やさしさと同調性3

[KOK 0081]

28 Mar 1998


信じられぬと嘆くよりも人を信じて傷つくほうがいい
人は悲しみがが多いほど人にはやさしくできるのだから

前回の「やさしさと同調性2」では、ついついA君についてネガティヴな書き方になってしまったが、わたしの言いたかったことは、決して「新しいやさしさ」の否定ではない。むしろ、やさしい人々のふるまいは、現代の日本社会において適応的ですらある思う。ただし、同時にこうしたやさしさがはびこる社会の閉塞性については、まだまだ語るべきことは多い。

それから、人類学を「傷つき傷つける」学問であると書いたために、「そういう人類学者が(傷つけることをおそれる)ウォームな人間関係を理解できるのか」という質問があった。多少誤解のある書き方だったかもしれない。学問というのは本来クールなものである。人類学も例外ではない。しかし異文化を理解するために、人類学者はしばしば意識的にホットな手口を使う。(なんてクールなわたし!)

だから現代的「やさしさ」のようなウォームな価値観を理解しようとすることも、人類学者個人にとってはホットな体験である。A君のことを理解したいわたしは、人を傷つけまいとする彼の人間関係に身を置くことによって、自分自身を傷つける。そこではわたしはウォームにふるまう。そんな不慣れなことをするよりは「理解できない」と判断停止し、放り出してしまうほうがよほど楽である。人類学が「恋する学問」であるとすれば、その試みの多くは片想いに終わる。

ところで、この新しいやさしさを単純に世代のせいしてしまうには少し抵抗がある。いつの時代でも若者は批判される。わたしの属すると思われるいわゆる「新人類」の世代もまた、その上の世代からなにかと異端視されてきた。しかし、このやさしい若者たちの問題は、単なる世代間の問題と言うよりはもう少し根が深いような気がするのだ。では、こうした新しいやさしさはいったいいつごろから広まりはじめたのだろう。

どこまで関係するのかわからないが、わたしが若い人たちの異変を感じた印象的な思い出がある。それは1991年のことである。わたしはそのときまだ京都で大学院生をしており、OBとして探検部にときどき出入りしていた。そんなある日、部会の合間の雑談で、入りたての部員のひとりが「親が反対するから今度の山行には参加しない」といっているのを聞いた。わたしは耳を疑った。少なくともわたしの感覚では、それは山行に参加しない理由として表明するのに決してふさわしい言葉ではなかった。

確かに山登りには危険がつきまとう、親が反対することもあるかもしれない。けれども、そういう親にむしろ反発するのが若者として「かっこいい」スタンスであったし、かりに親の意見を気にするのだとしても、そのことを友人に語るのはひどく恥ずかしいことのような気がしていた。ところが新入部員たちは臆面もなく「親の意見」を口にし、どうやらそれは仲間内でもきわめて正当な理由として受け入れられているようだった。

「親がやめろっていうから行かないの?」と問いかえすわたしに、少しも彼はわるびれず「オレけっこう親と仲いいんですよ」と答えた。 このときは「あれ?あれ?」という感じであった。

しかし、もはや今どきの大学生では、こうした反応はごく普通にみられる。本当の理由はともかく、なにかに参加できなかったり、参加したくないときの断りとして、もっとも頻繁に使われる言葉は「お金がない」「親にわるい(「彼にわるい」というのもあるな)」のふたつである。まるでこういえば相手はもうそれ以上誘ってはいけないという、不文律があるかのようである。

ニューファミリーと呼ばれたベビーブーマーたちの家庭でいったい何が起きたのだろう。正高信男は「いじめを許す心理」(岩波書店)のなかで、おもしろい指摘をしている。日本的いじめにおいては、「いじめっ子/いじめられっ子」の対立以上に、いじめに関わろうとしない傍観者が大きな役割を果たしており、サラリーマンの父親と専業主婦の母親をもつ典型的な「近代的」核家族でそだった子供の割合が、この傍観者層に多いのだという。

ニューファミリーにもっとも大きな特徴は、「子ども中心主義」である。休みともなると家族ぐるみで遊園地や公園など「子どもの好きなところ」にむかう。そして逆に「子どもをかまってやれないこと」がなにか悪いことのように喧伝される。しかし皮肉なことに、いじめに対して非傍観的にとめに入る子どもたちは、自営業や共働きの家庭の子が多かった。まさに彼らは親の背中をみて育っていたといえる。

この事例だけから早急な結論を出すのはひかえるべきであろうが、現代人の理想の家族形態として、ある種あこがれの的になってきたニューファミリー(友達家族)に関して、これまで世間に信じられきたことと相反する現象が起きているという点はなんとも興味深い。

さらに、正高は「限界質量」という概念を用いて次のように指摘する。あるクラスでいじめが発生したときに、傍観者層の割合が一定以上に増えると、坂道を転がるように全員が傍観者層に走る。逆に「共感者がいなくても(あるいは少なくても)いじめをとめよう」と考える非傍観者層が多いと、大勢は非傍観に落ち着くのだという。

わたしは前回の「こくら日記」で、やさしいという言葉の使われ方を厳密に調べると「相手の気持ちになって共感するやさしさ」「相手の気持ちに立ち入らないでそっとしておいてあげるやさしさ」の2種類があるという話を書いた。もちろん最近になって目立ちはじめたのが後者の「やさしさ」であるが、実は日本社会において以前から後者のような「やさしさ」は存在していたのではないかと思う。実際、返信の中には、すでに若者とはいえない世代の人から「わたしも、A君のような対人関係のスタイルの気があるんです」というような告白がいくつかあった。

最近になって後者のようなやさしさが増加したのは、正高のいういじめにおける傍観者層の増加と、同質的な傾向があるような気がする。「立ち入らないやさしさ」を持つ人々の数が、ある閾値をこえた結果、そこに「やさしい共同体」が形成され、なだれ式に若者たちがその価値観に同調していくという構図である。

いじめにみられる傍観者層には、自分で判断したがらず、権威主義的であり、孤立を避け、いじめを止められない自分を正当化しようとする、という特徴があるという。思うに「相手の気持ちに立ち入らないでそっとしておいてあげるやさしさ」はそんな自己を正当化するのにうってつけのスタンスである。

先ほどの「お金がない」「親にわるい」といういいわけも、よく考えてみると実に巧妙である。意識的かどうかは別にして、断る理由として、本人の責任がうまく回避されている。あたかも不可避な天災のように、やむを得ないものとして、誘いを断る理由が語られるのだ。そう、だれも傷つけないように。

さらに正高による日本のいじめと他の国のいじめ(らしきもの)の比較から明らかになったこととして、日本においてはいわゆる「自分勝手な態度」がきわめて否定的にうけとめられ、そういう人がいじめの対象とされているという点があげられる。

相手の心に立ち入らない「やさしい共同体」においては、互いに同じように気を遣うという同調性が基盤になる。こうした社会で他人と異なる意見を持ちそれを主張する人間は、むしろ排除すべき存在であろうことは容易に推察される。「出る杭」は打たなければならないのである。

もう一つ、A君のことがあって以来、わたしは何人かの学生とこの話題について意見を交わした。その中でわかったのは、今の若者は必ずしもホット関係を求めていないわけではないということである。昔の若者に比べて、人間関係に比較的ニヒルで、どこかしらけているように(よくいえば大人っぽいと)一般に思われているのは、 大きな誤解のようだ。 たしかに熱血な奴は「カンベン」だが、オリンピックには感動する。誰か日本人が金メダルをとったときなど「興奮のあまり友人に電話をかけまくったり」もする。ホットにならないことよりもむしろ同調的に振る舞うことのほうが彼らにとって重要な行動規範であるといえる。

ところで、「やさしい共同体」における特徴を同調性以外の側面から見てみると「表層的な他者理解がきわめて重要である」という点がひとつうかびあがる。逆に言えば、心に深く立ち入らない彼らにとって、表層的なものこそ唯一の他者理解の手がかりといってもよい。よくこのごろの若者についてなされる指摘で、「いわれたことしかしない」というものがあるが、それにたいして彼らは「いわれたことだけをしてなにが悪いのか」と反論する。あるいは「いわれたことの意味がわかっていない」に対しては「いわれたこと以上に意味があるのか」と答える。

「気をまわさない」ことによって他者との距離をとり共同体を維持している人々に対して、「気をまわさない」と維持できない共同体に住む者が何をいおうと、お互いに通じ合うことができないのは、考えてみればしごく当然なことである。これは、どちらかが悪いのでも、どちらかが無能なのでもなく、人間関係に対する戦略の違い、あるいは「やさしさ」の違いから派生するディスコミュニケーションである。

さて、長くなってきた、これではいつまでたっても発信できない。そろそろまとめよう。稀薄で表層的な人間関係。均質性と同調性。こうした「やさしさ」がはびこる、モダン(あるいはポストモダン)な社会をみていると、わたしは、高校生の時に日本の管理教育に対して感じていた得体の知れない恐怖と嫌悪感を思い出す。

そんなことを考えているときに、たまたまモートン・ルーの「ザ・ウエーブ」(新樹社)を手にした。これは、アメリカの高校の歴史教師が、ナチズムについて教えるために、授業の中で平等と規律を基本にした「ウエーブ」という組織をつくり、一種のゲームのつもりで生徒たちをそれに参加させたところ、ナチズム的な感性とはほど遠いと思われた現代のアメリカの若者が、予想をこえこれにのめりこみ、学校の様相が一変してしまったという実話をもとに書かれた本である。

その「ウエーブ」という組織は、はじめ平等や友愛のような、耳あたりのよいむしろ良心的な動機からスタートする。そして歴史教師が「とりあえず」(この言葉、前回の「こくら日記」の最後のところに出てきたね)規律によって行動し共同体を維持しようと提案したところ、その心地よさと力に「個人主義」的なはずの若者たちが共感を示しはじめるのである。生徒たちは授業中の私語を控えるようになり、クラスの中の過剰な競争や差別がなくなり、思わぬ効果に教師は喜んだが、やがて・・・(結末は本を読んでほしい)

つい20年ほど前まで、文化の相対主義や他者の理解不可能性は、さまざまな人間関係に感動し挫折しながらたどり着く、いわば「悟りの哲学」ともいうべき存在であった(これが正当なニヒリズムである)。しかし、今の若者にとっては、それは物心ついたときからの「前提」として存在している。くわしくは別の機会に譲るが、この違いは想像以上に大きいようだ。

悟りきった彼らの方が、民主主義の鬼子であるファッシズムを、たやすく受け入れ、やさしいはずの彼らがいじめ的状況に荷担し差別を増大させる、この皮肉をどう考えたらよいのだろう。もちろん、この矛盾に気づき、もっとも戸惑っているのは、彼ら自身であろう。しかしその結果、ますます彼らは身を固し、事態は閉塞する。

さて、かく言うわたしはどうしたものだろう。連帯に代表される集団指向性たいして冷ややかな態度をとりつつも、個人主義がひきおこす同調性におそれおののくという、アンビバレントな立場でものを語りつづけるしかないのであろうか。「最終的に自分しかあてにしないけど他人と深く交わる」。

やさしい若者たちを横目で見ながらそんなことを考えてみる。

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Takekawa Daisuke