心の限界

[KOK 0214]

20 Dec 2002


一人の人間ができることなどたかがしれている。そしてほとんどの人は自分が生きるだけで精一杯だ。なのに・・人間は身体的な限界を超えた巨大な力を軽々ともてあそぶ。

そもそも「生物としてのヒトの能力」とはいったいどの程度のものなのだろう。人間は持てる能力を使ってなにができるのだろうか。

こくら日記191で私は「関係性のインターフェース」の話を書いた。簡単にその概略をまとめると、人間はせいぜい100人の集団で群生活をしながら狩猟採集社会をつくる程度の認知能力しかもたず、その認知能力を超えた複雑な世界を理解するためには、いわば思想的なインターフェースとも呼ぶべき「想像の体系=イデオロギー」を利用するよりほかない。そして、こうして創られたいわば構成的虚構の一種であるインターフェースは、インターフェースであるがゆえに本質的現実と直結しており、それを恣意的な想像として単純に相対化してしまう行為はきわめて危険である。そんな話である。

ちょうど同じころに「世界がもし100人の村だったら」という物語がインターネット上で流行した。なぜこの物語がこれほどまでに人々の心を捉えたのだろう。おそらく「100人」の村というところにひとつの鍵がある。人は、50億をこえる人間を想像することすらできないけれど、100人であれば、リアリティを感じることができるのだ。

100人というのはちょうどクラス2つ分くらいの人数。そしてそれは、人類の進化の過程でもっとも多くの時間を費やした共同体の人数に相当する。

夏休みの間、進化心理学を中心に人類と進化に関する最近の研究成果を集中的に読みあさった。人間の認知能力の限界と、その「性癖」あるいは「傾向」のようなものを知りたかったのだ。

小倉北区城野の町民館
小倉北区城野の町民館

進化の視点から見えてくるのは、身体的にも精神的にも霊長類的な資質を引きずりながら、そのなかで精一杯の跳躍をしようとしている人間の姿だ。

たとえば、人はごく自然に他人に同調する。人は世界に対峙したときに自己の信じる真実を守りつづけるどころか、むしろ簡単に多数にあわせてしまう。この同調性は生得的なものであり多分に無意識的である。誰かを不安にしてその意見を変えさせるには、彼を含めた4人のうち残りの3人に反対意見を言わせれば十分だ。もし利害関係や罰則がなくさらに匿名性が保たれるのであれば、多くの人が残りの3人に逆らうよりは自分の意見を曲げる方を選ぶ。

そして子供の発達についての説明でも、これまで考えられてきた因果関係が逆転される。子供の社会化とは、他人と同調する能力を身につけていく過程ではなく、むしろその逆で同調性を遮断し制御する過程である。同調する能力は教育によって獲得されるものではなく、生まれつきそなわったものである。考えてもみてほしい、そもそも人は「教育」ではなく、同調能力によって言葉を話し始めるのではないか。

なるほど、だから多数決という乱暴な決定方法が合理性を持ちうるのだ。だから教育は模倣し同調する能力をむしろ削っていくことになるのだ。だから踊りや歌におけるシンクロナイズは無垢の象徴となりうるのだ。

小倉南区民家の壁
小倉南区民家の壁

人は自分がかかわる損得関係(あるいは貸借関係)にことのほか敏感である。論理的な記号操作能力。豊かな感情。強力な記憶力。これらの心の働きとは、いわば他社関係において致命的な損をしないために発達した能力と言い換えることができる。

ここでも因果関係が逆転しているのに注意してほしい。感情や知的な能力の進化のおかげで損得関係に敏感になったのではなくて、損得関係に敏感になるために感情や知的能力を進化させたのだ。その証拠に、抽象的な題材と自分の生活に関係深い題材を比較して同じ論理的操作をさせると、どういうわけか後者の成績が有意に高い。論理性や記憶力はそれだけが独立して進化したのではなく、現実の生活と強く結びついて形成されているのである。

人は小さなコミュニティの中で自分の生活条件をより有利にするために(究極的にはより多くの子孫を残すためとなるのだろうが)頻繁に利他行動をおこなう。しかしこの利他行動は一方的な自己犠牲ではなくどこかで収支が合わなくてはいけない。相手に嘘をつかれたりただ乗りされたりしては、せっかくの利他行動がかえって自分を不利にしてしまう。

「見返り」という言葉をつかうとどこか即物的なものをイメージしてしまうが、名誉、尊敬、感謝、負い目、好感度なども重要な見返りだ。社会的な動物である人間にとっては、そんな見返りが生死を決めることもある。

論理力や分析力は未知の事態に対応するために発達し、なんども繰り返されたり頻繁に起こりうる事態であれば感情が対応する。人間の心の働きとしての理性と感性は、そんな使い分けがなされているのだろう。

人の豊かな感情は、損得関係の記憶を強化させるための重要な装置である。たとえば好嫌はもっとも原初的な感情だし、善悪は高度に社会化された感情である。人は快感にしたがい不快感をできるだけさけようとするし、規範を破るときに感じる後ろめたさや罪悪感は理屈をこえて行動にブレーキをかける。そして感情とむつびついた記憶はなかなか消えない。

とくに「嫉妬」はこの損得関係に複雑にからみあうきわめて人間らしい感情である。あるいは相手の心の能力に依存した「信用」という感情は、間主観性という形での他者・自己意識の進化を前提とするだろう。「嫉妬」も「信用」も理性だけでコントロールするのはとても難しい。

そして私自身が今一番興味があるのは、こうした互恵性を成立させるための記憶装置の外在化である。あるいは記憶装置の社会的インターフェース化である。

心の進化により、一定の社会関係の中で長期的な決済が可能となった。こうした収支決算はしばしば世代にまたたがって遅延される。さらにその関係は、共同体の枠を超えより広い地域に拡大され、その場限りの一時的な関係にまでおよんでくる。すると個人の心の能力だけでは処理しきれなくなる。

ここで使われるのが論理的能力の結晶ともいうべき言語や貨幣の利用である。私は、これら社会的な道具が、内在化された記憶の補助装置として脳の外部に形成され発達していったのではないかという前提で言語や貨幣を再考してみたいのである(こくら日記203「記憶装置としての貨幣」)

八幡東区の自然史博物館
八幡東区の自然史博物館

政治とくにパワーポリティクスの世界でも、進化的な制約を随所に見ることができる。

たとえば人はどういうわけかリーダーを求めてしまう癖がある。他人や人の姿をした超自然的存在にカリスマを感じ、おそれ敬い、追従する。そして、こうした権力関係は、しばしば「家族」の比喩で説明される。つまりリーダーは「親」、従うものは「子」として表現されるのだ。

共同体や組織も家族にたとえられる(やくざの世界なんかもね)。国家という概念には文字どおり「家」のメタファーが隠されている。われわれが集団内関係や集団外関係を理解するために使う手法は、集団の大きさにかかわらず、きわめてシンプルな「家族関係」の枠組みを超えていない。

それもこれも人間が集団を認識する能力に限界があるからだといえる。おそらくどんな優れた頭脳を持つ人でも100人以上の複雑な関係性を完全に把握するのは困難だろう。さらにその利害関係を解きほぐし調整し一定の妥協点を見つけ出す作業はほぼ不可能に近い。

そこでわれわれは代表に自分の意志を委託するという手法を用いる。事前に念入りな根回しをし、意見を集約し、徒党をくむ。いわば連合や同盟関係がつくられるのである。やがてもともとの母集合の大きさとは関係なく全員がせいぜい10組以下のグループに分類され、そうしてようやく互いの意識の違いを把握し、妥協点を探るための議論に入ることができる。(あるいは戦いが始まる)。

どんなに人数が多くなって規模が変化しても、結局は先史時代の共同体で家族間の葛藤を処理するために発達させたやり方からほとんど変わっていない。認知能力の進化は社会のサイズの大きさにまったく追いついていないのである。

門司港の民家の壁
門司区民家の壁

ときに家族のメタファーは法律や道徳をふくむ社会規範や政治的判断ののモデルとしても登場する。大衆演劇やハリウッド映画を見るまでもなく「家族の情」は人々の心を大きく揺さぶる。生き別れ再会物語は感動と涙の定番であり、似たような話が何度も焼き直されて演じられる。

巧妙な政治宣伝は、一家族の感情に関する問題を国家全体の感情にすり替えていく。世の中に不幸な家族はたくさんいるが、その中でとくに政治的に都合が良いものだけをとりあげて世論を誘導する。こと家族の物語となるとわれわれはまるっきり弱いのだ。簡単に自己同一化して感情移入させ、どこかの誰かに誘導されているなんて思いもよらない。

たとえ何かの意図に気づいたとしても、それに対してあらがうのは至難の業である。どんなに合理的な判断といえども、情の嵐の前では無力である。なにしろ家族を用いた説明ほど「わかりやすい」ものはないのだから。反対するやつは非国民、おっと、人でなしである。

家族のメタファーにおいては、しばしば親であるリーダーの個人的な判断が、組織全体の判断とすりかえられる。代表の判断は決してメンバー意見の最大公約数ではない。代表はロボットではないのだ。それどころか、むしろわれわれは代表(親)に人間としての強い意志を期待しているではないか。

父親の恨みだかなんだかわかなないが、ブッシュという人の個人の意志や感情が、アメリカや「世界」を代表してしまう奇怪さ。しかし、このほうがむしろ自然だと感じてしまうのはなぜだろう。

そして、たとえ私が個人として北朝鮮のだれか個人にまったく何の恨みも持ってなくても、日本人としての仲間意識に従って相手のリーダーに嫌悪感をいだき、さらに彼を懲らしめるという名目で、結果として相手国の誰か別の(たくさんの)個人を飢えで殺してしまうという事態をどう整理して考えたらいいのだろう。

100人ほどの集団で家族単位で生活している時に、「親」の判断を「家族」の判断と同一に見なすのは、さほど大きく間違ってはいなかっただろう。しかし、それと同じことを100000000人以上の集団でもやってしまうのは、あまりに乱暴すぎる。1人の人間を殺そうとする感覚と1万人の死を決定する感覚に、どれほどの違いもないというのは、システム上の欠陥ではないだろうか。

門司区廃墟の漆塗箱
門司区廃墟の漆塗箱

さて心の進化と現代社会について、まだまだ考えてみたい問題はあるが、長くなってしまうので、簡単に列挙だけして詳細は別の機会に譲りたい。

自分に都合が悪いことは忘れやすい「健康な」楽観性。

自分のものと相手のものを区別する境界線の場所、所有という概念。

整然とした日本の通勤列車のように、他人の存在を遮断し無関心になること。

敵(獲物)と味方(ペット)に対する180度逆転した意識の違い。

一つの言語は楽々習得できるのに、複数になるとせいぜい数種以内の異なる言語しか内在化できない言語能力の限界。

生物学的性差とその文化的変容。

若松区水田の案山子
若松区水田の案山子

たしかに生物学の知見を安易に人文社会に応用するのは危険である。しかし現実の社会の方が個人の生物学的能力に深く依存していることが明らかな以上、それを批判するために生物学を持ち出すという手法は有効だろうとおもう。

そしてこれはけっして生物学還元主義や生物本質主義ではない。むしろその逆だ。目指すべきは還元的な説明ではなくて、こうした基盤の上に新しいものの見方をどう「構築」すべきかということである。

巨大な社会システムに挑む個人の人間の姿は、まるで洪水にたちむかうちっぽけなアリのようだ。たとえどんなに強いアリでも、洪水のときはどう逃げるかをかんがえるべきだろうに、弱いアリが逃げようとする一方でマッチョなアリは洪水に立ち向かおうとする。洪水を前に両者の違いなど違いではないにも関わらずだ。その滑稽さを考えてもみよ!(体がマッチョな人は考え方もマッチョだという俗説は、この際まったく笑えない冗談だ。)

こうした「滑稽」な人間の性癖は、過去の小さな社会(そしておそらく現在も身近な人との関係)において十分適応的であった。そう、ジャイアンとのび太くらいの関係ならばそれでいいのである(マッチョなジャイアンは、マッチョにふるまう)。しかし問題なのは、こうした癖が国家や民族などのさらに大きな「幻想の想像体」まで敷衍されてしまうことだ(マッチョなリーダーを持つ国家がマッチョにふるまう)。

いちどきに数万人の人を殺せるようになったのは、ごく最近のことである。長い人類の歴史の中でこれほどの殺戮が繰り返された時代はない。だれがいったいそんなひどいことをしているのか。悲しいことに私がそれをしている。たぶんあなたもしている。しかし私と世界を関連づける因果関係を、まったく「想像もできない」という点がまさしく悲劇の悲劇たる所以なのだ。

これまでの西欧哲学の最大の欠点は、人間の思惟や知性を万能だとみなした点なのではなかろうか。小さな社会であればそれでも良かった。人間の合理性や道徳観について、現実への適応との根源的な整合性まで疑う必要はなかった。しかし今や世の中で実際に起きていることは、人間の生得的な感覚と整合しなくなっている。

心の働きは体の働きと同様に万能ではない。知性や感情には生物学的な限界がある。これは決してあきらめやひらきなおりではない、ましてやニヒリスティックな悟りでもない、むしろ社会科学における新しい思索の出発点だと考えてみたい。

門司区山中の石仏
門司区山中の石仏

参考文献
人類進化再考/黒田末寿(ISBN:4753102106)
約束するサル/小田亮(ISBN:4760122761)
心の進化/松沢哲郎(ISBN:4000053817)
進化と人間行動/長谷川寿一(ISBN:4130120328)
感情の猿=人/菅原和孝(ISDN:4335000529)
女の能力、男の能力/ドリ−ン・キムラ(ISBN:4788507706)
意識する心/デイヴィッド・J.チャ−マ−ズ(ISBN:4826901062)
自分をつくりだした生物/ジョナサン・キングドン(ISBN:479175364X)
ホミニゼーション/西田利貞(ISBN:4876983321)
マハレのチンパンジ−/西田利貞(ISBN:4876986096)
ことばの起源/ロビン・ダンバ−(ISBN:4791756681)
心はどこにあるのか/ダニエル・C.デネット(ISBN:4794207875)
想像の共同体/ベネディクト・アンダ−ソン(ISBN:487188516X
イヴの七人の娘たち/ブライアン・サイクス(ISBN:4789717593)
いじわるな遺伝子/テリ−・バ−ナム(ISBN:4140806605)
脳は美をいかに感じるか/セミ−・ゼキ(ISBN:4532149606)
文化の起源をさぐる/ウィリアム・C.マックグル−(ISBN:4521010016)
性・死・快楽の起源/蛭川立(ISBN:4571510047)
彼岸の時間/蛭川立(ISBN:4393291514)
新不平等起源論/アラン・テスタ−ル(ISBN:4588005057)
文化生態学入門/西山賢一(ISBN:4826502818)
ギフト/ルイス・ハイド(ISBN:4588490206)
人はなぜコンピュ−タ−を人間として扱うか/バイロン・リ−ブス(ISBN:488135860X)
インタ−ネットの心理学/パトリシア・ウォレス(ISBN:4757140274)

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※この「こくら日記」は、都合により順序を入れ替え加筆のうえ12月20日に発送されたものですが、ホームページ掲載にあたって通番どおりに配置します。

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