トランスカルチュラル宣言2

[KOK 0132]

10 May 2000


理論編では、考えがどんどん先走り、とにかく書いておきたいことをすべてぶちこんでしまったので、とても濃密で抽象的な文章になってしまった。

具体編では、キーワードの「モード」についてもうすこし具体的に解説したい。たぶん、こちらを先に読んだほうがわかりやすいと思う。

「日本の宗教をめぐる状況って、世界の中でもちょっと特殊じゃないか」という疑問が以前からあった。端的にいえば、クリスマスを祝った一週間後に、除夜の鐘を聞きに寺にいき、その翌日に初詣に神社に出かけるような心性である。あるいは、うまれた時には神社に参り、結婚式はキリスト教で誓い、そして死ぬと仏教で葬られる。

日本人は宗教心が薄いとか、信仰がないとかいわれるが、そのわりには、血液型をはじめとするさまざまな占いやおみくじは、若い人も含めて日本人の心にしっかり根をおろしている。新興宗教もがんばっている。

いっけん、 古来のアニミズムに先祖がえりしたかのようにみえるこれらの「迷信」は、役割や機能はまさに宗教そのものであるが、古来の伝統的な土着宗教とも、中世以降世界を支配した巨大宗教とも異なる、もっと手軽でファッショナブルな信仰である。

日本人はまるで、服を着替えたり、身の回りの小物を取り替えたりするように、日によって、相手によって、気分によって、宗教を取り替える。これはいったいなんだろう。さらにいえば日本では宗教が簡単に商品化されてしまう。どうしてこんなことが可能なのだろう。これを思索の出発点とする。

伝統的でローカルな宗教をカスタムと呼ぶとすれば、キリスト教やイスラム教・仏教のような世界宗教は典型的なイデオロギーである。日本の宗教の状態はそのいずれとも異なる。まるで流行の服装を追うように、手軽に交換される宗教。これを宗教のモード化と呼びたい。21世紀の世界では、やがて重々しい巨大宗教はすがたを消し、カジュアルで身近な軽い宗教が求められるようになるのではなかろうか。そして日本はこの分野では世界の先端をいっていると考えるのはどうだろうか。

「21世紀は、服装・音楽・食生活・道具・宗教・国家・民族・言語・貨幣。あらゆる文化がモード化する時代になるだろう」とぼくは書いた。議論がかなり杜撰になることを覚悟の上で、いいたいことのイメージをつかんでもらうために、それぞれの文化におけるカスタムとイデオロギーとモードの違いを、具体的に列挙してみよう。

【服装】
モード化がもっとも早く進んだ分野のひとつである。たとえば日本における「和服」がカスタムとすれば、背広や制服はイデオロギーである。人民服とか学校の制服がイデオロギーだっていうのは説明がいらないくらい自明だ。そして流行をふくめた根なし草の服装がモードである。フォークロアと称して南米の衣服が日本に受け入れられるのもその現象のひとつである。

【音楽】
土着の民族音楽はカスタムである。カスタムとしての音楽は宗教儀礼や生活習慣と切り離すことはできない。伝統音楽がCDにされちゃったりするとイデオロギーかな。いわゆるクラシックと名づけられた西洋音楽はイデオロギーだろうか。フォーク・ロック・レゲエ・演歌などジャンルの名前を持つ音楽もちょっとイデオロギーくさい。それともすでにモードかな?うーん、難しいな。鍵はロックが反体制かどうかかな。それともロックはもう死んだのかな?音楽がやがてジャンルを失い、なんとも名づけようのない個別的な存在になったとき本格的にモード化する。たとえばコマーシャル音楽はすでにモード化している。

【食生活】
小倉名物ジンダ煮なんてのはカスタムだろうな。お袋の味もカスタム。それがハンバーガーやラーメンみたいになるとイデオロギーである。マクドナルドがいくら世界を席巻しようと、それだけではまだイデオロギーを抜け出せない。「真のグローバル」とインターナショナルは似て非なるものなのである。ハンバーガーは、アメリカの食べ物であるというウリを捨てたとき、はじめてモード化する。

【祭り】
豊年を祈る村祭りはカスタムである。フェスティバルはイデオロギーである。やがてフェスティバルはただのイベントと化し、モード化する。イベントは祭祀としての文脈(コンテキスト)がきわめて希薄である。高円寺阿波踊りとか神戸サンバカーニバルとかね。

【ゲーム】
狩猟はカスタムである。戦争はイデオロギーである。スポーツはモードである。

【トロール】
ニョロニョロはカスタムである。ムーミンはイデオロギーである。スナフキンはモードである。フィールドと研究室を往復する人類学者にとっての異文化は、ひとつのモードである。研究室すらモードである。人類学者は根なし草(ディアスポラ)である。

【日本酒】
その昔、地元でしか飲めない地酒はカスタムだった。とすると月桂冠や剣菱がイデオロギーである。そして地酒ブームいらい地酒は全国に流通しモードとなった。

【情報伝達】
クチコミはカスタムである。マスコミはイデオロギーである。インターネットはモードである。うん、これはわかりやすい。

【オペレーティングシステム】
機種依存OSはカスタムである。MS−WINDOWSはイデオロギーである。LINUXなんかのオープンOSはモードである。とするとマックOSはカスタムか!なるほど。

【格闘技】
相撲はカスタムである。柔道は今やオリンピックの種目なのでイデオロギーである。プロレスはなんでもありって感じだし、たぶんモードである。よくしらんけど。

【言葉】
方言はカスタム、標準語は発想としてイデオロギー、ころころ変わる俗語はモード。この中でいちばん硬直しているのは、いうまでもなく標準語。場所や気分によって言葉を変えるのがカスタムやモードの発想。

【社会制度】
伝統社会はカスタム、民族主義や国家主義はイデオロギー、モードの社会は市場主義?違うような気もする。

【歴史】
カスタムに歴史がなかったように、モードにも歴史はいらない、つねにコンテンポラリー、時間は偶然に過ぎていく。歴史とはイデオロギーの産物。

まあ、異論をのこす分類もあるように思うが、おおまかなイメージはつかめたであろうか?モードは、脱文脈的で代替可能でグローバルな文化様式である。そしてそれは誰にでも簡単に受け入れられ、ちょっとしたスキルで習得できる、いわばカスタムから「おいしい」ところだけ抽出したエッセンスのようなものだ。

モードはイデオロギーではない。日本趣味のフランス人既婚女性が振袖を着る。日本人がタイ王宮料理を食べる。太平洋の島でレゲエとパンクが融合する。そこでは土着の意味や主張は現実と切り離され希薄化される。さらにいえばそれが「本物」であろうと「偽物」であろうと関係ない。モード文化において本物という言葉は飾りもの以上の意味を持たない。アフリカの意匠をとりいれた流行の服を偽物とは誰も思わない。「モードが文化をリアリティから離脱させてシミュラクルにする」というのはそういう意味だ。

数あるテレビの番組の中でぼくが一番嫌いなのが、ニュースの中の野球報道である。ゲームの中継はまだ許せる。しかし、われわれの生活に直接影響があるはずの重要な政治的問題や、現代社会の本質を明らかにするような深刻な事件を報道する貴重な時間をさいてまでも、なぜあるチームが勝っただの負けただの、究極的にはどちらの可能性もありうる、そしてどちらであってもいいような野球の試合の結果を、あそこまで長々と解説するのだろう。

正直に言おう、ぼくは巨人軍が勝ったとおおはしゃぎするニュースキャスターをみていると、馬鹿じゃないかと思えてくる。しかし、たぶんこれはぼくが間違っているのだ。ニュースが現実を伝えるという発想じたい、近代的イデオロギーなのだ。野球のニュースはモードである。ワイドショーもモードである。

先ほど「政治の決定に比べれば、野球の結果など生活にとってどうでもいいことだ」と書いた。それに対し、おそらくこういう反論がくるだろう「そんなことはない、うちの旦那は、ダイエーが負けると機嫌が悪いし、スーパーも安くならない。おおいに我が家の生活に関係する」と。この話を慎重に読み解けば、リアリティの逆転が起きているのを見て取れる。野球の勝ち負けという、シミュラクルな虚構が逆に彼らの現実を創り出しているのだ。

モードに本質なんて求めてはいけない。スポーツが狩猟や戦争がモード化したものだと考えれば、その違いは明白だ。狩猟の結果は今日の食事になり、戦争の結果は明日の命にかかわる、しかしスポーツの結果は、そうした現実世界から切り離されている。にもかかわらず、手軽に現実世界の狩猟本能を満たすことができる。

バイリンガルやマルチリンガルを標榜する人は、言語のモード化をリードしている。昨日はメキシコ人、今日は日本人、明日はインド人、国家がモード化すれば気分によって国や民族を乗りかえられる、売り買いする事だってできる。

貨幣がモード化すれば、さまざまな通貨が流通し、好きなときに好きな通貨を使う。それがどういう意味なのか今のわれわれにはなかなか想像できないが、そういう未来はあるかもしれない。

雑草がはびこる中から有用植物を採集するのがカスタムだとすれば、イデオロギーが幅をきかす現代は、まさにモノカルチャー(単一栽培)の時代だ。そしてモードの時代は公園の花壇みたいなものだ。花壇は多様で美しいかも知れないが、すべて見せかけの生態系である。

モードには根拠がない。だからモード化が進めば一方で、根拠を求めようとする「反動的な」運動が起こるだろう。熱を土着に求めながら、土着を消費しながら、世界はそうやって収斂しゆっくり冷えていくのだろうか。文化はモード化しながら、冷めたい死に近づくということだろうか。

ああ、書いているうちにだんだん暗い気分になってきた。モードの時代って、なんだかあんまり愉快そうではない。そんな未来に人類学は荷担するのか。

やっぱり転向するのは、もう少し待とう。当面は土着についてもっと真剣に考えていよう。構造主義も応用人類学もどうでもいい。モダンもポストモダンも勝手にやってくれ。イデオロギーとしての人類学をきわめるのも、それではいけないと批判するのも同じ穴のムジナだと思う。フィールドをもっと大事にしろよ。

ぼくは身体と自然に縛られた、熱いカスタムの魅力を、真面目に語りたい。決してそれを消費するのではなくて、血肉化するような感じで。

(とりあえず終わり・・・うわぁ。この項、完全に破綻してしまった。やっぱりトランスカルチュラルなんて軽々しくいってはだめだな)

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Takekawa Daisuke