[KOK 0272] こくら日記のトップページにとぶ 27 Apr 2006

平家と薩摩とヒッピー

 

黒潮の中に浮かぶ悪石島は予想以上に遠かった。もしかしたらこの島は日本で一番遠いところじゃないかしら。飛行機がないから船で行くしかない。村営の定期船は一週間に二回だけ、鹿児島港から出ているけど、それでも12時間もかかるのだ。

悪石島

村は港の前の坂を150メートル登った丘の上にある。今でこそ、この道も車が通るが、切り立った崖の様子からはかつての生活の大変さが思い浮かぶ。島はほぼ全山竹におおわれている。本土の篠竹に似た細長いリュウキュウダケ。明らかに沖縄とはその植生が違う。

悪石島

トカラの歴史を島の人に聞く。辺境の地のように見えるトカラであるが、決して孤立していたわけでなかった。琉球と大和の間によこたわる島々は海の交易のルートとして常に人々が行き交っていた。

悪石島

そうした中で、特に大きな波が3回あったという。1つ目は平家。源氏に敗れた平家が西国に逃れたとき、落ち延びてきたのがこのあたりであった。平家は日宋貿易の経験から南西諸島の地理にも詳しかったのだろう。

2つめの波が、薩摩の琉球侵略。沖縄の歴史の中に薩摩の支配の記録は残っているが、その中継点の歴史は語られることが少ない。薩摩の最終目的が琉球王朝だったとしても、途中にあるトカラ列島や奄美大島を素通りするはずがない。小さな村々にとっては大事件だっただろう。

悪石島

そして最後の波が、ヒッピー。60年代から70年代にかけて世界中にムーブメントを起こした、あの長髪でバンダナでカリフォルニアでラブ&ピースのフーテン族?私も最初に聞いたときに耳を疑った。「ヒッピーってあのヒッピー?平家、薩摩と来てヒッピー族ですか?」

トカラではバンヤンともよばれ、70年代にはヒッピーがコミューンを作るために大挙して島にやってきたという。とくに諏訪之瀬島はヒッピーの聖地で、火山活動で無人島になりかけていた島を復興したのは、そのヒッピーたちであった。

今ではそのヒッピーも3世代目に入り。すっかりトカラの住人となっている。それどころか教育水準の高いヒッピー一族には、十島村役場の公務員として活躍している人も多いという。「最初は変わった人たちだと思っていたけど、頭いいから今は結婚して親戚になりたがる人も多いね」と悪石島の人は語った。

悪石島

平家と薩摩とヒッピー。今でも姓をみればどの系統の血を引いているかわかるという。すでに歴史として島に名を刻んでいるヒッピー。これだから世界はおもしろい。


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