うそっこのほんとう

[KOK 0186]

17 Oct 2001


現実を「知る」ためのノート。

塔

「うそっこのほんとう」。これはごっこ遊びに興じるときの子どもたちの造語である。

「これは、うそっこのほんとうだからね」といったとたんにぬいぐるみのカンガルーは話し始め、ミニカーは本物のバスになり、ふたりは、玩具の国の住人になる。

人間は、3才にも満たないうちから現実と虚構をいきかう能力を身につけている。

そこで「あらゆる現実は虚構である」という言説について考えてみた。これは、正しくは「ある虚構は現実になりうる」ではないだろうか。

儀礼や呪術はたとえ虚構であるとしても、同時に極めて強固な現実である。

仮に「現実」は「虚構」なのだとしても、だからといって「現実」の特殊な地位をないがしろにできない。ある人にとって「特定の現実」とは、ほかの虚構とは違う「特別な虚構」と考えた方が良くないか。

塔

そしてそもそも、虚構から現実がつくられるのではなく。現実から虚構が気づかされるというべきではないだろうか。

動物には虚構があるだろうか。擬態やディスプレーは、彼らにとって虚構だろうか。いいや、たぶん現実だ。

ディスプレーによっておのれの優位を表現するとき、見た目の美しさや大きさは、実際の力の差(環境に対する適応能力)を反映して「いない」かもしれない、しかしそれはそれでも全く構わないのである。それを虚構などとは動物たちは決して思わない。(そしてそれをもとに選択がおこなわれれば、サーベルタイガーやオオツノジカのようなことが起きるのだろう)

彼らにとっての現実とはディスプレーの中にしかない。もしそのディスプレーが通じないのなら、それは虚構ではなくて非現実(無意味)なだけである。

チンパンジーには虚構が解るのだろうか。政治好きなチンパンジーならすこしくらい解るような気もする。

玄之介の切り絵

虚構と嘘はちがう。

つまり「うそっこのほんとう」は、「うそ」ではなくて「ほんとう」なのだ。(「ほんとう」とは、ここでは「真実」の意味ではなくて「現実」の意味でつかわれている。要するにそれは「まぎれもなくほんとう」な「ほんとうらしさ」である。)

ここで事実(fact)と現実(reality)と真実(truth)の関係を整理する。

事実。起きたことそのもの。しかし観察者としての文化的あるいは生物学的バイアスが、排除できないために、しばしば事実と現実の境界は曖昧である。(ハイジャックされた旅客機ビルにぶつかった)

現実。事実に対するひとつの合理的な解釈。(これは自由と民主主義に対する挑戦である)。

真実。事実を引き起こした究極の理由(テロリストがやったに違いない。あるいは、もしかすると、第三諸国の悲惨な生活という真実を唱える人もいるかもしれない)

事実は無限にある(煙が出た。天気は晴れ。鳥が飛んでいた。月齢は・・・)。しかし人々は意味のある事実のみを現実として選択し、真実をさぐろうとする。

いや特定の事実に意味があるかどうかは、あらかじめ決まっているものではない。そもそも解釈のない事実には意味(現実性)がない。(解釈とは意味づけであり、)現実とは意味のある(あるいは意味を持った)事実のことである。

数多くの事実をもとに、現実という解釈の束がつくられ、隠された真実が発見される(経験論的帰納)。そして、発見された真実からふたたび現実が再構築される(合理論的演繹)。しかしいずれの場合も事実は変わらない(変わるべきではない、もし事実が捏造された場合、それは「嘘」となる)。(わかりやすく対応させればこうなる。事実−嘘。真実−誤謬。現実−虚構。)

ところで、真実の(わから)ない現実は(いくらでも)ある。(人が見る世界は現実にあふれている。)

(妄想や幻覚や夢のように)事実のない現実もある。

真実はいわば法則のようなものであるが、真実と現実の切り離すのはむつかしい。(客観性?再現性?検証性?)

ときに現実は事実よりも強固である。あまりに見慣れない事実は、現実だとは思われない。(非現実的な光景)。よくできた現実は事実よりも支持される(リアルな映画)。

登校

そしてここで、再び、現実と虚構の関係について考えてみる。

「あらゆる現実は虚構である」という言説は、すぐれた知恵でも発見でもなく、まったく無力な「政治的」主張であり、したがってあるいみ危険ですらある。(ついでにいえば「ウヨク・サヨク・オウム・キチガイ・主義者・正義・悪」など、あるリアリティ=現実を永遠に固定化するようなレッテル張りは、それ以上に無意味であり危険である。・・・どうしてもそういうのが好きな人には「レッテル君」というレッテルを張ってあげよう!)

いかにもっともらしく美しい言葉で飾られていても「すべての現実」は「虚構」にすぎない。でも、それだけではまだ不十分。さらに踏み込んで「虚構」にすぎないものが「時として現実」である、とすべきである。

人間の認識は、つかみ所のない虚構の世界を恣意的に切り分けながら現実化しているのではなくて、認識世界はもともとすべて現実(=世界そのもの)であって、人間もふくめすべての生物はその現実なしには世界を生きられない。

登校

現実は便利である。(視覚における錯覚が、日常の空間認識において非常に役に立っているのと同じ意味で)現実は役に立つのだ。

「時速100キロで走っている車にぶつかると死ぬ」という言説を、とりあえず虚構とよんでもいい。しかし実際にはこれを現実としておいた方が、生きる上では(たぶん)安全である。現実とはその程度に有用なのである。

事実から現実が生まれる背景。フロイトのいう、投影、置き換え、昇華、圧縮、抑圧、理想化、代用、合理化、否認とは、人が無意識のうちに現実を造り出すメカニズムをさす。夢や空想やイデオロギーもまたこうした現実のあらわれの一つである。

おばけ

ポジティブシンキング=すばらしき現実。なぜか人間は現実を疑うことができる、そして別の現実をあらたに造り出すこともできる。現実逃避もまた一つの現実である。

もし必要であれば「時速100キロで走っている車にぶつかっても私は死なない」そう考えることだってできる。たとえば来世を信じる人にとって、この言説は確かな現実になりうるだろう。

そうして、実際に車に体当たりしていく人もいてもおかしくない。その人は(その人「的」には)決して死なない。(死んだ先の自我のゆくさきなんて、どうせ検証しようがない・・・そもそも自我の存在自体、検証しようがないけどね)。

ひとは現実にしがみつく。現実離れした風景(事実)を受け入れるくらいなら、風景(事実)の記憶を消してしまう方がてっとり早い。石に見事に擬態をしたタコは、それを見るものにとってはタコではなく石なのだ。

現実は虚構であるかもしれないと疑うのことができるのは、たしかに人間の優れた能力だ。「うそっこのほんとう」つまり虚構を現実に変えられるのは、実はその能力のおかげでもある。しかし、疑ったところで人間はなにかの現実から逃れられるわけではない。現実以外に人が生きる場所はないからだ(たとえそれが妄想という現実であっても)。

kick

ここでいったん、筆を変えよう。

あるサイトをみていたら、今回のアメリカでの事件を評して「みんなで楽しくダンスをしていると思っていたら、実は足下で裸の赤ん坊たちを踏みつけていたのだ」という表現があった。

さらにこの物語を続けてみる。中でもひときわ派手に踊っている男の靴に、瀕死のひとりの赤ちゃんがかろうじて噛みついた。ダンスを邪魔されたその男は怒り狂い、赤ん坊を見つけだし殺すという。

クラブの中は一時期騒然としたが、といって、みなダンスをやめるわけではない。それどころか、かえって前より強く赤ちゃんたちを踏みつける。クラブに赤ん坊を連れてきたのは誰だ?いや違う、このクラブは赤ん坊でも子供でも入れるのだ。はいった以上みな踊るのだ。「あの赤ん坊はおれ達のクラブハウスを台無しようとした」男は(なおも踊りながら・・・)こわだかに主張する。

kick

さて、この物語を現実だと感じる人もいれば、そうは思わない人もいるだろう。そう、すでに述べたように現実は一つのフィクションだ。

現実は日常の経験(事実)から生成される。われわれは本来、自分と自分の身の回りのことしか興味がないようにできている。それが、まあいってみれば自然なの だ。

だからたとえば自分自身や自分の親しい人の死はわれわれにとって特別な事である。それがどんな死に方にせよ、その死はわれわれに「現実的」なショックをあたえるだろう。

しかし、この「現実」はいつの間にか実際に自分が経験するはずのない広い対象にまで拡大されていく。テレビの映像で見たにすぎないない衝撃的な風景の中の人々。そしてテレビですら見ることのできない病人や幼子をかかえる難民達。こうした彼らの死まで、あたかも「身近な現実」のように「共感」をおぼえてしまう人がいる。

愛国心を訴える人々も、戦争反対を唱える人々も、どちらも「現実をつくることができる」という人間の特殊な能力に依存している。こうした虚構は、さまざまな物語を伴いながら人々に現実味をあたえていく。

いうまでもなくこれらの現実は、意識的につくられることよりも無意識的につくられることの方が多い。だからもちろん本人は「つくられた」などとは思っていない。本人にとっては現実は現実以外のなにものでもない。

誤解を与えそうなのでここで念のために申し添えておくと、ニューヨークのビルの崩壊や今日も死に直面している難民の存在が、「事実ではない」といっているわけではない。事実であろう。事実ではあるが、もしかするとある人にとっては「現実ではない」かもしれない。

kick

自分と自分の身の回りのことしか興味がない人を責めてはいけない。だれだって多かれ少なかれそうだろうし、そこから始めないと重奏する物語にふりまわされるばかりで道が見えなくなる。それに、これだけで手いっぱいという人だってたくさんいるだろう。

どんな物語にリアリティを感じるにしても、自分の身の回りの経験(事実)はすべての基本である。要は、その狭い現実どこまで想像の力をかりて広げられるかというはなしである。

人間は3才にも満たないうちから「うそっこのほんとう」遊びができる。

【付録:虚構をための考えるページ】

このごろの人にとっては「ぼのぼの」だが、ぼくにとっては「ネ暗トピア」の作者、いがらしみきおの新作「Sink」 の第8話がアップロードされた。面白い。

ブリテン島萬報一年ぶりに更新しました。これをもって、マーケットの項目以外はほぼ完成です。

それでは最後にここで質問。「世界でもっとも破壊的な動物・・ってなーんだ?」答えはブリテン島萬報のどこかにあります。

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Takekawa Daisuke