魚茂

[KOK 0143]

01 Feb 2001


その店は、大学から15分ほど歩いたところにある細い路地の中にあった。店の外には、達筆で黒々と品書きが書き並べられており、旬の肴の間にさりげなく550円の昼定食という文字があった。よく読むとそのすぐとなりには「7品、茶碗蒸し付き」と書かれている。しかし、暗い道に面した入口は、あまり気軽に立ち寄れる雰囲気ではなかったし、散歩好きのぼくが、たまたまその店の前を通るのはいつも昼飯時にはちょっと遅い時間だった。

長い間その店は、ときどきふと気になって思い出してはすぐに忘れる、そんな存在にすぎなかった。しかし北九州にきて3年目も過ぎたある日、偶然店の前を通りかかったぼくは、その店の扉が半開きになっており、中にお客さんが入っているのを発見した。時間はちょうど正午近くでお腹も空いており、好奇心に従うままお店に入った。

店の中は居酒屋風で、周囲の壁には外と同じくきれいな筆文字がならんでいた。白衣を着た大将はけっして愛想のいい感じではなく、ぶっきらぼうに注文をとっていた。「昼定食」とぼくはたのんだ。その声を聞いているのかいないのか、初老の店主は、そそくさとお盆を用意する。それでも店はにぎわっていた。まわりの人はみな「昼定食」をたのんでいた。

昼定食は想像していた以上に豪勢だった。ヒラメの唐揚げと、ほうれん草のごま和え、タケノコの煮物、アサリのみそ汁、茶碗蒸し、漬け物、それにご飯がついてきた。けっして高価な器にもられているわけではなかったが、薬味を利かしたこまやかな味わいが絶品だった。タッパーから取り出されて並べられた漬け物すら、市販のものにありがちな薬くささがなく、ほのかな塩気に野菜の味がしっかりと残っていた。

ぼくはひとり密かに「よい店をみつけた」と喜びながら、550円にしては立派すぎる料理を平らげ店をあとにした。

常連というほどのつもりはなかった、ただときどき、そう、週に一度くらい、ささやかな贅沢を楽しみたくてぼくはその店に通った。日替わりの定食の主菜には、「魚茂」という店の名前どおり、いつも海の幸が用意されていた。ブリの煮付け、タイのあら炊き、アジの天ぷら、ハマチの刺身、うなぎの蒲焼き、ホタテの蒸しもの。大将は相変わらず不愛想だったが、あまり気にはならなかった。食事がうまければそれでよかった。しかし、そうやって何度も通ううちに、その店の客にしては少し歳の若いぼくは、いつの間にか顔を覚えられていたようだ。

大学から近いといっても「魚茂」で食事をとるためには、行き帰りも含めて1時間ほどの昼休みを確保しなければならない。仕事が忙しくて何日も店にいけない日が続いた。やっと時間が空いてひさしぶりに店に行くと、戸をあけてはいるなり大将が声をかけてきた「ひさしぶり、何年ぶりだったかねぇ」。唐突な大将のいいぶりに、ぼくはちょっと棘を感じてしまい、しどろもどろになっていいわけをした「ちょっと、このごろ仕事がいそがしくて・・・。ごめんなさい。でも2週間ぶりくらいですよ」。大将はだまって皿をならべはじめた。

こんなときに、「10年ぶりかねぇ」なんて軽く受け答えができるようになったのは、さらにこの店に数ヶ月通って、ほかの常連さんの顔がひととおり解るようになってからである。初めの頃のぼくは、粋な会話のひとつもできないただの若造にすぎなかった。しかしこのときは、大将がぼくのことを覚えていてくれたことが、なんだかとてもうれしかった。

その日をきっかけに少しずつ大将と話をするようになった。美味しい野菜の選び方、煮物の隠し味の山椒の使い方、素材を引き立てるだし汁の取り方、一日かけてつけた下味のコツ。機嫌がいいときの大将の話はどれも奥が深かった。ときおり自分のことも話してくれた。毎朝4時におきて市場まで行き料理の素材を選んでくること、漬け物もすべて自分でつくっていること、若いころ京都の割烹で修行をし故郷の小倉に戻りこの店を開いたこと、弟子が何人もいたが今はそれぞれ独立していることなど。そんな話をききながら小さな店で料理にこだわる大将の生い立ちを、少しだけかいま見ることができた。

550円の定食ばかりたのむぼくは、けっしていい客ではなかったと思う。しかし、なぜかいつもとても親切にしてもらった。実際のところ大将は、自分が気に入らない客にはまったく容赦がなかった。ときには、せっかく店に入ってきた客を「もう食べるものはないよ、帰って」などと追い出すこともあり、そんなときぼくは、はらはらしながら下を向いて飯をかきこむのだった。

魚茂によく通うようになってわかってきたのだが、大将は二ヶ月に一度くらいの感じで酔いつぶれている日があった。原因はたいていわからない。ただ、お酒を飲んだときの大将は完全に人が変わっていた。けっして酒に強い方わけではないのに、ふらふらになりながらコップに入ったビールをあおり、なんども同じ愚痴を繰り返す。はたから見ているとどこか怖い感じすらした。

しかし、こんな大将も、その大将を慕ってくる常連客も、魚茂という場所はぼくにとってとても新鮮な世界だった。たしかにいろいろな客がいた。昼間からお酒を飲んで大騒ぎをするおばさん二人連れ。やくざとその子分のような黒服の男。スポーツ新聞を必ず読んでいる寡黙なおじいさん。峰藤子のようななぞの美女。しかし店の雰囲気はすこしも嫌ではなかった。大将はぼくが連れてくる学生たちをとても大事にしてくれた。学生たちと「ここに来ると人類学のフィールドワークの勉強になるね」とよく冗談めかして話をした。

おととしの秋、ちょうど自然薯掘りで盛り上がっていたころに、ゼミ生たちとこの店に行くと、めずらしく大将が話に割り込んできた。聞けば大将も自然薯掘りが大好きで、昔は良く自分で掘りに行ったことがあるらしい。自然薯掘りに関しては、まだ駆け出しにすぎないわれわれにとって、大将の話はためになることばかりだった。さっそくその場で、次の日曜日に店を閉めて、みなで自然薯掘りに行く算段が決まった。

それは本当にたのしい会だった。山にはいった大将は年甲斐もなく芋掘り棒をもちながら崖をはいのぼっていった。秋の山は少しひんやりとしてとても気持ちが良かった。いつになくみんなは、はしゃいでいた。結局あまりたくさんの薯は掘れなかったが、集まった全員が食べるのには十分だった。山から戻るとそのまま魚茂に直行し、薯をすり下ろして鍋をつついた。

大将は、「いつでも店を休みにしていいから、こういう集まりを月に一度はやろう」と、うれしそうに提案した。

翌年の春から半年間ぼくはイギリスにいっていた。魚茂の昼定食にくらべると、イギリスのまずい食事は天と地ほどの違いだった。イギリスにいるあいだ中、いつも魚茂のことが気になっていた。しかし、なぜか学生たちはだれも魚茂の近況を伝えてはくれなかった。学生だけでは入りにくい店なのだろうなと、ぼくはそんなふうに思っていた。

数ヶ月ぶりに帰国したぼくはその直後に腰痛にたおれ、結局、魚茂に顔を出すことができたのは12月も近くなった頃だった。大将はとてもうれしそうに歓迎してくれ、「いないあいだは寂しくて店をたたもうかと思ったよ」と冗談をいった。顔色がひどく悪かった。どことなくやつれて見えた。聞けば夏のあいだ2ヶ月ほど入院していたのだという。「でももう大丈夫、元気元気、イギリスでは食べられないうまいものをつくるけんね。毎日来てよ、明日から年末まで特別料理の無料奉仕するけ」とまた冗談をいった。

ちょうどそのころ、ぼくのまわりで、イノシシが一頭手に入るという話が持ち上がっていた。もちろん猟師がしとめられたらの話であるが。ぼくはひさしぶりにあった大将に「今年は腰痛で自然薯掘りにはいけないけど、もしイノシシが手に入ったら必ずお店に持ってくるから、イギリスの土産話でもしながらみんなで食べましょうね」と話した。大将は、たいそう喜んで、「そんなら肉がなくなるまで毎日宴会やね。一週間はお代なしで満腹だなぁ」といって笑った。

それから年末にかけてなんども魚茂にかよったが、大将はいつも体調が悪そうだった。まるで、わずか半年のあいだに10年も老け込んでしまったような感じだった。

年が明けて、ぼくはとても忙しかった。二年生の実習やら、卒論やら、出張やらで学年末がらみの仕事がたまっており、毎日ゆっくり休む暇もなかった。ようやく1月20日になっていろいろな仕事が一段落し、年始の挨拶もかねて久しぶりに魚茂に足を運んだ。

店の中は暗かった。それでものれんが出ていて扉に鍵もかかっていなかったので、ぼくは「おめでとうございます」と声をかけて店に入った。すると、奥から大将が出てきた。一見して普通の状態ではなかった。お酒を飲んでるようなふらふらした感じだった。それでも大将は台所に立つと定食の準備をはじめた。ぼくのあとに2人続けて客が入ってきた。大将はそちらの客に先に食事を出すと、ぼくに「料理はあとで持ってくるから座敷のほうに座れ」とうながした。

いわれるがまま座敷で待っていると、やがて大将は小皿とビールを持ってきた。お金はいらないから飲んでいけという、そして今からとびきりの料理をつくるという。よく見ると大将の口元には血糊がついていた。さきに定食を出された客が、そそくさと帰ると、店にはぼくと大将の2人が残された。大将は、さらにビールを二本持ってきて王冠をぬく。「今日はここにあるもの全部食べていいから」そういうと大将は乱暴に刺身を切り始めた。

刺身を運んできた大将は、ぼくのとなりに座ると、自分のコップにビールを注ぎはじめた。ぼくは「お酒飲んじゃダメですよ」といいながらそれを途中でとめ、大将の手からビンを奪った。大将はそれに逆らうわけでもなく、コップに半分ほど入ったビールに少し口をつけた。

半分うつろな目をしながら大将は、なんどもなんども「『人の和』とはなにか」と尋ねた。「『美味求心』という言葉を知っているか」ともいった。そして、病気や親戚の話をしかけては、口をつぐんだ。「なにかあったんですか」と聞くと、「なにもない」という。そうやって結局ぼくは、2時間くらい大将につき合った。大将はなにか話したそうだったが、なにも言わなかった。そして最後に「明日も特別な料理をつくるから、必ずまたこい」といった。

話し疲れて横になりたそうな感じだったので、あけられたビールをとにかく全部飲み干して、明日また来ることを約束し、ぼくは店をあとにした。

翌日、店の入口には乱暴な字で書かれた張り紙があった。「都合によりしばらくのあいだ休業いたします」。店の扉は鍵をかけられておらず、中には誰もいなかった。そして次の日も、その次の日も、店の電気はついていなかった。

そしてきのう、また魚茂に行った、休業の張り紙が出て一週間以上たっていた。店の中は、やはりなんの気配もなかった。しかし、そのまま帰る気になれず、いっしょに見に来たゼミ生と近くの病院をあたってみることにした。「大石橘広さんという方が、こちらに入院していませんか?」このあたりで一番大きな国立病院の受付で尋ねると、そこに大将はいた。

病院の前で買ったミカンとバナナをもって、病室に入った。大将は最後に店で見たときより幾分か元気そうだが、体が弱ってしまい車椅子を使わないと動けないという。それでもたばこだけは吸いたいと、看護婦さんにずいぶん迷惑をかけているらしい。

ぼくがお店を最後に訪ねた時のことは、なにも覚えていないようだった。大将の記憶はあの日の朝からとぎれていた。そして気がついたら病院のベットの上にいたという。おそらく、ぼくが店を去ったあと、大将はそのまま倒れて、たまたま店をのぞいた人がよんだ救急車で病院にはこばれたのだろう。医者には「肝臓と腸がぼろぼろで、もうすこし遅れていたら死んでいた」といわれたそうだ。

大将は窓の外の冬空をみながら「病気をちゃんと治して、完全に元気にしてから、また店に立つけんね」といった。しかし、すでにわれわれが病室にくる直前に、古い友人とお店を閉め、店の場所を別の人に貸す打ち合わせをすませたのだという。「元気になってまたやるとしたら、新しい店だな」「開店の案内は必ず出すから」「まだ、もうひと花さかせたいな」大将は笑いながらいった。

「結局、シシ鍋つくれんかったなぁ、ごめんな」。ぽつりぽつりと出てくる言葉に、われわれは曖昧にうなずくしかなかった。別にお店なんか出さなくていいから、そう言おうとして、でも、なにも言わなかった。ただ大将の料理を食べたいということを伝えたかった。「それと、もうお酒は絶対にやめやな」たばこはやめられないくせに大将はいった。「大将の前ではわれわれも飲みませんよ」「あかん、それじゃあ、商売にならん」そういってまた笑う。

われわれを見送るついでに、たばこを吸いに出るといって大将の車椅子にのった姿は、とても小さかった。呼び出された看護婦さんは見るからに不機嫌そうだった。この人の料理はおいしいんだよ、さりげなくそう伝えたかったのだが、後ろを押す看護婦さんにとっては大将も単にきむづかしい老人のひとりにすぎなかった

魚茂で集まって食事をしたゼミ生たちの多くは、まもなく小倉を離れていく。20世紀から21世紀の変わり目にはまったく感じなかった時間の流れを、寒い背中にざわざわと感じた冬の一日だった。春はそこまできている。

New▲ ▼Old


[CopyRight]
Takekawa Daisuke