市場競争と個人主義

[KOK 0157]

29 Apr 2001


以下の文章は「自由と個人主義の問題を考えるために、ホームレスと日雇い労働についてフィールドワークをしたい」というゼミ生のために書いたひとつの問題提起である。もともとネット人類学ゼミに投稿する記事だったが、せっかくなので「こくら日記」読者諸氏にも議論を投げてみたい。

「自由」ってなんだろうといろいろ考えてみた。これから2回にわたって、ふたつの側面から「自由」を考えてみたい。まず、話をはじめるにあたって、もし「自由=いいもの、不自由=わるいもの」という先入観があれば、それをいったん忘れてほしい。

経済学の用語では、規制緩和と自由化はほとんど同じ意味らしい。

「こくら日記」では、これまで何度もNTTを例にあげ、日本の通信サービスの遅れを指摘してきた。ちょっとしつこいくらいに。不思議なことに、そのたびにNTTの関係者と称する人から反論の返事が来た。しかも毎回違う人でおおむね文面は丁寧なのだが、これまたちょっとしつこいくらいに。

たとえば「料金が高すぎる」ということに対しては、「利用者は納得している。高いと思うなら使わないという選択も可能である」「現実的に市内電話は赤字であり、コスト的には現状が精一杯である」とかそんな感じの反論である。

こんなメールをもらうたびに「NTT関係者は創価学会員みたいにいろんなところにいるもんだな、下手なこと言えないな」と感じていた。もしかしたら組織的に対応マニュアルというのが用意されているのかもしれない。

それはともかく、出国直前まで日本は「マイライン」というので大騒ぎだった。といっても内実はたいしたことではない、「電話番号の頭につける業者指定の数字がいらなくなる」というただそれだけのことである。どこの業者と契約してたところで基本料金はこれまで通りNTTが持っていく。それでも、たったこれだけのことで、連日連夜のCM合戦、みるみるうちにどんどん通話料が下がっていった。

おいおい、それなら今までの価格は何だったんだよう?末端の社員には、まるで役所の窓口のような回答を指示しておきながら、上の方ではさっさと値下げを決めてしまう。これでは末端社員の立場がない。

話がずいぶん回りくどくなってしまった。マイラインはあくまでほんの部分的な自由化ではあったがそれなりの変化が起きた。

日本がおそらくモデルとしているイギリスの自由化は、さらに徹底している。さまざまな分野で独占が排除されており、そのおかげで鉄道なんかはかなり混乱している。(同じ線路を複数の会社がシェアしており時刻表が複数あったりする。)電話でもスーパーでも路線バスでも、おもしろいように二つ以上の会社が競合する仕組みがつくられている。

いうまでもなく自由化の最大の焦点は料金設定である。オックスフォードでは並行して走る二本の道でもバス料金が違う。他の会社と競合し、より交通量が多い道は安く、利用者の少ない路線は高い。割引のシステムも複雑で、しょっちゅう新しい制度がつくられるから、会社の人ですらちゃんと把握していない。

[kok0088]の新権力論ですでに書いたように、成熟した資本主義社会にとって寡占はいわば動脈硬化のようなものである。イギリスでは独占が起こらないように行政が意図的に介入しているのである。

ところで自由な競争を促すためにおこなうこうした介入は、別の形の新しい規制なのだろうか。たぶんそれはちがう。両者には根本的に異なる点がある。

自由化がめざしているのは「なにをしてもよい」という世界ではないらしい。すなわち「すべての規制を取り払うとことそのもの」に目的があるわけではないのだ。だから皮肉なことに自由化によって企業活動の負担が増えることだってある。たとえばNTTはこれまで好き勝手にできた商売が、自由化によってかえって「不自由」になった。

自由化の最大の目的は、十分な機会をあたえ公平な競争をおこなうという点である。競争を前提とした介入は、保護を前提とした護送船団方式の規制とは性質も方向性も違うのである

さて、ここでようやく経済学の話からはなれ、もうすこし一般的な「自由」の概念について考察を移そう。

「自由には義務がつきものである」という表現をよく聞く。これはもっぱら「お説教」のフレーズとして使われることが多い。しかし義務を無条件な前提のように語っている点でこの言い方にはいささか矛盾を感じる。これはむしろ「自由には責任がつきものである」と言った方が正確なのではないだろうか。「責任」すなわち行為の結果を自分で引き受けなければならないという、いわゆる「自己責任」である。良くも悪くも自業自得というわけである。

さらに「自由というのは不安定なもので、不自由こそむしろ安定である」という説明は、「自由というのは動的なもので、不自由は静的である」と言い換えた方がさらにわかりやすい(たとえば「拮抗」のような動的な安定があるかもしれないから)。

近代社会が希求する自由とはいったいどんなものなのだろう。

ジェンダーに対する自由。人種に対する自由。これらの要求はなにかの障害や不当な扱いにたいする異議申し立てである。しかしそれは、決してジェンダーや人種を捨てたいという要求ではないはずだ。むろん、このたぐいの「誤解」はさまざまなところにはびこっている。しかし、考えてもみてほしい、もし人種からの自由が、人種をすてなければ実現できないのであれば、その思想はまるで整形手術で黒人を捨てたマイケルジャクソンのように醜い姿を露呈するしかなかろう。

そうではなくて、たとえジェンダーや人種は歴然と構築されていても、それが社会的な不公平に結びつかなければよいわけだ(もっとも、こうした社会的な枠組みそのものが現実の不公平さと根強く結びついている可能性は十分に検討されなければならないが)。

その意味で近代社会における自由は必ずしも枠組みを壊さない(「脱構築」というのはいわば「読み替える」ということで「壊す」という意味ではないらしい)。十分な機会をあたえ公平な競争をおこなればそれでいい。そして、そのうえで「市場」とは、出自を異にする者たちが競争によって自由を実現する場所であると定義できる。

別の例からもう少し説明しよう。「平等」という言葉がある。この言葉を、あらゆる違いを平準化した同質的な状態であると理解する人は今や少数派であろう。そんな社会がはたして幸せなのかどうかも疑問である。むしろ、われわれはこの言葉を「機会の平等」という形で理解している。「彼と私の社会的地位は違うかもしれないが、そこに到るまでの機会が平等に与えられたのあればそれはしかたがない」という意味での平等である。

いうまでもなく、これは先ほどの自由の議論と全く同じである。市場社会に住むわれわれはすべてを同質化する完全な平等を望まないのと同様に、あらゆる枠組みを壊すような完全な自由を求めてはいないのかもしれない。

大切なのは「(偶然や個人の能力の差を補完するような)十分な機会と公平な競争」である。たしかに複雑な社会関係のあらゆる局面で、これを実現するのは困難を要するだろう。しかし肝心なのは方針で、方針さえ決まればそれはクレームの正当性を主張するための根拠となる。

ところで、ここでどうしても確認しておかなければならないことがある。それは、こうした「自由な世界」というのは、状況としてかなりシビアなものであるという点だ。

市場社会において、われわれが異議を申し立てられるのは、与えられた機会が不十分であり競争が不公平であるという場合に対してだけである。そしてたとえミスや失敗が原因であっても、結果として与えられた不遇に対するクレイムは認められない。下手をすればやぶ蛇で、持っているはずの能力を発揮せず、与えられたはずの機会を看過したことの責任を問われかねない。ただし、結果に対する責任を引き受けた上であれば、ふたたび市場に参加する道は閉ざされていないのだが(見方をかえればこれこそ市場社会のしたたかさともいえる)。

繰り返すが、あらゆる人に機会を保証し競争を公平化するためには、厳密なハンディキャップの設定が不可欠である。しかし一旦こうした社会的な保証を与えた先は、すべて個人の自己責任ということになる。したがってこういう社会関係を成立させるには、責任の所在としての「自立した個人」の存在が必要条件である。個人主義と自由の切っても切れない関係がここにある。

さて、それでは「こういう社会で怠け者の自由や堕落者の権利はないのか」というと、必ずしもそういうわけでもない。結果に対する自己の責任において堕落する事も可能である。しかし、当然それによる不利益も引き受けなければならない。市場社会はいかなる特権階級も認めない。この原則を厳密に運用すれば、たとえば親からの支援や少なくとも遺産は、できるかぎり社会全体で再分配されるべきという考えもでてくるだろう。

こうした市場的自由に対して、既得権を主張し、特権的な保護を要求するのがいわゆる保守主義である(不幸なことに「大金持ち」と同時に「怠け者」もここにふくまれてしまう)。不安定な市場に自分自身を投げこむよりも、現在ある安定的な地位を維持したいという根強い願望が保守主義の背景にある。

そのためには多少の不満や不平は目をつぶる(いろいろと当たり障りのない文句は言うのだろうけど)。また自分に責任がかかることをおそれ、他者、たとえば強力な指導力を持った政治家に自己の潜在的な願望を投影するという傾向が見られる(こうした「自由からの逃走」や「他人志向型」の価値観こそが、ファシズムの揺籃になるという指摘は別の機会にあらためて)。

こうした保守主義に対して、ここまで述べてきたシビアな自由主義は、あらゆる外部や他者を巻き込んでいく暴力的なシステムでもある。こうした個人主義に立脚した自由は、たとえば経済や学問など進歩主義的な世界では有効に機能するだろうし、実際にそれを求められる(うちのゼミのようにね)。しかし、これをあらゆる社会関係に応用するのには、さまざなま困難が予想される。

あらゆる人の公平な社会参加を求める自由主義の立場からは、たとえば「病人であってもしかるべき便宜を受け市場に参加することが可能であるべきで、彼らに病人というラベルを貼って不当に社会(競争)から排除しないよう」に求めるだろう。一方、先ほどの保守主義からは「病人というのは保護すべき対象で、自由主義の主張はいわば病人を戦場に送るような乱暴な行為だ」という批判がおきるだろう。

「病人(女性や少数民族でもいい)」というラベルは、差別や抑圧という側面をもちながら、かたや権利主張の方便として、あるいは保護を受ける根拠として、対照的な両方の立場から再構築され強化される。いずれにせよ当事者の「ほっといてほしい」いうナイーブな主張はかき消される運命にある。

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ホーミーをしながら野を歩く

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話が長くなってきて論点が拡散してしまいそうなので、この話はここでいったんうち切ろう。最後にすこしだけ。英語で「自由」を表す言葉は、liberty と freedom の二つがあるが、今回の話で語られた自由は、前者の意味に重点をおいて使っている。すなわち「リベラリズムと市民社会」というのが今回のテーマとなる。次回の話は、どちらかというと freedom に関連する自由についてである。


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Takekawa Daisuke