[KOK 0254] こくら日記のトップページにとぶ 05 Mar 2005

しのぶもぢずり

 

小学校の学級文庫のようにゼミ室にマンガが置かれている。なんと呼んだらよいのだろうか、いわゆる少女マンガとレディースコミックのちょうど中間あたりをターゲットにした、女性向け青年コミックともいうべきたぐいのものである。

80年代にデビューした桜沢エリカや岡崎京子、内田春菊などの流れなのだろうか、今は書き手も増え、読者層も女性がほとんどで高校生や大学生を中心にそれなりに売れてる感じだ。

登場人物のメンタリティも、学校など身近な日常をを舞台にしたシチュエーションも、恋に恋する少女マンガの域をさほどこえてはいない。唯一の違いはそこに性描写が入ってくるかどうかである。

好き嫌いの軸に、するしないという軸が交差し、性行為がはいる分だけ話はより複雑になっているように見えるが、実際にはステレオタイプなジェンダー観が繰り返され、舞台となる世界や主人公の視野はかなり狭い(このあたりは女性向けだけの問題ではなくむしろ男性向けのマンガのほうがより深刻だろうが)。

要するに、告(こく)ったり、告られたり、つきあったり、わかれたり。そうした排他独占的関係を前提とした約束事の中でおおおよその人間関係が構築されているのである。この約束事はかなり強固で、つまり恋愛のモデルとしては、わりとダサい。性描写の過激さを売りにするわりには、内実はオママゴトみたいで幼くて保守的なのである。いわゆる「やおい」マンガが商業化して生まれたBL・少年愛もののマンガをみても同様の嗜好性が見られる。

特定の相手に自分が受け入れられるかどうかが登場人物たちのもっぱらの関心事で、それは性行為の有無によって計られる。いわば近代以降の西洋的恋愛至上主義が70年代のアメリカで流行したライヒの性愛論と結びついたような、奇怪な「性愛至上主義」がそこに展開しているのである。こうした恋愛は、そのお手軽さゆえに人間的つながりの根拠が薄っぺらなので、どうしたって最後はあまり幸せそうな感じにはならない。よけいなことかもしれないけれど、読むうちにそんな恋愛モデルしか与えられていない人たち自身を、なんだかかわいそうに思えてくる。

ないちぎゃるくらぶ

さてさて、考えてみると「こくら日記」って、今まであまり性や愛のことを話題に取り上げていないのね。じつは今回も、もともとのテーマは三者関係について書くつもりだったのだ。しかし書き進めていったら、つい横道にそれてしまった。三者関係については次回持ち越しという事にして、今日は恋や性について「こくら日記」的見解をちょっとだけ書き加え、締めくくることにしよう。

インターネットをすこし概観すれば恋だの性だのに関係するページはイヤというほど出てくるし、内容はともかく、まあ少なくとも、それだけ多くの人間の関心事になっているということはよく分かる。私自身も興味がないというわけでもないし、これがタブーだというつもりもさらさらないのだが、あえて勇んで書くようなこともあんまりないような気がする。

どうしてだろう。そもそも、こうしたことは一般論からもっとも遠い分野で、政治が公的(パブリック)な領域での話であるとするならば、性事はもっとも私的(プライベート)な領域の事柄のように考えているからかもしれない。それに加え、たぶん私個人の価値観が多分に含まれていると思うのだが、恋や性は「ひめごと」であり、それをあからさまに語ることに、ある種の興ざめを覚えてしまうからじゃないだろうか。

「隠れて生きよ」といったエピクロスや、「秘すれば花なり」といった世阿弥ではないのだけど、色事の醍醐味は、人知れず思い初めるドキドキ感と、忍びながら心乱れる葛藤のその狭間あたりにあると思うのでありますね。そこにくるとあけすけでコンビニエントな性愛至上主義ってのはなんてんですか、野暮の極みといった感じですな。「秘せずは花なるべからず」であります。いっけんアナクロの忍ぶ恋こそが、身体論も精神論も超越するめくるめく愛執と情念の世界を・・・。やっぱ、どうでもいいっちゃどうでもいいのだけどね。


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