少年17

[KOK 0130]

08 May 2000


「少年法で保護すべきだというが、あんな残虐なことをする人間を少年と呼んでいいのか」。ちがう、ちがう、彼は少年だからあんなことをしたのだ。「バスをのっとる」「人を殺してみる」。世界が狭すぎる、発想が稚拙すぎる。大人だったら、旅に出てみるとか、ブタを殺してみるとか、こうして狂気の日記を書いてみるとか(さむい笑い)、まだまだほかにしようがある。

少年法をいくら厳しくしても、同じような事件は起きる。少年がおこなおうとしたことは一種の自殺である。自分一人で死ぬにはあまりに悔しいからほかの人間を巻き添えにする。死を覚悟した人間をいさめることはたとえ死刑をもってしても不可能である。だから、こうした事件を少年法の問題とかんがえるのは、完全にすり替えである。あるいは、うがった見方をすれば、健康な少年しかこの世にいないと信じていたい人々の願望もまた残酷ということか。

一連の少年犯罪のもっとも大きな特徴は、弱い者ばかりを標的にしていることである。彼らは本質的に卑怯者なのである。連帯責任という言葉を使い、まわりを沈黙させ、弱いものからターゲットにする。それは、いじめの手口そのものである。いじめられ続けた者は効果的に人の弱みを握る方法を、身体で知っている。幼い女の子に刃物をつきつけながら、少年はいじめられていたかつての自分を見ていたのだろう。バスという逃れられない閉鎖的な空間は、少年にとっての学校の姿と重なる。

多くの大人たちは、少年の環境や存在を特殊だと考えて、自分や自分の子供とは無関係だと思っている。でも、はたしてそうだろうか?

たとえば自分の子供に、「まわりでいじめがあったら自分と関係なくても止めさせるように」と教えている親がどのくらいいるだろうか?「おまえも傷つけ。それを恐れたら、いじめを止めることなんかできない」と倫理的な戦い方をまともに子供に伝えられる親はどのくらいいるだろうか?

「無視しなさい、相手にするな、かかわり合いにならないように」多くの親は人生を知っているような顔でそうアドバイスするだろう。それが、いつ自分がターゲットにされるかわからない恐怖の時代を生き抜く知恵だという。あるいは、親自身もそうやって生きてきた。

「ふつうが一番」という言葉には気をつけたほうがいい。いっけん当りさわりのなさそうなこの言葉の中に隠された排除の思想は、きわめて悪質だ。一方で「差別はいけない、いじめをなくそう」といいながら、「あの小学校はガラが悪いから自分の子供は行かせたくない。ふつうの学校がいいよ。」なんて言葉を平気でもらす教育学者。本音と建前が正反対。教育というのは本質的にそういうものなのか?自分や自分の子供を信じてないのか?

「相手にするな」「ふつうが一番」といっている親は、その立場自体が、すでに加害者であるという自覚は全くない。むしろ被害者くらいに思っている。しかし「とにかく、いじめられる子だけにはなってほしくない」という悲願は、問題の本質的解決に対して完全に逆行している。つまり、いじめに荷担している。

いじめられる側から言えば、いじめている本人よりも、かかわり合いにならないように遠巻きに見ている「ふつうの子」の存在が、いちばん怖い。いじめている相手はまだ姿が見えるだけいい、しかしそれを容認する取り巻きは、まったく姿が見えない。能面のような無表情な視線。「ひどいよね」という無責任でやさしい言葉。まるで世界中が敵になったようなそんな気持ちにさせられる。

作家、重松清は、彼の作品である「ナイフ」や「エイジ」で、子羊の群れのようなやさしく閉塞した子供世界を、淡々と描いている。彼はぼくとほとんど同世代である。彼はおそらく自分の子供時代にすでに、いじめの本質を見ぬいていたのだろう。しかし彼は戦えとはいわない。あとは自分で考えろと突き放す。

「いじめていた人はいたと思うけど自分は関係してない。」「からかってただけでいじめてたわけではない」「自分ことでも精一杯、他人のことなんて結局わかるわけない」「いじめをやめろなんて偽善だよ」これまでそんな言葉を山ほど聞いた。もううんざりだ。そんな言葉は通らない。そんな言葉は許さない。そんな言葉を認めるから、今日もどこかで新しいターゲットが再生産される。

ある報道によれば、あの事件で犠牲になった元教員の女性は、少年に語りかけようとしていたという。もしそれが本当だとすれば、ぼくは彼女を尊敬する。そして「よけいなことをしたから殺されたのだ」そんなつぶやきをぼくは憎む。たとえ、あのバスの中で彼の言葉をいちばん理解できたのかもしれない彼女が、極限のはてで救いを求める少年に出会うことができなかったこと、それが悲しい現実であったとしても。

強行突入は正しかったと後になって安全な場所から勇ましいことをいう大人は、はいて捨てるほどいるが、あのバスの中の状況で生きることの意味を少年に語ることのできる大人は、そのうちどれだけいるだろうか。大人もまた虚勢をはっている。

うでたてふせもろくにできない虚弱な少年は、周囲の人間におびえ、強くなりたいと思いつづけた。そして少年は強くなった。しかし強さは何も解決しなかった。こんどは凶器を持つ少年におびえた大人たちが、少年法を改正し、危機管理を強化すべきだ主張する。しかしそんな強さは何も解決しない。まったく同じ構造、まったく同じ発想である。

大切なのは実は弱さなのだ。少年の痛みを自分の痛みのように感じて、彼の言葉を聞く弱さなのだ。この少年のために涙を流した人はどのくらいいるのだろうか?

なんて事を書くと、また連休明けに「わかります、ぼくはあの少年と同じでした」なんていう学生が研究室に遊びにきたりするのだろうな。そして教育者ではないぼくは、「人や自分を殺さなくて本当によかったね。これからも殺さないでね」と、やっとのことでそういってまた放りだすのだろうな。

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Takekawa Daisuke