【狂32】マエラシ その6

94/9/29

「ほっほっほ。マエラシじゃよ。マエラシというのはなタケ、海で死んだ人間のことじゃ。海で死んだ人間はの、陸で死んだ人間とちがって、体が白くなってぶくぶくと太るんじゃ。それをマエラシと呼ぶ」

■マエラシ、水死体には普通の死体とは違う特別な名前がつけられていた。私は日本語のドザエモンという言葉を思いだしていた。しかし、こっけいさのただようドザエモンのイメージは、海の口から出てきたという海の亡霊ともいうべきマエラシとは、およそかけ離れたものにちがいなかった。

「海の口の中からたくさんのマエラシがでてきたんじゃ。そのマエラシたちはみな口のところから煙をだしておって、その煙の力で生きておったのじゃ。昼のあいだマエラシたちは村の中を歩きまわり、夜になると海の口の中にもどっていった。そして朝になるとまた、海の口の中からでてくるのだった。

 そうして幾晩かすぎた、新月はしだいに力をつけて西の空に残り、明るさをとりもどしていった。山の中に逃げていたワニガロと村人たちは、夜になると村の方から不思議な歌が聞こえてくるのに気がついた。

 それはまるで鳥の鳴きごえのようでのう、いちど耳にすると忘れることのできないほど甘美なものじゃった。6日目の晩、首長ワニガロはどうしてもこの歌の正体が知りたくなり、ひとりで山をおりようと考えた。うらない婆のオシアブにそのことを告げると、オシアブはワニガロにバイナフォの実と、サゴの葉をあたえた。

『バイナフォは万物の耳を持つ木の実、サゴは命をそのみなもとに帰す木の葉』

 首長ワニガロはオシアブに短く礼を言い山をくだった。

 ワニガロは森の薮に潜みながら静かに村の方に近づいていった。すでにマエラシたちは海の口の中にもどったらしく、村はひっそり静まりかえっていた。

 あの不思議な歌がここでははっきり聞こえてきた。その声は海の口の中からもれておるようじゃった。

 ワニガロはうらない婆オシアブにもらったバイナフォの黄色い実を割って、中の果肉をひとかじりした。すると歌の中に隠された本当の意味が聞こえてきたんじゃ。

 ワニガロはファルという名の娘が自分に助けを求めていることに気がついて、即座に行動にうつった。まず村のはずれの祭壇から赤石の槍を持ちだすとその柄にサゴの葉を結んだ。そしてカヌーを浜におろし海の口にむかってこぎだしのじゃ」

 目を輝かせている子供たちをじらすかのように、オイウ老人はすこし間をおいた。現実と物語のふたつの舞台で、時の流れをこえた波の音が絶妙な効果音を演じている。私は足元からはいのぼってくる小さな赤蟻を人差し指で潰した。


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