が必要になったのかなあ?


■現実は虚構であるかもしれないと疑うのことができるのは、たしかに人間の優れた能力だ。「うそっこのほんとう」つまり虚構を現実に変えられるのは、実はその能力のおかげでもある。しかし、疑ったところで人間はなにかの現実から逃れられるわけではない。現実以外に人が生きる場所はないからだ(たとえそれが妄想という現実であっても)。



■人間は3才にも満たないうちから「うそっこのほんとう」遊びができるのだ。


[1770] Re: うそっこのほんとう 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/10/22(Mon) 03:46

一昨日、ホームレスという言葉が使われるようになったのはいつからなのか調べていました。

どうも70年代末から80年代にかけて、アメリカで「hobo(ルンペン)」が「homeless(ホームレス)」に言い換えられたことが原因で、理由のようです。失業者が増えて、ルンペンが増えて、社会問題になってルンペンはホームレスになったようです。

公園で暮らしていて、事実のデータが少ないせいか、いい加減なうわさ話をよく聞きました。

「朝日新聞に強制撤去の記事が載っとった、9月や、私、そう聞いたで」
「そうか、そろそろやなあ」

という感じ。図書館に行って朝日新聞をチェックしましたが、そういう記事はありませんでした。

とはいえ、強制撤去は遅かれ早かれやってくるでしょう。公園にずっと住みつづけられるなんてリアリティのない話だし、そんな考え方をして何の備えもしていなかったらその日その日は気楽かもしれないけど、あまりにリスクが高い。今までの情勢から「そろそろかな」という気配は感じて当然です。

多少の誤りはあっても真実はつかめている気がします。

公園において僕という存在の捉え方。僕自身にしてみれば違和感があるとられ方でも、彼らにしてみれば現実的なものなのでしょう。その向こうに何らかの「真実」があるのかもしれませんね。

ホームレスって何だろう?そもそもいつ頃から、どんな理由でホームレスという言葉を使い始めたんだろう?公園の人たちは「ホームレス」なのかな?福祉や政治、あらゆる場面で、それまでの経緯を忘れて「ホームレス」を出発点にしている気がします。

ああ、もっと公園の現実に染まれたら良かったな。今回は公園の現実に翻弄されたってとこだな。


[1757] ひとりごと日記・F 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/10/19(Fri) 20:43


 ロンドンの中心街で、よく日本の女性向雑誌で「ロンドンっこ特集!」があってるようなところをうろつく。店もありきたりなものばかりだし、ものの2,3時間で飽きてしまった。ロンドンっこも見当たらないし(第一ロンドンっこって何!?見ただけでわかんの?)、町並みもおしゃれとは思えない。

日本食を食べようかと思って探してみた。あったあった!しかしたまご丼が3・5ポンド?日本円で換算すると700円弱!!?なんだとぉー?ふざけるな!!・・・・パス。もっと歩くと回転寿司を発見した。その名も『yo!寿司』。
 ( 「こんにちは!お寿司さん」ってノリか?)
前面ガラス張りの店内を覗いてみる。そこは小宇宙を思わせるようなハイパーな空間になっていた・・・。薄暗いブルーの照明にバーカウンターのようなテーブル。しかしそのテーブルにはベルトコンベアーが付いていて、確かに寿司の形をした物体が回っていた。よく見るとカラフルなフルーツっぽいものがネタになっている。
 ( それは寿司・・・?)
私はげんなりとして日本食をあきらめた。しかしこの『yo!寿司』、売れているらしくコンビニなどでも3個パックでよく売られている。ネタはアボガドだったり。マグロに似た味がするらしい。

 ロンドンの町に飽きた私は次の日から博物館めぐりをすることにした。自然史博物館―>大英博物館―>ロンドンダンジョンが一日目、マダム・タッソー―>シャーロック・ホームズ博物館―>ロンドン動物園が二日目。降りる地下鉄の駅のことも考えて計画をたてた。

 自然史博物館はまるのまま楽しめた。恐竜大好きなのである。あとから隣に科学博物館もあったことを知り、立ち寄らなかったことを後悔した。次は大英博物館。私はここで長年の謎がやっと解けた。エジプトの巨大な壁画はどのようにして彫られたのかだ。規則正しいあれらの美しい模様は、手で一つ一つ刻まれたのではなく、小さな円柱形の石に彫られた模様だった!日本でも小学生向けに売られている「コロコロスタンプ」といっしょだったとは!まあ、それにしても円柱の石に彫られた人物・動物などの模様はどれも精密で美しい。よく考えたものだ。その石さえ彫ってしまえばあとは壁にコロコロ・・・と押し付けていけばそりゃあ整然とした壁画の完成である。古代縄文人は、土器に縄を押し付けて模様をつけていたことを思い出した。

 その日はあとロンドン・ダンジョンとやらに行ったらノルマ達成であった。わたしはこのロンドン・ダンジョンを博物館だと思い込んでいた。だって説明を読むと、「ロンドンの歴史的な事件や虐殺などをろう人形を使ってリアルに再現したもの」って書いてある。拷問器具も展示してあるらしい。気持ち悪い物好きの私はぜひ見学せねば!とはりきった。
ロンドン・ダンジョンにはすでに長い列ができていた。これは期待も高まるといったもんである。しかしなんかおかしい。列に並ぶ人々は家族づれ、あるいはカップルである。しかもみんな異様に興奮気味で、互いに顔を見合わせて「叫ぶなよー。」とか「もう怖いんじゃないの?」などと言っている。後ろから「わあ!」などと脅かしたりしている。わたしはこれに似た雰囲気を知っている・・・。そう、遊園地だ。しかもお化け屋敷に並ぶあの雰囲気。まーさーかーーー。

 嫌な予感を噛みしめつつ、自分の入館(入場?)の順番を待つ。いよいよ私の番。係りの人が何度も「Alone??」って聞く。
 ( そうだよー!一人で来ちゃったんだよ!だってお化け屋敷だとは知らなかったんだもーん。)
泣きそうである。まず記念写真を撮る。ギロチンのセットに自分の首を置き、連れが斧を持って切る真似をしているところをパシャッ!私は一人なのでおばけメーキャップをした係りのお兄さんが斧を持つ。ええい、やけくそだ。すごい迫真の首を切られる演技をしたらとても誉められた。最初は自分で歩いて進む。知らない子供に脅かされて不覚にも声を出してびっくりしてしまう。見た目以上に私はびびっていた。内臓も飛び散る血もものすごくリアルに再現されている。こ、こわい・・・。
途中で乗り物に乗ったり、よく叫ぶ黒人の家族連れと仲良くしたりしながらなんとかロンドン・ダンジョンを乗り切った。なんであんなにグロくてやばいものが子供もOKなんだろうか・・・。いかにして切り裂きジャックが女性を殺したかを部屋に閉じ込めて再現したりするんだぞ??まったく英国人はわからーん。

 私はその日は食べ物がのどをとおらず青りんごで夕飯をすました。(ほんとは外食したら高いからけちっただけ。)


[1778] Re: ひとりごと日記・F 投稿者:あきよし 投稿日:2001/10/22(Mon) 20:07


私はげんなりとして日本食をあきらめた。しかしこの『yo!寿司』、売れているらしくコンビニなどでも3個パックでよく売られている。ネタはアボガドだったり。マグロに似た味がするらしい。

昨日アメリカの人とご飯を食べた時も、刺身だけ食べてからテーブルに置いてあったゴマだれ御飯にかけて食べてたな。

泣きそうである。まず記念写真を撮る。ギロチンのセットに自分の首を置き、連れが斧を持って切る真似をしているところをパシャッ!私は一人なのでおばけメーキャップをした係りのお兄さんが斧を持つ。ええい、やけくそだ。すごい迫真の首を切られる演技をしたらとても誉められた。最初は自分で歩いて進む。知らない子供に脅かされて不覚にも声を出してびっくりしてしまう。見た目以上に私はびびっていた。内臓も飛び散る血もものすごくリアルに再現されている。こ、こわい・・・。
途中で乗り物に乗ったり、よく叫ぶ黒人の家族連れと仲良くしたりしながらなんとかロンドン・ダンジョンを乗り切った。なんであんなにグロくてやばいものが子供もOKなんだろうか・・・。いかにして切り裂きジャックが女性を殺したかを部屋に閉じ込めて再現したりするんだぞ??まったく英国人はわからーん。

切り裂きジャックか、、恐っ。昨日雑誌で「ブリジットジョーンズの日記」がR15指定になってるのに気付いた。イギリスはそういう指定とかVチップとか無いわけ?

 私はその日は食べ物がのどをとおらず青りんごで夕飯をすました。(ほんとは外食したら高いからけちっただけ。)


[1756] ひとりごと日記について 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/10/19(Fri) 19:25


 大祭が近づき、写真展の作品を焼くのに追われております。今年はオックスフォードの夜の街角を出展します。パイプオルガンを聴きに行った帰りの写真です。ぜひ竹川さんにも見てほしかったけどまだ帰国してないころだね。

 みんなの難しい文章を読むたびに「なんでこんな文書けるんやろ?私に卒論書けるんやろうか?」と落ち込み、アホな文章の「ひとりごと日記」を書き込み続けることに抵抗を感じます。しかし途中で止めるのは嫌なので続けようと思います。




 


[1759] Re: ひとりごと日記について 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/20(Sat) 20:05

 大祭が近づき、写真展の作品を焼くのに追われております。今年はオックスフォードの夜の街角を出展します。パイプオルガンを聴きに行った帰りの写真です。ぜひ竹川さんにも見てほしかったけどまだ帰国してないころだね。

帰国したらぼくのために展覧会をしてください。逆個展。

 みんなの難しい文章を読むたびに「なんでこんな文書けるんやろ?私に卒論書けるんやろうか?」と落ち込み、アホな文章の「ひとりごと日記」を書き込み続けることに抵抗を感じます。しかし途中で止めるのは嫌なので続けようと思います。

難しい文章は、難しくしか書けないからああなっちゃうんですね。同じことをアホな文書でかけるのであれば、そちらの方がずっと才能があると思いますよ。

だいたいにおいてわかりにくい文章で書く人は、自分で理解できてないからそうすることが多いと感じます。理解している人の説明は、どんなに複雑なことでもたいていとてもわかりやすい。

それにしても、ひとりごと日記はとても面白いです。かなり鋭くイギリスを見ていると思います。同じものを見ていても、これだけ考えられるのだなぁととても感心しています。


[1768] Re^2: ひとりごと日記について 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/10/22(Mon) 02:15

難しい文章は、難しくしか書けないからああなっちゃうんですね。同じことをアホな文書でかけるのであれば、そちらの方がずっと才能があると思いますよ。

だと思います。ちなみに難しい文章は書いてて自分で気持ち悪いです。でも、その時点ではそうしか書けないもん。頭悪いもん。あやまるしかない。

それにしても、ひとりごと日記はとても面白いです。かなり鋭くイギリスを見ていると思います。同じものを見ていても、これだけ考えられるのだなぁととても感心しています。

面白いです。僕もあんなふうに何か書きたいなあ。


[1753] 精神保健福祉のレポート 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/18(Thu) 11:47

「レポートでなんでもいいから、日本における政策で重要だと思うことを書きなさい」と言われたんで書いてみました。この授業は期末テストがなく、レポートで評価するので、暇な人はぼくのレポートを添削してください。結論はまだ書いてないので、どういう結論がいいかも意見があったらお願いします。


序文
 私は今精神病院で宿直のバイトをしている。バイトを初めて2ヶ月あまりがたった。宿直のバイトは、わずかばかりの仕事さえこなしておれば、他は自由な時間に回せる。その仕事も、電話の応対やカルテの出し入れなどといった簡単なものである。そのかわり、拘束時間は午後の5時から、次の日の朝までとなっている。一日置きにバイトに入っているから、毎日数時間は必ず精神病院の事務室で過ごすことになる。そのため、私は地域社会の属性を考えたとき、自分が学生であることよりも当直人であることの方が多い事実におかしさを覚えながら毎日を過ごしている。
 当直では夜から朝にかけて一人でいることが大半だが、全く患者と接することが無いわけではない。夜中、事務室で一人本を読んでいると電話がかかる。電話のベルは恐ろしいほどにうるさく、本に熱中している私をはっとさせるものだ。応対で受話器越しの相手はさまざまだが、半数以上はこの病院の外来患者か入院患者である。精神疾患や痴呆症を患った者およびアルコール依存症・麻薬中毒者などの人の受け答えは、どこかちぐはぐではっきり聞き取りにくく、まるで私は異邦人と話しているのではないかと感じるときもある。当然、電話越しだけでなく、少数ながら精神病院で心と身体の治療を目的としている人間に直接あっている。
 朝の仕事は待合所の新聞を今日の物に換えるところから始まる。まだ地域の人々は眠りから覚めるころである。しかし、ここでは私が起きる前に入院患者はもうすでに起きだして、数人は私のいる事務室の前にある待合所に出てきている。待合室のイスに座っておもむろに煙草をふかすもの、おなじ歌を何度も歌うもの、おんなじ所を言ったり来たりするもの、待合所の隣のトイレに入った切り出てこないもの。各人が思い思いに朝を迎えている彼らを受付の窓から眺め、「いったい僕と彼らの何が違っているのだろうか」と考え、外につながる玄関の自動ドアから出ていく彼らの姿を象徴的にとらえてしまう。
 このように、私の世界に精神病院という非現実の世界が入り込んできた。この言い方は精神病院の患者と職場の人に失礼であろう。しかし、当直人である私の感覚を通して繰り広げられる現実は、学生として過ごす現実とはあまりにもかけ離れすぎている。このレポートを書いた当日、一人の患者が自宅で自殺した。つい最近退院して、2日前に診察を受けに来たばかりなのに。当直人になって二人の人間が自殺したという現実を目の当たりにしたことになる。
 フランスの哲学者であるミッシェル・フーコーは、『精神疾患とパーソナリティー』において次のようにのべている。精神錯乱という神話によって、患者が都市の外部の境界に排除されてしまうとすれば、それは患者のうちに示されている矛盾のスキャンダラスな表現から、人々が目を背けたいからである。しかしこの矛盾こそが精神の疾患を可能にしたのであり、社会に置ける疎外という現実そのものを構成するのである。(引用『精神疾患とパーソナリティー』 ちくま学芸文庫 p201)。
 私が働いている精神病院は地域の中心部から少しはなれた山あいに位置している。他のいくつかの精神病院の多くもやはり辺鄙なところでよく見かける。このことは、意図的かどうかは真意ではないが、社会的な関係において 不適応というスティグマ(烙印)をおされた人々を地域社会から切り離してしまうために思えてならないのだ。
 今回のレポートは、自分の経験をふまえて精神障害者と地域社会との関係を考えてみたい。しかし、このテーマではあまりにも漠然としているし、ある特定の人間だといっても地域社会との関係性を論じるのは広く多面的であるため、私の知識と経験では手に負えるものでない。そこで、私が経験を通してもっとも感じた、疎外ということを念頭に置いて、精神障害者と地域社会の関係を考えていこうと思う。
 本論では、まず始めに、精神障害者が地域社会において疎外されているのではないか、という仮説の根拠をしめす。次に、簡単に日本の精神保健福祉行政の流れを引用したあと、疎外の象徴であると考える精神病院をとおして日本の精神保健福祉行政の問題点を考えてみたい。結論では、地域社会が精神障害者を疎外することとは、いったい何を意味するのかを、本論や引用をふまえながら自分なりに考えてみたい。

 本論
1節.精神障害者を疎外する地域社会
 今回のレポートで「疎外」という言葉によって心理学的なことや、哲学的なことを論じようとしているわけではない。ちなみに、心理学的意味では、自我意識の障害のことを言うので、精神障害者自身が自己を疎外することをも意味にはいる。また、哲学的意味の「疎外」とは、精神が労働を通じておのれを自然や社会と対象化し、おのれにとって定立する過程を言う(知恵蔵1997 p649)。
 私がここで論じたいのは、ある地域社会からある特定の人間を疎んじて遠ざけているという根拠を提示することである。しかし、ある事実に「疎外」という言葉をあてはめるとき、そこには感情的な問題をも含んでしまうことになる。ある事実を疎外と見なすかどうかは人によって異なるため、今回は私自身、あるいは事実において相関関係をもたない第三者の人間が、疎外とみなす事実を述べることにする。
 実は、地域社会に精神疾患者が疎外されているような根拠はないのかもしれない。何を今更と思うだろうが、私が経験を通して感じた疎外とは、精神病院も地理的条件のみであるからだ。これも病院側が地域の中心地から離れた安価な土地を選んだだけで、私が考えているような、立地条件が法的に定められていたり、住宅の密集しているような立地しようとしたさいに反対運動がおきたりしたという理由からでは無いのかもしれない。私が調べたかぎりでは、「疎外」の一つとして地理的要因の事実があるのかどうかの法的根拠は見つからなかった。それは当然かもしれない。自由・平等が基本原理である市民社会の法律の条文に、特定の人間の収容される施設は、疎外して不自由で不平等になることが安に分かってしまうようなものがあるはずがない。ただ、精神病院の立地条件が指定されているという法的根拠がないとしても、地域社会が精神病院を住宅地や都心部に立てることをこばんでいたり、地主が売らなかったりすることは考えられる。
 私が疎外だとみなす事実は推測の域を免れないが、そもそも、精神医療以外の医療機関の大半が町の中心部に立てられているのを考えれば、決して経済的な要因だけではないと見るのは妥当であろう。では、最後に補足として一つの事例をあげて、この節を終わりにしたい。
 ここに一冊の本がある。『心病める人たちー開かれた精神医療へー』という実際に精神医療に携わる人がかいた本である。これは、著者の設立した病院を退院した元患者が、共同生活をしながら生活技術を身に付けていくための共同作業所を作ろうとしたと時のエピソードである。 
 
 お金は順調に集まっていたが、土地探しが難行した。町の中で安い土地なんて、そうは見つかるものではない。ある土地は、彼らが通うには不便すぎだ。ある土地は山の奥だった。また、ある土地は吹きさらしの田んぼの真ん中だ。
 あっちの土地、こっちの土地と検分を重ねたあげく、やっと一ヶ所、格好の土地が見つかった。病院に近い住宅地で南向き、日当たりもよい。売り渋る地主を説き伏せ拝みたおして、やっと手金を打った。やれやれと思ったら、そこの住民が反対だと騒ぎだした。
 「まいったなあ」。やむなく、病院に、その地区の人々に集まってもらって、説明会を開くことになった。—略—(引用 『心病める人たちー開かれた精神医療へー』 p115)

 2節、精神保健福祉行政の歴史
 前節では、自分の経験から考察を試み、精神障害者が地域社会に疎外されているという根拠を示したに過ぎない。ここでは、簡単に精神医療ささえる精神保健福祉行政の流れを追うことによって、地域社会の精神障害者にたいする対応をみる。そもそも、一般的に社会的弱者が社会においてどう扱われてきたかを系譜的にみるには、国家における福祉の始まりから見ていかなければならない。しかし、今回は、日本における、精神障害者のみを対象にした施策についてからの歴史を追っていきたい。なお、ここでは『改正精神保健福祉法の概要』の「精神保健福祉行政の流れ」を引用することにする。

 精神保健福祉行政の流れ
 我が国の精神障害者施策については、昭和25年の「精神衛生法」制定いらい、社会防衛、治安対策に重点が置かれ、精神病院への収容主義の下で、精神障害者は長らく医療および保護の対象としてのみ位置づけられていた。
 その後、精神医学の進歩、欧米における脱施設化運動の影響等により「入院治療中心の治療体制から地域社会におけるケアを中心とする体制へ」という流れになった一方、昭和59年の宇都宮病院事件等の精神病院の不祥事件を契機に精神病院における精神障害者の人権擁護をもとめる声が高まった。
 これらの流れを受けて、昭和62年に「精神医療における人権の確保」と「社会復帰の促進」という理念の下に、精神衛生法を見直し、(1)法律の内容を、国民の精神的健康の保持増進にまで拡大し、法律名を「精神衛生法」から「精神保健法」に改正、(2)任意入院制度や精神医療審査会制度の創設等の人権規定を加える等の改正が行われ、平成5年には、地域生活援助事業(グループホーム)の法定化や、精神障害者社会復帰促進センターの創設を内容とする精神保健法の改正が行われた。
 また、昭和56年の国際障害者年等の契機に、精神障害者についても、「単に医療及び保護の対象としてではなく、福祉施策の対象となる障害者である」という認識が高まり、平成5年の障害者対策基本法の一部改正(障害者基本法への題名の改正)において、精神障害者が同法に明確に位置づけられたが、身体障害者や知的障害者と比べ、精神障害者の福祉施策については大変遅れている状況にあった。
 こうした状況をふまえ、平成7年には、精神障害者の社会復帰・福祉施策の大幅な充実等を図る必要性から、精神保健法の一部改正(精神保健及び精神障害者福祉に関する法律への題名変更)が行われ、同法の目的に「精神障害者の自立と社会経済活動への参加の促進」を規定するとともに、社会復帰施設等のハード面の充実強化、精神障害者保健福祉手帳制度の創設等の措置が講じられたところである。
(引用 『改正精神保健福祉法の概要 改正事項の説明と検討の経緯』 p1)

3,地域化を阻む精神病院の現実
 前節では省いたが、狂気の人間が地域社会から切り離されるようになった経緯と、近代社会の成立は非常に密接につながっている。近代社会における福祉政策は、法的および医学的な実践の抽象的な観念のようなものを根拠として(『精神疾患とパーソナリティー』 p199)、地域社会ともに生きていた狂気の人間を地域社会から切り離していったのである。そこから、精神障害者の「疎外」が近代福祉政策によってもたらされたことが導き出される。日本でも、精神障害者が疎外されるようになったのは、江戸時代から明治にかわって、一般の世の中が封建から文明開化へと開放された時期である(『戦後精神保健行政と精神病者の生活』 p4)。そのため、現在の精神保健福祉行政の問題点を突き詰めていくと、近代の成立に行きつくであろう。ただ、今回のレポートでは、近代の社会構造については結論で少しふれることする。
 昭和59年に宇都宮事件で日本の精神病院のずさんな実態が国内外に露呈し、精神障害者の人権擁護や社会復帰が叫ばれはじめてから、何度か精神医療関する法律は改正や名称変更などをし、これと並行して行政は精神保健福祉の向上に努めている。そのなかで、精神医療にかんする法律の根幹である精神保健福祉法(平成7年改正)の目的は「精神障害者の自立と社会経済活動への参加の促進」となっている。この法律にともない、公衆衛生審議会が基本的な方向を、精神障害者の人権に配慮した保健医療福祉サービスの確保と、精神障害者の社会復帰を促進するうえで、地域での受け入れ体制をより一層整備することとさだめた(『改正精神保健福祉法の概要』 p8)。しかし、今日の精神福祉行政において言えることは、法律や施策の文言は確実に精神医療の地域化へとむいているにもかかわらず、昭和62年以前の収容主義や精神障害者の社会復帰の割合があまり変わっていないのが現状だ。なぜ、精神保健福祉行政が、政策を精神医療の地域に目が向いているにもかかわらず変わらないかを、精神病院を通して考えてみる。 
 法律では、精神病院を閉鎖・縮小化し、かわりに、精神保健福祉センターなどの精神医療に関係する施設をつくって、ハード面で地域化の必要性をといているにもかかわらず、それが全く進んでいない。その原因の一つとして、病棟数1669ヶ所、全病床数360432(1997年6月)うち、病棟数で81.7%、病床数で87.7%を私立病院である(『戦後精神保健行政と精神病者の生活』 p49)ことがあげられる。もし、ほとんどの精神病院が公立であるならば、国の政策がスムーズに実施できたであろう。国の精神病院のほとんどが州立であるイタリアなどでは、精神病院にかんする108号法案といわれる法律ができて、大幅に病院数をへらしている(『心病める人たちへー開かれた精神医療へー』 p139)。また、日本の入院者総数35万人の半数以上が5年以上も入院している長期入院患者である(『心病める人たちー開かれた精神医療へー』 p211)ことは、たとえ地域化が進んだとしても、長期在院患者ほど社会復帰することが困難であることを意味しているので、こういう実態が行政と民間双方の改革の動きを鈍くしていると見ることも出来る。ちなみに、イギリスでは五年以上の在院者は、全入院者のわずか2%にしかすぎない(『心病める人たちー開かれた精神医療—』 p212)。
 また、高度成長期がおわり昭和50年代の後半から、厚生省(現在:厚生労働省)の医療費抑制政策は、精神病院の経営にも影響をあたえた。そもそも、日本の精神科は医療制度により、医療費が極端に安い。現在の日本の精神病院の、一ヶ月1ベット当たりの入院医療収入は20万円かそこらで、これは欧米のどことくらべてみても三分の一から六分の一という低さ(『心病める人たちー開かれた精神医療へー』 p177)。これでは、精神障害者が増加の一途をたどり、一向に長期入院の傾向に変化がないのにも無理もないのかもしれない。長期在院患者は“病院の固定資産”とみなされている(『心病める人たちー開かれた精神医療へー』 p103)というのも、日本の医療制度自体が私立の精神病院を苦しめているからではないだろうか。
 その他にも、たとえ精神病院が倒産を覚悟して縮小を進めたときの補助制度や、閉鎖に伴う精神医療の従事者の受け入れ先の準備や、閉鎖に伴って残される精神病院の施設の処理などの問題が山積みされている。さらに付け加えるならば、たとえ精神病院が閉鎖・縮小化したとしても、現在において、今まで病院に入院していた患者を受け入れ先や、診察をする施設、デイケアセンターなどはまったく整っていないのが現状である。
 このように、一つの施設を通して精神保健福祉行政を考えただけでも、精神保健福祉法の目的の達成や、公衆衛生審議会の基本的方向の実施が非常に困難なのが良く分かる。いま、精神保健福祉行政に求められているのは、法律の改正や指針などよりも、精神医療をふくむ医療制度の抜本的な構造改革であろう。小泉総理ではないが、改革が痛みをともなうのは当然の話である。ただ、今日の不況に伴う国家的財政赤字、高齢化や少子化などによる医療保険制度の減退などにより、抜本的な改革を断行するための財政をどうするかが非常に問題となるであろう。


[1796] レポート 第2校正 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/27(Sat) 13:47

やっとできたよう。はあああ。何でこんなに時間かかるの。せっかくがんばって書いたから、ひまな人また添削してください。提出期限は31日まで、できればそれまでにお願いします。

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「精神保健行政の地域化を考えて」

序論
大学に入り様々な人と友達になった中で、数人ではあるが精神病院に通院した経験のある友達になった。そして、2ヶ月前からはじめた精神病院でのバイトで様々な精神の病を患っている人々と接するようになった。
このように、精神病者と身近に接するまで、私には精神病者に対して「恐い」というイメージが付きまとっていた。そのイメージを植え付けるのは、メディアをとおして知る精神病者が起こした悲惨な事件であったり、精神病という名前のひびきであったりするのだが、そのような感情を他人と共感することによって、私の「恐い」という感情は強固なものとなっていった。しかし、精神病とはいえないまでも精神安定剤や抗うつ剤などを服用している友達や患者と接するうちに、私の精神病者にたいする「恐い」というイメージは払拭され、根拠のない偏見を抱いたことに疑問を持つようになっていった。
このような体験を通して、私は精神病者がどうして根拠のない偏見をもたれ、社会的弱者としての立場に追いやられていくのかを知りたくなった。調べていくうちに、なぜ人が精神病になるのかはまだ病理学的に解明されていないということが分かった。それならば、精神病者は、「恐い」というイメージばかりが先行して、科学的根拠もない偏見をもたれてしまっていることになる。
近年は、児童・思春期精神保健問題、老年期の精神保健問題、アルコール関連問題などの社会問題が急増している。こうした状況の中で、精神保健行政は従来からの狭義の精神疾患対策だけでなく、精神的健康の保持・増進の重要性が認識され、住民の精神保健行政への関心が高まってきている。これをうけて、 行政も入院治療中心の体制から地域社会におけるケアを中心とする体制へと変わってきている。
このような時代背景の中、精神保健行政がこのような体制を効率よくすすめるためには、政策を立案する段階で、日本社会で精神病者がどういう扱いを受けているかを分析する必要があると思われる。というのも、どんなに精神保健行政の政策面や法制度が改善し、精神保健福祉センターや保健所が設置されたとしても、精神病にたいする偏見があっては市民も気軽に制度や施設を利用するのは難しいからだ。
なお、今回のレポートで、精神医療の地域化とは「入院治療中心の体制から地域社会におけるケアを中心とする体制へ転換させること」とする。

本論
近代国家が成立していらい、精神病者にとられた対策は、精神病者を治療するというよりも、精神医療の施設に閉じ込めて地域から排除するという歴史がある。このような暗い歴史は精神医療の地域化が進んでいる欧米でもとおってきており、これが世界的な精神医療の地域化へとすすんだ要因としては、精神医療の発達や精神病者にたいする人権擁護の推進などの時代背景がある。日本においては、昭和62年に精神衛生法が精神保健福祉法に改正されたのが、法的には精神医療の地域化のはじまりといえる。この法律には、「精神医療における人権確保」と「社会復帰の促進」という理念がおりこまれ、以前の精神衛生法が社会防衛、治安維持に重点をおき、精神保健を精神病者の医療および保護の対象としてのみ位置づけるのとはまったく違っていた。この法改正を契機に、精神保健行政の体制は医療の地域化へとすすみ、狭義の精神疾患だけでなく、国民の精神的健康の保持増進と対象を広げることとなったのである。
現在、都道府県では、精神保健に関する総合技術センターとしての機能をもつ精神保健センターが設置できることとなっており、現在、全国に四四施設がある。また、地域において精神保健行政を実施する第一線機関である保健所も、従来からの業務のほかに、今日の保健需要におうじて広範な精神保健サービスを実施できる体制になってきている。
しかし、一方で戦後から入院医療中心の体制の役割を担ってきている精神病院は一向に減少していない。現在、精神病院の数は約1600である。この数字は、精神保健福祉法が制定される以前とほとんど変わっておらず、今後も増えこそしないが減る見込みはないという。その主な原因として、石川信義氏は『心病める人たち』において、日本の精神病院のほとんどが私立病院であるということをあげている(「日本の精神医療改革をはばむもの」p176 『心病める人たち』石川信義)。統計によると、日本の病棟数1669ヶ所、全病床360432のうち、病棟数で81.7%、病床数で87.7%が私立病院であるという(『戦後精神保健行政と精神病者の生活』p49)。 日本の精神病院のほとんどが私立病院になった要因には、戦後の高度経済成長のなか、医療政策や福祉政策よりも経済政策を重要視していたために、精神医療施設においての政策が手薄だったことや、先述したように精神保健行政自体の方針が、精神疾患対策のみであったことなどがあげられるが、詳細は省く。
 ここで指摘したいのは、法制面では地域化が進んでいるにもかかわらず、入院医療中心の象徴である精神病院が減っていない事実である。世界的に見ても、地域化がすすんでいるイタリア、カナダ、アメリカなどは、地域化の第一歩として必ず精神病院の閉鎖・縮小化を行ってきた。イタリアなどでは、すべての公立の精神病院廃止を法案に盛り込んだ108号法にそって、現在公立の精神病院はすべて閉鎖するかわりに、地域社会でのケアを中心とした機能をもつ精神衛生センターといわれる施設によって、精神病者の医療や社会復帰の援助をおこなっている。統計によると、人口1万対精神科の病床数を1990年の日本とイギリスとイタリアとアメリカとオーストラリアで比較は、それぞれ30、14.8、7.6、6.3、5.8となっている(『戦後精神保健行政と精神病者の生活』岡村正幸 p92表13)。

考察
精神保健の地域化が進んでいる国を例に取れば、精神病院が閉鎖・縮小化することは、精神医療の地域化に避けてとおれない課題である。しかし、日本では、法制度が整い、それにしたがって行政の目も地域化へと向けられているのに、このような現実では精神医療の地域化が進むとは思えない。
このように、日本において精神医療の地域化が進まないひとつの大きな原因として、精神病院の存在が浮き彫りになった。今日においても、精神病院の入院医療中心の体制は変わっておらず、前述したように、児童・思春期精神保健問題、老年期の精神保健問題、アルコール関連問題などの社会問題が急増とも相なって、精神病者の入院率は一向に減っていない。それは、各国との病床数の差となって如実に出てきていることでもお分かりいただける。
さて、精神病院が減少しないということは、単に日本の精神医療の体質が私立病院に依存していたために、精神病院の閉鎖・縮小化を実施するのが非常に難しいというだけの理由で片付けてよいであろうか。というのも、精神病者を地域から排除された歴史の中で、精神病院というのは、ずっと排除された精神病者の「収容施設」であったからだ。
長い間、ハンセン病患者やや精神病患者などの偏見にさらされつづけた社会的弱者の人権回復に尽力している、元厚生省の医務局長である大谷藤朗氏は、江戸時代から明治に変わって、一般の世の中が封建から文明開化へと開放されたのとは逆に、精神病者はむしろ社会から疎外されることとなり、そのような社会構造はその後も続き、見方によってはそのような差別観念は今日でも続いている、と述べている。
このように、精神病者にたいする差別観念が続いているという現実があるのならば、精神病院にたいする「収容施設」という位置付けも変わらない。というのも、社会が偏見によって精神病者を地域から排除しようとする作用があるかぎり、その排除されたものは必ずどこかへいく必要があるからである。その場所というのは、昔からその役割を担ってきた精神病院である。
つまり、精神病院が減らないのは、日本の行政が精神病院の閉鎖・縮小化を可能にするような機能を果たしてないからというよりも、社会のなかで精神保健が身近になりつつあるにもかかわらず、現実には社会防衛、治安対策という理念が変わらず息づき、それを強要するような社会構造が日本にあるのからである。.

結論
私は、本論において精神医療の地域化が進まない理由のひとつに、精神病院が減らないことをあげた。それゆえに、日本の精神保健行政の地域化において残された課題である精神病院を閉鎖・縮小化をすすめる政策を立案する必要があるであろう。しかし、その前に、十分に考慮する必要があるのは、精神病院の暗い歴史と偏見をうむ社会構造の分析である。そうしないことには、たとえ精神病院が閉鎖・縮小化したとしても、「第2の精神病者収容施設」ができるだけである。


[1800] Re: レポート 第2校正 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/01(Thu) 01:57

「精神保健行政の地域化を考えて」

なんとも面白くないレポートに仕上がりましたね。

しかし、その前に、十分に考慮する必要があるのは、精神病院の暗い歴史と偏見をうむ社会構造の分析である。そうしないことには、たとえ精神病院が閉鎖・縮小化したとしても、「第2の精神病者収容施設」ができるだけである。

最後に申し訳程度に付け加えるのではなく、まさにこの問題について正面から語ったのならきっと面白かったのにね。


[1834] Re^2: レポート 第2校正 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/10(Sat) 10:24

「精神保健行政の地域化を考えて」

なんとも面白くないレポートに仕上がりましたね。

しかし、その前に、十分に考慮する必要があるのは、精神病院の暗い歴史と偏見をうむ社会構造の分析である。そうしないことには、たとえ精神病院が閉鎖・縮小化したとしても、「第2の精神病者収容施設」ができるだけである。

昨日、このレポートを見てくれた先生が、講評をしてあげるから来なさいと言われたので行った。ああ、やっぱり文章を書くというのは非常に難しいんだなあと思った。僕の中ではこのレポートはうまくまとまっているとか思っていたので、先生に論文の書き方がいまいち分かっていないと言われて、ちょっとがっかり。また、確かに前段階のレポート見たいに読めないことはなかったが、むしろ前段階のレポートの方が君の関心が見て取れる、と先生は言った。

2.自分の一番の興味関心を序文に書いていない。書いたつもりだろうが、しっかりまとまっていない。
3.序文というのは論文で一番大事。この論文の達成目標を書くとこ。それができていない。方向性とこの論文の意図は何かを明確に示さなければ、読み手が本論に入ったときに迷っちゃう。
4.自分の興味関心と今回取り上げる問題提起は必ずつながっている必要がある。興味関心の中のどの部分を取り上げるかがとっても大事。
5.自分の興味関心というのが一番漠然として掴みにくいことを分かっていなければならない。山を上るように地道に、そして行きつ戻りつしながら、論文はできてくるんだ。当然、それを繰り返していくうちにだんだん興味関心に近づいてくるような論文が書けることになるんだ。


6.自分の意見として、地域化とはどういったことをさすのかを書いていない。
7.内容としてはどうして精神病院が減ることが、地域化につながるわけ?それをうまく論じきっていない。やっぱり分かりにくいということだ.
8.前段階の論文で社会構造に関心があるにもかかわらず、ただ結論でちょこっと触れるだけだったら、読み手はこの人は結局何に一番興味があったんだろう、と疑ってしまう。
9.興味関心の部分である社会構造を序文にうまく説明できていれば何とか読めたけれど、どっちみちこのままでは尻切れトンボだね。
10.日本では精神病院のほとんどが私立病院であるがために、精神病院の閉鎖・縮小化が進まないとかいているが、どうしてそうなのかを書いていない。書かないなら、出さないほうが良いときもある。
11.そもそも日本の病院のほとんどは私立。そのことを考慮せずに、精神病院には私立病院が多いためというのは、ちょっと説得力なし。
12.精神病院の閉鎖・縮小や地域化が進まないのは、日本の医療体制に問題があることをすっぽり抜かしてしまっているね。
13.精神病者を排除してしまう社会構造が気になっており、歴史からその排除の象徴ともいえる精神病院を今後どうすればいいのかについて書きたかったのは分かるんだけれど、社会構造における排除と精神病院
のつながりがうまくかけていない。そのため、精神医療における政策で精神病院の閉鎖・縮小をあげているのと、自分の興味関心の部分が離れちゃっている。
14.論文は序文が大事ですよ。
15.加藤典洋の『言語表現法講義』というのは良いですよ。

あああ、何でも何かをやるというのは困難なのね。だから、やりがいがあるのね.

大ちゃんの言うようになんとも面白くないレポートでした。ふう。


[1835] Re^3: レポート 第2校正 投稿者:門屋 投稿日:2001/11/10(Sat) 11:07

大ちゃんの言うようになんとも面白くないレポートでした。ふう。

ああ、またヘマ。前のEメールは、まさやんのです。間違えてださんでください。

へナが月曜日にくるということは大ちゃんが月曜日には帰っているのかなあ?良かった月曜日はバイトがなくて。

ところでゼミの皆さん。今何をしていらっしゃいまするか?何十時間も一人でいると人恋しくなるのですね。明日も明後日もバイトだあ。
最近、ネット人類ゼミを適当なカキコにしているような。まあいっか。


[1771] Re: 精神保健福祉のレポート 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/10/22(Mon) 04:46

レポートの構成については言いたいことは他の人が言っているので、適当に思ったこととか考えたことを書きます。

……ただ序文が長いということだけは言いたいです。思いの丈は分かったから早く本論を読ませてくれ、という感じ。

 私が働いている精神病院は地域の中心部から少しはなれた山あいに位置している。他のいくつかの精神病院の多くもやはり辺鄙なところでよく見かける。このことは、意図的かどうかは真意ではないが、社会的な関係において 不適応というスティグマ(烙印)をおされた人々を地域社会から切り離してしまうために思えてならないのだ。

精神病院を「丘の上」と言ったりするね。地元の精神病院も丘の上にあった。遠めからでも窓に格子がはってあるのを見ると考え込んでしまう。「自殺防止の人命保護」「脱走防止」いろいろ理由はあるんだろうけど。なだいなだが精神病棟を解放した話を書いていたと思います。「君はクジラを見たか」かな?

僕も「疎外」という言葉はここで使うには適切じゃないと思います。「疎外」だと「自分に都合のいいように他のものを切り捨てていくこと、その結果不都合も出ている状態」のような気がする。…ああ何か分かりにくいな、えーと、分かりにくくなるのでやめたほうがいいと思います(笑)。

大学一年生の時になだいなだを読みまくりました。なだいなだというのは精神科医で作家という人です。この人の文章は読みやすくて好きです。何冊か関係ありそうなものをあげておきます。中央図書館にいっぱいあるよ。

『くるい きちがい考 』   ちくまぶっくす 10 
なだ いなだ 筑摩書房  1978

『信じることと、疑うことと』    こみち双書 4 
なだ いなだ 径書房  1985

『君はクジラを見たか』     
なだ いなだ NOVA出版  1992


[1761] Re: 精神保健福祉のレポート 投稿者:平安 投稿日:2001/10/21(Sun) 03:12

「レポートでなんでもいいから、日本における政策で重要だと思うことを書きなさい」と言われたんで書いてみました。この授業は期末テストがなく、レポートで評価するので、暇な人はぼくのレポートを添削してください。結論はまだ書いてないので、どういう結論がいいかも意見があったらお願いします。

結論がどうなるのかわからないけど、このままの流れでいくと序文のほとんどは余分な気がした。
「精神障害者を疎外する地域社会について考察していきたい」っていうのと、バイトの内容とか経験がつながっていないんじゃないかな。

本論の第一節では根拠が足りないと思う。

っていうかテレビみた?
今日、自傷または他傷の危険がある人達の措置入院についてやってたよ。
治療が完全に終わらないうちに退院する人がほとんどだし、
手が回らなくて、退院後に経過を見守ったりできるのも一割以下の人だけなんだって。
だから、措置入院が終わってから自殺したり、人を殺したりする人が出てきてしまうけど、精神病院がフォローできる範囲を超えちゃってるって。

 また、昭和56年の国際障害者年等の契機に、精神障害者についても、「単に医療及び保護の対象としてではなく、福祉施策の対象となる障害者である」という認識が高まり、平成5年の障害者対策基本法の一部改正(障害者基本法への題名の改正)において、精神障害者が同法に明確に位置づけられたが、身体障害者や知的障害者と比べ、精神障害者の福祉施策については大変遅れている状況にあった。
ここにもっと的を絞るっていうのはどう?

あと、精神障害者を「狂気の人間」って書かないほうがいいんじゃない?
そう言い換えてる意図があるのかもしれないけど、なんか変だよ。


[1758] Re: 精神保健福祉のレポート 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/20(Sat) 20:00

うーん。だれからもコメントもらえないみたいですね。可哀想に。

コメントもギブアンドテイクで考えたらいいかもね、だれもくれないようなら、どんどん人のにつけて、返してもらう。

ぼくもそうしよっと。ずいぶんコメントつけてるからきっとずいぶんかえしてもらえるはずだ・・・。

 本論では、まず始めに、精神障害者が地域社会において疎外されているのではないか、という仮説の根拠をしめす。

根拠は結局なんだったんだろ?不便なところにあるということ?印象だけでは、わかりにくいし、もうすこし具体的にはっきりとデータを示さないとね・・・。

次に、簡単に日本の精神保健福祉行政の流れを引用したあと、疎外の象徴であると考える精神病院をとおして日本の精神保健福祉行政の問題点を考えてみたい。結論では、地域社会が精神障害者を疎外することとは、いったい何を意味するのかを、本論や引用をふまえながら自分なりに考えてみたい。

よんだけど、「地域社会が精神障害者を疎外することは」いったいなにを意味するのだか、門屋君の考えがさっぱりわかりませんでした。

 今回のレポートで「疎外」という言葉によって心理学的なことや、哲学的なことを論じようとしているわけではない。ちなみに、心理学的意味では、自我意識の障害のことを言うので、精神障害者自身が自己を疎外することをも意味にはいる。また、哲学的意味の「疎外」とは、精神が労働を通じておのれを自然や社会と対象化し、おのれにとって定立する過程を言う(知恵蔵1997 p649)。

知恵蔵じゃなくてマルクスでしょ(^_^)?

ほんとうに地理的な問題だけを論じたいのなら、排除・隔離という言葉でも十分じゃない?でも、本心は心理的あるいは哲学的な意味も込めたいんじゃないの?

 2節、精神保健福祉行政の歴史

現状はよくわかるのだけど、門屋君がここで何を問題にしたいのかがさっぱり解らない。街のど真ん中に精神病院をつくればそれでいいのか?

わざわざ難しい表現を使って煙に巻くのではなくて、もっと明快な言葉で具体的な問題点をあぶり出して、そのためにどうすればいいのかを書くべきだと思う。

いろんな所から切ったり張ったりして、たくさん言葉は使ってあるけど、新しい提案や考察がなんにもないんじゃあ、まるでお役所の報告書のような文章だとおもう。

とまあ、ぼくがコメントするといつもこんなにきびしくなっちゃう。そんでもって門屋君は落ち込んで、また引きこもっちゃうのだろうな。

こういうのフォローしないといけないのかな。めんどくさいなぁ。だから書きたくなかったんだよぅ。

フォローしておきましょうか。ちゃんと調べてきているし、オリジナリティも若干あるし、レポートとしてはまあ、ましなほうではないでしょうか、ぼくの授業であればCかBくらいはつけるとおもうよ。

・・・フォローになってないか。


[1763] Re^2: 精神保健福祉のレポート 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/21(Sun) 22:30

根拠は結局なんだったんだろ?不便なところにあるということ?印象だけでは、わかりにくいし、もうすこし具体的にはっきりとデータを示さないとね・・・。

ご指摘有難うございました。それなりに苦労したので、さっぱりわかってもらえなかった時は落ち込みます。そして、引きこもる。引きこもったままにはなりませんよ。ただ、回復するのが遅すぎるのです。フォローは必要ありません。

自分で書いといて言うのも恥かしいのですが、序文・本論・結論。の三つのなかで、本論だけはただ本で調べたことだけを書いているなって自分でも思いました。あそこは、本論というより大ちゃんの言うように、日本の精神福祉行政の歴史と現状を本から切り貼りしていただけです。考察と言うのには程遠いことをしていたんだ、と気づきました。歴史あるいは現状をかきだし、最後に本からもっともだと思ったものを自分の意見として書いた。一番してはいけないと言われていることを自分はしていたのだなあと思いました。ああ、やっぱり自分は論文というものを書いたこと無いんだと、いまさら気づいて愕然としています。もう一度、整理して書き直さなければいけないのだと思うと、今までの僕のちょっとした苦労はなんだったんだろうと、悲しくなってきます。

よんだけど、「地域社会が精神障害者を疎外することは」いったいなにを意味するのだか、門屋君の考えがさっぱりわかりませんでした。

実は、序文でこのレポートの主旨を書いた時点で、序文と本論と結論のつながりがギクシャクしていると思っていました。そもそも、たった6000字程度の文字で、序文で書いているような4つ(「疎外」の根拠、歴史、現)を本論に織り込もうとする時点で間違っていますね。平安さんが言っていたように、本論と序文が繋がっていないように見えるのも無理ないのでしょう。そもそも、僕が一番知りたかったこと、そして、書きたかったことは、精神福祉行政の現状や問題点などではありません。はっきりいって、本論はどうにか日本の政策を似酔わせるような文を書こうかこうと思って書いた文です。まあ、このぐらい書いておけば一応、日本の政策について書いたレポートという体裁になるかなって感じです。このさい、僕の気持も、序文と結論に向いているんなら、本論切っちゃったほうが良いのか。

 今回のレポートで「疎外」という言葉によって心理学的なことや、哲学的なことを論じようとしているわけではない。ちなみに、心理学的意味では、自我意識の障害のことを言うので、精神障害者自身が自己を疎外することをも意味にはいる。また、哲学的意味の「疎外」とは、精神が労働を通じておのれを自然や社会と対象化し、おのれにとって定立する過程を言う(知恵蔵1997 p649)。

知恵蔵じゃなくてマルクスでしょ(^_^)?

ああ、そう書いていました。引用って二次文献載せちゃダメなんですか?

ほんとうに地理的な問題だけを論じたいのなら、排除・隔離という言葉でも十分じゃない?でも、本心は心理的あるいは哲学的な意味も込めたいんじゃないの?

はいそのとおりです。けど、混乱しているだけで文になんないなって思ったんで、結論でちょっと触れようって考えました。ここから、論文にならない原因がはじまったんです。かけないでもいいから、序文から即、結論で書こうかなって思うことを書けばよかった。

現状はよくわかるのだけど、門屋君がここで何を問題にしたいのかがさっぱり解らない。街のど真ん中に精神病院をつくればそれでいいのか?


わざわざ難しい表現を使って煙に巻くのではなくて、もっと明快な言葉で具体的な問題点をあぶり出して、そのためにどうすればいいのかを書くべきだと思う。

そうですね。だって難しい文って何となくわかるんですけれど、それを自分の文に直すことができないんですよ。

いろんな所から切ったり張ったりして、たくさん言葉は使ってあるけど、新しい提案や考察がなんにもないんじゃあ、まるでお役所の報告書のような文章だとおもう。

自分もそう思う。

とまあ、ぼくがコメントするといつもこんなにきびしくなっちゃう。そんでもって門屋君は落ち込んで、また引きこもっちゃうのだろうな。

はあ、どうも。だって落ち込むからしょうがないじゃないじゃないですか。だからといって、もう止めたってならないから、大ちゃんの思うまま書いてくださいよ。ぜんぜんそれで良いですよ。けど、顔つき合わせて言われたら僕泣き出しちゃうかも。

ぼくの授業であればCかBくらいはつけるとおもうよ。

なあに、ああCか。世の中そう甘くはないなあ。

もう一度、僕の疑問をちゃんと整理して頭を冷やしてきます。ちょっとお風呂はいってきます。


[1764] Re^3: 精神保健福祉のレポート 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/22(Mon) 00:33

大介 より

まあ、これは論文というよりはレポートなので・・・枚数制限もあるでしょうし、そんなに踏み込まなくてもよいとは思いますが・・・。

レポートというのは、まあ、報告書ですね。論文の場合はできるだけ厳密(ぬかりなく)で正確な議論が求められますが、レポートの場合はどちらかというと、できるだけ簡潔でわかりやすい方がよいと思います。ダイジェストというか、ひとめ見て論旨が解るようなかんじね。

そして、もちろん文献紹介や過去の研究の報告だけであっても、レポートとしてはそれでいいわけです。(論文だと、どこかオリジナリティ「独創性」をもとめられるけど)

いまさら気づいて愕然としています。もう一度、整理して書き直さなければいけないのだと思うと、今までの僕のちょっとした苦労はなんだったんだろうと、悲しくなってきます。

まあ全部書き直さなくても、論旨を補強するための資料や現状の提示として残しておけばいいと思いますよ。

そもそも、僕が一番知りたかったこと、そして、書きたかったことは、精神福祉行政の現状や問題点などではありません。はっきりいって、本論はどうにか日本の政策を似酔わせるような文を書こうかこうと思って書いた文です。まあ、このぐらい書いておけば一応、日本の政策について書いたレポートという体裁になるかなって感じです。このさい、僕の気持も、序文と結論に向いているんなら、本論切っちゃったほうが良いのか。

精神病行政の現状   >序論      起
一番知りたかったこと >本論      承
書きたかったこと   >考察      転
精神病行政のあり方提言>結論      結

という感じかな?どこを本論を持ってくるかを、もういちどよくねり直したら?

知恵蔵じゃなくてマルクスでしょ(^_^)?
ああ、そう書いていました。引用って二次文献載せちゃダメなんですか?

普通は、又引きをしないで原典にあたることになっています。それにこの場合、知恵蔵とマルクスじゃあねぇ・・・。

ほんとうに地理的な問題だけを論じたいのなら、排除・隔離という言葉でも十分じゃない?でも、本心は心理的あるいは哲学的な意味も込めたいんじゃないの?

はいそのとおりです。けど、混乱しているだけで文になんないなって思ったんで、結論でちょっと触れようって考えました。ここから、論文にならない原因がはじまったんです。かけないでもいいから、序文から即、結論で書こうかなって思うことを書けばよかった。

それならば、ここを本論として議論の対象にすべきでしょうね。その結果、日本の行政の対応は(まあ、たとえば)完全に時代錯誤だとか、ここがおかしいとか、そんな感じになるのでしょう。

ところで、ヒロノのコメントに便乗して狂気について。

そもそも精神科に通う人って、狂気というよりは、むしろ身動きがとれない弱者のイメージをぼくは持ってます。回り見てもそうでしょ?ゼミ周辺に何人もいるじゃない?ぼくを門屋君に紹介した人とか、遠くで学問にはまってる人とか、すごい小説を書く人とか・・・・・・。

はあ、どうも。だって落ち込むからしょうがないじゃないじゃないですか。だからといって、もう止めたってならないから、大ちゃんの思うまま書いてくださいよ。ぜんぜんそれで良いですよ。けど、顔つき合わせて言われたら僕泣き出しちゃうかも。

顔つきあわせて行った方がむしろソフトに聞こえるのかもね。ネットを使うとどうしてもきめこまやかな書き方ができなくて。殺伐としてしまう。でも、泣かないでね。

どうしても泣くというのなら、ネットで泣くというのは?えーん、えーん。

もう一度、僕の疑問をちゃんと整理して頭を冷やしてきます。ちょっとお風呂はいってきます。

頭冷やすのにお風呂はいるやつがいるかぁ。よけいのぼせるんじゃない?


[1774] Re^4: 精神保健福祉のレポート 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/22(Mon) 15:55

大介 より

まあ、これは論文というよりはレポートなので・・・枚数制限もあるでしょうし、そんなに踏み込まなくてもよいとは思いますが・・・。

ですね。そのつもりがいつのまにか、こんなに混乱しちゃって。だって、字数制限がなかったもんですから。

レポートというのは、まあ、報告書ですね。論文の場合はできるだけ厳密(ぬかりなく)で正確な議論が求められますが、レポートの場合はどちらかというと、できるだけ簡潔でわかりやすい方がよいと思います。ダイジェストというか、ひとめ見て論旨が解るようなかんじね。

そして、もちろん文献紹介や過去の研究の報告だけであっても、レポートとしてはそれでいいわけです。(論文だと、どこかオリジナリティ「独創性」をもとめられるけど)

いまさら気づいて愕然としています。もう一度、整理して書き直さなければいけないのだと思うと、今までの僕のちょっとした苦労はなんだったんだろうと、悲しくなってきます。

まあ全部書き直さなくても、論旨を補強するための資料や現状の提示として残しておけばいいと思いますよ。

そもそも、僕が一番知りたかったこと、そして、書きたかったことは、精神福祉行政の現状や問題点などではありません。はっきりいって、本論はどうにか日本の政策を似酔わせるような文を書こうかこうと思って書いた文です。まあ、このぐらい書いておけば一応、日本の政策について書いたレポートという体裁になるかなって感じです。このさい、僕の気持も、序文と結論に向いているんなら、本論切っちゃったほうが良いのか。

精神病行政の現状   >序論      起
一番知りたかったこと >本論      承
書きたかったこと   >考察      転
精神病行政のあり方提言>結論      結


ああ、生協で一番売れている『レポートの組み立て方』よりわかりやすい。って、それ読んだことないんだけれど。大ちゃんの頭借りてもう一度書いてみます。


[1790] 精神病棟入院日記 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/10/25(Thu) 04:26

門屋くんのレポートの参考になりそうなWebサイトを見つけたので紹介します。

『精神病院入院日記〜ある自殺未遂者の手記〜』http://www23.cds.ne.jp/~moge/mogu/mental/diary/diary.htm

『Ritalin Drive』
http://www.h3.dion.ne.jp/~r_drive/index2.html

あ、ちなみに門屋くんのレポート原案を読んで、僕の彼女はそうとうご立腹です。終いには悔しがって涙を流してしまいました。どうしてくれる。今度彼女に会う時は覚悟しましょう(笑)。(ちなみに上記のWebサイトを教えてくれたのは彼女です)


[1804] Re: 精神病棟入院日記 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/11/01(Thu) 02:37

あ、ちなみに門屋くんのレポート原案を読んで、僕の彼女はそうとうご立腹です。終いには悔しがって涙を流してしまいました。どうしてくれる。今度彼女に会う時は覚悟しましょう(笑)。(ちなみに上記のWebサイトを教えてくれたのは彼女です)

とつぜん登場したワタナベの彼女?さては公園で拾ってきたか。(これまた立腹させてしまいそうだな)


[1792] Re: 精神病棟入院日記 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/25(Thu) 14:52


あ、ちなみに門屋くんのレポート原案を読んで、僕の彼女はそうとうご立腹です。終いには悔しがって涙を流してしまいました。どうしてくれる。今度彼女に会う時は覚悟しましょう(笑)。(ちなみに上記のWebサイトを教えてくれたのは彼女です)

僕のどの文に怒ったんだろうかな?僕っていつも見当違いな事ばかり言ってるのかなあ。なんでだろう。

今日もみんなとしゃべってて、お前がしゃべるとややこしくなるといわれるし。子供みたいな話になるといわれるし。自分では考えてしゃべってるのにな。

ありがとうございます。彼女にも言っておいて。どうしてこんなにレポートかけんわけ。卒論なんかどうなのよ。


[1752] 卒論のページ 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/17(Wed) 20:09

重森さん今田さんの献身的な協力によって、過去の卒論のページができました。

印刷もできますので、ぜひ積極的に利用してください。上のお家のマークをクリックしてください。

http://www.human.ne.jp/~jinrui/soturon/index.html

昨日夜に仕上げましたが、リンクや内容にまだおかしな点が残っていると思います。見つけたらどんな小さな事でもいいので、ぜひ報告してください。

それから、まだ作業は完全に終わっていません、何人かの論文はまだ編集中です。

とりいそぎ。

http://www.human.ne.jp/~jinrui/soturon/index.html


[1762] Re: 卒論のページ 投稿者:平安 投稿日:2001/10/21(Sun) 03:18

重森さん今田さんの献身的な協力によって、過去の卒論のページができました。
ごくろうさまでした。
印刷もできますので、ぜひ積極的に利用してください。上のお家のマークをクリックしてください。

http://www.human.ne.jp/~jinrui/soturon/index.html

昨日夜に仕上げましたが、リンクや内容にまだおかしな点が残っていると思います。見つけたらどんな小さな事でもいいので、ぜひ報告してください。
名越さんの卒論が出ません。
それから、まだ作業は完全に終わっていません、何人かの論文はまだ編集中です。
手伝いますよ〜!



[1765] Re^2: 卒論のページ 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/22(Mon) 00:35

昨日夜に仕上げましたが、リンクや内容にまだおかしな点が残っていると思います。見つけたらどんな小さな事でもいいので、ぜひ報告してください。

名越さんの卒論が出ません。

教えてくれてありがとう。

手伝いますよ〜!

ところで名越君をさがしてくれないかなぁ。小倉あたりにいると思うのだけど。

あと、稲富さんの論文のデータの編集がまだできていないみたい。


[1767] Re^3: 卒論のページ 投稿者: 投稿日:2001/10/22(Mon) 01:52

昨日夜に仕上げましたが、リンクや内容にまだおかしな点が残っていると思います。見つけたらどんな小さな事でもいいので、ぜひ報告してください。

名越さんの卒論が出ません。

教えてくれてありがとう。

手伝いますよ〜!

ところで名越君をさがしてくれないかなぁ。小倉あたりにいると思うのだけど。

あと、稲富さんの論文のデータの編集がまだできていないみたい。

名越さんの卒論は要旨がない状態でよければあげられます。
稲富さんの卒論はとっても大変。時間がかかるので先にノッキーの卒論を打ち込んで編集しようかなというとこ。ゆかりちゃんからもデータをもらったので編集が終わり次第、順次あげていきます。


[1755] Re: 卒論のページ 投稿者:ありむら 投稿日:2001/10/18(Thu) 13:20

ありむらです。

重森さん今田さんの献身的な協力によって、過去の卒論のページができました。

重森くん、文ちゃん、お疲れ様でした。
文ちゃん、原稿おくれてごめんね。

http://www.human.ne.jp/~jinrui/soturon/index.html

いろんな人の卒論が見れて、とってもありがたいです。
志賀島の卒論書いた人がいたんですね。
私もよく地元にいた頃は志賀島に言っていたので、
興味深く読めました。

昨日夜に仕上げましたが、リンクや内容にまだおかしな点が残っていると思います。見つけたらどんな小さな事でもいいので、ぜひ報告してください。

特に気になる点はありませんが、もし、卒論の文章打ち込み作業で
大変だったらお手伝いします。


[1754] Re: 卒論のページ 投稿者:SE☆ゆうき 投稿日:2001/10/18(Thu) 12:58

重森さん今田さんの献身的な協力によって、過去の卒論のページができました。

しげ、今田さん、お疲れ様です、ありがとうございました☆

印刷もできますので、ぜひ積極的に利用してください。上のお家のマークをクリックしてください。

http://www.human.ne.jp/~jinrui/soturon/index.html

 ダウンロードして、アプリケーションのなんたらって出て、適当なの選んでクリックしたら動かなくなりました。何故・・・?
 きっとリンクのおかしなとこっていうよりは私のてきとーなやり方がまずかったんだとは思うけど・・・。いったん消してもっかいしても、アイコンをダブルクリックしたら「有効なWin32アプリケーションではありません」っていうエラーメッセージしかでなくなりました。何故なの・・・・・・パソコンでお金もらっているはらだゆうきに教えてください・・・@_@




[1776] Re^2: 卒論のページ 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/10/22(Mon) 18:54

重森さん今田さんの献身的な協力によって、過去の卒論のページができました。


 家にパソコンがない私は学校でないと書き込みができません。さらに学校のはダウンロード禁止なのでゼミ室でないと卒論集が読めません・・・。しくしく・・・めんどくさい。



[1748] 卒論中間発表にて 投稿者:みやけ 投稿日:2001/10/17(Wed) 16:03

このあいだの中間発表でのレジュメです。この時点ではいろいろ決めかねていたんですが、みんなと話して、方向性が決まってきました。

卒論中間発表 01.10.15. 三宅加奈子

「矢筈山に集まる人々(仮) 」
・ 動機と目的

第一章 矢筈山
・ 矢筈山の概要
福岡県北九州市門司区大里に位置する山。標高は275mで、低山に属する。登山道は、一般に使用されている小森江方面からの道と、矢筈山の北側に位置する風師山からの縦走路がある。住宅地から登山口までは約20分。登山口から山頂までは約40分(1.1キロ)で、この道は許可車両のみが通れる、幅4メートルのジャリが敷き詰められた坂道である。

「矢筈」の名の由来

歴史
明治29年 門司・北九州防衛のため、山頂に、旧陸軍の要塞地として、砲台や弾薬庫が作られる
終戦と同時に国有林に編入される
昭和25年 姉妹都市であるノーフォーク市からの親善使節団長スナイダー氏から、青少年のために100ドル寄贈。これを機に「青少年のために一年一日奉仕する会」発足。
同28年 大水害を機に保安林に指定される
同40年 会の浄財を青少年キャンプ場建設に充てることが決議されるが、国有林、保安林であるため、計画は挫折
同41年 門司青少年育成協議会会長による、政府各省、小倉自衛隊への働きがけにより、保安指定解除、矢筈山、開発委員会発足
自衛隊や、個人の奉仕により、キャンプ場の素地が整う
同45年 キャンプ場完成 北九州市立矢筈山林間学園と命名
このように、キャンプ場建設に伴って軍事基地から青少年育成の場へと変化し、登山道も整備されていった。
・ 青少年林間学園について
○利用状況 図面


第二章 「早朝登山」
この矢筈山に毎日登ってくる人がいる。

・早朝登山者について
○百人ほどが毎日登ってくる 一人で 夫婦で 友達同士で
○年齢層 5,60代 中高年
○時間帯 朝4時頃から 9時、10時が多く、12時ごろは少ない
○どこからくるか 近所だけでなく、大里のほうからも来るという
○一般的な「早朝登山」の仕方 山頂の名簿に丸を付ける→景色を見る・おしゃべり→帰る

・ 登山者名簿について
山頂に置かれた名簿には、260人ほどの名前と日にちが書かれており、登ってきた人は自分のところのその日に印を付ける。月に何回も来る人は、その名簿に名前を書き、何日か印が付いていれば次の月の名簿にも名前が載ることになる。山頂にはもう一つ名簿があるが、これは遠くからきた人、度々はこない人が、名前、住所を書くようになっている。

第二章 登る理由
事例と言説から早朝登山をする理由を考察する。また、一般的な登山の特徴を挙げ、その差について考える。

・ 一般的な登山について 現代の登山の特徴を二つ挙げる(文献から)
○ 中高年登山ブーム 健康・ウォーキング 自然・森林浴 百名山ブーム・目標
○ 旅行的登山

・ 矢筈山での事例と言説
登山者名簿
1.(名簿を見て)「サチコさん、どっかわるいんやろうねー。ずーっと来てない」
2.(印をつける時)「2日も来てなかったんやねー」
3.(今日、用事があって山に行けないかもしれない)
  「私の分も丸を付けといてもらおう」「人がおらん時にすれば、誰も何もいやあせん」「みんなし  
  よる」
4.「かなちゃんの分も付けといたけー」「一番早いけ 誰にもわからん」「みんなしとる」
5.「やっぱり、丸を付けるのは楽しみやけーね」
6.代わりに丸を付けてくれるおじさんがいたが、やっぱり楽しみがなくなるので一ヶ月程で断っ
  たという
7.名簿に印を付けない人もいる
8.名簿に名前を書くことを勧められる
9.名簿に来ない日を前もって書いている
10.Q.昔から名簿はあったのか A.「どうやったかねー、なかったよ でも、私の名前が上の方あ
   あるけーあったんかねー」

山を敬う
1. 矢筈山のことを「お山さん」と呼ぶことがある
2. 自ら登山道やキャンプ場の整備をする(草刈り、枝除け) 
3. 「やまにつくせ」
4. (戦死した兵隊が奉ってあるという)祠に向かって一礼して帰る人々・その下の登山道には目印に大きな石があり、そこでも拝む
5. 三ヶ所拝む

山の仲間意識
1. 挨拶は欠かさない(おはようございます こんにちは お疲れさま 行ってらっしゃい いらっしゃい お先に)    
2. 噂がすぐに広まる 「なんでも耳に入る」
3. 前に山頂で話したことのあるおばさんと登山道ですれ違った とても親し気に声をかけてきて、そこでも世間話をする その後でおばさんの連れが私のことを、「どこの人?」と尋ねた。おばさんは困った様子で「どこの人って…、山口の人よ」
4. 一人で登っていたおばあさんと、タイミングが一緒になり、自然に一緒に登ることになった 二人で話しをしながら登る 途中、下って来ていているおじいさんとすれ違った時 「お孫さんかね?」と聞かれた。 私は、「途中で会ったんですよ」と言いかけたが、おばあさんは 「お友達」 で済ませた
5. 同じ時間に行かないと、皆が心配する
6. 「山の友達はええ」
7. 「あの人は登りもせん」

登ること自体が目的
1. 雨の日でも123人が登っていた
2. 傘をさして登る
3. 台風の風で大変だった
4. 「景色も見ないですぐ帰るんよ」
5. (祭りに参加できない理由として)「私は山に行かんといけんしね」「今回は縁がなかった」
6. 「あの人も時々さぼるよ」
登る理由
尋ねてみても、皆答えにくそう。登ることが日常だからだろうか。
1.「一回登ったら、また登りとうなる」
2.「健康とぼけ(防止)のため(に登っている)」
3.「年をとったら他のことに興味なくなるからねー 自然くらいだねー」
4.「やっぱり高血圧とかで運動せんといけんでしょ 家でこまごましたことするよりも、山に来たら今日ある
  ことは済ませたって安心する」
6. 五時間かけて杖二本を使って登っていた女性 いまは普通に登れるようになった
「歩くってどんなにすばらしいことか分かるね」
7. 夫を亡くして一人で暮らしているばあさんが多い 戦時中足腰を鍛えられている だからみんな来る

・ 考察


この間のぜみでは、結局登る理由はあまりないのではないか。ということになりました。たとえば、暇でだらだら過ごした一日だけど、でも、野研に行ってノートに書き込みをしたぞ」と安心するのと、毎日山に登るのは似ている。わたしも、登る理由を知りたい、とフィールドワークしてみていろんな話を聞いてある程度は満足できたけど、それをまとめるのは無理だしおもしろくないと思いました。「人間の行動は、すべて意味を考えてしてるわけではない」ですね。そこで、たいした理由がないのになぜ毎日登るのかということを考えていこうと思っています。11月いっぱいはフィールドワークを続け、第一章も書き進めていく予定です。


参考文献

矢筈の子   堤 甚五郎   1979
山の社会学   菊地 俊朗   2000
われわれはなぜ山が好きか   安川 茂雄   2000
登山の誕生   小泉 武栄   2001
なぜ山に登るのか   鷲 晴夫   1999
ヒト、山に登る   柏瀬 祐之   1991
歩きの科学   藤原 健固   1988


[1750] Re: 卒論中間発表にて 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/17(Wed) 19:57

山の仲間意識
1. 挨拶は欠かさない(おはようございます こんにちは お疲れさま 行ってらっしゃい いらっしゃい お先に)    
2. 噂がすぐに広まる 「なんでも耳に入る」
3. 前に山頂で話したことのあるおばさんと登山道ですれ違った とても親し気に声をかけてきて、そこでも世間話をする その後でおばさんの連れが私のことを、「どこの人?」と尋ねた。おばさんは困った様子で「どこの人って…、山口の人よ」
4. 一人で登っていたおばあさんと、タイミングが一緒になり、自然に一緒に登ることになった 二人で話しをしながら登る 途中、下って来ていているおじいさんとすれ違った時 「お孫さんかね?」と聞かれた。 私は、「途中で会ったんですよ」と言いかけたが、おばあさんは 「お友達」 で済ませた
5. 同じ時間に行かないと、皆が心配する
6. 「山の友達はええ」
7. 「あの人は登りもせん」

山というフィールドをいったんわすれて、コミュニケーションやネットワークという視点を入れれば、たくさん聞いた話をうまく生かせるし、論文に深みが出てくるように思います。

人間関係があって、山があるみたいな・・・。


[1745] 発熱。 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/10/15(Mon) 20:12


 久しぶりに、急な発熱で昨日まで寝込んでおりました。

 風邪っぽいなー、などの何の前触れもなく急に39度!!

 まるで子供です(笑)。

 2,3回上がったり下がったりを繰り返し、一時39度5分を記録したときにはさすがに心細くなり、平安にSOSを発令。

 駆けつけてくれた平安は頼んでいたポカリをすっかり忘れ、かわりにポテチを買ってきてくれた・・・。

 熱にうなされる私は当然ポテチなどのどを通るはずもなく・・・。
 
 平安は私の代わりに自分でポテチを食べ、テトリスを楽しむ。

 私が長いこと黙っていると、「寝とん?」とすかさず突っ込む。

 しかしかなり病の寂しさはぬぐわれた。

 あとからまた熱が上がったとき、ポカリを忘れているこたことを言うとすぐに買って来てくれたー。

 いろいろとありがとう、ひろの。  


[1746] Re: 発熱。 投稿者:平安 投稿日:2001/10/16(Tue) 15:28

 いろいろとありがとう、ひろの。  

サマサマ・・・。
(掲示板に書くなー。)
恥ずっ。


[1744] 投稿者:まさやん 投稿日:2001/10/14(Sun) 05:55


ゼミとは全く関係ないのですが、一つの詩を紹介してみたいとおもいます。

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 「カワバタさん」 山尾三省

カワバタさんは 一湊(いっそう)林道専門の林道人夫である
一湊林道専門の林道人夫はカワバタさん唯一人である

カワバタさんは 毎日若草色の軽自動車を運転してきて
林道の悪所を補修している
林道の両側の草刈りもしている
草は刈っても刈ってもまたのびるし 道は補修しても補修しても
ひとたび大雨が降れば 元の川底のような荒んだ姿に帰ってしまう
カワバタさんは終日ものも言わず
出会ってもニコリともせず
いつも少しだけ不機嫌な表情で仕事に励んでいる
というより 人に出会う時だけそういう表情になり
一人の時は山や道と同じ顔をしているのかも知れない
時にはほうと ひとりごとを洩らすのかもしれない
カワバタさんの仕事は 生涯の仕事である
明日はやめる仕事ではない
カワバタさんの仕事は シジフォスの神話のように意味のないくりかえしの仕事である
草は刈っても刈ってもまた生い繁るし
道はなおしてもなおしても ひとたび雨がくれば元の川底道に戻るからである
けれども
カワバタさんの顔には 意味のない仕事をしている人の苦しみは宿っていない
やがて死すべき人の 何処にでもある日に焼けた
少し不機嫌な静かな皺があるだけである

カワバタさんは 一湊林道専門の人道人夫である
一湊林道専門の林道人夫は この世にカワバタさん唯一人である


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別に何かが言いたいわけではないのですが、これを読んでしばらくぼうっとして、そして声に出して泣いてしまいました。

たくさんの理不尽なことに憤る日々だけれど、久しぶりに素直に「人が死ぬのは悲しい」と思えたような気がしました。

ただそれだけです。
特に意味はありません。

なんとなく竹川ゼミのみんなに教えたくなったので書いてみました。


[1749] Re: 詩 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/17(Wed) 19:54

いいですね
べつにも泣かなくてもいいと思うけど

世界のことを語るときも、いつも交換不可能な個別具体からはじめましょう。

わたしにとってわたしは、わたしひとりしかいないのだし。
わたしがしってるあのひとは、あのひとひとりしかいないのだから。


[1738] 卒論発表2 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/10/12(Fri) 19:06

須藤ゼミの発表のために作り直した章立てに少し手を加えました。

卒論発表 『「ホームレス」のエスノグラフィー(仮)』 011012 発表者 渡辺拓也

目的
約2ヶ月間の大阪府西成区、西成公園に住む公園ホームレスへのフィールドワークと文献調査をもとに、ホームレスとは何かを考察する。

第一章 一般的なホームレス観
この章では一般的なホームレス観を文献等を引用しながら記述する。
・可哀想な人たち(同情的な見方)
・堕落した人たち(蔑視的な見方)
・仕事のない人たち(雇用対策の視点)
・物のない不自由な暮らし 
・「ホームレスは白痴ではないか」という言説 等

第二章 下層民について
この章ではホームレスと共通する要素を持つ人たち(被差別者)について比較を行いながら、いわゆる「下層民」が存在する意味について考察する(歴史も含めて)。
・部落民
・乞食
・浮浪者(橋の下)
・家出?
・カプセルホテルを泊まり歩き、その日暮らしをしている人 等

第三章 ホームレスの実生活
この章では参与観察によって得たデータに基づき、ホームレスの実生活について記述する。
・どのようにして生計を立てているか(衣食住、収入源など)
・公園内の人間関係
・外部組織との関わり
・外部との関わり

第四章 ホームレス社会の自由・不自由
この章では公園ホームレスの生活が私たちの生活とどのよう部分で異なり、どのような部分で重なるのかということについて考察する。
・ホームレス社会の多様性(様々な人間関係が交錯する場。一枚板ではないホームレス。一般社会に囚われている者、囚われない者)
・ホームレスであることを恥じる言説
・ホームレスを選択の結果だと述べる言説(公園の自由について)

第五章 考察〜ホームレスとは何か〜
・ホームレスは「脱落者」か
 何から脱落したというのか?(非脱落のスタンダードがあるのか)
・ホームレスを「外部」として捉える見方
 私たちはなぜホームレスから目を背けてしまうのか?
・ホームレスを救済の対象として捉える見方
 「救済する側」「救済される側」という構図では掬えないもの
 救済の手が素通りする風景 
・決して「外部」などではない「ホームレス」
・私たちが信じている自由・自立とは何なのか(自由競争・自由意思等)

・ホームレスの価値基準から見える一般社会の価値基準の虚構
 →ここから私たちの考える自由・自立の観念を揺さぶることできれば……


[1739] Re: 卒論発表2 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/12(Fri) 19:25

目的
約2ヶ月間の大阪府西成区、西成公園に住む公園ホームレスへのフィールドワークと文献調査をもとに、ホームレスとは何かを考察する。

こらこら自由はどうなった?自由を捨ててはいかん。マグロを生で出すのか?・・・なんてね。

1章と2章のあいだにもう一つ章をたてて、自由について論じましょう。ワタナベ君がなぜここで自由を問題にしたいのか(高校の時の経験?)そして、現代の思想のなかで自由はどう語られてきたか(たくさんの文献)。近代社会において自由とは何かという問題意識をいったんここですべて提示します。

第二章 下層民について
この章ではホームレスと共通する要素を持つ人たち(被差別者)について比較を行いながら、いわゆる「下層民」が存在する意味について考察する(歴史も含めて)。
・部落民
・乞食
・浮浪者(橋の下)
・家出?
・カプセルホテルを泊まり歩き、その日暮らしをしている人 等

下層というとらえかたはいかにも浅いんじゃないかな。むしろいわゆる「自由人」の系譜として押さえるべきではないでしょうか。ジプシー、旅芸人、・・・ETC。彼らはまさにホームレスです。たとえばイギリスではこれらの人たちの区別がつきません。日本では、家出、出奔、出家は大事だね。部落民はホームレスではない。

第五章 考察〜ホームレスとは何か〜
・ホームレスは「脱落者」か
 何から脱落したというのか?(非脱落のスタンダードがあるのか)
・ホームレスを「外部」として捉える見方
 私たちはなぜホームレスから目を背けてしまうのか?
・ホームレスを救済の対象として捉える見方
 「救済する側」「救済される側」という構図では掬えないもの
 救済の手が素通りする風景 
・決して「外部」などではない「ホームレス」
・私たちが信じている自由・自立とは何なのか(自由競争・自由意思等)

ここで、先ほどの自由の議論をふまえ、たとえばいわゆるネオリベラリズムの限界と問題点を指摘していけばいいと思います。この場での自由にかんする議論は破綻をきたすかもしれません。しかし、破綻をきたすことができればむしろ大成功と考えますます。ありきたりな自由論に落ち着かせずに、フィールドのデータをもとに、その先に見えるものを論じてください。


・ホームレスの価値基準から見える一般社会の価値基準の虚構
 →ここから私たちの考える自由・自立の観念を揺さぶることできれば……

まずは揺さぶられている自分を内省する事からですね。


[1740] Re^2: 卒論発表2 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/10/13(Sat) 05:35

こらこら自由はどうなった?自由を捨ててはいかん。マグロを生で出すのか?・・・なんてね。

1章と2章のあいだにもう一つ章をたてて、自由について論じましょう。ワタナベ君がなぜここで自由を問題にしたいのか(高校の時の経験?)そして、現代の思想のなかで自由はどう語られてきたか(たくさんの文献)。近代社会において自由とは何かという問題意識をいったんここですべて提示します。

「不自由の中で自由を考えてみようと思った」「不自由と思っていたホームレスの中にもむしろ自由ではないかと思える人がいた」というようなことを書いていけばいいのかな?「自主規制」の問題とか。

第二章 下層民について
この章ではホームレスと共通する要素を持つ人たち(被差別者)について比較を行いながら、いわゆる「下層民」が存在する意味について考察する(歴史も含めて)。
・部落民
・乞食
・浮浪者(橋の下)
・家出?
・カプセルホテルを泊まり歩き、その日暮らしをしている人 等

下層というとらえかたはいかにも浅いんじゃないかな。むしろいわゆる「自由人」の系譜として押さえるべきではないでしょうか。ジプシー、旅芸人、・・・ETC。彼らはまさにホームレスです。たとえばイギリスではこれらの人たちの区別がつきません。日本では、家出、出奔、出家は大事だね。部落民はホームレスではない。

放浪者として?ディアスポラ――とか、いや、ディアスポラは違うかな。家はあるだろうから。

ホームレスをフィールドワークをしようと思った原点ですね?持ち前の自由論をぶっかけるのではなくて、持ち前の自由論を解体することを射程に入れながら、「自由とは何か」→「ホームレスとは何か」→「再び、自由とは何か」

「イギリスではこれらの人たちの区別がつかない」というのはどういうことですか?日本の社会の特殊性(イギリス社会の特殊性、かもしれないけど)があるのでしょうか。

第五章 考察〜ホームレスとは何か〜
・ホームレスは「脱落者」か
 何から脱落したというのか?(非脱落のスタンダードがあるのか)
・ホームレスを「外部」として捉える見方
 私たちはなぜホームレスから目を背けてしまうのか?
・ホームレスを救済の対象として捉える見方
 「救済する側」「救済される側」という構図では掬えないもの
 救済の手が素通りする風景 
・決して「外部」などではない「ホームレス」
・私たちが信じている自由・自立とは何なのか(自由競争・自由意思等)

ここで、先ほどの自由の議論をふまえ、たとえばいわゆるネオリベラリズムの限界と問題点を指摘していけばいいと思います。この場での自由にかんする議論は破綻をきたすかもしれません。しかし、破綻をきたすことができればむしろ大成功と考えますます。ありきたりな自由論に落ち着かせずに、フィールドのデータをもとに、その先に見えるものを論じてください。


・ホームレスの価値基準から見える一般社会の価値基準の虚構
 →ここから私たちの考える自由・自立の観念を揺さぶることできれば……

まずは揺さぶられている自分を内省する事からですね。

第一章 ホームレスとは何か

第二章 自由とは何か
現代社会における自由にまつわる問題
・自主規制の問題
・自由・自立・個人主義
・「不自由の中で自由を考える」ということ
・現代の思想のなかで自由はどう語られてきたか
・近代社会において自由とは何か

第三章 ホームレス〜放浪者の系譜〜
・旅芸人
・出家、出奔
・ジプシー
・乞食、橋の下(浮浪者) 等

第四章 ホームレスの実生活

第五章 ホームレス社会の自由・不自由

第六章 考察・自由とは何か
ホームレスの議論をふまえ私たちの信じている自由とは何かを問い、その先に見えるものがどのようなものであるかを論じる。


[1747] Re^3: 卒論発表2 投稿者:門屋 投稿日:2001/10/17(Wed) 14:28


第一章 ホームレスとは何か

第二章 自由とは何か
現代社会における自由にまつわる問題
・自主規制の問題
・自由・自立・個人主義
・「不自由の中で自由を考える」ということ
・現代の思想のなかで自由はどう語られてきたか
・近代社会において自由とは何か

第三章 ホームレス〜放浪者の系譜〜
・旅芸人
・出家、出奔
・ジプシー
・乞食、橋の下(浮浪者) 等

第四章 ホームレスの実生活

第五章 ホームレス社会の自由・不自由

第六章 考察・自由とは何か
ホームレスの議論をふまえ私たちの信じている自由とは何かを問い、その先に見えるものがどのようなものであるかを論じる。

今、レポートで精神保健について書いています。論文が非常に難しいのがよく分かります。「結論から先に書いて、その後どうやって組み立てていくかを考えればよい。」と先生方からいわれます。けど、それってなんか面白くないですよね。確かに、答えを自分でまず決めてそれにあった、方法を考えればいいので楽なのかもしれませんが。考えに柔軟性が消えてしまいます。とかいっていたら、あ、あれも足りない。これも足りない。あ、ここでこのことを定義しておかないと、変な方向にそれちゃう。

精神疾患者。いわゆる、弱者といわれる人々です。福祉の歴史をひも解けば、浮浪者も狂人もおなじ施設に入れられていた。ブルジョワ階級の社会的進出によって、労働力が必要となったと同時に、自由という考え方が生まれてきた。そのとき、憑依によって人間性を奪われていたと考えられていた精神疾患者が、ある能力がない人間という枠をはめられるようになった。それは、自由という能力である。ホームレスと清新疾患者がこの時、分けられたのかどうかはちゃんと読む必要があるので信用しないでください。これは、ミッシエル・フーコーの『精神疾患とパーソナリティー』で学びました。フーコーは社会から疎外をうける人々はなぜ存在するのかを、狂気の歴史から暴き出そうとしています。渡辺さんもフーコー読んでるんですよね。精神疾患者とホームレスは密接なつながりがあると思います。

もう一冊の、『心病める人たちへ』という本にアメリカの精神医療の実態が載っています。手元にないので、詳しい内容は書けません。アメリカの精神医療は収容主義だったらしく、入院者は増える一方。そして、もう社会に出れなくなった長期入院者はそこで死を迎えるのみです。そういう体制が崩れたのは、アメリカが不況に陥って、精神医療費が国家財政の足かせになってしまったころです。こんどは、一転して、精神病院から患者をどんどんとしに出しました。そして、どうなったかというと都市にはホームレスが急増したということです。

また、イタリアなどは公立の精神病院を全面閉鎖にするという大胆な政策を取っていたりします。

日本はどうかというと、いまだに疎外され自由を奪われた人々が一つの収容所に押し込められています。僕の通う病院もそうでしょう。いつも、自動ドアから外を眺めているおばちゃんがいるんですが、とても象徴的にうつります。

ひとつ、フーコーの文を引用して終わります。長いかな?

精神疾患の患者が証明したのは、ブルジョワ社会には病を可能にするようなかっとうが存在するため、この社会の現実の人間にふさわしいものではないこと、この社会は具体的な人間とその実存の条件にとっては抽象的なものであること、この社会が人間から作り出した統一という理念と、この社会が人間に認める矛盾した地位の間で、絶えず葛藤を生み出すものであることである。


[1751] Re^4: 卒論発表2 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/17(Wed) 20:03

久しぶりです。あんまり書き込みがないから海でおぼれてそのまま死んでるのかなと思ってました。

精神疾患の患者が証明したのは、ブルジョワ社会には病を可能にするようなかっとうが存在するため、この社会の現実の人間にふさわしいものではないこと、この社会は具体的な人間とその実存の条件にとっては抽象的なものであること、この社会が人間から作り出した統一という理念と、この社会が人間に認める矛盾した地位の間で、絶えず葛藤を生み出すものであることである。

おっ、なかなかいい文章を書くな、少しは賢くなったのかな・・・と思いきやフーコーの引用でした(がっかり)。でもこの文章の意味がわかるだけで成長です(またナイーブな心をきづつけそうだが、評価しています)。

もっと以前にはどうだったのか、もっと違う社会ではどうなのか、考えてみたいところですね。


[1741] Re^3: 卒論発表2 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/13(Sat) 07:22

レシピは「新鮮なマグロを使ったカレー風味のインド料理」(マグロのボンカレー煮、改め)。

1章と2章のあいだにもう一つ章をたてて、自由について論じましょう。ワタナベ君がなぜここで自由を問題にしたいのか(高校の時の経験?)そして、現代の思想のなかで自由はどう語られてきたか(たくさんの文献)。近代社会において自由とは何かという問題意識をいったんここですべて提示します。

「不自由の中で自由を考えてみようと思った」「不自由と思っていたホームレスの中にもむしろ自由ではないかと思える人がいた」というようなことを書いていけばいいのかな?「自主規制」の問題とか。

自主規制???なにかなこれは?よくわからん?

たとえば、哲学のなかで自由がどう語られてきたかとか、自由とはどんなものだと人々が考えているとか。そのへんの文献レビュー。それと自由な高校にいたワタナベ君が感じていた違和感とか、現代思想における自由論とかそんなのじゃないかな・・・。

要は、去年書いたワタナベ君の卒業論文だね。あれは今回は一章分に濃縮して。いわばカレーと合わせて食べるナンとかチャパティみたいなかんじで贅沢に味わいます。

放浪者として?ディアスポラ――とか、いや、ディアスポラは違うかな。家はあるだろうから。

そう、それも一つそうかもしれない。根無し草ね。精神的ホームレスとか・・・。

ホームレスをフィールドワークをしようと思った原点ですね?持ち前の自由論をぶっかけるのではなくて、持ち前の自由論を解体することを射程に入れながら、「自由とは何か」→「ホームレスとは何か」→「再び、自由とは何か」

そうそう。

「イギリスではこれらの人たちの区別がつかない」というのはどういうことですか?日本の社会の特殊性(イギリス社会の特殊性、かもしれないけど)があるのでしょうか。

ホームレスがいきなり踊りを踊り出したり、歌を歌ったりする。旅に出たりもする、ということ。これはイギリスに特殊なことではなくて、ホームレスのマージナル(周辺的)な性格をひとつよく反映していると思う。

第六章 考察・自由とは何か
ホームレスの議論をふまえ私たちの信じている自由とは何かを問い、その先に見えるものがどのようなものであるかを論じる。

なにかが見えればいいんだけどね・・・。大いに期待しています。論じましょう。


[1742] Re^4: 卒論発表2 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/10/13(Sat) 08:13

「不自由の中で自由を考えてみようと思った」「不自由と思っていたホームレスの中にもむしろ自由ではないかと思える人がいた」というようなことを書いていけばいいのかな?「自主規制」の問題とか。

自主規制???なにかなこれは?よくわからん?

ああ、この際自主規制のことは関係ないか。「自主規制のある自由」「自主規制をしなさい」とか言われていたから、高校の頃の僕の自由への違和感を一言で言ってしまうと「自主規制」というのが出てきてしまいます。

放浪者として?ディアスポラ――とか、いや、ディアスポラは違うかな。家はあるだろうから。

そう、それも一つそうかもしれない。根無し草ね。精神的ホームレスとか・・・。

思いつく限り、できる限り調べてみます。

第六章 考察・自由とは何か
ホームレスの議論をふまえ私たちの信じている自由とは何かを問い、その先に見えるものがどのようなものであるかを論じる。

なにかが見えればいいんだけどね・・・。大いに期待しています。論じましょう。

考えながら調べながら書きながら考えます。

レシピは「新鮮なマグロを使ったカレー風味のインド料理」(マグロのボンカレー煮、改め)。

結構無茶な料理ですよね。色物というか。「せっかくマグロなんだから刺身か寿司にしてくれたら良かったのに」と言われないようにがんばります。


[1743] Re^5: 卒論発表2 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/13(Sat) 19:17

レシピは「新鮮なマグロを使ったカレー風味のインド料理」(マグロのボンカレー煮、改め)。

結構無茶な料理ですよね。色物というか。「せっかくマグロなんだから刺身か寿司にしてくれたら良かったのに」と言われないようにがんばります。

色物になるかどうかはこれから決まりますね。

むしろ、マグロなら寿司や刺身(ホームレスといえば福祉や行政の問題)という反応に、もううんざりしているというのはあります。上等な切り身を手に入れたのなら、もっと別の味付けだってあるだろ、という感じですね。

「確かにホームレスといえば自由」という反応もわりと安直で、自由の問題に絡めれば、だいたい決まり切った味付けにおさまっちゃいそうなのですが(ボンカレーみたいに何を入れても同じ味にね)。

ただ、「自由」という概念が今非常に大きな問題になっているという点で、ワタナベ君の論文にはボンカレーには収まりきらない可能性があります。つまり「ボンカレーはほんとうのカレーなのか?」「インド人はこんなもの食べてるのか?」という新たな問いですね。

今や、自由は競争や自立と結びつき弱者を暴力的に排除します。「自由を守る」ために、食べるものもろくにないような人々が住む街に、ぼこぼこと爆弾を落とすことが正当化されるような時代です。そして自由な世界に放り出された不安な人々は、自由なんていらないと自らの自由を放棄します。

「自由を放棄した不自由な自由人」であるホームレスの視点から、この辺に、まっとうに切り込めれば、この論文は安直な色物ではなくなると思いますよ。


[1733] 理想の被害者像 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/10/11(Thu) 07:46

シゲのページの10月10日の日記への感想です。私信という形であることもあってか、素直なことが書けた感じがするので、すこし手直しをして投稿します。

***
「理想の被害者像」という話はホームレスについて考える時にも考えます。卒論を書くに当ってホームレスについて書いたルポルタージュをチェックしていてどうしても引っかかるところがあります。

「彼らは可哀想な人だ」的な視点や、「何故彼らは社会復帰できないのか」という社会福祉的な視点。

公園ホームレスに限定した意見として読んでくださいね。

彼らが公園にいたる理由には借金とか、仕事が無いとかあります。だからある意味「不幸な人」であったり、「運悪く」所有物を失ってしまった人であったりすると思います。しかし、こと社会復帰ということについて考えると、所詮現代社会(?)や現在の社会福祉では彼らに居場所はないような気がしてしまいます。

それは彼ら一人一人がとても個性の強い人間であることと関わってきます。おやじさんは確かに凄い人だし、観察眼や対人術に優れているけれど、相当な意地っ張りです。他にも意地っ張りというか、自分を譲れない人が多いように思います。僕は公園の人たちのそういう意地っ張りなところをとても好ましく思います。とても素直に生きているし、その素直な気持ちを持ったまま自分の生活を築いていくというバイタリティがそこに感じられるからです。

その素直な気持ちを貫いている人たち――それはきっと生半可なことではないはずです、「ホームレス」は決して楽ではないから――に狭っくるしい社会福祉なんかで応えられるわけはありません。

「何故彼らは社会復帰できないのか」という問いに出てくるのは雇用対策ばかり。確かに雇用対策もその一つの答えなのだけれど、そんなことではないと思います。

ホームレスはホームレスでコミュニティのようなものを作り、彼ら自身の生活を築き上げている。そんな彼らに「彼らは仕事の無い可哀想な人たちだ」という見方をして接近しても擦れ違うばかりではないだろうか、と。

「彼らの生活を新しいライフスタイルのように美化して語ることは許せない」という視点。これも分かることは分かる。しかし、彼らの営みには敬意を表したい。

「○○は不遇な人たちだ。人道的見地から救済策を練らねばならない」という立ち位置からの関わり方は早々に行き詰まってしまうだろう。行き詰まった時にもう一歩踏み出せるかどうか。もう一歩を踏み出したところから本当に関係と呼べるものが出来上がっていくのではないだろうか。そこには「人道的見地」なんていう綺麗だけど役に立たないがらくたは無くなっているだろう。

フィールドワークも同じことのように思える。フィールドワークでは「人道的見地」というのが「調査」に置き換わる。

本当は「調査」なんて言葉も「研究」なんて言葉もいらないのかもね。胸の中のもやもやを抱えた「私」がそれをとくヒントを貰った、ってことで。論文というのはそのもやもやを誰か他の人にも知ってもらいたい欲、ぶっちゃけてしまえば「もっとたくさんの人と友だちになりたい!」ってことなのかも。

***

この間ゼミで発表した時に「ホームレスはやっぱり自由なんかじゃない!」という結論に至ってしまいました。議論を進めていくと彼らも僕らも同じに思えてしまいます。

「組織や近隣関係などから自由」と主張しようとしたものの、素直になって考えると人間関係が一番不自由でした……。

「普通」の社会であるような人間関係や決まり事からは解放されるけど、もっと面倒くさい近隣関係があって、僕はそれにとても振り回されていたのでした。自分の信念を貫きまくっている個性の強い人間が集まっているのだから、衝突は当然です。でも、だからといって排除というものは無かったように思います。きつい喧嘩をしたり、陰口を叩いたりということはあっても、決して排除するようなことはなかった。

僕にはそれが煮え切らない関係であったり、なあなあで済ましているように見えたりして嫌でしたが、そういうレベルの話ではなかったのかもしれません。


[1734] Re: 理想の被害者像 投稿者:重森 投稿日:2001/10/11(Thu) 13:29

重森です。

この間ゼミで発表した時に「ホームレスはやっぱり自由なんかじゃない!」という結論に至ってしまいました。議論を進めていくと彼らも僕らも同じに思えてしまいます。

「組織や近隣関係などから自由」と主張しようとしたものの、素直になって考えると人間関係が一番不自由でした……。

渡辺は昔から「自由」についてあれこれ考えていたように思います。しかし私にとって、渡辺のいう「自由」とは一体なんなのか具体的に想像することは難しいことでした。そもそも「なにからの自由」なのか、そして「誰がその自由を求めているのか」いまいちピンとこなかったのです。

今回の投稿を読む限り、社会制度や校則といった決まりごとからの自由を渡辺が求めていたのかな、と思いました。ところが、西成のフィールドワークを通して、「なにもかもから解放された「自由」などない」ということに渡辺は気付いたのでしょうか。つまり、人間は絶対になにかに縛られるということでしょうか(西成のケースからこのような一般化はできないと思うけどあえて)。

個人的に私は、ホームレスの人たちを縛っていた秩序もしくは決まりごと(暗黙の了解)の具体的な内容が知りたくなりました。

論文を書くにあたって、渡辺はこれから「自由そうに見えていた実は不自由なホームレスとその秩序」に重きを置いていくのだろうか。それとも、ホームレス支援者の「理想の被害者像」に触れて、よりよき援助のあり方を探求していくのだろうか。もしくは、今述べてきた両方に目を配って、暴走族のエスノグラフィー的に西成ホームレスの生活世界全般を描いていくのだろうか。

「普通」の社会であるような人間関係や決まり事からは解放されるけど、もっと面倒くさい近隣関係があって、僕はそれにとても振り回されていたのでした。自分の信念を貫きまくっている個性の強い人間が集まっているのだから、衝突は当然です。でも、だからといって排除というものは無かったように思います。きつい喧嘩をしたり、陰口を叩いたりということはあっても、決して排除するようなことはなかった。

僕にはそれが煮え切らない関係であったり、なあなあで済ましているように見えたりして嫌でしたが、そういうレベルの話ではなかったのかもしれません。

http://www.kitakyudai.net/~shige


[1731] 卒論発表レジュメ 投稿者:渡辺拓也 投稿日:2001/10/10(Wed) 19:37

みんなの意見を貰って、もう一回組みなおさないとと思いますが、とりあえず、レジュメをそのまま投稿します。須藤ゼミの方でも発表させてもらうから早いとこレジュメを作り直さないと……。


*卒論発表* 『ホームレスにおける自由』 011008 発表者 渡辺拓也

卒論テーマ「自由とは何か」
私たちにとってホームレスは不自由であるように思える。しかし、ホームレスは本当に不自由なのだろうか。この卒論ではホームレスとの共同生活を通して得た経験をもとにホームレスにおける自由について考え、自由とは何かという問いに取り組む。

第一章 不自由とは何か
 文献等のデータを引用しながら一般的なホームレス観、「不自由なホームレス」について具体的なイメージを叙述する(金銭的不自由。衣食住。医療など)

第二章 ホームレスの努力と工夫
 前章で述べたイメージとホームレスの実生活とを比較する。
・衣…着るものは捨てられたものを拾う、キリスト教会の配給などがある。洗濯は公園で手洗い
・食…ゴミを拾う(弁当のロスなど)。キリスト教会・支援組織の炊き出し。クーラーボックスで保存。漬物。相互持合
・住…テントハウス・シート小屋。防寒に厚着・毛布の配給。夏は水浴び・薄着(パンツとランニングで出歩いても支障の無い公園空間・合意)
・金銭的不自由…現金収入は少ないがある。また、現金はそんなに必要ない。大抵のものはお金を出さなくても手に入る
・医療…これは本当に不自由かもしれない。保険は無いし、お金も無い。最悪の場合には福祉制度があるが、つまり最悪の場合までいってしまう危険がある
・娯楽の不自由…実際はテレビやことによるとテレビゲームもある。本や雑誌も拾って来て読める。ラジオは手軽に持てる。旅行は不自由かもしれない

・ホームレスのまなざし…街並みから利用できるものを見つけ出し、活用する努力と工夫(拾い屋のまなざし)

第三章 ホームレスにおける自由
・ホームレスにあって、私たちにない自由について(時間的な自由。組織に属さない身軽さ。近隣関係)。
・一般社会とホームレス社会(公園独特の空気)
・ホームレスのまなざし(私たちとは異なった街並みへのまなざし。それは彼らがホームレス生活の中から生み出したもの)
・ホームレスとしての居直り(開き直り)→公園の不法占拠(これが多分唯一のルール違反)
・選択的ホームレス(人間関係・職場環境)

・本人たちに自覚的な自由と自覚的でない自由(私たちには自由だと感じられるもの)

第四章 自由とは何か
・ホームレスという観念そのものにまつわる私たちの不自由。
   →「ホームレスになりたくない」「あそこまで落ちたくない」等
      今もっているものを失うことの怖さ・安定した暮らし
(安定志向の不自由→ものとお金を持ちすぎて身動きとれなくなることが幸せか)
・ホームレス観の変化
  「スーツホームレス」の登場→「誰もがホームレスになりうる」という危機感の登場
      (人生観的なものから不況、雇用問題へという社会的関心のシフト)              
・「持つこと」と「在ること」
 不要なものを持ちすぎている現代人?
   →生活の工夫、努力、洗練でどうにかなることをものやお金で補っている
    貴金属の拾い屋という皮肉(ものやお金を何かの証として頼ってしまう私たちの「持つ様式」/物象化?)
 不自由とは不便のことで自由とは便利なこと?
 欲望の適正化
   →衣服や食事、各種娯楽など
    「本当にお金をかけて実現するほど価値のあることなのか?」
    (お金があるのに働き過ぎ、働いているのにお金が無い……)
 
結論
・現在の自分の生活(生活を規定する枠)を自分の現実に則して更新していけること
・本当にそれが自分に必要なのか、自分にとって大切なものは何かを捉え、実現していけること(自分の素直な気持ちに基づいた行動、無駄なものは捨ててしまえばいい)



参考文献
「スーツホームレス」小室明 2000
「生きるということ」E・フロム

「現代日本の野宿生活者」島和博 1999
「霊園はワンダーランド ホームレスと過ごした一年間の記録」小笠原和彦 2000
「路上に生きる命の群 ホームレス問題の対策と提案」宮下忠子 1999
「ホームレスになった 大都会を漂う」金子雅臣 1994
「実録ホームレスとは!?」森川直樹 1994
「隠蔽された外部 都市下層のエスのグラフィー」西澤晃彦 1995 


[1735] Re: 卒論発表レジュメ 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/11(Thu) 19:05

だいすけです

読みました。まだ難しい問題がいくつか残ってるなという印象です。結論を先にいうと、せっかくマグロの刺身(まだ切り分けていないけど鮮度はいい)を手に入れたのに、やっぱりそれでカレーライスをつくるのかぁという感じです。早急に、もういちどレシピを作り直してください。

味付けをカレーあるいはインド料理でいくという方針(つまり自由を射程に入れていること)はまあ「よし」としても。しかしだからといって、いきなりボンカレー(あいもかわらぬ自由論)をぶっかけるのは「もう」やめましょう。

自由というガラムマサラはあくまでも隠し味に。ここはもっと素材を引き立てるように吟味したほうが良いものができるとおもいます。

==

卒論テーマ「自由とは何か」
私たちにとってホームレスは不自由であるように思える。しかし、ホームレスは本当に不自由なのだろうか。この卒論ではホームレスとの共同生活を通して得た経験をもとにホームレスにおける自由について考え、自由とは何かという問いに取り組む。

いきなりマグロをボンカレーと一緒に湯に入れてはいけません!

第一章 不自由とは何か
 文献等のデータを引用しながら一般的なホームレス観、「不自由なホームレス」について具体的なイメージを叙述する(金銭的不自由。衣食住。医療など)

ここは、まあいいとして。不自由の問題だけにこだわらず、「一般的なホームレスに対する印象」そのものから書いていったら?常套手段ですが、前菜としてはそのあたりが妥当でしょう。タイトルにするならば「ホームレスはどう語られているか(ホームレスをめぐるディスクール)」ですね。

第二章 ホームレスの努力と工夫
 前章で述べたイメージとホームレスの実生活とを比較する。
・衣…着るものは捨てられたものを拾う、キリスト教会の配給などがある。洗濯は公園で手洗い
・食…ゴミを拾う(弁当のロスなど)。キリスト教会・支援組織の炊き出し。クーラーボックスで保存。漬物。相互持合
・住…テントハウス・シート小屋。防寒に厚着・毛布の配給。夏は水浴び・薄着(パンツとランニングで出歩いても支障の無い公園空間・合意)
・金銭的不自由…現金収入は少ないがある。また、現金はそんなに必要ない。大抵のものはお金を出さなくても手に入る
・医療…これは本当に不自由かもしれない。保険は無いし、お金も無い。最悪の場合には福祉制度があるが、つまり最悪の場合までいってしまう危険がある
・娯楽の不自由…実際はテレビやことによるとテレビゲームもある。本や雑誌も拾って来て読める。ラジオは手軽に持てる。旅行は不自由かもしれない
・ホームレスのまなざし…街並みから利用できるものを見つけ出し、活用する努力と工夫(拾い屋のまなざし)

「努力と工夫」という適応的な面だけからの捉え方ではなくて、人間関係まで踏み込んだ「生活そのものの記述」に徹するべきでしょう。
とくに「まなざし」あたりは大切だとおもいます。それと、多様性に関する議論もぜひ必要。ホームレスは一枚板ではなくて。あるいみほかの社会以上に複雑な構造をもっている。
しかしこれ、いきなりメインディッシュです。もう少し後に持ってきた方がいいのでは。

第三章 ホームレスにおける自由
・ホームレスにあって、私たちにない自由について(時間的な自由。組織に属さない身軽さ。近隣関係)。
・一般社会とホームレス社会(公園独特の空気)
・ホームレスのまなざし(私たちとは異なった街並みへのまなざし。それは彼らがホームレス生活の中から生み出したもの)
・ホームレスとしての居直り(開き直り)→公園の不法占拠(これが多分唯一のルール違反)
・選択的ホームレス(人間関係・職場環境)
・本人たちに自覚的な自由と自覚的でない自由(私たちには自由だと感じられるもの

ここでも自由にこだわらないで!ガラムマサラは隠し味よ!

彼らの生活や人間関係のどういう点がわれわれと「異なり」、どういう点がわれわれの「社会の縮図」であり、そこで生きることは現代社会においてどういう位置づけになるのか(ぼくは決して彼らは社会システムの外にいるのではなくて、彼らの存在もシステムの内だと考えています。ある意味とても、恐ろしいことですが。)


第四章 自由とは何か
・ホームレスという観念そのものにまつわる私たちの不自由。
   →「ホームレスになりたくない」「あそこまで落ちたくない」等
      今もっているものを失うことの怖さ・安定した暮らし
(安定志向の不自由→ものとお金を持ちすぎて身動きとれなくなることが幸せか)
・ホームレス観の変化
  「スーツホームレス」の登場→「誰もがホームレスになりうる」という危機感の登場
      (人生観的なものから不況、雇用問題へという社会的関心のシフト)
・「持つこと」と「在ること」
 不要なものを持ちすぎている現代人?
   →生活の工夫、努力、洗練でどうにかなることをものやお金で補っている
    貴金属の拾い屋という皮肉(ものやお金を何かの証として頼ってしまう私たちの「持つ様式」/物象化?)
 不自由とは不便のことで自由とは便利なこと?
 欲望の適正化
   →衣服や食事、各種娯楽など
    「本当にお金をかけて実現するほど価値のあることなのか?」
    (お金があるのに働き過ぎ、働いているのにお金が無い……)

これは再検討です。むしろ考えるべきは、「ホームレスとは何か」ということです。たとえば「出家」や「不可触民」など、ホームレスと共通する要素を持つ人々や社会制度との比較をおこないながら、彼らの生きている意味(よくもわるくも)を考察していくべきでしょう。章としては2章くらいで(メインディシュよりも先に)。

結論
・現在の自分の生活(生活を規定する枠)を自分の現実に則して更新していけること
・本当にそれが自分に必要なのか、自分にとって大切なものは何かを捉え、実現していけること(自分の素直な気持ちに基づいた行動、無駄なものは捨ててしまえばいい)

考察と結論の持っていきかたが逆です。

料理におけるカレーとマグロの関係を転倒させましょう。メインはマグロであってカレーは味付けです。つまり、大事なのは、「ホームレス」の事例を詳細に検討することによって、われわれの「自由」に対する概念がいかに危ういものであるかを示すことあって。極端に言えば、結論では、個々のホームレスが自由であろうとなかろうと、そんなことは全然この論文では問題ではないということです。

(繰り返しですが、ホームレスという新鮮なマグロに使い古しの「自由」というボンカレーをかけて分析するのは最悪です。あたらしい味をつくるには、まずマグロがあってそれに合うようなガラムマサラを調合することです)

ホームレスの事例から、われわれ(少なくともワタナベ君が)が頑なに信じている(信じたいと思っている)「自由」の概念の曖昧さと、不安定さを暴き出していきましょう。これはかなり魅力的な作業だと思います。そして、ついでに「自立」という神話も壊しましょう。

人間は自由でなければならない。自由のためには自立しないといけない。近代をささえるこのふたつの神話を突破できれば、ワタナベ君の自由論はたいしたものになるはずです。

安易な結論にもたれかかるのではなく、ここは頭をつかって筆も動かして悩んでください。

■文献。やくにたたないかもしれませんが。以下、最近話題の本から。

『ホ−ムレス作家』
松井計 /幻冬舎 2001/09出版 270p 20cm NDC:916 \1,500 在庫有 新宿本店 新宿南店

『 こじき大百科にっぽん全国ホ−ムレス大調査』
村田らむ/黒柳わん /デ−タハウス 2001/05出版 271p 21cm NDC:368.2 \1,400

このほか、「出家」や「不可触民」など、社会の周辺(マージナル)の人々のエスノグラフィーを参考文献にさがしてみてください。

ところで以前、1587で紹介したホームページですが。読んでみましたか?
http://www.sikasenbey.or.jp/~kiriyama
ニシナリ散髪

ぼくは彼女の文章はとても好きです。


[1737] Re^2: 卒論発表レジュメ 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/11(Thu) 19:33

■文献追加

ホ−ボ−(シカゴ都市社会学古典シリ−ズ ) ホ−ムレスの人たちの社会学 上下
ネルス・アンダ−ソン/広田康生 /ハ−ベスト社 2000/11出版


[1727] 卒論中間発表(読みやすいほう) 投稿者:まさやん 投稿日:2001/10/09(Tue) 01:32


レジュメをそのまま貼ります。
ぐちゃぐちゃで読みにくいので投稿しなおします。

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卒業論文中間発表      

「意外性」の探求としての姫島盆踊り

 自分のテーマと姫島盆踊りの関わりについて
 
 日頃からよく私は、「人間のあらゆる行動の大元にあるのは『とにかくなにかをしたい』という欲求ではないか。そしてその欲求は、あらゆる秩序によって抑圧されているのではないか。」と、考えていた。

 そのことについて突き詰めてみたいと思い、欲求の直接的な顕れである身体表現行動としての踊り(特に即興性が重視されるもの)に興味を抱いた。
そのため、初めは姫島の盆踊りにはあまり関心がなかった。

 姫島の盆踊りについて人から聞く評判は「キツネ踊りが有名」などで、そうした、型が決まっていて伝統的に継承されている踊りでは私が突き詰めたいことはやりにくい、と考えたからだ。

 でも自分で姫島盆踊りを調べるうちに、「姫島には『伝統踊り』と『創作踊り』の2種類があり、踊りの種類が非常に多く、正確な数は把握できない。」、などの記述を見つけ、関心が出てきた。

 そして姫島に実際に行き「盆踊りは全部元々は仮装行列から来ている。」といったことを聞き、姫島をフィールドに決めた。

 姫島の盆踊りの本来の目的を「『意外性』の探求」と名付けてみた(仮)。姫島の村人自身が自分で盆踊りを楽しもうとする時に、「意外な方へ」進もうとする動きがあることに注目する。

 そしてその「『意外性』の探求」と全く逆の動きとして、近年「盆踊りの演目(←?)の固定化・保存」が起こっており、観光客への配慮から、「『意外性』の探求」の最も顕著な例としてあげられる「アバレボー」の中央フェリー広場への出入り禁止(人に聞いた話)なども起こっている(「踊りたいから」から「見せることを優先」への変化)。

 姫島で盆踊りが衰退している原因として、「娯楽が増えた(祭りの日常化)」、「少子化」、「行動様式の多様化」などがあるが、私は大きな原因は、「『意外性』の探求」を「固定化・保存」により規制していくことによる村人自身の盆踊りへの関心の低下、にあるのではと考える。

 盆踊りへの関心の低下は、あらゆる要因が絡むことで今後ますます加速すると思われる。
しかし、元々の「踊りたいから踊る」、「『意外性』の探求」という出発点を見直すことは、人間の欲求をかなえる方法を考える上で意味を持つのではないだろうか。

 そのために、姫島において「『意外性』の探求」を支えているのはどういう仕組みなのか、を考察してみたい。 
 
そして、「伝統」を創造することについて、そして現代の「祭りの復興」について、も考察してみたい。

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  卒論章立てと内容案

・論文要旨

・第1章 姫島盆踊りの概要 
  
第1節 姫島   内容:地理、人口、産業、交通、集落の区分
  
  第2節 盆踊りの形態   

内容:日程、盆坪、盆唄、ナカオドリ、外踊り、観光客について(どれ位来るか、のみ)

・第2章 姫島盆踊りの成立背景
  
第1節 念仏踊り   

 内容:踊念仏にはとくに定まった形がなく、勇躍歓喜しつつ、乱舞形式で踊ったものらしいことなど。(「日本大百科全書 18」.小学館.1988)

  第2節 風流(ふりゅう)との習合   

 内容:吉川周平さんの論文「姫島の盆踊り―風流と盆踊りとの研究との手がかりとして―」を引用(出典がわからないので調べる必要がある)。風流は、はじめは仮装行列のようなものであったがだんだん芸能化して演劇的な内容を持つようになった(「日本大百科全書 18」.同前)ことなど。

  第3節 ボンアシの成立   

 内容:吉川修平さんの論文(同前)を引用して説明。そしてボンアシを「ただただ踊りたいという混沌した気持ちを整理するための必要最小限の手段」ではないかと論じる。全く秩序がない状態では、集団の行為にまとまりが生まれない(参考文献を探す)から生まれたのがボンアシではないか。ボンアシは、最小限の手段を定めることで、踊りの成立に安定を与え、手の動きを全く自由にしたことであらゆる踊りが生み出されていく。そしてボンアシも簡単なものから難易度が高いものなどあらゆるものが生まれた。そしてボンアシの個人個人のあり方も個別的であることを具体的に記述。

・第3章 古老の語る姫島盆踊り
  第1節 盆踊りへの熱狂   

   内容:練習に励んでいた話、昔の人はうまかった、という話。

  第2節 創作踊りについて   
   
   内容:毎年違うものをやっていた、という話、「意外性」について

  第3節 アバレボーについて   
   
   内容:昔の様々なアバレボーについて、「意外性」について

・第4章 現在の姫島盆踊り
  第1節 新しい決まり     

 内容:踊る踊りを集落ごとに事前に知らせる紙を役場に提出すること(まだ要考察)。「毎年必ず踊る踊り」が決まっている(保存会の踊り)。中央フェリー広場でのアバレボーの禁止について。「自分達の楽しみ(『意外性』の探求)のため」ではない「観光客のため」の決まりが出来た、と論じる。「本来の目的(『意外性』の探求)」という本来の目的と全く相反した「観光客のための踊る踊りの固定化・保存」を方針に置いたことが村人自身の盆踊り離れにつながっているのではないか、と論じる。

  第2節 見せるための踊り   
 
 内容:「観光化」について。中央広場はナカオドリや盆唄をきちんとすること。過去の「見せるため」と今の「見せるため」の違いについて。たぬき踊りを踊って起こったこと―カメラマンについて、移動中に不機嫌な子供について、
 
  第3節 「意外性」の追求と固定化の間の青年達
                
 内容:練習時の(ほとんど練習しない)青年、15日の青年に起こった「事故」について、16日に一緒に踊って見えた青年の自発性、

・第5章 「意外性」の追求を支える仕組み
  第1節 村人が共有するcode   
                
   内容:方言、踊りを誉められた時のことば、「組」ということば、
 
  第2節 秩序の保持と許容のバランス   
             
   内容:ゆるやかな変更可能な枠、など

・第6章 「伝統」の創造について 
  第1節 先行研究       (文献をこれから探します。)

  第2節 日本における「古典芸能」の成立について   
                    
   内容:明治期に生まれた概念であること(「PT パブリックシアター 第10号」.世田谷パブリックシアター.2000)など。参考文献を探す。(第1節とあわせて一つにするかも)
                    
  第3節 姫島における「伝統」の創造  内容:先行研究から考察

・第7章 現代の祭りの考察
  第1節 「祭りの日常化」について   
               
   内容:娯楽が増えたことによる祭りの日常化についての先行研究について
  
  第2節 「意外性」の探求としての祭り
                    
   内容:根源に戻り、「人間の欲求をみたそうとするための手段」として、民俗芸能を見直すことについて論じる。

・結語   内容:姫島盆踊りの今後について。
・謝辞
・註
・参考文献

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色々変更はあると思います。
もっと整理する方法を考えたいし、特に第6,7章はこれから深く考えるので、意見をお願いします。
参考文献を紹介していただけるとうれしいです。
「意外性」という言葉を使うことについてももっと考えたいと思います。

 使おうかなと考えている文献

・「PT」同前
・吉川周平氏の論文、同前
・「日本大百科全書」同前
・「万有百科大辞典 音楽 演劇」.小学館.1974
・「祭りと宗教の現代社会学」.芦田徹郎.世界思想社.2001
・「無為のクレオール」.大杉高司.岩波書店.1999
・「姫島村史」.姫島村史編纂委員会.(株)佐伯印刷.1984
・「パフォーマンス研究」.リチャード・シェクナー.人文書院.
  1998
・「身体の構築学」.福島真人 編.ひつじ書房.1995
・「観光姫島」

――――――――――――――――――――――――――――――――

レジュメはこんな感じです。

<ゼミで出た意見>

・「『意外性』の探求」というのは、姫島の盆踊りが「踊りたい気持ちをどう持っていくか」ということにおいて取った方向性の選択肢の中の一つにすぎないので、これを他の祭りに安易に当てはめて語ることはできない。

などでした。

なにかあれば、何でもご意見をお願いします。


[1728] Re: 卒論中間発表(読みやすいほう) 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/10(Wed) 19:12

お返事おくれてごめんなさい。

じっくり読みました。かなりいい感じだと思いました。結論をさきにいえば、これでいけそうですね。

「欲求の直接的な顕れである身体表現」

ほんとうにこれが直接かどうかはともかくとして、言語とは別の様式化であることは確かですね。言葉となにがどう違うかというのが大問題なのだけど。

「即興性」=「アドリブ」かなり重要な問題ですね。

 でも自分で姫島盆踊りを調べるうちに、「姫島には『伝統踊り』と『創作踊り』の2種類があり、踊りの種類が非常に多く、正確な数は把握できない。」、などの記述を見つけ、関心が出てきた。

「伝統」と「創作」。これをふたつに分けたのもまた後の時代の人で、そこには何らかの価値観や意図があるでしょうね。解りますか?だからここにあんまり深くはまらない方がいいとおもう。本来両者の区別はなかったのでは。

 姫島の盆踊りの本来の目的を「『意外性』の探求」と名付けてみた(仮)。姫島の村人自身が自分で盆踊りを楽しもうとする時に、「意外な方へ」進もうとする動きがあることに注目する。

「意外性」この言葉に込めたいことの気持ちはよくわかります。しかしもう少し的確な用語がないか探ってみましょう。「即興」という言葉がすでに出ました。しかしもっと壊す感じで「破壊」、しかし同時に何かを創る感じで「再生」、そして人々を驚かせるという感じ・・・「道化」。うーん、いい言葉が浮かびませんが・・・。

 そしてその「『意外性』の探求」と全く逆の動きとして、近年「盆踊りの演目(←?)の固定化・保存」が起こっており、観光客への配慮から、「『意外性』の探求」の最も顕著な例としてあげられる「アバレボー」の中央フェリー広場への出入り禁止(人に聞いた話)なども起こっている(「踊りたいから」から「見せることを優先」への変化)。

「アバレボー」は、やはりどうしたってはずせませんね。十分なデータがあるらここをメインディッシュに持ってきたいくらい。

 盆踊りへの関心の低下は、あらゆる要因が絡むことで今後ますます加速すると思われる。しかし、元々の「踊りたいから踊る」、「『意外性』の探求」という出発点を見直すことは、人間の欲求をかなえる方法を考える上で意味を持つのではないだろうか。

関心の低下そのものの善し悪しや、その原因を探る方にはあまり偏らない方が良いようにもおもいます。

そして、「伝統」を創造することについて、そして現代の「祭りの復興」について、も考察してみたい。

そして復興にもこだわらず(これだと別の意味の伝統主義に陥ってしまうから)、むしろ失われたものが今はどうのように代償されているのかという点を考えたらいいんじゃないかな。うがった見方をすれば、近代社会での生活そのものが祭り=(まさやんが意外性とよぶもの)であり、姫島の踊りの代償かもしれないのだし。

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・第3章 古老の語る姫島盆踊り
  第1節 盆踊りへの熱狂   
   内容:練習に励んでいた話、昔の人はうまかった、という話。
  第2節 創作踊りについて   
   内容:毎年違うものをやっていた、という話、「意外性」について
  第3節 アバレボーについて   
   内容:昔の様々なアバレボーについて、「意外性」について

この章はとても気になりますね。一つの山場だと思います。

・第4章 現在の姫島盆踊り
  第1節 新しい決まり     
  第2節 見せるための踊り   
  第3節 「意外性」の追求と固定化の間の青年達

「意外性」が失われた現在に力点を置くのではなく、そういう現在であっても、踊りの中にかいま見られる「意外性」を探す方がいいかもしれない。(失われた過去への郷愁は悪しき伝統主義とおなじだし)まあ、この章はちょっと食休みという感じで

・第5章 「意外性」の追求を支える仕組み
  第1節 村人が共有するcode   
  第2節 秩序の保持と許容のバランス   

ここをメインディッシュ持ってくるのであれば。やはりそのものズバリ『「意外性」の追求を支える仕組み』を暴き出して欲しいところ。どこからアバレボーや新しい踊りが生まれるのか、だれが、いつ、どういう社会的関係の中でその役割を演じるのか。そしてその「意外性」は、踊りの中でどういう意味を持つのか。(様式化され「伝統」の枠の中に入れられた踊りに対するアンチテーゼでもあります)


・第6章 「伝統」の創造について 
  第2節 日本における「古典芸能」の成立について   
  第3節 姫島における「伝統」の創造  内容:先行研究から考察
・第7章 現代の祭りの考察
  第1節 「祭りの日常化」について   
   内容:娯楽が増えたことによる祭りの日常化についての先行研究について
  第2節 「意外性」の探求としての祭り

これは、デザートにしてはちょっと重すぎる感じ、むしろ軽く前菜で触れた方が良いのでは。それに「娯楽が増えたことによる祭りの日常化」なんてのはよく言われることで、せっかくの「やむにやまれる身体表現」に関する論文なのに方向がかわってしまします。

   内容:根源に戻り、「人間の欲求をみたそうとするための手段」として、民俗芸能を見直すことについて論じる。

むしろ、それが「民俗芸能」であることにこだわらないという姿勢のほうがいいと思う(民俗芸能といってしまうと伝統がおまけについてきますから)。あくまでも一つの「身体表現」として島の人がそれにどんな欲望を託しているのかということ。そこでみんなの舌をうならせましょう。

・結語   内容:姫島盆踊りの今後について。

これは結語に持ってくるようなものではないのではないかな・・。まるでフランス料理のフルコースの後にマックのハンバーガーを食べるような感じです。いくら食べ慣れているといってそんなことをしてはいけません。

結論はあくまでも身体表現の流れから。

もっと整理する方法を考えたいし、特に第6,7章はこれから深く考えるので、意見をお願いします。

4章5章をもっと大事にしよう。6と7はむしろその前に持ってきましょう。

参考文献を紹介していただけるとうれしいです。

「意外性」という言葉を使うことについてももっと考えたいと思います。

ここがキーだね。かなり的確にいえてると思うのだけど、さらにいい言葉はないかな。

『とりあえずの文献』

■「創られた伝統」
[原書名:THE INVENTION OF TRADITION〈Hobsbawm,Eric;Ranger,Terence〉 ]
488p 19cm(B6)
紀伊国屋書店 (1992-06-20出版)
これはとりあえず読みましょう。(ぼくの部屋にあります)

■ トリックスタ−(Monad books ) 演技としての悪の構造
小川了 /海鳴社 1985/07出版 88p 19cm NDC:388.44 \485
あとは道化やトリックスターがらみだな。ほかにもないか調べてみて

■ニジンスキ−神の道化
鈴木晶 /新書館 1998/07出版 374, 20cm NDC:769.38 \2,400
関係ないかもしれないけど、個人的に読みたいな。

■ 道化の民俗学(ちくま学芸文庫 )
山口昌男 /筑摩書房 1993/03出版 421, 15cm NDC:770.4 \1,262
. 道化的世界(ちくま文庫 )
山口昌男 /筑摩書房 1986/01出版 411p 15cm NDC:770.4 \563
道化の宇宙(講談社文庫 )
山口昌男 /講談社 1985/09出版 284p 15cm NDC:389.04
内容は似たようなものかもしれないけど、ここに参考文献がありそう。

■「パフォーマンス研究」.リチャード・シェクナー.人文書院.
たしかぼくが北九大の図書館に入れたと思うな

■岩波講座文化人類学( 儀礼とパフォ−マンス ) 第9巻
青木保 /岩波書店 1997/08出版 314p 22cm NDC:389 \3,200
論文集があるでしょう。

■ 仮面パフォ−マンスの人類学アフリカ、豹の森の仮面文化と近代
佐々木重洋 /世界思想社 2000/11出版 382p 21cm NDC:389.446 \3,600   
彼はぼくの知り合いです。山本君がいるアフリカ研出身。

というわけで、なかなかうまそうな料理に仕上がる予感があります。GOサインを出します。すぐに書き始めましょう。



[1732] Re^2: 卒論中間発表(読みやすいほう) 投稿者:まさやん 投稿日:2001/10/10(Wed) 21:16


レス待ってました(笑)。

「欲求の直接的な顕れである身体表現」

ほんとうにこれが直接かどうかはともかくとして、言語とは別の様式化であることは確かですね。言葉となにがどう違うかというのが大問題なのだけど。

確かにそうですね。
からだは「自分にとても親しいから直接」、というのは幻想ですね。
むしろ「自分」からとても遠いとも言えるし。

言葉と何が違うんでしょうね。
たしかに大問題だ。

「即興性」=「アドリブ」かなり重要な問題ですね。

 でも自分で姫島盆踊りを調べるうちに、「姫島には『伝統踊り』と『創作踊り』の2種類があり、踊りの種類が非常に多く、正確な数は把握できない。」、などの記述を見つけ、関心が出てきた。

「伝統」と「創作」。これをふたつに分けたのもまた後の時代の人で、そこには何らかの価値観や意図があるでしょうね。解りますか?だからここにあんまり深くはまらない方がいいとおもう。本来両者の区別はなかったのでは。

はい、「元々区別がなかったのに出来た」と言う話をしようと考えています。「伝統踊り」といわれている踊りも、例えばキツネ踊りも、「今は小学生の男の子だけの踊りですが、昔は大人も踊っていた」などということが普通に村史に書かれていたりします。

あえて「伝統」と「創作」で分けられていますが、そこに明確な区分はありません。人気があるから長く続けられてきた、それが「伝統踊り」なのだと考えます。

村史に、『「伝統踊り」と「創作踊り」の中間の踊り』がある、と書いてあります。長く続いて人気があるけれど無形文化財などにはなっていない「三番そう」「曽我兄弟」などです。

つまり便宜的に「伝統踊り」と言っているだけで、すべて元々は「創作踊り」と言えます。

 姫島の盆踊りの本来の目的を「『意外性』の探求」と名付けてみた(仮)。姫島の村人自身が自分で盆踊りを楽しもうとする時に、「意外な方へ」進もうとする動きがあることに注目する。

「意外性」この言葉に込めたいことの気持ちはよくわかります。しかしもう少し的確な用語がないか探ってみましょう。「即興」という言葉がすでに出ました。しかしもっと壊す感じで「破壊」、しかし同時に何かを創る感じで「再生」、そして人々を驚かせるという感じ・・・「道化」。うーん、いい言葉が浮かびませんが・・・。

私ももっといい言葉があれば、とは思います。
なんせ、発表当日の夜中に突然思いついた言葉なので(笑)。

重信先生に意見をもらったのですが、
「意外性」という言葉で考えなくてはならないのは、「誰にとって『意外』なのか」ということです。

私は、一旦は「『姫島の人にとって』、でしょうか」と答えたのですが、よく突き詰めると姫島は集落ごとのまとまりというのがとても強くひとくくりで考えてしまうことに疑問が出てくる。

そうしたことも考えていくと村内でのダイナミズムが見えてくる、と重信先生に言われました。

「意外性」でいいのかなぁ、とは思っていますが、今のところ他にぴったりする言葉がみつからないな、と考えています。

 そしてその「『意外性』の探求」と全く逆の動きとして、近年「盆踊りの演目(←?)の固定化・保存」が起こっており、観光客への配慮から、「『意外性』の探求」の最も顕著な例としてあげられる「アバレボー」の中央フェリー広場への出入り禁止(人に聞いた話)なども起こっている(「踊りたいから」から「見せることを優先」への変化)。

「アバレボー」は、やはりどうしたってはずせませんね。十分なデータがあるらここをメインディッシュに持ってきたいくらい。

「アバレボーの禁止」というのは人に聞いた話で、はっきりしたデータがありません。昔どんな風にやっていて今はほとんどいない、ということははっきりわかるのですが。

 盆踊りへの関心の低下は、あらゆる要因が絡むことで今後ますます加速すると思われる。しかし、元々の「踊りたいから踊る」、「『意外性』の探求」という出発点を見直すことは、人間の欲求をかなえる方法を考える上で意味を持つのではないだろうか。

関心の低下そのものの善し悪しや、その原因を探る方にはあまり偏らない方が良いようにもおもいます。

私もそっちは触れるのみにしようと思っています。

そして、「伝統」を創造することについて、そして現代の「祭りの復興」について、も考察してみたい。

そして復興にもこだわらず(これだと別の意味の伝統主義に陥ってしまうから)、むしろ失われたものが今はどうのように代償されているのかという点を考えたらいいんじゃないかな。うがった見方をすれば、近代社会での生活そのものが祭り=(まさやんが意外性とよぶもの)であり、姫島の踊りの代償かもしれないのだし。

むしろ、『「祭りの復興」に対する危惧』、について書いてみようかと思っていました。yosakoi祭りなどが流行っているのでそれに少し触れてみようかと思いました。都会の行政の枠の中でやろうとする祭りに起こりうる弊害について考えてみようかな、と。

でもこれはテーマとして大きすぎるし、yosakoiのこともよくわからないので、取り上げるのはやめようかな、とも思っています。


今はどのように代償されているか・・・。
よく聞くのが「娯楽が増えた」ということです。
確かに代償が増えたのたと思います。

でもこの論文では、「現代にはいろいろな『意外性』の追求をする方法があるが、元来の姫島盆踊りは、現代において『意外性』の追求をする際に見直すだけの『独自の(欲求にかなり素直な)方法』を持っている。」
という話がしたいと考えています。

・第4章 現在の姫島盆踊り
  第1節 新しい決まり     
  第2節 見せるための踊り   
  第3節 「意外性」の追求と固定化の間の青年達

「意外性」が失われた現在に力点を置くのではなく、そういう現在であっても、踊りの中にかいま見られる「意外性」を探す方がいいかもしれない。(失われた過去への郷愁は悪しき伝統主義とおなじだし)まあ、この章はちょっと食休みという感じで

そうですね、あくまで「『意外性』の探求」を中心に書いていったほうがいいですね、主題だし。

・第5章 「意外性」の追求を支える仕組み
  第1節 村人が共有するcode   
  第2節 秩序の保持と許容のバランス   

ここをメインディッシュ持ってくるのであれば。やはりそのものズバリ『「意外性」の追求を支える仕組み』を暴き出して欲しいところ。どこからアバレボーや新しい踊りが生まれるのか、だれが、いつ、どういう社会的関係の中でその役割を演じるのか。そしてその「意外性」は、踊りの中でどういう意味を持つのか。(様式化され「伝統」の枠の中に入れられた踊りに対するアンチテーゼでもあります)

この章では、「きちんと言語化されていない仕組み」について書きたいと思っています。それだけにこの章はどうやって記述していくかよく考えていく必要があります。

・第6章 「伝統」の創造について 
  第2節 日本における「古典芸能」の成立について   
  第3節 姫島における「伝統」の創造  内容:先行研究から考察
・第7章 現代の祭りの考察
  第1節 「祭りの日常化」について   
   内容:娯楽が増えたことによる祭りの日常化についての先行研究について
  第2節 「意外性」の探求としての祭り

これは、デザートにしてはちょっと重すぎる感じ、むしろ軽く前菜で触れた方が良いのでは。それに「娯楽が増えたことによる祭りの日常化」なんてのはよく言われることで、せっかくの「やむにやまれる身体表現」に関する論文なのに方向がかわってしまします。

確かに(笑)。
でもあくまで考察にしたいので後ろに持ってこようかと思うのですが・・。前に持ってくるとどう整理していいのか・・。

おまけ、という感じで考えてみようかと思っています。

第6章は書いてみたいのですが、第7章はどっかにちょっと入れるだけにして省こうかとも思います。

   内容:根源に戻り、「人間の欲求をみたそうとするための手段」として、民俗芸能を見直すことについて論じる。

むしろ、それが「民俗芸能」であることにこだわらないという姿勢のほうがいいと思う(民俗芸能といってしまうと伝統がおまけについてきますから)。あくまでも一つの「身体表現」として島の人がそれにどんな欲望を託しているのかということ。そこでみんなの舌をうならせましょう。

あ、しまった。第6章で書きたいことと裏腹に自分が「民俗芸能」という「定義された」言葉を軽く使ってしまいました。

・結語   内容:姫島盆踊りの今後について。

これは結語に持ってくるようなものではないのではないかな・・。まるでフランス料理のフルコースの後にマックのハンバーガーを食べるような感じです。いくら食べ慣れているといってそんなことをしてはいけません。

結論はあくまでも身体表現の流れから。

そうですね、結語に第7章の第2節を持ってこようかな。
慣れた方法で適当にまとめちゃってはダメですね。

もっと整理する方法を考えたいし、特に第6,7章はこれから深く考えるので、意見をお願いします。

4章5章をもっと大事にしよう。6と7はむしろその前に持ってきましょう。

よく考えてみます。

■「創られた伝統」
[原書名:THE INVENTION OF TRADITION〈Hobsbawm,Eric;Ranger,Terence〉 ]
488p 19cm(B6)
紀伊国屋書店 (1992-06-20出版)
これはとりあえず読みましょう。(ぼくの部屋にあります)

そのうち買おうかと思いますがちょっと高いので貸してもらえるとうれしいです。

参考文献ありがたいです。探ってみます。


書きたいことが、@元々踊りたいから人は踊り、Aそしてだから姫島では「『意外性』の追求」を方向とし、Bそれは様様な要因で阻害されつつある、という風に多岐に渡っているのでまとまりがつかないんでしょうね。

ついつい欲張りたくなってしまいますね(笑)。


[1736] Re^3: 卒論中間発表(読みやすいほう) 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/11(Thu) 19:21

「意外性」この言葉に込めたいことの気持ちはよくわかります。しかしもう少し的確な用語がないか探ってみましょう。「即興」という言葉がすでに出ました。しかしもっと壊す感じで「破壊」、しかし同時に何かを創る感じで「再生」、そして人々を驚かせるという感じ・・・「道化」。うーん、いい言葉が浮かびませんが・・・。

私ももっといい言葉があれば、とは思います。
なんせ、発表当日の夜中に突然思いついた言葉なので(笑)。

意外性というよりは、それは「意表」であって「ハプニング」であるわけですね(ことばを考えてみました)。つまり、なんらかの秩序をみだし変更を迫る「事件」です。


この章では、「きちんと言語化されていない仕組み」について書きたいと思っています。それだけにこの章はどうやって記述していくかよく考えていく必要があります。

やはり具体例から攻めるのが一番効果的では。

確かに(笑)。
でもあくまで考察にしたいので後ろに持ってこようかと思うのですが・・。前に持ってくるとどう整理していいのか・・。
おまけ、という感じで考えてみようかと思っています。
第6章は書いてみたいのですが、第7章はどっかにちょっと入れるだけにして省こうかとも思います。
4章5章をもっと大事にしよう。6と7はむしろその前に持ってきましょう。
よく考えてみます。


まあ、ここはとりあえず書いてみましょうか。外したり場所を変えるのは後でもできるし。

書きたいことが、@元々踊りたいから人は踊り、Aそしてだから姫島では「『意外性』の追求」を方向とし、Bそれは様様な要因で阻害されつつある、という風に多岐に渡っているのでまとまりがつかないんでしょうね。

ついつい欲張りたくなってしまいますね(笑)。

気持ちはよくわかります。でも3はなんか蛇足になってしまいそうです。むしろ3を2の前あたりに持ってきて、阻害しようとする働き(たとえば言語中心的な様式論とか、伝統化とか、「意外性」としての魅力の低下とか)は、何が原因でどこから生まれるのかを考察して。

そのあとで3で、しかしあくまでも、身体からくる「意外性」という一種の破壊行為とはなにかを詳細に考えてみるのでどうかな。




[1725] バリのお化けB 投稿者:平安 投稿日:2001/10/08(Mon) 00:05

トヤブンカに向かった私はバトゥール湖畔にある、バリ人のジェロさんと山内さんの夫妻が経営していてるロスメンに泊まった。
山内さんは格安で部屋を貸してくれたうえ、とても親切にしてくれた。
私は欧米人の長期滞在者の人々や従業員、キンタマ―ニ犬の子犬と遊びながら、いろんな話しをした。
お化けを見たという話しはなく、理解してもらうのに時間がかかった。従業員は「マジックで姿を変えることができる人を探している」というと、ウブドでの反応とはまったく違い、「軽率だ」とそれ以上何も話してくれない。叱られたりもした。
山内さんは家に泥棒に入った時にバリアンを呼んで相談した話しをしてくれたが、やっぱり聞いたことはないという。
2日後、デンパサ―ルに観光客を迎えに行くから、降りたい所までただで乗せてくれるという山内さんの好意に甘えて、私はKちゃんが泊まっていたぺネスタナのロスメンに戻ることにした。

ここのスタッフの男の子が、小さい時にバリダンスが上手なサルを見たという場所に案内してもらい、話を聞き、私はそのサルをぜひ見たいと思ったが帰る日までにみることはできなかった。
ウブドで泊まっていたロスメンのスタッフ、ワヤンが私が戻ってきたのを聞きつけて遊びに来てくれた。
彼は一本チャンと千尋ねえさんを呼んで来てくれて、四人でごはんを食べに行くことになった。
その帰り、「蛍を見に行こう」と言うワヤンの誘いで、私達は野犬に追いかけられながら田んぼ道をバイクで走り、ウブドの上の、テガラランという昼間は景色のいいライステラスのあたりに向かった。
途中、前を走っていた二人のバイクが急に横にそれたので、見るとアヒルが二匹、ちょうど車線の上を横断中だった。
ワヤンもそれをよけ、私達はそのまま通りすぎた。
目的地に着く前に小雨が降ってきて、蛍もみえず、私達はすぐに帰ったが、その途中アヒルがまた、来る途中にすれ違ったのと同じ所を横断中であるのをみつけた。
私は「デジャブ!」とか「かわいいねー」と叫んだが、運転手からの応答はなく、バイクのスピードが急速にあがった。
宿につくと、3人は(千尋までもが)「あれはアヒルじゃなくてお化けだ!」と言って本気で怖がっていた。
しまいには「ヒロノがお化け、お化けってお化けを見たがっているから自分たちまで見てしまったんだ」と責められてしまう。
「お化けだとしても、アヒルの姿をしていてかわいかったじゃないの」と言っても納得しない様子であった。
私はその後、すっかり私に恋をしていたワヤンを連れまわし、お墓や怖い場所に連れていってもらったが、夜、不思議なことが起きるとたいがいバリ人はお化けやマジックのせいにして納得するのだということがわかった。
それは暖かくて安心だった。だんだん私にも彼らの異常な怖がりがうつってしまった。
帰る数日前は、バリの暦で「お化けの祭日」に当たる日(お盆のようなかんじ?)で、お化けが食べ物を探す日だった。
いかにも最後のチャンスの日だった。
「今日、お香を持ってお化けに呼びかければ、絶対に見れるだろう」と友人に言われたが、それだけ危険らしかった。
本気で止められもした。
お盆の日、沖縄で海に入ろうものならおばーに恐ろしく叱られる。
何かあった時のために、と言ってパスポートなどをあずけ、見送られて川の方(お化けスポット)へ行こうとしたが、「お化けの祭日」「食べ物を探す日」というキーワードですっかりビビっていた私は半泣きですぐにリタイアした。

と、こんなオチですみません。
この後、みんなとお別れをして日本に帰ってきました。


[1729] Re: バリのお化けB 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/10(Wed) 19:16

「お化けだとしても、アヒルの姿をしていてかわいかったじゃないの」と言っても納得しない様子であった。

そうだよねぇ。かわいいならいいじゃん。

それは暖かくて安心だった。だんだん私にも彼らの異常な怖がりがうつってしまった。

たしかに、そりゃあ怖いよ。お化けだもん。

お盆の日、沖縄で海に入ろうものならおばーに恐ろしく叱られる。

そうなのね。お化けの研究が難しいのはこれ、お化けのことが怖くない人には結局お化けのことは表面的にしかわからないし。お化けが怖い人は、研究なんてできやしない。いい、お化けと仲良くなるというのが一番いいかも。


[1723] 風邪だブ〜。 投稿者:平安 投稿日:2001/10/06(Sat) 20:50

バリに行ってほぼ完治してい手のゾンビ化が再びひどくなり、
風邪もこじらせてダルダルの平安です。

平安は今度JASの誕生日特典で北海道に行こうと思っています。
ひざまでつかるくらいの雪をみて、かき氷シロップをかけて食べるという小さい頃からの夢の実現のためです。
11月のはじめ頃の予定です。

おもしろい所を知っている人はぜひ教えてくださーい。

ゆうき22歳、おめでとう。
だいちゃん、お帰りなさい。
楽園計画読みました。
おもしろかったけど、なんか深い。

♪謎が謎を呼び〜まわーるー緑の葉っぱ〜♪(平安お気に入りソング)

だいちゃん、こっちに帰ってくる日が決まっていたら教えてください。


[1730] Re: 風邪だブ〜。 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/10(Wed) 19:18

♪謎が謎を呼び〜まわーるー緑の葉っぱ〜♪(平安お気に入りソング)

いい歌ですね。しらんけど

だいちゃん、こっちに帰ってくる日が決まっていたら教えてください。

ひみつです。


[1721] 楽園計画 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/06(Sat) 16:13

hasi

セントアイブスの港



「ええっ?、ここからフランスにいけないんですか?」

「いけないよ」

「だって、ここって地の果て(ランズエンド)ですよね、ちがいます?」


■大きな誤算だった。ランズエンドの街まで来れば、てっきりそこからフランスに渡れるものと思っていたのだ。港の近くの浜辺で、ひとり砂の芸術をつくっていた男は、ちょっと身をかがめて風にあおられたコートを手荒くつかみなおした。

「そう、ここは地の果て。その先には海しかない。そして海の向こうは滝になって落ちているさ。ははっは」

■自分でいったつまらない冗談に、どうしてそんなに愉快に笑えるのだろう。足もとに横たわる砂でできた馬が、妙にリアルでなまめかしい。

hasi


「ははは・・って。そりゃないです。せっかく、ここまできたのに」


「72時間・・・」

「えっ?船があるんですか?」

「72時間泳げばつくだろ」

「・・・」


「だいたい、あんた、こんな季節にここに何しにきた?」

「だから・・フランスに行こうと思って・・」

「ははは、何ねぼけたこといってんの?」

「・・・」

■返す言葉もない。

「おれは、てっきりあんたも、エデンプロジェクトかと思ったよ」

「え?何ですかそれ?」

「知らんのか?」

■実はこの名前は、すこし前からときおり耳にしていた。そのいかがわしい響きがずっと気にはなっていた。こころなし男の顔が険しい。

「そのエデンプロジェクトがここで・・・?」

■小声でたずねてみる。

「ここから1時間ほど戻ったところにある丘の上だ。・・・いくか?」

■男はまるで挑発するように言葉を返す。ちょっと好奇心がくすぐられた。どうせフランスに渡れないのなら、他にすることはない。

「なんの予定もないから、とりあえずいってみようと思います」

「そうか、じゃあな。あそこから無事に戻ってこられたら、また会おう」

■男は、意味ありげに軽くわらうと、黙って作品の脇を指さした。ビニールシートが広げられ、いくばくかコインがたまっていた。彼はこうやって日銭をかせいでいるらしい。しかたなかろう、ぼくは情報料のつもりで10ペンスをほうりなげた。

男の仕事

男の仕事



■エデンプロジェクト。楽園計画。ニューサイエンスだかエコロジーだか知らないが、その手の地球に優しい連中がはじめた新しい運動なのだろうか。世紀末と新世紀が続けてやってきてくれたおかげで、近頃はイギリスでもこのたぐいの宗教まがいの団体が雨後の竹の子のように誕生している。しかも、どうやらこのエデンプロジェクトには国がバックについているらしい。いつの新聞で読んだのかわすれたが、それにはイギリス政府の機関であるミレニアム委員会かなにかが、エデンプロジェクトを支援していると報道されていた。

■エデンプロジェクト行きのバスは、車がすれ違えないくらいの狭い田舎道を登っていった。なんでも陶土を掘りつくした後にできた巨大なクレーターの中にエデンは造られているのだという。緑の丘がとぎれた場所にあるむき出しの穴の周縁をバスはぐるりとまわり、そしていきなり道はそこで終点になった。眼下には不気味な半球状の建築物が見える。

エデンのドーム

エデンのドーム




■その外観は、地下50メートルの穴の底に並ぶ巨大ドーム群であった。そしてバイオーム(生物群相)とよばれるこのドームの中には、世界各地から集められた10万種を越える植物によってつくられた熱帯雨林の森があるという。

■エデンプロジェクトを推進しているスタッフはエデンチームと呼ばれていた。ドームの中のあまりの広さにとまどい思わずきょろきょろしていると、エデンチームの一人と目が合ってしまった。

エデンチームの男

エデンチームの男




■やばい・・・と思うまもなく、彼はこの手の人たちに特有のにこやかさでぼくに近づいてきた。

「われわれの仕事は地上に楽園を造ることです。これは単なる植物のコレクションではなくて生態系そのものなのです。ところであなたはブッダと猿の話を知っていますか?」

■アミニズムを信仰するぼくは正確には仏教徒ではない、が、そんな説明をするとそれこそドツボにはまりそうだったので、あいまいに笑いながらうなずいた。すると彼は、

「おお、知っている?あれはすばらしい物語です。ブッダは自然と共に生きるウィズダムを持っていました」

■そんな話など知るわけない。(ウィズダム・・レットイットビー・・なすがまま・・きゅうりがぱぱ)ウィズダムでとっさに連想できるものはこれくらいのもんだ。しかし、またもやあいまいに相づちをうってしまう人のいいぼく・・・。

芸術

芸術




「そして、このドームはすべてあわせて40万立方メートルの体積をもち、世界で2番目に大きなものです。ところで、あなたは世界で1番大きなドームを知っていますか?」

■ここで相手の話術にかかってはいけないぞと警戒しながら、丁寧な英語で慎重に答えた。

「ぼくは、世界で1番大きいそのドームを知りません」

「世界で1番大きいドーム、それはこの地球です」

■ガガーン。冗談だろうか本気だろうか。

「あなたは環境問題に興味がありますか?地球温暖化についてどう思いますか?」

森




■お次は、そうくるか。

「うーんと・・、大きな問題だと思います。海面が上昇すると太平洋に住んでいる人は困ります」

「そう、人間は困りますね。でも、ほかの生き物はそんなに困りません」

■むむむ、逆手をついてきたぞ。これは手ごわい。

「多くの植物にとって、地球はもっと温暖でそしてもっと二酸化炭素が多い方がいいのです。人類が利用している化石エネルギーは古代の生物が生産したものですね。人間はいまそれを再び大気の循環に戻そうとしています。」

「え・・・じゃあ?」

「京都プロトコルにアメリカがサインしない本当の理由を知っていますか?」

「い・・いえ。あの産業発展のためにエネルギー消費量をへらしたくないから・あの・・大国のエゴで・・」

「いいえ、アメリカもまた、エデンプロジェクトを支持しているからです。」

アメリカ>
マンハッタン




「・・・」

「まもなく世界中でエデンの建設がはじまります。ニューヨークの巨大な空き地にも・・・。そして日本にも」

「えっ日本にも?」

「日本には『ヒロシとイケてる五人組』というすばらしいミュージシャンがいますね」

「知りません」

「『東京砂漠』という歌はとてもいいです。わたしカラオーキが大好きですね・・・♪草も木もないジャングルに〜」

「知りません!」

トキオ
東京




「地球はあと百年もしないうちに温室効果(グリーンハウスエフェクト) によって巨大なエデンになります。雨が降り続き砂漠に森がよみがえります。これこそ本当の緑色革命(グリーンレボリューション)なのです。」

■おいおい。なんなんだよエデンプロジェクトって・・。

「実はまだ極秘ですが、われわれの計画にはNASAも重大な関心を示しています」

■こらこら、そんな大事なこといきなり来た日本人に漏らしていいのか。

「これが月面に建設されつつある新しいバイオームです」

■そういってファイルの束から取り出した月面の写真。半円の地球が青く映っている。

月面のドーム

月面のドーム




「むこうに見えるのが宇宙船地球号です。あなたはバックミンスター・フラー博士を知っていますか?」

「知りません」

「彼が提唱した適正技術(オルタナティブ・テクノロジー)にしたがってすべてのドームは建設されています。そう、ドームそのものが一つの『自然のまねび』(バイオミミクリー)なのです」

■なんか難しすぎてついていけないぞ。最初のブッダはどうなったのだろう。どうも話が誘導されてるみたいだぞ・・・ここはこっちが主導権をとらなければ・・。

「あの、ところで最初のブッダとサルの話は・・・」

「そう!それは偉大なウィズダムでした」

■あっ。なんか表情がうれしそうだ。話を戻したのはヤブヘビだったか。

「ブッダのようにこの森と共存できるものだけが、このドームに入ることが許されるのです。今年の夏には多くの人々がここに殺到しましたが、中にはいることができず立ち去りました」

「選ばれし者・・・」

■エデンプロジェクトは現代のノアの箱船だったのか・・・。

「ここにマレーシアの家(ルマ・カンポン)があります、彼らはこの地をサステイナブルに開墾し、数百万の生き物たちとともにバイオームの中で生きていきます」

ルマ・カンポン

ルマ・カンポン




■みるとジャングルのなかに一軒の家があった。バイオームの中では人間もまた生き物の一種に過ぎないというのだろうか。せせらぎの音が聞こえる。ドームの中には滝があり川も流れている。河口にはマングローブが植えられていた。小さな熱帯雨林が成長をはじめていた。

「あなたが、もしこのバイオームの中で生きていくとしたら。どうやって植物たちと共存していきますか。この空間は、あなたが生きるのに十分ですか?考えてみてください。世界最大のバイオームである地球は、あなたが生きるのに十分広いですか?」

森

バナナの葉



■ふと気がつくといつの間にかエデンチームの男は姿は消えていた。そして粘りつくような熱帯特有の重たい空気の中でバナナの葉がゆっくりと揺れていた。

アメリカ



※以下のキーワードを検索にご利用ください。きっとあなたに必要な情報が手に入ることでしょう。

keywords

Lands End, Cornwall, Eden project, Biome, Buckminster Fuller, Altanative Technology, Biomimicry, ランズエンド, コーンウォール, エデンプロジェクト, バイオーム, バックミンスター フラー, 適正技術, バイオミミクリー


[1720] No Title 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/10/06(Sat) 12:25


竹川さん、ついにあの禁断のエデンに行ってしまったのですね・・・。

これでもうあなたもエデン・プロジェクトの一員になったのかもしれません。せっかくなのでこっちのネット人類ゼミにも投稿してくれたらよかったのに。

今日までレポートに追われていて書き込みができない状態でした。

レポートの締め切りが誕生日なんてちょっとした悲劇だと思いません?

というわけで、私今日で22歳になりましたー!


[1722] Re: No Title 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/06(Sat) 16:15

竹川さん、ついにあの禁断のエデンに行ってしまったのですね・・・。

行ってしまいました。すごかったです

これでもうあなたもエデン・プロジェクトの一員になったのかもしれません。せっかくなのでこっちのネット人類ゼミにも投稿してくれたらよかったのに。

ごめんなさい。いましました。

今日までレポートに追われていて書き込みができない状態でした。

夏休みの宿題を最後の日にやるタイプだね・・・ああ、結局やらないタイプか

レポートの締め切りが誕生日なんてちょっとした悲劇だと思いません?

そういうのは悲劇とは言わず自業自得というのでは

というわけで、私今日で22歳になりましたー!

誕生日おめでとう!


[1716] 卒論 投稿者: 投稿日:2001/10/05(Fri) 18:42

だれかノッキ−の卒論をもってませんかー?
卒論編集作業で使うので、持ち出している人はゼミ室の棚にでも置いておいてください。


[1719] Re: 卒論 投稿者:まつながゆうき 投稿日:2001/10/06(Sat) 12:09

だれかノッキ−の卒論をもってませんかー?
卒論編集作業で使うので、持ち出している人はゼミ室の棚にでも置いておいてください。


おおーっ! ぶんちゃん久しぶり!

何してんのー? 今度イギリスの写真見せるね。文ちゃんもいっぱい写っている。


[1715] 中間発表会 投稿者:まさやん 投稿日:2001/10/01(Mon) 20:04


決まりました。

10/8

発表者:渡辺、森安、内山(まさ)

場所:サークル会館2F 民研部室にて
時間:18:00〜

10/15

発表者:三宅、黒田、長尾

場所:ゼミ室
時間:18:00〜

議論しましょう! 


[1718] Re: 中間発表会 投稿者:だいすけ 投稿日:2001/10/05(Fri) 19:03

議論しましょう! 

どんな話が出てくるのか楽しみにしています。

誤解のないように申し添えておきますが、ぼくがここに書いていることは、みなさんと同じひとりのフィールドワーカーとしてのコメントのつもりです。だから、教員の指導としてこうしなければならないとか、そういうつもりは全然ありません。だれのコメントも議論も(それが役に立とうが立つまいが)、論文を書くにあたり同等に大切なものだと思います。

そして、卒論はあくまでもみなさん個人の研究ですから。それを忘れないでください。もちろん、求められた疑問に対するアドバイスは惜しまないつもりです。

ぼくが教員として仕事をするのはただ一度。論文審査の時だけです。(げげげ、この一点でまさに権力の非対称性があらわになるね・・・)。しかし、まあ、実際にはふつう論文審査になる前に卒論は完成しているので、この権力性が露骨に出現することはないとおもいます。

それはともかく、さて、いよいよ料理に取りかかりましょう。おいしそうな食材を前に、お腹がすいてぺこぺこです。


[1714] バリのおばけA 投稿者:平安 投稿日:2001/09/30(Sun) 00:03

次の朝、「何事もなかった」と私がみんなに報告すると、
お香の代わりに蚊取り線香を使ったことが原因だと言われました。
「蚊取り線香はにおいがあるからダメ」(バリ人)
「お香も匂いするじゃん」(私)
「とにかくダメ」(バリ人)
蚊取り線香は魔よけや、
ドラキュラに対するニンニクのようなものではなく、
お化けを呼び寄せたい私が持つにはふさわしくないということらしい。